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ある種の宗教は「精神異常」への道である

フロイトの「精神分析入門」のどこかに、精神病の簡単な定義が書いてあって、それは私の要約では「精神病とは現実との(精神の)乖離である」というものだ。たとえば、暴力団員などというのはそれなりに現実社会に適応しているわけで、精神病ではない。犯罪者も同様だ。その適応の仕方が不道徳であることとは別の話である。サイコパスといわれるのも精神病ではなく、「異常適応」、つまり現実社会に適応しているが、その仕方が普通人とは違うわけだ。冷酷無残な人間が高い地位に就くことは当たり前にある。我々の持つ道徳観念は現代の道徳観念にすぎないし、「道徳とは禁止の体系である」以上、その規範に縛られない人間のほうが「強さ」を持つのは当たり前だろう。つまり、ボクシングやレスリングの試合でピストルを撃つ人間のほうが強いのは当然だ。単にスポーツという「限定的場所でのルール」がある場合にはルール違反になるだけだ。

村上春樹の「約束された場所で」は、オウム真理教信者へのインタビューを集めた珍しい本で、かなり貴重な内容を持っていると思うが、その中にこういう部分がある。先に、この部分を「精神病は現実との乖離である」という定義に対応させると、オウム真理教の修行とは「精神病になるための修行である」と言えると思う。
初期には「(修行を続けていくと)やはり自分自身がどんどん変化していくのがわかります。いろんな物事についての考え方も肯定的になりますし、前向きになります。確実に変わっていきますね」となるらしいが、実はこれが大きな罠のようだ。この「初期体験」があるから、後で起こる修行に伴う異常体験をも「肯定的」に「前向き」にしか考えなくなるのだろう。
で、問題は、ここからだ。

「ところが修行が進んできますと、アストラルに突っ込むというか潜在意識が出てきまして、だんだん現実感が希薄になっていきます。」「記憶があいまいになってきて、自分のやったことが果たして夢なのか現実なのか、その判断ができなくなってくるんです。」「あっちに意識が行ってしまって、それからこっちに帰ってこなくてはいけないんだけれど、うまく帰ってこられない。」「これは経典にも出ていることなんですが、ある修行の段階になると、そういう分裂的なものが顔を出してきます。」「そういう分裂した状態をすぱっと治さなくてはならないんですが、それは精神科医のところに行っても駄目です。修行の中でやっていく以外にないんです。となるとやはり出家するしかありません。自分の中に頼れるものがないとなると、あとは教団に身を委ねてしまうしかないのです。」

この段階で、既に洗脳状態にあることが分かる。

それは精神科医のところに行っても駄目です。修行の中でやっていく以外にないんです。となるとやはり出家するしかありません。

という結論になぜなるのか。それは、そのような考え方しかできない状態、つまり通常の思考が不可能な状態になっているわけで、それは「洗脳状態」と見るべきだろう。


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西洋で「ナチズム」が廃れない根本的理由

「混沌堂主人雑記(旧題)」から転載。混沌堂主人氏はよく、こういう好記事を発掘したものである。現在の世界情勢の「哲学的意味」を実に簡明に説明している。
文中の「デナズ化」は「非ナチス化」の意味だろう。「ナチズム」とは実は「西洋絶対優越主義」であり、「西洋による世界支配」を進める思想であるのがよく分かる。これは右翼的ナショナリズム以上に危険でおぞましい思想である。「世界の階層化」であり一種の「奴隷制度思想」なのだから。

