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宗教と哲学

アイザック氏の指摘は頷けるが、本来そこには「哲学」というのがあるはずで、その哲学が無力だから宗教の代わりになっていないし、また哲学は哲学で、人に有益な影響だけを与えるとも限らない。
ある意味、日本人の事大主義も事なかれ主義も拝金主義も無責任主義も、「邪悪な哲学」だとも言える。それらは、「自分の人生をより良く生きたい」という素朴な考えから生まれ、「そのためには(自分が一番大事なのだから)他人はどうなってもいい」という利己主義によって邪悪化するわけである。
宗教のいいところは、そういう邪悪さが「聖賢の言葉や教え」によって(利己主義というのは動物の本能である「自己保存本能」に立脚しているだけに根治はできないが)信仰者の納得の上で一応排除されることだが、それが「この宗教を信じない連中は敵である」となると、いっぺんに邪悪化する。

なお、そのうち「近代の病としての『生きがい』信仰」というテーマで記事を書いてみる予定なので、備忘のため記しておく。要するに、近代人はほとんどみな精神病(生きがい病)だという内容だ。

  1. さんがリツイート

    「○○するだけで全て上手くいく!」系の本が売られているのを見ると、
    現代日本人は無宗教なんじゃなく、宗教が座るはずの場所が空位なのでそこを必死で探してる段階なだけなんだなあ。という気付きがある


  2. さんがリツイート

    東京で一人暮らししないと彼氏できないじゃん!!!!!!東京は万能都市!!!!行くだけで全ての成功につながる!!!!!!!東京駅に行けば芸能人とすれ違う可能性!!!!!!!!!はやく東京いかなきゃ!!!!!!!!




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リゴリズム

センター試験で国語の試験に定規を使って全科目失格になった話も、「50円で逮捕」の話も、近代日本(あるいは戦後日本、あるいはここ数年)の異常な「庶民への厳格主義」の例だが、そういう厳格主義は「上の人間への大甘さ」とペアになっている。
ところで、厳格主義を「リゴリズム」と言うと思うのだが、正確には「道徳的厳格主義」とでも言うべきもののようだ。
私は、「ゴリゴリズム」と覚えている。いかにも、ゴリゴリと厳めしい感じだからだwww

(以下引用)


リゴリズム(英語表記)rigorism


翻訳|rigorism


ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

リゴリズム
rigorism

厳格主義,厳粛主義と訳される。一般には規則,特に道徳的規則の厳守を主張する立場を総称し,禁欲主義や修道生活などをもさす。厳密には次の2つの立場をいう。まず 17~18世紀の道徳問題決疑論で神や教会の法を最も厳密に解釈する倫理神学者の立場。オランダでジャンセニストが蓋然論者に対する厳格主義者と呼ばれたのがこの言葉の初めとされる。もう1つはカントの実践哲学の立場で,道徳法則を尊重し,神や人に対する愛や嫌悪などではなく,ただ法則への尊重の念からそれを遵守することを求めること。カントはこれを禁欲主義や苦行と区別している。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報





日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

リゴリズム
りごりずむ
rigorism英語
Rigorismusドイツ語
rigorismeフランス語

厳粛主義、厳格主義。放任主義の反対。カントは、道徳説において善と悪とを峻別(しゅんべつ)する態度をリゴリズムとよび、なんらかの形でその中間をも認める立場を放任主義と名づけた。カントの場合、実践理性から発する定言的道徳法則のみが善の根拠であり、それ以外の行為を、自愛の原理に基づくものであるときめつけて、道徳的価値をいっさい認めないのであるから、当然リゴリズムの立場となる。一般には道徳的価値をすべて精神的なものに帰し、感性的なものを悪の根源とみなして排撃する立場をリゴリズムとよぶ。それゆえリゴリズムはまた享楽主義とも対比される。その点で著名なものに、ストア学派、ジャンセニスムがあり、いずれも禁欲的傾向を有する。カントの思想はこの傾向をもたないが、シラーはこの点を誤解し、次のような詩を書いた。
 私はすすんで友人たちのためにつくす。
 しかしあゝ喜びをもってそれをするのだ。
 そこで私は疑い悩む、自分は道徳的人間ではないのではないかと。[武村泰男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例



精選版 日本国語大辞典の解説

リゴリズム

〘名〙 (rigorism) 道徳的に厳格な規律を設定し、それに従おうとする主義。快楽を否定し、禁欲的態度を守ろうとする。厳格主義。
※竹沢先生と云ふ人(1924‐25)〈長与善郎〉竹沢先生と虚空「カント的厳格主義(リゴリズム)は到底先生の執り能はざる処であった」

