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紙の情報保存と電子情報

紙の出版事業が、電子化風潮によって消滅しかかっているが、紙の本でしか得られないものもある。出版は政府が援助してでも残すべき事業だろう。そして、当然、各地の図書館も全力で守るべきである。古典や伝統との接続を失った時、その国の文化も終わり、民族も別の民族になる。
それ(日本文化の消滅)が、アメリカが日本にやってきた陰謀である。
なお、電子情報は一瞬で消え、再生不可能である。

(以下引用)

中国「日本こそ中華文化の継承者だ」 日本の出版社の60年に及ぶ大事業に中国人が感嘆

古代中国から宋代までの著名な思想・歴史・文芸古典を網羅する、
明治書院の「新釈漢文大系」全120巻が、来年5月刊行の、
「白氏文集 十三」で完結する事が先日発表されました。

1960年に第1巻「論語」を刊行して以来、58年をかけた大事業で、
累計160万部を刊行。主に研究者などに愛用されてきたそうです。

このことを、中国のメディアも続々報道。
編者を務めた漢文学者の故内田泉之助氏が初刊行時に寄せた、
「どれもわが国の伝統文化を培養してきた基本的な漢文典籍である」
という言葉も併せて取り上げられています。

半世紀以上かけて、日本の出版社が中国の古典をまとめたことに、
中国から様々な声が寄せられていましたので、その一部をご紹介します。

中国「中国語の7割は日本製だぞ」 今も漢字を使う日本に否定的なメディアに反論続出

46.jpg




翻訳元



■ 日本の出版社の素晴らしい活動に賞賛の言葉を送ります。




■ 日本がこうして中国の古典をまとめてるっていうのに、
  俺たちは一体何をやってるんだ! +8




■ 実際俺たちは四書五経を引き継ぐのに値するんだろうか。 +60



   ■ 唐の文化の継承者は日本だ。
     残念なことだけど、それは認めなきゃいけない。 +15



      ■ 今現在古代中国の文化により近いのは、
        実際に中国よりも日本だからね。 +1



   ■ それは違うだろ。
     99パーセントの日本人は唐時代の文献を読めない。
     ほとんどの中国人は一般的な日本人よりも、
     古代中国の文化を理解してるよ。



■ だいたい古代中国の稀覯書を探すとなると、
  日本か台湾のサイトで探さなきゃいけないからね。
  しかもサイトのデザインも綺麗で使いやすいよ。



   ■ 中国の国学研究は1970、80年代がピークだった。
     日本とは研究の発展度が違う。



      ■ 日本人と比べちゃダメだよ。
        書物の保存とか整理の面で日本人は異次元だもん。
        あのレベルをすべての人に求めるのは酷だ。



■ ありがとう日本。ありがとう日本。
  もし日本がなかったら漢や唐の文化は、
  とっくに消えて無くなっていたに違いない。 +1

海外「こんな伝統が続いてるとは…」 今も残る蹴鞠の光景に外国人感銘




■ 講談社が中国の通史シリーズを刊行してるけど、それも読む価値あるよ。




■ 日本は古代中国を重んじ、台湾は日本語を取り入れ、
  そして俺たちは……特に言うことはない……。 +10




■ 今では日本こそが正当な中華文化の後継者になってしまった。 +2




■ なんにせよ、中国の文化が広がってるのは良い事だし、超嬉しい。



   ■ 日本人が好きなのは古代中国の文化であって、
     今の中国や中国の文化ではないけどね。



■ 日本人の才能って、物を見る目があって、保存することができて、
  吸収することができて、そして改良できる部分にあると思う!
  そして欧米や中国の文化を取り入れながらも、大和魂は忘れない。 +3