(以下引用)赤字太字部分は夢人による強調。そこだけ読んでもかなり有益だと思う。

西側のデナズ化
ウクライナのデナズ化は、西側の横暴(ロシア語では「非合意能力」と呼ばれる)によって「西側のデナズ化」に変化したが、しかし、ロシアの3つの目的のうち2番目に過ぎず、その第1は、ウクライナ東部のロシアの解放にあった。西側の武器は、軍事的な装備だけでなく、金融的な「装備」からも成るからである。つまり、その「装備」は、その違法な制裁と世界的なドル経済からも構成されている。ロシアは、非ドル経済とペトロユアン基軸通貨への移行という非西欧諸国からの大きな支援により、この2つを回避してきた。しかし、第三の目的であるウクライナのデナズ化を実現するために、ロシアは今や欧米のデナズ化も実現せざるを得なくなった。キエフ政権は欧米のナチスの餌を丸呑みしてしまったからだ。この「デナズ化」とは何であろうか。 ナチスのイデオロギーは、大昔のドイツの人種差別のことではありません。ナチズムはそれよりもはるかに広範なものである。ナチズムは西洋の優越性のイデオロギー全体であり、西洋の世界だけが重要であり、他の国はそれよりも劣っているので、西洋は組織的暴力、人種的傲慢、経済的脅迫、文化的いじめを通して、自分たちの文明と文化価値を押し付けることによって、他のすべての文明と文化価値を破壊する専制的権利、そして妄想的誇りを持つという考え方である。なぜこのようなことが起こったのでしょうか?これはどこから来たのでしょうか?西洋を知る人なら誰でも、その民族の間には実にさまざまなものがあり、非常に多くの西洋人がこの傲慢さを共有していないことを知っています。古典的な西洋文化から、ダンテとミケランジェロ、シェークスピアとモリエール、セルバンテスとゲーテ、ハイネとディケンズ、ショパンとリスト、プッチーニとヴェルディ、バッハとシュトラウス、ユーゴーとルノワール、ドボルザークとグリーグ、イェイツとジョイス、シベリウスとエルガー、誰がナチスと呼ぶだろうか?誰もいない。では、このナチズムという西洋文化はどこから現れたのでしょうか?
西洋のスピリチュアル・アイデンティティの喪失
どんな文明も、その本質的な精神的価値、つまり哲学的・文化的価値に依存している。キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教は、世界で最も重要な4つの信仰体系で、世界の約75%を占めていますが、道教、シーク教、非常に小さなユダヤ教など、より小さなものも数多くあります。さて、その後、カトリックとプロテスタントという教派に分かれたものの、西洋世界はキリスト教文明の一部として始まった。しかし、両教派とも、付け加えたり取り除いたりしたとはいえ、いくつかのキリスト教の基本的な価値観を共有している。しかし、この100年余りの間に、つまり、1914年、西洋のエリートが自分たちの青春の花を塹壕で虐殺したとき以来、西洋世界は、それ以前と言う人もいれば、もっと最近と言う人もいるが、その上に文明を築いてきた柱であるキリスト教の基本価値さえ否定した。 まず、西欧諸国は、自らの精神的、文明的アイデンティティ、すなわちキリストへの信仰を失った、いやむしろ放棄した。つまり、キリストへの信仰である。キリストを復活した神の子として否定し、単なる人間として退け、時にはキリストが存在したことすら否定したことで、自らの存在意義に対する信仰をすべて破壊した。なぜ、これ以上存在するのか。例えば、ネイティブアメリカンやアフリカ人に聖書を売り、彼らの土地や資源を奪った。その人たちは、西洋にどんな模範を見たのでしょうか?西洋のイデオロギーは何の価値があったのか?西洋はキリスト教ではなく、資本主義であり、その唯一の関心は金銭的利益であり、キリスト教の還元的形態はカモフラージュに過ぎないことが明らかになった。したがって、もはや精神的、思想的な基盤はなかった。