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報



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自分自身の思想を疑え

為末大オフィシャルサイトの記事から転載。
非常に知的な内容であり、凡百の思想家の言葉より優れていると思う。

正しさや善というものは、価値観を固定しないと存在できない。

これは素晴らしい言葉であり、人々がこの言葉を熟考するだけでも世界の悪や過ちの半分は減らせるだろう。その固定された価値観とは、それを押し付けることによって社会的な利益を得ている一部の人々によって作られた可能性は高いのである。そして、その「正しさ」や「善」とされていることの「強制」(空気による強制も含めて)によって不幸になっている人々も多いはずだ。
いや、そうした「信者」たちの人生そのものが、ある意味では不幸だと思う。固定した(実は愚劣な)信念を持って生きることは、主観的には幸福だろうが、傍から見たら気の毒な幸福であって、それを「豚的幸福」と言ったのは夏目漱石だったか。


(以下引用)



無知は独善
2015年05月22日

私の好きな言葉で”無知は独善”というものがある。


無知とはどういうことか。物事を知らないという意味もあるけれども、私は自らを知らないという意味だととらえている。人間はいつも何かを思い込んでいる。私もあなたもおそらくあの頭のいい人も、今も何かを思い込んでいる。そして人は自分が思い込んでいると気づいた時には、もう思い込んではいない。つまり私たちはいつも何かを思い込んでいて、そして思い込んでいることに気づいていない。


独善という状態は自分の正しさを疑わず、かつ違う視点から考えられないことだと思う。人生では若い時には正しいと信じて疑わなかったことがある経験を経てそうとは限らないと気づいたり、明らかに正義だと思っていたものが現場に行ってみるとそうではなかったことと気づくことがある。自らの偏見に気づいた時、自分の正しさは一つの見方でしかなかったということに気づく。何度かこのプロセスを経て、人は自分が今言っている正しさは、将来も言い切れるとは限らないと知るようになる。正しさや善というものは、価値観を固定しないと存在できない。自分だけの一つの価値観は普遍の正しさだと信じることを私たちは”独善”と呼ぶ。


私の経験上自らが独善の状態にいることを私自身は認識していなかった。むしろどうしてこんな当たり前の正しいことをみんなは気づかないのかと憤っていた。独善の状態はなかなかに心地よい。何より自分自身は正しいのかどうかと疑う視点がないから迷いがない。


独善の状態で突っ走ることも重要な時期もあると思う。アスリートであれば何かを一心に信じることは大事だし、スタートアップの企業などでもいちいち自分を疑うわけにもいかないだろう。そういう時に正しいと信じ切って突っ走ることは大事だろうなと思う。ただし、独善であると自分が知っている状態と知らない状態は大きく違う。


無知は独善だと私は思う。そして独善状態の時、人は自分が独善であるなんて考えもしない。


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恋愛妄想と不倫

別ブログに書いたものだが、読み返すとわりと面白いので、ここにも載せておく。(「紙屋研究所」記事の引用は省略)
自分の幸福を追求すれば他人の不幸が生じる、という事態が「不倫」には付き物で、周囲の人全員が幸福になるような不倫というのは見たことも聞いたことも無いwww
ところが、不倫をする人間は山ほどいるわけで、私などは、「みなさんエネルギッシュだなあ」と感心してしまう。たった一度か数度「新鮮な」セックスをするのがそんなに大事か、と思うわけである。
だいたいにおいて不倫の結果結びついた男女はすぐに別れるのがオチである。まあ、昔のように家と家が結びつくために女性が気に染まぬ相手と結婚した時代なら不倫(ついでに心中)こそが真の恋愛だったとも言えるが、今のように自分が選んだ相手を嫌いになって不倫するなら、どうせその相手もすぐに嫌いになるに決まっているわけだ。恋愛など、9割は妄想からできている、と思っておけば間違いはない。
なお、下の文章で糟糠の妻をインスタントラーメンや握り飯にたとえているように読めるかもしれないが、別にそういう意味ではないwww ステーキなどそれほど美味いか、と言っているのである。朝も昼も晩もステーキだけ食う人間がいるか、ということだ。
私は関西に住むようになって毎日、朝はウドンを食っているが、飽きることはまったく無いのである。これは生きる価値の無い惨めな生活だろうか。



不倫は倫理的かwww

「紙屋研究所」記事の一部だが、「倫理学」(私は、自分のブログのこのシリーズで倫理の考察をしているわけだが、それを「倫理学」としている。)の面白いテーマである。
欧米人などは、恋愛して結婚し、別の女(男)が好きになると離婚して新しい相手と結婚するのが正直な生き方だと思い込んでいるようだが、さて、その「正直さ」は倫理的なのだろうか、という問題だ。現在の結婚相手への関心や性欲が薄れて、新しい相手と不倫関係になるのは、自分の気持ちに正直なのだが、それは倫理的なのだろうか。これはつまり「不倫こそが倫理的である」というパラドックスだ。

