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転がる石と眠るライオン

例によって思い付きの論を論じてみるが、「挑戦」とか「変革」ということは本来はマイナスの行動なのではないか、という論である。もちろん、面白半分の詭弁が半分の論だ。

現状が完璧な秩序を持ち、誰もが幸福だという状態なら、そこで何か新しいものに挑戦したり現状を変革しようとする人間は普通はいないわけで、いれば、はた迷惑な行動をする「犯罪者」「不道徳者」になるだろう。まあ、要するに、「天国」を「改善」しようとする人間はいるか、ということだ。
つまり、挑戦や変革を必要とする社会や状況は不幸な状態であり、不平不満に満ちているということである。これは社会だけではなく、個人においても同じだろう。現在の自分や自分の状況に不平不満があるから進歩や向上を求めるわけである。
今の恋人に不平不満があるから、新しい恋人を求めるわけだ。あるいは、恋人がひとりしかいないことが不満だから複数の恋人を求めるわけだ。つまり、進歩向上を求める人間は、周囲を不幸にする、と言えるのではないか。新しい恋人ができたら、古い恋人は捨てられるのだから。
で、そのようにして次から次へと変化を求め、新しいことに挑戦し続ける人間は非常に賞賛され、社会にとって有益な存在だとされるのだが、当人は本当に幸福なのだろうか。
「転石苔むさず」という言葉があるが、ローリングストーンズ(転がる石たち)は本当に常に新しい音楽に挑戦しただろうか。ある時期からは自己模倣、あるいは昔のヒット曲の演奏だけだったのではないか。
「ライオンは眠っている」という大ヒット曲を出したトーケンズというグループは、その一曲だけで、70歳80歳になっても田舎で興行をして会場はいつも満員だったという。

転がる石と眠るライオンの見かけは反対だが、どちらも実は変わらぬ部分こそがその個性であり、価値だ、ということだ。あなたが誰かを愛したなら、その誰かの「現在の状態」が愛する対象であるはずだ。その相手が進歩向上して別人になれば、それはもはや愛する対象ではなくなった、ということなのである。逆も真なりで、たとえば美人女優を愛して妻にしたなら、女優からただの主婦になった相手をなおも愛するかどうか、分かったものではない。



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電子情報社会

tanuki氏による現代情報社会論であるが、「ネットには既存の垣根や利権を取り払う力がある」というのは、誰もが感じていることを端的に述べたもので、まさしく「ネットは世界を変えた」と私は思っている。別の言い方をすれば、「コンピューターはネットの無料提供で世界を劇的に変えた」である。tanuki氏も言うように、著作権もいずれ消滅するかもしれない。

ネットというのは、腹では思っていても口に出せなかったことを誰でも口に出せるようになったというのが凄いのであるwww(もちろん、権力批判は覚悟が必要だが、芸術的創造に関してはだいたいOKで、素人とプロの垣根が無くなった。ネット上がりのプロ歌手もいるしプロタレントもいるのではないか。)音楽ではすでに垣根がほとんど無くなったが、出版事業も、近いうちにネット経由の個人出版が主流になるのではないか。
ただ、電子情報を売るだけのものを「出版」とは言えないだろう。版元が情報送信を停止すれば、購入者の手元には何も残らないという状態ではなく、やはり「紙」の形でも送付されることを望む人にはそうするサービスが望ましい。つまり、私は「ペーパーレス社会」には懐疑的なのである。政府や銀行がすべての記録を電子情報だけにしたら、捏造のし放題になるのは目に見えているwww

(以下「ネットゲリラ」読者コメント欄より引用)




誰かの興味をかきたて何か新しいことを知らせる、教える力のある人というのはまあそうはいなくて、自称ユーチューバーはだから人が到底やらないバカバカしいことをやって見せることで何とか成立している。
せいぜいネット大道芸、いや芸にもなってなくて人の哀れみで金をもらうネット乞食です。


しかしそれも大体ネタがつきてきて、犯罪まがいになったり愚劣な映像が量産されるようになっちまった。
tiktokというのは素人には長いのが無理だからという、ツイッターの動画版でして、さらに細切れになった相変わらず愚劣映像のオンパレードですな。


それでも何か表現したいのならば、自分が一番得意なこと、詳しいことを晒すしかないんだが、それも上には上がいて大体二番煎じの間違いだらけになっちまう。


まあこれから痛い動画がネット中に溢れ、ゴミコンテンツはやがて厭きられるとあたしは見ております。つかもうその傾向は顕著ですな。


youtuberどころかyoutubeだとかGAFAなんてのが、痛い単語になるのはそれほど遠い未来じゃない。
それは過去あらゆるネットサービスがたどってきた道です。