国家と家族のアイデンティティの喪失
第二に、西欧諸国はナショナル・アイデンティティ、つまり主権を失った。彼らは互いに融合するだけでなく、匿名的で均質なアメリカの世界へと融合し始めたのです。今日、西ヨーロッパの都市、空港、店舗を訪れると、自分がどこにいるのかわからなくなることがよくあります。それらはすべて同じように見え、同じようにトランスナショナルでトランスコーポレートな外観と内容を持っているのです。西ヨーロッパの人々は、アメリカ人とまったく同じように食べ、飲み、服を着て、アメリカの映画やテレビを見ることが多くなっています。この例は、米国をモデルにしたEUである。EUは、欧州合衆国であり、同じドルペッグ通貨を持つ米国の単一の従属的な部分、言い換えれば、一連の顧客バナナ共和国に過ぎないということになっている。 第三に、西欧諸国は現在、トランスジェンダーによって家族のアイデンティティを破壊する過程にある。あらゆる文明の基本的な構成要素である家族を弱体化させ、破壊することで、神が作ったような男性と女性の2つの性はもはや存在しないと宣言することで、自らの死を確実にしようとしているのです。種子を供給する男性はどこから来るのでしょうか?子どもを身ごもり、出産する女性はどこから来るのでしょうか。トランスジェンダーは、西洋文明を終わらせる最後の一歩です。西ヨーロッパで起こった移民による大規模な人口入れ替えを見ればわかるように、トランスジェンダーは自殺行為であり、この50年間で加速度的に増えている。
ヨーロッパ復権の可能性におけるロシア文明の役割
20世紀、ロシア文明は、非西洋的、非還元主義的、伝統的な正教会文明の残骸を西洋が組織的に転覆させたことによって、ほぼ完全に破壊された。このイデオロギーは、人間の本質、すなわち現実、特に精神的アイデンティティ、国民的アイデンティティ、家族的アイデンティティを考慮に入れることがなかったため、完全に失敗した。しかし、この30年間で、ロシア文明の残党は、ゆっくりと、痛みを伴いながら、ロシア正教の精神的なルーツを回復してきた。この非常にゆっくりとした正教への回帰は、ロシアが、はるか昔ではあるが、かつて西欧諸国が持っていたのと同じルーツに回帰していることを意味する。つまり、西洋が今向かっているあの終着駅から戻ってきたということである。 つまり、今のロシアと西欧は、すれ違う2つの列車のように、2つの異なる方向へ向かっている。ロシアの列車は終着駅から戻り、マルクス主義の時代に失いかけた精神的な文明的アイデンティティ、国民的アイデンティティと主権、家族のアイデンティティの回復に向かっているのである。マルクス主義という西洋の逸脱を経験した今日のロシアは、新西洋のナルシストなLGBTエリートには全く反対だが、旧西洋の人々や、汚れのないキリスト教という精神的ルーツに戻る可能性のある人々には全く賛成である。その新西部の象徴が、そのリーダーであるバイデン大統領である。彼はホワイトハウスにいるべきでない。大統領に選ばれたのは、彼の老衰が背後の人々によって操られることを保証しているからにほかならない。むしろ彼は、精神的なケアを受けられる老人ホームにいるべきだろう。なぜなら、彼らは皆、ナチズムとして知られる自己の精神異常、つまり西洋の優越コンプレックスに苦しんでいるからである。