キーワードは「自分の気持ちに正直」という言葉だが、正直ということ自体が倫理的であるわけではない。むしろ、倫理とは「禁止の体系」なのだから、動物的欲望への忠実さ(正直さ)というのは、実は倫理の対極にあるのである。
ところが、「正直さは美徳である。つまり、倫理的なものだ」という固定観念があるから、自分の欲望に簡単に身を委ねる動物的行為が「正直な生き方」と肯定されることになる。
いや、私だって、べつに倫理を絶対視するつもりはないし、倫理という「自分自身への足かせ」は人生を損するものだと思う人間を間違いと言うつもりもない。
ただ、「自分の欲望」というのは、周囲の人間を不幸にしてまで求めるものなのか、という話である。自分の欲望なんて、それほどの損害を計量しても追及するほどのものだろうか。
簡単な話、いくらステーキが好きだとしても、自分がステーキを食うために誰かが死ぬとして、それでもステーキを食うのか、というのがここでの「倫理問題」なのである。しかも、目の前にはステーキでこそないが、インスタントラーメンも握り飯もあるのである。



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希望(あるいは欲望)があるから苦悩があるwww

清水幾多郎の言葉に(うろ覚えで数字もいい加減だが)「人生問題の8割以上は経済問題である」というのがあって、まさしく真実だな、と思う。つまり、経済問題が解決されたら、人生は実に楽なものになるわけで、それでもまだ苦悩があるとしたら、それは自分自身が勝手に作り出した「妄想的苦悩」だと私は思っている。
たとえば、「人を愛して相手に愛されない苦しみ」などというのはまさに「自分が勝手に作り出した苦悩」である。私はゲーテはわりと好きだが、「若きウェルテルの悩み」という作品は「失恋して自殺する奴の話? アホか」としか思えなくて、読んでいない。
そのような「妄想による苦悩」に真面目に悩んでいる人も多いと思うが、その苦悩の原因をさらに考えると、「希望」という奴が元凶かもしれない、と思う。(希望は実は欲望と同じことであり、欲望をきれいに言ったにすぎない。つまり、以下に書くことは仏教の教えの基本のようなものだ。)

若いころに好きだったサイモン&ガーファンクルの「冬の散歩道(原題は、「幽かな冬の翳」とした方が適訳かと思う。)」という歌の中に、

When I looked around my  possibility, I was so hard to please

という一節があるが、若い人の苦悩というのはまさに「自分自身の可能性を信じ、その対象を探し求めること」そのものの中にあるのではないだろうか。その可能性が何なのか分からないから苦しいのである。で、そういう時にたいていの人は何かできることをするのではなく、悩むだけなのだ。そして、「下手の考え休むに似たり」で、何一つ得られないまま歳月が空しく過ぎ去り、さらに苦悩と焦りは深まっていく。
夢にしても希望にしても、現在手にしていないものである。当然、それを得たいという気持ちが心を苦しめることになるはずだ。夢や希望は人生を救うものでもあるが、実はそれこそが苦悩の原因でもあるわけだ。

まあ、仮に、自分がこの世に存在しなかった場合の世界というのを想像してみれば、現在の生がどんなに不満足なものだろうが、「自分自身が最初からいない」よりはマシであり、この世に生まれて良かった、とたいていの人は思うのではないか。今現在手にしているもの、自分の周囲にあるものは、「この世界に生まれなかった生命(あるいは人間以外のもの、虫か何かに生まれることでもいい)」にとってはどれほどの宝物だろうか。これが「諸法の空相」の意味だ、と私は考えている。つまり、「空」という相(フェイズ)に於いて、この世界の万象を眺めることである。

要するに、「汝の手に耐ゆることは力を尽くしてこれを為せ。そは汝の往かんとする黄泉には業(わざ)も謀り事も知識も知恵も在ることなければなり」「生ける犬は死せる獅子に勝る」(どちらも旧約聖書「伝道の書」より)ということだ。
言い換えれば、自分の手にはどうにもならないことは悩んでも無駄、ということであり、どんな人生でも完全な無よりはマシだということである。




(以下引用)


私の好きなインドの覚者の言葉に「人生は生きていくだけで十分に苦行だ。新たに苦行を作り出す必要などない」というのがあって、ほんとそうって思います。




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脳内世界と現実世界

「つぶやきコミューン」から抜粋転載。
頭の中の世界の方が現実の世界より現実的であるという人間が現実と接触するとこうなる、という例である。
彼のような人間は、コミュニケーション能力絶対主義思想の現代では「人格障害」とされるわけだが、私などは、自分も同じであるだけに、こういうのも個性だと思うし、当人が頭の中で幸福だと思うなら幸福な人生だと思う。