「何で日本はこうも特殊なんだ」 米誌が映した伝統とモダンが融合する日本の姿




■ こういうのは日本の平常運転だぞ。日本人は古代中国が大好きだし。




■ 日本ほど古代中国の文化を受け入れてる国はないよね。 +1




■ 文化の輸出を先祖に頼らなきゃいけない現状が悲しいね。



   ■ 中国の文化輸出力が今の日本のソフトパワーレベルに達したら、
     世界中の人たちが戦国時代じゃなくて、
     漢民族と唐を好きになってくれるはず。



■ 文化を継承して発展させていくことは、
  単に歴史や古典を学ぶだけでは出来ない。
  日本人は常により良い形がないかを模索してるんだ。
  だから日本は常に成長し、世界的な大国になったわけだよ。 +2




■ 中国人は日本人を模範としていくべきなんだよ!! +20




■ まったく、文化部(※日本の文化庁)は何をやってるんだって気になるな。




■ 恥ずかしながら、俺より日本人の同級生の方が三国志演義に詳しい +1



   ■ 日本人がよく読むのって、(正史)三国志じゃなかったっけ?



■ これは中国にとっても本当に素晴らしいことだと思う。
  今やこの国からは中国文化は失われていってるし。 +6




■ もし中国人がこれくらい忍耐力を持って過去から学ぶことが出来ていたら、
  俺たちはもっと早い段階で発展出来てたはずだよね。 +65




■ 日本の文化は漢の文化の影響を強く受けてるからね。
  元号ですら史記や春秋左氏伝に典拠を求めてる。 +6

海外「今もこんな伝統が…」 日本の『元号』に外国人が興味津々




■ 日本は中国の伝統文化を尊重しているけど、
  日本を先進国に押し上げる上で何か役に立ったんだろうか?



   ■ 取り立ててこれだって言う要素はないでしょ。
     そもそも日本人は古代中国の文化を外国文化だとは思ってないし。
     自分たちの文化として取り入れちゃったわけだから。
     中国人が(北京)官話を異族の方言だと思わないのと同じ。   



■ 僕たちは過去を学ばない。
  これからは中国の歴史を日本人から学ぶしかなくなるのだろうか? +1




■ 日本は歴史や過去を尊重してる。
  だからこそ日本は先進的な国になってるんだ。
  中国は日本から学ぶ価値が大いにあるよ。 +48


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合理性と豊かさ

サマセット・モームの「世界の十大小説」の中で、モームがメルヴィル(「白鯨」をモームは十大小説に入れ、その評論をしている)の文章の欠点として、古風で大袈裟な言葉を使いたがることを挙げているが、それは長所でもある、と論じている。つまり、ドラマチックな効果を生んでもいるわけだ。
そのメルヴィルの使った言葉の一例としてモームが挙げている言葉が面白い。モーム自身、辞書を引いて、その言葉に普通に知られていない意味があることを知ったらしい。

(以下引用)

たとえば、”redundant hair”といった言い回しを使っているのを見て、これを「余計な毛」の意味に解すると、同じ毛でも、それが若い娘の唇に生えているというのであれば、余計でもあろうが、頭に、しかも若者の頭に生えているというのでは、余計とは言えないのではないか、と思うかもしれない。ところが、辞書を調べてみると、"redundant"には「豊かな」という第二の意味があって、現にミルトンは

(以上引用)「ミルトンは」以下は省略。

若い娘の唇の上に生えている毛、というのは、まあ口ひげだが、実は「戦争と平和」の中で、トルストイは、そういう若い女性の口ひげを「可愛らしい」と書いているのである。
それはともかく、私が問題としたいのは、同じ言葉に「余計な」と「豊かな」の意味があることだ。これは哲学的な問題ではないだろうか。
つまり、同じ物事に対して「豊かな」と見ることも「余計な」と見ることも実は可能だ、ということである。こういうことは多くの事柄に言えるのではないか。
特に「合理的」という言葉である。
これはほぼ100%肯定的に使われている言葉だが、はたして完全に肯定できることなのだろうか。たとえば、経営者の言う「合理化」とは、実は「多くの人間の首を切ること」である。被雇用者から見れば、「殺戮」に等しい行為だ。
あるいは、馘首ではなくても、「一人の人間の仕事量を増やすこと」も経営者から見れば「合理化」である。ビジネス世界では、合理化とはほとんどが従業員を不幸にするようだ。