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目標、夢、義務感が人生を地獄化する

最近のアニメには「ゲーム感覚」の話が多い気がするが、そのほとんどは「人生(世の中)は力がすべてで、力は設定(初期設定)がすべて」という人生哲学に基づいている気がする。そこから、「親ガチャ」という流行語も生まれてきたのだろう。
まあ、昔のように、「夢を持て」と力説する教師も少なくなっているなら、結構なことだ。夢、あるいは大きな目標を持つことは、それを達成する過程はすべて「苦行」となりがちであるのだから。しばしば、優れた創作者(特に喜劇漫画を描く漫画家)が鬱病になりがちなのは、「いい作品を描かねばならない」「締め切りまでに作品を仕上げねばならない」という義務感のためであり、これもまた「目標(夢)を持つ」ことと同じく、義務感に縛られるのである。
(親の命令だと思うが)六浪して医学部に入り、何かのことで母親を殺した女性がいたが、この女性の合格までの6年間は地獄だったのではないか。(医学部合格まで至ったかどうかは忘れたが。)

最初の話に戻るが、幼い時から、ゲームやアニメを通じて「(初期設定でだいたいすべてが決まるという)社会の真実」を知る若者が増えたことが、若者の自殺増加の最大原因ではないかと思う。
最近のアニメの中でよく言われるのが「人生は糞ゲーだ」という言葉である。もちろん、その後で「糞ゲーではなく、人生は努力で変えられる」と続く話も多いのだが、たいていは、現実は糞ゲーだから異世界に転生する、という安易な話になるわけである。で、「人生は努力で変えられる」派の作品も、その努力とは「人生を戦略的に、ゲーム感覚で生きる」話なのである。生きること自体の楽しさを見せる作品、ただ生きるだけでも人生は素晴らしいという話はほとんど見ない。ほとんどが「何かの点で他者より優れないと人生は糞ゲーになる」話だ。ということは、そういう人生哲学は結局、人生とは苦行である、という結論になるだろう。もちろん、それは大きな迷妄だ、というのが私の考えだ。
鬱病になった漫画家の話をしたが、そういう人は漫画家をやめて土方にでもなればいいのである。若くして優れた作品を幾つも描いたために、創作家として以外の人生が考えられなくなる、というのは間違いであって、どんな創作者でも創作のネタが切れる時期が来るのが必然だと考え、「悩まない人生」を選ぶべきだ、と私は思う。つまり、「厭離一切転倒夢想、究境涅槃」である。

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「幸福」という概念と「幸福感」という感覚

昔読んだ、コリン・ウィルソンの「至高体験」という本の中に、ウィルソンは「至高体験」の事例を幾つか挙げているのだが、それらは要するに「幸福感」であり、その幸福感は、特に何かを達成した、というよりも、ふとした瞬間に突然、「生きること自体の快感を感じる」というもの、と言っていいかと思う。たとえば、ある平凡な家庭の主婦が、夫を会社に、子供を学校に送り出した後、洗濯物を庭のロープに干しながら、青空と白い雲を見た瞬間に、「途方もない幸福感に襲われた」というようなものだ。これはまさに「至高体験」という言葉にふさわしいと私も思う。そして、それに近い感覚は私もしばしば感じる。いつも、独りでいる時で、いつも、「特に何もしていない時」だ。だいたいは何か自然の風景を見ているか、体に風を感じているときで、あるいは、道を歩いて、歩くこと自体が嬉しい、というような感じである。足が地面を踏む感触、その感触が体の筋肉に伝わる感触の楽しさである。
昨日、市民図書館から借りてきた、ジュブナイル小説の「キリエル」の主人公は悪魔だが、彼が死ぬ運命だった若者ショーン(高校生くらいか)の体を借りて、この世に「生きる」ようになった、その最初のころの「人間の体の感覚を楽しむ」描写が、私のそれに近い。

おれは自分のものになった体を早く確かめようと、ショーンの家に向かった。途中、広々とした空をずっと見上げていた。ああ、あの青。それに、あの雲。同じ方向に動いているだけでなく、流れたり、うねったり、波打ったり、刻々と形を変えている。
ショーンの口が広がっている感じがしたから、両手を顔にもっていった。指に当たったのは、角張っている小さな固いものだった。
歯だ。おれは笑っているんだ! またすばらしいものを見つけたぞ。存在するのに形というものをまったくもたない感情。その感情を映し出す筋肉。なんて精巧な世界なんだ。もっと早く来るんだった。(A・M・ジェンキンス「キリエル」より)



(以下「大摩邇」所載の「in deep」記事の一部を転載)「幸福の概念」を知らないと、人は「幸福感」を知らないものなのだろうか? 私は甘さの概念も辛さの概念も知らないが、甘さや辛さの感覚は分かるつもりである。


私自身は、実は、


 


「生まれて一度も幸福というものを感じたことがない」


 


