教団の人たちでさえ、誤解しているけど

神様や仏さまは、人間を助けたり、救ったりしてくれるんだけど、そのやり方は「病気を治す」とか、金持ちにするとか、そういう「楽をさせる」のとは、違うんです。

かわいい子に旅をさせ、

獅子は、こどもを千尋の谷に投げ落とす。

相撲取の「いっちょかわいがったる」の「かわいがる」だからね


厳しい境遇において、そこから這い上がらせ、力をつけさせる。

力を獲得したら、自力で、戦い抜ける・・それが、真人生。

人生の宝は、自分の手でつかみ取れ!
そして、自分の魂を水晶のように美しく、磨き上げろ。


そのためには、厳しい修行が必要。


だから、苦難の人生をくれる。

神仏は、甘やかさない。

たしかに、大難を小難にしてくれる。小難を無難にしてくれる。

でもその働きにおいて、そんなことは、重要ではない・・・どんな悲しみであっても、どんな苦しみであっても、それが、その人間の成長のカギであるとき、神仏は、決して容赦しない。


大きな、大きな守りの中で、急流に突き落とす。

本当の慈父母とは、よしよし・・・と、甘やかす親ではなく、きっちり仕込んで、仕上げてくれる親だから。

それが、一番、本人のためだから。

だから、夫が倒れた・・・これも、神仏のお慈悲の中の出来事だけど、

単に、小難になるとか、なにもかも、うまくいくとか、そういう期待を、私は、しないよ。

あまりにも、つらい道を越えてきたからね。
胸突き坂の厳しさも、その、ありがたさも知っている。

神も、仏もないものか!!と、どんなに恨んだかしれない。

どんなに悲しくても、どんなに苦しくても、それが、人を磨き上げる道ならば、容赦なくやってくる。


弱音は吐けないよ。
「ごっつぁんです」しか、言えない。

嵐の海に投げ入れるのは、私が、ちゃんと泳ぎぬくと信じてくれているから。

だから、何が来ても、受けて立つつもりだったけど、生身の悲しさ・・・一人でいると、悪い予感ばかりに悩まされる。

だから、倒れてから20日目、初めて、しっかりしゃべるのを聞いて、

やっぱり、うれしかったよ。

このまま、体力が衰えて、ワクチン接種から3年目に死ぬのかもしれないと、悪い方へ悪い方へ考えていた。それも、まだ、油断はできないけど、

今日の声は、元気だった。やっぱり、よいことは、素直にうれしい。

明日、嵐がこようとも、今日は、あたたかな日差しの中でひなたぼっこしようと思う。

こんなの一喜一憂だと、わかっているけど。