ただネットは垣根や既存の利権を取っ払う力があるのは事実でして、音楽なんかはそれが顕著。アメリカの世界音楽業界支配は完全に終わりを告げて、チャートも捏造できなくなった。それは映画にテレビに、商業コンテンツ全体にやがて広がっていくでしょう。あくまで本職がつくる価値あるきちんとしたコンテンツのお話ですが。
さらに従来の著作権、とくに版権という概念や収益構造は近い未来に崩壊するとあたしは見ております。多分オンライ決済のネット投げ銭になるんでしょう。
これを進歩とみるか退歩とみるか。
まあそのころはあたしも死んでいるでしょうが。


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脳との付き合い方

下にも書いたが、別ブログに載せたメモを、ここにも転載。わりと有益だと思う。なお、「やる気を出すには、まずその仕事に取り掛かること」というのは、アニメ監督の故今敏のブログで絶賛されていた。実は、私が『海馬』という本を買ったのは、そのブログの記事を読んだからであった。






脳を働かす技術




昔書いたメモを「生活の技術」のひとつとしてここに転載しておく。若い人には役に立つと思う。N.Tは私の本名の頭文字。



2011年 6月20日(月)
◎「海馬 脳は疲れない」池谷裕二 糸井重里 のヒントによる思考素
・子供は記銘された量が少ないので、想起が容易であり、大人は記銘された量が多いので想起が困難になる。これが、「大人になると記憶力が悪くなる」と言われることの実体。逆に言えば、無知・無教養な人間ほど「物覚えがいい」。
・子供は白紙状態だから、刺激を印象深くとらえる。したがって、それを容易に記憶する。大人は生活が惰性化しているために、物事に対する印象が弱い。これが大人の記憶が弱い理由の一つ。物事に対する好奇心を持った人間は、大人でも記憶力がいい。
・好悪を決める脳の部位が扁桃体、重要と非重要を判断する脳の部位が海馬。この二つは近くにあり、連携している。つまり、「好きな物=重要」「嫌いな物=非重要」となり、重要と判定されたものは記憶され、非重要と判定されたものは記憶されない。
・ある作業に対して「やる気を出す」、つまり側座核を働かせるには、「まずその作業をやること」である。やることによって側座核が働き始める。
・脳は新しいものを警戒する。これは動物の生存本能による。文化現象でも、新しいものは攻撃される。
・脳は我々の無意識を支配しているが、我々の意識は脳を支配している。そして、我々の無意識はしばしば我々の意識を支配している。こうしたサイクルが、脳と意識のありようである。(BY N.T)
・新しいものへの好奇心があることは創造的人間の特徴である。逆に、新しいものへの拒否反応が強いのは、老化現象の一つである。つまり、知的成長への意欲よりも動物的生存本能が強くなり、無難な安定を求めているのである。
・ストッパーをはずすことで、新しい可能性が生まれる。
・酸化は老化に関係している。
・脳は疲れない。疲れるのは目や筋肉である。
・人間は視覚情報に頼る度合いが大きく、嗅覚や聴覚が弱い。
2011年6月21日(火)
◎同じく「海馬」より
・問題を細分化すれば、小さな解決の喜びがたくさんできる。

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日本人と「政治ドラマ」

前の記事で触れた「昇る太陽」の末尾である。わずか7章で、それぞれの章も短く、10分程度で読める作品だが、わりと出来がいいと自分では思っている。筆致が司馬遼太郎風であるのは、少し意識していたwww
なお、信長死後の秀吉の悪辣な天下取りの手腕については三谷幸喜が「清須会議」で見事に描いている。その映画版も小説版も非常に面白いのにまったく評判を聞かないのは残念である。
ほとんどの日本人はこういう「政治ドラマ」を好まないか、あるいは理解する能力が無いようだ。司馬作品のドラマ化でも一番面白い「関ヶ原」(TBS)は、大半が政治ドラマなので、こちらも傑作なのにまったく評判を聞かない。