のです。



なぜかというと、理由は簡単で、


「幸福というものの概念や基準を知らない」


からです。


充実していると感じることはありますし、満足したりやり遂げたりといったことも人生ではありましたけれど、たとえば、暑いとか寒いとか、かゆいとか、そういうものの基準はわかることですが、「どういう状態を幸福というんだ?」ということが、幼児の時代からわからなく、そのまま今に至ります。つまり、意味がわからないから感じたことがないということになります。


場合によっては、私は「楽しい」とかを感じたこともないのかもしれません。「楽しい」というのも、やや曖昧な観念です。


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人文主義と「人間主義」

今読んでいる最中(まだ第三章の途中だが)の、トーマス・マンの「魔の山」の中に、「人文主義(者)」の親切な注釈がある。それを先に一部転載する。赤字太字下線は夢人による。

人文主義者:homo humanus(Humanist)は古代ギリシャ人的教養を理想とする人。ギリシャ人は、人間という理念をすべての実利性から分離させて、心身の完成という点にもとめ、この人間像へ個々の人間を高めようと努力した。この教養理想は古代ローマ人に受けつがれたが、中世にいたってキリスト教的教養に退けられた。(以下略)

私は昔から「人文学」という名称の意味が分からなかったのだが、これは名称が悪いので、正しくは「人間学」と言うべきだったのである。そして、上の注釈中の「人文主義」も「人間主義」と言うべきだったのだ。ヒューマニズムとは、別に仁慈に満ちた人間の精神のことではなく、「人間主義」の意味であり、人間を大事にする思想が、道徳性と結びついただけの話である。
で、この「文」という余計な字を「ヒューマニズム」の訳語の中に入れたことで、「人文学とは何か」という混迷を多くの人間にもたらしたわけだ。悪い翻訳の害悪は大きい。
さて、上の注釈の中で私が強調した部分だが、まず、ギリシャ人が「人間という理念をすべての実利性から分離」した、というのが非常に面白く、ギリシャ人の叡知を示していると思う。これが、「実利性がすべて」という現代社会が、非人間的な汚辱と悪がはびこる社会になっていることと見事に対応している。
「ようこそ実力至上主義の教室へ」というアニメがあって、その教室では学力や運動能力だけでなく、「悪の能力」も「実力」として認められているのである。まあ、これは私の解釈で、その学校のルールは私には今一つ理解できていないのだが、描かれた内容では明らかに「悪の能力の高い人間」こそが「実力のある人間」だと評価されている感じだったわけだ。言い換えれば、悪の能力ほど「実利性が高い」ものはない、ということだ。他人との勝負に勝ちたければ、誰も見ていないところで相手を殺すのが一番である。殺すのは危険性が大きいなら、不具者にしてもいい。相手の評価を下げる噂を流してもいい。そのほうが、勉強やスポーツで勝つより楽で確実だろう。
まあ、見ていて気持ちの悪いアニメだったが、原作者は頭のいい人だな、ということは分かる。モラルの歯止めの無い「実力勝負」は、野獣の闘争になるしかないのである。プロレスラーは、素手なら強いが、出刃包丁で刺せば勝てるだろうし、ピストルや爆弾を使えばなお確実だ。それが「実力至上主義」なのである。
下線をつけた、ギリシャ的ヒューマニズム(人間主義)が中世に「キリスト教的教養に退けられた」というのは説明不要だろう。キリスト教は「神至上主義」だから、「人間至上主義」とは真っ向から対立するのである。