ビジネス以外でも、実は合理的というのは、「余計な要素を切り捨てる」ことであり、あるいは「脇道に逸れることをやめる」ことである。これは、それこそ「redundant」の反対方向に進むことではないか。つまり「豊かさ」や「可能性」を放棄した、愚かな方針である可能性が高い、と言ったら屁理屈に聞こえるだろうか。まあ、少なくとも、「合理性」にはそういう側面がある、ということ、そしてその種の「切り捨て」は多くの事柄(決定や判断)に付随している可能性があることをも、人は知るべきだろう。








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自然に対する西洋文明と日本文明の違い

西洋文明がなぜダメかというと、自然に対する畏敬の念の欠如のためである。
人間の力が自然以上のものだという傲慢さ。
日本文明の長所も、その反対である。
人力は自然の前に無力であるという謙虚さが、日本文明の根幹にある、いや、あった。今は、西洋文明に飲み込まれ、同じような傲慢さの中にある。

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宮沢賢治と日蓮宗


私は宮沢賢治の大ファンなのだが、ただひとつ、彼が日蓮宗を信じ、日蓮を「妙法蓮華経の法体」としていたことが理解できない。そもそも、「妙法蓮華経」の現代語訳を眺めても、さっぱり意味が分からないのである。その膨大な経のほとんどは妙法蓮華経自体の自己賛美と自己宣伝であって、その思想そのものが見えてこないわけだ。いや、読むのも困難なので、ただの印象だが。
ところが、日蓮宗そのものは、「経の意味など分からなくていい。ただ、南無妙法蓮華経と唱えれば、それで救われるのだ」という教えであるらしい。

よく、こういう茶番を、宮沢賢治のような優れた人間性と知性の持主が信じることができたものである。なお、上では「救われる」と書いたが、下の日蓮宗(正宗か?)の教えでは「仏の境界に至ることができる」と書いてある。つまり、日蓮宗の信徒はみな、シャカと同レベルということか? www 凄い教えである。10秒で出来るインスタント聖人である。では、日蓮宗の信徒が犯罪を犯したら、それは許されるのか? いや、日蓮宗系の某宗教団体の厚顔さを見ると、本気でそう思っている可能性もありそうだ。
もちろん、人間はみな罪びとである、とする宗教も害悪はあるが「我らはみな神の民で、わが国は神国だから、すべて許される」とするキチガイ思想よりはマシだろう。ちなみに、後者はいま、中東で猛威をふるっている。日蓮宗は、それに少し似ている気がする。だから、国柱会が軍国主義に利用されたのだろう。

(以下引用)

 日蓮大聖人の教え

 釈尊(しゃくそん)は、今から約3000年前、人々を救うため50年間にわたって説法し、その最後の8年間で出世の本懐(目的)である法華経(ほけきょう)を説かれました。
 この法華経の予言どおり、釈尊滅後2000年が経過し、釈尊仏法の功力がなくなる末法(まっぽう)時代に、民衆を救済する仏として出現されたのが、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)です。
 日蓮大聖人は、法華経の極理を御本尊(漫荼羅)として顕され、その御本尊に向かって“南無妙法蓮華経”の題目を唱えることにより、いかなる人も仏の境界に至ることができると説かれました。