何億円のカネを得ようが、世界を征服しようが、無数の美女と寝ようが、頭の中が俗物ならくだらない人生である。毎度言うが、どんな名家や金持ちの家に生まれようが、安倍や麻生の人格を持ってこの世に生まれることほどの不幸は無い。
二十代で脊椎カリエスにかかり、三十代で死ぬまで病床にあった正岡子規の人生は、アレクサンダーやシーザーやロスチャイルド一族などの人生の数万倍の価値がある。


(以下引用)







トルストイに憧れ、莫大な遺産は若い芸術家らに分与し、田舎でのロハスな生活を送りながら、生徒に聖書を教えて過ごすことを夢見たヴィトゲンシュタインだが、実際の教師生活は思いどおりにならなかった。生徒との距離感がうまくつかめなかったのだ。彼の授業のスタイルは、体罰も当然の古い授業スタイルであった。そのため、結局は体罰問題が表面化し、教師を辞める羽目になる。



 



 学校の外では、子供にも村人にも無関心だった。生徒に道で出会って挨拶されても、知らん顔。そのくせ生徒には挨拶を強要した。挨拶しなかったら、ビンタをくらわせていた。(…)


 えこひいきも激しかった。エンゲルベルトとかビンダーとかレオポールトなど勉強のできる数人には、ギムナジウムに進学させるために、無料で特別に補修していた。お菓子やパンをほうびにして。(…)


 一〇時に終わる授業が一一時や一二時まで延びることもあった。生徒にとっては学校なんて、仕方なしに通う場所だから、とても迷惑だった。


 ヴィトゲンシュタインは勘定をコントロールするのが苦手だった。すぐ興奮して、汗をかき、鼻を鳴らし、ハンカチをギーッと噛んだかと思えば、自分の眉のうえに跡が残るほど強く爪を押しつける。そういう自虐は、まだご愛嬌だった。


 アンナ・ブレナ~は、むずかしい宿題がよくできていたので、黒板で計算問題を解くように言われた。けれどもアンナが解けなくてまごまごしていると、たちまち平手打ちが飛んできた。(解説)



 



ヴィトゲンシュタインの小学校教師への転身は、居場所を求めてだったが、居場所を見つけることができなかった。そんなヴィトゲンシュタインのふるまいを、精神科医の福本修は発達障害の一種であるアスペルガーの視点からとらえようとする。



 



 ヴィトゲンシュタインはアスペルガー者で、「心の理論(theory of mind)」がなかった。相手の意図を理解したり、相手の視点を共有したりすることがなく、自分の心の状態を相手に伝えることをしない。ふるまい(事象の状態)と心理(心の状態)の関係が予測できない。自分の視点を他人の視点に転換できないので、相手の立場に立って意味を理解すrことができない。


 正しい行為に極度の関心をもつのはアスペルガー者の特徴である。ヴィトゲンシュタインは、その時々の「倫理的意思」で動いているが、戦場では他の兵士たちにうんざりし、学校では生徒にうんざりする。兵士になる・教師になるという外的な出来事にこだわったけれど、自分がやろうとしていることの実際を知らず、現場で柔軟に適応・対応できなかった。(「解説」)







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「無邪気」と「道徳」

別ブログに書いたものだが、ここにも載せておく。
なお、私が複数のブログを持っているのは、ネットブログというのはプロバイダーの判断で(たいていはどこかからの指令や苦情のためにだろう。)ブログ主への連絡も無しに突然閉鎖されることがよくあるからである。


(以下転載)

善の方向への洗脳



我々は、子供というのを「無邪気」である、と考える。
では、幼児というのはどういうものかというと、自らの欲望にのみ忠実であり、他者(外界)への忖度というものはまったく無いのである。理性の存在しない状態とも言える。
で、そういう状態が無邪気、つまり「思い、邪(よこしま)無し」とされるわけだが、邪(よこしま)とは、「横ざま」であること、曲がっていることで、つまり思いがストレートに外界に出されていないことだから、幼児や子供はまさに無邪気だということになる。
しかし、社会秩序の面から見ると、これは実に困った存在であり、思いのままに「善悪をわきまえず」行動されては他者の迷惑になるのは当然で、幼児などはその「思い」を自分で実現する能力が「泣くこと」以外には無いから安全な存在なのであって、幼児に強大な能力を与えたら、この世の魔王と言える存在となるだろう。
そこで、我々は幼児が少し物事を理解できる三歳くらいから、子供に善悪を教える。
要するに、善悪というのは、人間社会維持のための道具なのである。
その普及のための便法として作られたのが宗教や哲学である。さらに言えば、神や仏という観念である。道徳や倫理の初期概念が先にあって神や仏が作られたのであって、その逆ではない。人間が神や仏を作ったのであって、神や仏が人間を作ったのではない。

倫理というのは、いわば「善の方向への洗脳」と言ってもいい。
その洗脳が無ければ、人間の社会は野獣の世界になるのであって、洗脳だから悪いと決めつけるべきではないわけだ。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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