(追記)今、気が付いたが、「人文主義」の「人文」と、「人文学」の「人文」は異なる意味かもしれない。面倒くさいのでそのままにしておく。

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結婚制度の崩壊と「玉の輿」願望

結婚という「制度」について考えていて、結婚制度の崩壊は、女性を不幸にするのではないか、とあれこれ考えたのだが、簡単な話、「玉の輿」というのは結婚制度が前提だろう。
最近楽しみに見ている「スキップとローファー」というアニメの中で、女主人公の同級生である少女(高1)が、「私、高校の間にスペックの高い恋人を作る予定なんだ」というような発言をするのだが、この「スペックの高い恋人を持つ(作る)」というのも、要は「玉の輿」願望だろう。自分が何かをするのではなく、恋人のスペックを利用してカネや物や地位を手に入れるわけだ。
昔、広田レオナ(漢字は忘れた)というタレントがいて、彼女がタレント発掘のテスト会場で、何か芸をやってみろ、と言われて「わーたし乗りたいな玉の輿~♪」と自作の歌、「玉の輿音頭」を歌って踊ってウケたという話があるが、これは、或る種の女性(しかも、珍しい層ではないと思う)の願望を正直に出したものではないか。
その玉の輿願望とは対極にある、私が考える「あるべき結婚の姿」を、少し前に書いた記事から引用しておく。「同じ本」とは呉智英のある本である。

(以下自己引用)


冗談はさておき、同じ本の中に、木山捷平の詩が引用されていて、これがなかなか感動的なので引用する。


  メクラとチンバ


お咲はチンバだった。
チンバでも
尻をはしょって桑の葉を摘んだり
泥だらけになって田の草を取ったりした。

二十七の秋
ひょっくり嫁入先が見つかった。

お咲はチンバをひきひき
但馬から丹後へーー
岩屋峠を越えてお嫁に行った。

丹後の宮津では
メクラの男が待っていた。
男は三十八だった。

どちらも貧乏な生い立ちだった。
二人はかたく抱き合ってねた。


私は露骨なエロが大嫌いなのだが、この詩の最後の一行は素晴らしいエロチシズムだと思う。まさに、神々しさを感じるエロチシズムだ。人生の真の幸福が凝縮したような一行だ。
こういう詩を読むと、ポリコレとか差別語狩りのくだらなさが明瞭に分かる。「その言葉」でなければ表現できないものがあるのである。

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道徳と倫理

まあ、この回答に信頼性があるかどうかは知らないが、ひとつの考え方だろう。
「椋鳥通信」の中に、モラルは文明(化)と関係し、利己性が強く、エシックス(倫理)は文化的なもので、利他性が強い、という(まあ、私の解釈だが)、ある西洋の人の考えが書かれている。ここでの「文明(化)」とはcivilizationで、つまり都市民化と同じだろう。つまり、表層的な「交際のルール」に近い。根本にあるのは「自分の利益」だ。「文化」はcultivateで、「自らの精神を耕す」ことが基本だ。その結果、「何が精神(魂)にとって美であり善であるか」を追及し、そして倫理が生まれるのではないか。つまり、下の回答の真逆ではないか。
社交のルールである道徳と違って倫理は内的探求の結果だから、自己犠牲という利他性も選択肢として生まれるわけである。「走れメロス」でのメロスの行動(葛藤)は、道徳と倫理の闘争とも考えられる。
私は道徳と倫理は(社会的意義からは)ほぼ同じだという考えだが、哲学的には峻別する人もいるのだろう。

(以下引用)日本人でもよく間違えるが、下の回答の「適正」の使い方は間違いである。「適正な」とは言うが「適正のある」とは言わない。「適性のある」である。

「moral」と「ethic」は同じ意味ではないのですか。



ネイティブの先生からの回答

teacher

Rebecca



これら2つの単語は意味が異なります。「Morals」は個人がどのように行動するべきか、何を良しとして何を悪しとするかという個人的な信念や基準のことです。「Morals」はあなたの振る舞いや行動を導くもののことをいいます。「Ethics」は社会的な善悪の基準のことです。 例:Ethically, you shouldn't hire your brother when there are more qualified applicants. (倫理的に、より適正のある志願者がいるのに自分の兄弟を雇うべきではありません。) 例:Even though no one will know you took that money, ethically, you should bring it to a police station. (あなたがそのお金を拾ったことは誰もわからないとしても、倫理的には、それを警察署に持っていくべきです。)


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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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