昇る太陽 7

    七

 秀吉の凄みは、ここからの政治的手腕にある。あらゆる策謀によって自分を信長の後継者と周囲に認めさせ、それに従わぬ相手とは力で戦った。そして、彼は信長の事業を完成し、日本を統一した。彼は関白太政大臣となり、日本の支配者となった。
 乞食、浮浪者の身から日本の最高の地位に昇りつめた彼の一生は、人間の可能性というものについて、我々にある感慨と勇気を与える。もしも、人が望むなら、家柄や地位に最初から恵まれた人間でなくても、どこまでも昇っていけるのである。
 それは、長い歴史の中のある時期にのみ特有の現象だったかもしれない。しかし、秀吉は、ありとあらゆる社会の底辺にいる人間にとっての希望の象徴として輝き続けるだろう。
 天下人となってからの彼は、かつてのお市への恋慕の代償として、その娘のお茶々、後の淀君を側室に入れ、あらゆる漁色を尽くし、刀狩をして身分の固定化をはかり、意味不明の朝鮮出兵をするなど、後世から見れば批判の種となる様々な愚行をした。だが、人が権力を手に入れるのは、そういう好き勝手をする権利を手に入れるためだと考えるなら、そのような批判にはあまり意味はない。少なくとも、批判された当人は、ほんの僅かの痛痒も感じないだろう。
 とにかく、人は、本当に望むならどこまでも進めるものだということを示してみせただけでも、秀吉は讃えるべき存在だと言える。
 そして、彼があそこまで昇りつめたのは、実は、一つ一つの段階に於いて彼がいつも最善を尽くし、常に次の段階についての準備があったということを見落とすべきではない。
 秀吉が信長の草履取りをしていたということが事実かどうかはわからないが、その頃の彼が周囲の人間に次のような事を言っていたという伝説は、確かに彼の本質を示している。
「俺は、草履取りになるなら、日本一の草履取りになってみせる」

             「昇る太陽」完

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春節

今日は中国の春節、つまり旧正月なので、それにちなんで一句。

春節や 風も昨日の風に似ず


もちろん、芭蕉の「文月や 六日も常の夜には似ず」が下敷きだが、現代では七夕はそれほど重視されていないから、七夕よりはまだ旧正月のほうが「今日から春だ」という気分があるだけ特別感があるのではないか。実際、今日の風はまさに春風だったのである。

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日本の季節感と旧暦

私は、毎年年末になると翌年の「運勢歴」を百均で買うのだが、その理由は「旧暦」を知りたいから、というのが大きい。まあ、運勢も興味はあるが、あれはだいたい9年周期で誰にも同じような運勢が来る、というようなものであり、あまり真面目に考えるような類のものではないと思っている。いわゆる「厄年」思想などはそれに類するものだろう。ちなみに、その本には方位の吉凶なども出ているが、だいたいが凶方位(吉方位は2割程度だろうか)で、それを信じたら必要な時にどこにも行けなくなる。平安時代じゃあるまいし、「方違え」をするようなアホは現代にはいないだろう。それでも方位の吉凶を載せるのがこの種の本である。
だが旧暦に関しては、それを載せているカレンダーが現在はほとんど絶滅状態なので、旧暦に基づく習俗もどんどん無くなっている。旧正月や旧盆などである。まあ、それは別に構わないのだが、実は日本の「季節感」は旧暦のほうがふさわしいのではないかと私は思っている。
たとえば、今年の旧正月は太陽暦だと2月5日のようだが、実際、その頃になって「一陽来復」という感じになるのではないか。もちろん、北国では話は別で、1年のうち3か月も雪に閉ざされているところでは2月はまだまだ寒さの最中だろう。
要するに、旧暦だと立春と正月がほぼ同じになり、まさに「さあ、これから春だ」というのと、「さあ、これから新しい年だ」というのが重なって気分がいいのではないか、ということだ。中国で春節(旧正月)を祝うのも、その気分があるからだと思う。新年(=春の到来)を祝う気分が大きいからこそ、正月が来る前に立春になった年は何だか騙されたような気分になり、「年のうちに春は来にけり。一年(ひととせ)を今年とや言はむ、去年(こぞ)とや言はむ」という歌になったりする。
ちなみに、旧暦は月の満ち欠けを基準とするのでだいたいひと月は29日か30日であり、31日は無い(と思う)。だから、大晦日が今のように12月31日ではなく、今年の旧暦の大晦日は12月30日である。この、月の満ち欠けが旧暦ではすぐに分かる、というのが実は私が「運勢歴」を毎年購入する理由のひとつでもある。室内の電灯を消すと寝室の窓から凄い月明かりがして、見てみると満月だった、などという時に、旧暦ならその日がその月の十五夜だとあらかじめ分かっていたのにな、と残念な気がすることが多いのである。つまり、「あと何日で満月だ」という期待感が新暦ではまったく存在しないのだ。