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正義論

ネットの或る記事が、トラシュマコスとソクラテスの有名な問答を簡潔に示しているので転載する。あらゆる「正義」論は、ここから出発すべきだろう。もちろん、このふたりの論争は「正義」の定義の段階ですれ違っているが、まさに「現実の『正義』」が強者の権利を意味しているという点ではトラシュマコスのほうが理想主義のソクラテスを上回っているとすら言える。だからこそ、プラトンは「国家」の残りすべてを使って「理想政治」を考察したのである。そして最終的には「哲人統治」しか理想の政体は無い、と結論したわけだ。言うまでもなく、「民主主義」は落第である。だが、哲人統治はほとんど偶然にしか生まれないだろう。
ついでに、ロールズの「無知のヴェール」の概要を転載しておく。それは、「問題に利害関係を持たない人間の判断が正義にかなっている」という、当たり前の話である、と私は認識しているが、それが現実にはほぼ不可能なことは、多くの政治事件の判決で見られるとおりである。つまり、裁判官も官僚であり、権力の下僕であるからだ。まあ、その解決方法も実は簡単で、AIにあらゆる裁判資料を投入して、法規に照らしてもっとも合理的な判決を出すことである。人間自体が感情的存在であり、正義の原則にかなっていないのだから、この点では機械のほうがはるかに人間に優っているわけだ。

(以下引用)


ソクラテスとトラシュマコスはいったい何について語り合い、見解を異としたのか。それは“正義”の問題である。冒頭でソクラテスに論争をふっかけたトラシュマコスは言う。

「正義」=「力」なのか?

「正義とは、権力者の利益である」


支配者が善悪の判断をする。その利益に反することはすなわち悪である。支配者の利益に則すことが正しい。


「強者の論理」


それは歴史が証明するところではないか。


対して、ソクラテスが問う。権力をもってひたすら自己の利益に変えるのは即ち不正であろう。「不正」は「正義」の真逆ではないか。


この立ち位置から前述の多岐にわたるテーマが語られる。トラシュマコスの語るのは「権力の自己正当化」の問題であろう。この理屈に対峙することから西洋の政治哲学は始まったとして差し支えない。


(引用2)


「無知のヴェール」とは、自分や相手の性別や職業、家族の有無や貯金額などの一切の情報が分からない状態のことをたとえたものです。


ロールズによれば、私たちは正義を考える時、どうしても自分の立場を考慮してしまいます


例えば、自分が貧乏であれば、富裕層への増税を支持しがちです。


あるいは自分が女性であれば、女性の権利を拡大する法案に賛成しがちです。


このように、人は自分が置かれている立場によって別々の正義を主張してしまう生き物です。


ロールズは、全ての人が「無知のヴェール」を被り、一度自分の立場を忘れた状態で議論した場合、どのような結論が出るだろうかと考えました。


そしてその答えは、個々人の立場を越えた普遍的な正義となるはずであり、そのような公平な視点から社会を設計すべきだと考えました。

正義の原理

ロールズは、私たちが無知のヴェールを被った状態で正義を考えた場合、次の2つの原理が導かれると主張します。

第一原理

私たち個人は、自由な権利を平等に持つべきである。

第二原理

不平等は、最も不利な立場の人々にとって有利な形で調整されるべきである。


 


読者の皆様も、いったん「無知のヴェール」を被って考えてみてください。


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人と超人

井口博士のブログから転載。
とある家庭の主婦のモットーは「平凡が一番」だったという。それこそが彼女の頭がいいゆえんだろう。非凡とは、自分以外の他者(凡人)と隔絶する孤独を意味するからである。王侯は絶対の孤独の存在である。まあ、孤独も苦ではない、となれば無敵だろう。幸福になること自体は簡単なことだ。

毎度言うが、あなた、安倍元総理の人生を送りたいですか? 高市早苗の人生を送りたいですか?
孫正義のように禿のブ男でも、何兆円もの財産があれば満足ですか? カネを得て、何をしたいのですか? 毎日、キャビアをどんぶりに3杯も5杯も食いたいですか?