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教養とは精神の財産

日本人もカネや物のことばかりではなく、知的な楽しみに価値を見出すようになってほしいものだ。いや、せいぜい高校までの教科書程度の教養でいいのである。それすらほとんど理解しないままで終わる人が多いのは勿体ない話で、たとえば、ふとした時に詩の一節を思い出せるというのは大変な精神的財産なのだ。




(以下引用)

【中国】羽生結弦の演技に解説者が感動 → 思わず漢詩を詠む / 調べたら感動的に美しい意味! 他国の選手に捧げる最大級の賛辞に感動が止まらない件




(ロケットニュース24 / ソシオコーポレーション) © ロケットニュース24 提供 (ロケットニュース24 / ソシオコーポレーション)


フィギュア男子、オリンピック2連覇! 66年ぶりの偉業を成し遂げた羽生結弦選手。もちろん金メダルという結果も素晴らしいが、何よりその演技に魅了された人も多いだろう。


そんな羽生選手の活躍に感動したのは日本だけではない。各国から称賛の声があがっているが、中国ではこんな形で羽生選手が讃えられている。なんと実況で漢詩が詠まれたのである。


・羽生選手の演技に解説者が感動 → 思わず漢詩を詠む
その実況動画はスポーツ専門チャンネル『CCTV5』が放送したものだ。その動画を確認すると、羽生選手のフリーの終了後に感嘆を込めた声で、以下の漢詩が詠まれた。


「容颜如玉 身姿如松
翩若惊鸿 婉若游龙」


ざっくり意味をとると


「その容貌は宝玉のよう、立ち姿は松のごとし、飛ぶ様子はまるでオオハクチョウ、美しさはまさに遊ぶ龍のようだ」


と言ったところである。なんと中国っぽい表現! 即興でこれだけの漢詩を詠んでしまうことにも感動してしまうが、言葉ひとつひとつを読み解くと、実に深い意味が込められているのがわかる。


・なんで「松」なの?
たとえば「松」。これは「站如松、坐如鐘、行如風、臥如弓」という言葉から来ている。意味は「立つときは松のようにのびやかに真っ直ぐ、座るときは鐘のようにどっしりと、歩くときは風のように力強く、眠るときは弓のような姿勢で」というもの。日本語の「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」に似た表現と言えるだろう。


知らずに「松みたい」と言われると「フーン(たぶん褒めてるんだろうな)」くらいにしか思わないが、「松」という言葉に、羽生選手の立ち姿が、のびやかでスラっとしていて美しいという意味が込められているのだ。


・ハクチョウは優雅なお姫さま
そして、オオハクチョウのくだりの「惊鸿」。これは「女性のしなやかで美しいさま」を表し、唐代・玄宗皇帝の寵姫が舞ったという舞も「惊鸿舞」と呼ばれている。……お姫さま! 優雅さを表す最上級の言葉と言えるのではないだろうか。


羽生選手の演技と言えば、芯が通っていて、ときに力強く、ときにしなやか。これ以上ピッタリな表現はないかもしれない。


・バンクーバーのメダリストも賛辞を贈る
実況で、この詩を詠んだのはCCTV5のスポーツ解説員・陳瀅(ちん・えい)さんだ。フィギュアスケートは彼女の専門分野のひとつだという。


いくらプロの解説者とは言え、演技を見た直後に、そのエッセンスを詰め込み、古典的な表現を盛り込み、美しい韻を踏んだ詩をサラリと詠んでしまうなんて、陳さんの教養ハンパねえ……! そう思うと同時に、中国文化の奥深さを感じはしないだろうか?


なお、この日の解説にはバンクーバー五輪・フィギュアペア銀メダリストの佟健(とう・けん)さんも入っている。彼は、オリンピックが羽生選手にとってケガ以来初めての試合であり、多くの期待を背負っていたという背景に触れて、「このプレッシャーに打ち勝つチカラには、本当に感心と尊敬の念に堪えません」と賛辞を送っていた。


・他国の選手をたたえ、祝福する姿
オリンピックなどスポーツの世界大会では、自国の選手の活躍に注目が集まりがちだ。男子フィギュアは、中国の金博洋選手も十分にメダルを狙える位置だった。そんななかで、こうやって素直に他国の選手を讃え、祝福できるのは素晴らしい! 国を越えて感動を分かち合う、スポーツの理想の姿だと言えるだろう。


参照元:新浪体育、新浪看点、Sina Weibo @人民網(中国語)
執筆:沢井メグ






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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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