生きるのに最低限のカネがあれば、個人としては幸福にはなれるし、病気になったら死ねばいいのである。死ぬことにおいてはジョブズもあなたも同じだ。何百万の治療をしても、死ぬ者は死ぬ。
誰かの名文句をもじれば、「我々が恐れるべきは死ではなく、死の恐怖である」

まあ、「一切の転倒夢想を遠離する」ことで「無有恐怖」となり、究極的に涅槃(悟りという心的境地)に入れるのである。これこそが(和製仏教ではなく)本来の仏教の真髄だろう。



(以下引用)ジョブズの言葉の部分は赤字にしておく。

7.スティーブ・ジョブズ最後の言葉
STEVE JOBS Last Words - 
スティーブ・ジョブス最後の言葉
 
私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。    
他の人の目には、私の人生は 成功の典型的な縮図に見えるだろう。     
しかし、仕事をのぞくと喜びが少ない人生だった。
人生の終わりには、富など、 私が積み上げてきた人生の単なる事実でしかない。   
 
病気でベッドに寝ていると、 人生が走馬灯のように思い出される。
私がずっとプライドを持っていたこと、 認証(認められること)や富は、 迫る死を目の前にして色あせていき、 何も意味をなさなくなっている。    
この暗闇の中で、 生命維持装置のグリーンのライトが 点滅するのを見つめ、 機械的な音が耳に聞こえてくる。
神の息を感じる。
死がだんだんと近づいている。。。。    
 
今やっと理解したことがある。
人生において 十分にやっていけるだけの富を積み上げた後は、 富とは関係のない他のことを追い求めた方が良い。    
もっと大切な何か他のこと。      
それは、人間関係や、芸術や、 または若い頃からの夢かもしれない。    
終わりを知らない富の追求は、 人を歪ませてしまう。 私のようにね。    
 
神は、誰もの心の中に、 富みによってもたらされた幻想ではなく、 愛を感じさせるための 「感覚」というものを与えてくださった。
私が勝ち得た富は、(私が死ぬ時に) 一緒に持っていけるものではない。    
私が持っていける物は、 愛情にあふれた思い出だけだ。     
これこそが本当の豊かさであり、 あなたとずっと一緒にいてくれるもの、 あなたに力をあたえてくれるもの、 あなたの道を照らしてくれるものだ。     
愛とは、何千マイルも超えて旅をする。
 
人生には限界はない。 行きたいところに行きなさい。
望むところまで高峰を登りなさい。
全てはあなたの心の中にある、 全てはあなたの手の中にあるのだから。     
世の中で、一番犠牲を払うことになる 「ベッド(賭け)」は、 何か知っているかい? 
シックベッド(病床)だよ。    
 
あなたのために、 ドライバーを誰か雇うこともできる。
お金を作ってもらうことも出来る。
だけれど、あなたの代わりに 病気になってくれる人は見つけることは出来ない。
物質的な物はなくなっても、また見つけられる。
 
しかし、一つだけ、なくなってしまっては、 再度見つけられない物がある。
人生だよ。命だよ。   
手術室に入る時、その病人は、 まだ読み終えてない本が1冊あったことに気付くんだ。
「健康な生活を送る本」   
 
あなたの人生がどのようなステージにあったとしても、 誰もが、いつか、人生の幕を閉じる日がやってくる。      
あなたの家族のために愛情を大切にしてください。
あなたのパートーナーのために、 あなたの友人のために。   
そして自分を丁寧に扱ってあげてください。
他の人を大切にしてください。
ビル・ゲイツの言葉というものを聞くと、ユダヤ人の悲哀というものを感じる。
それは何度も何度も同じことを繰り替えす人種だということだ。
奴らは他人の人生から学ぶということがない。
アルバート・アインシュタインも同じことをした。
ノーバート・ウィーナーも同じことをした。
ジョン・フォン・ノイマンも同じことをした。
ロバート・オッペンハイマーも同じことをした。
なぜ彼らから学ばないのか?
きっと古くはギリシャ時代でもそうだったのだろう。
発見をする。発明をする。大企業を作る。
それで成功する。
しかし逆に多くのものを失う。
死に至って初めて自分の失敗に気づく。
馬鹿なのか?
これが俺がユダヤ人は異常に知能は高い大人子供に過ぎないという理由だ。
大人子供にこの世界を渡すわけには行かない。
まあ、いずれにせよ、日本社会には与野党、官民のエリートに米CIAの手先がいるわけだ。
そして米国as No.1を常に維持しようと画策する。
他の国がナンバーワンになろうとすれば、必ず米国はそれを邪魔する。
昔はソ連、戦後は日本、そして今は中国とEUに対してだ同じことをする。
そこが我々の大和魂とは違うところですナ。
果たしてキル・ゲイツにはジョブズの最後の言葉は響かないのか?

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シン「堕落論」

私の別ブログに書いた記事だが、わりとまともな思想に思えるので、世の批判を顧みず、ここにも載せておく。この思想によって「救われる」人、特に、救われる青少年は多いと思うが、「それこそまさに堕落をもたらす思想である」と、偉い人たちやお堅い人たちには囂々(ごうごう)たる非難を浴びるだろうなあww


(以下引用)
あまり真面目な内容ではないので、いや、書くのは真面目に書くつもりだが、世間的には、不真面目だ、と思われそうな内容なので、この「お遊びブログ」に書くことにする。
テーマは「向上心は人を幸福にするか」というものである。
世界史的というか、歴史的には人類は向上心によって文明を豊かにし、多くの人がそれによって幸福になってきたわけだが、問題は「向上心を持っていた当人は幸福なのか、幸福だったのか」どうかである。もちろん、遊び事ですら向上心があるから上達(向上)してより面白くなる、という事実があるから向上心自体を全面否定するという馬鹿な話はしない。ただ、その本質を「哲学的に」考えてみようというわけだ。
要するに、向上心とは「現在の自分を不満に思うこと」であるのは明白である。幸福とは満足した状態であり、不幸とは不満足な状態なのだから、これ(向上心を持っている状態)は不幸そのものの状態ではないだろうか。
しかも、その「向上した状態の自分」とは「今の自分ではない何か」なのだから、向上した段階でその自分が自分に満足するという保証は無い。まあ、努力次第で勝てる確率の高い賭けだから、やる意味はあるだろう。しかし、その状態に達するまでの苦闘努力は、その成果と釣り合うだろうか。つまり、「努力と成果のコスパ」はどうなのか、ということだ。
ここで、真面目な提言をするが、「不足状態そのものを楽しむ」という生活哲学を持つのは、かなり人生を幸福にするものだと思う。もちろん、これは昔から言われていることで、竜安寺だったかどこかの石に掘られた「吾は唯だ足るを知る」もその思想である。ここでは、それを発展させて、「不足もまた幸福となりうる」という哲学を提唱しているわけだ。つまり、不足があるからその不足を満たすためにあれこれ工夫する、その「頭を使い、身体を使う楽しさ」を不足状態は与えてくれるわけである。
で、これは「向上心」そのものではないか、と文句を言われそうだが、べつに「上に向かえ」と私は言っていない。上に向かおうとするから「自分は今、下にいる」と感じる、その感情こそが実は不幸の根本原因ではないか、と私は言っているのである。向上とは、様々な意味で「重力に逆らうこと」であり、苦しさや不幸の原因である。会社内での出世も政治家の権力争いも学校での成績争いもスポーツの勝ち負けも要は「相手が上か自分が上か」の争いでしかない。「上も下もたいした違いはない」という思想を多くの人が持てば、この世界の争いの9割は無くなるだろう。ただ、「競争がもたらす成果」もかなり無くなるだろうが、人類の文明はそろそろ極限に達しているのだから、人々が争うことで誰かが利益を得る、という思想などもはや人類を幸福にはしないだろう。そんな浅ましい、野獣の思想にそろそろ決別してはどうか。

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男性
職業:
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趣味:
考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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