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二匹の蛍



私は俳句や短歌は好きだが、趣味にしているわけでもなく、他人の詠んだ俳句や短歌をさほど真面目に読んだこともない。
まして、句や歌の中に人生を詠嘆するような、あるいは哲学を入れたような作は嫌いなほうだ。

だが、それも物によりけりで、先ほど読んでいた川上弘美の或る随筆の中に出てきた俳句は、実に鬼気迫るもので、よくこういう俳句を詠めたものだ、と思う。
同じ文章の中に先に出ていた飯田蛇笏の句は名句として有名だが、私にはピンと来ない。と言うより、「プロ俳人がいかにも詠みそうな職人的技巧味や抹香臭さがある」としか思わないのだが、先にその句を挙げておいて、後の句と比べてみる。



たましひのたとへば秋のほたる哉  (蛇笏)



何を言っている、名句中の名句だろう、と文句を言う声が聞こえそうだが、とにかく、次の句と比べてみてもらいたい。



じゃんけんで負けて蛍に生まれたの  (池田澄子)



どうだろうか。これを読んでぞっとするような怖さを感じないだろうか。
これを言う少女の声が耳に聞こえないだろうか。

亡くなった少女が、じゃんけんで負けて蛍に生まれ変わる怖さ。

単なる生まれ変わりでなく、それが「じゃんけんで負けた」結果である怖さ。

私は輪廻を信じない人間だが、仮に輪廻があって、その輪廻がたとえばじゃんけんで決まるとしたらどうだろうか。



ついでに言っておけば、蛇笏の句は「たとへば」の語句だけで、理に堕ちている。

「魂というのはたとえて言えば、秋の蛍のようなものです」という散文と何も変わらないのである。その散文を手慣れた575にしただけだ。「秋の蛍」もさほどの比喩でもない。

まあ、理屈だから悪いと断定もできないし、好き嫌いは個々人の勝手である。



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自由と責任と教養

自由は地獄の門をくぐる。不安、懊悩、悲痛、慟哭に立たされているものである。すべて自らの責任においてなされるものだからである。」(坂口安吾)

「幕末に、オランダ語の自由という語が初めて翻訳の必要にせまられた時、当時の漢学者は訳語に窮したばかりでなく、自由とは何か、その意味が判らなかった。そして『わがまま』と訳したという。」「しかしこれを昔の笑い話と思うのは軽率で、今日日本人の自由というとき、なお多くの人は五十歩百歩、わがままと履きちがえている場合が多い。自由とは責任がそれに伴わねばならぬ、ということ、これは今日しばしば言われることであるが、こういうふうに一言にして言うことは易いが、真に自由の中に責任を自覚するには、深い教養を必要とするものである。」(同)


「しかし教養というものは、決して書物を読むだけが能ではない。同じ考える生活でも、考える根底の在り方によっては、むしろ考えることによって考えない人よりも愚劣な知識があるものだ。知識は偽ることの多いものである。」「ただ生き方の問題だ。教養というものは、生き方の誠実さが根底である。」(同)*反例として「御用知識人」を想起すればよい。


             (以上は坂口安吾「私の小説」より引用)

ちなみに「自由」という熟語はまさに「自らに由(よ)る」であり、すべて自己責任であることを含意している。自由は責任と表裏を成しているわけだ。
果たして「新自由主義」の自由はそういうものか? 従業員を大量解雇した企業の首脳や、国民や市民に害を与えた政府や自治体の首長が責任を取ったことがあるか?

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「恨」と「恨み」の断層

「恨」という漢字は日本では「うらみ(うらむ)」以外の読みはおそらく無いが、これは漢字の誤訳だろう。それが分かるのは、白楽天の「長恨歌」の末尾である。



七月七日長生殿七月七日長生殿ちょうせいでん七月七日、長生殿
夜半無人私語時夜半やはん人無く私語の時誰もいない夜中、親しく語った時(の言葉である)
在天願作比翼鳥天に在りては願はくは比翼ひよくの鳥と天にあっては、願わくは比翼の鳥となり
在地願為連理枝地に在りては願はくは連理れんりの枝とらんと地にあっては、願わくは連理の枝となりたい
天長地久有時尽天は長く地は久しきも時有りて尽くとも天地はいつまでも変わらないが、いつかは尽きる時がある
此恨綿綿無絶期此の恨み綿めん々として絶ゆるのとき無からんしかしこの悲しみは綿々と、いつまでも絶えることがないだろう




さて、ここに書かれた感情は、日本人の言う「恨み」だろうか。誰を恨むのか。あるいは天を恨むのか。明らかに違う。これは単に「思い」なのである。玄宗皇帝の楊貴妃への思いである。上の現代語訳では「悲しみ」と訳しているが、それも違う。
「恨」はりっしんべんに「艮」の字で、「艮」は

①もとる。さからう。 [類]很(コン) ②とまる。とどまる。 ③易の八卦(ハッケ)の一つ。山・止まるなどの意を表す。 ④うしとら。北東の方角。

などの意味がある。つまり、「とどまる」意味だ。だから「恨」の字は、「心がこの世にとどまる」意味である。

お隣の国の心性を「恨」という言葉で表すことがあるが、その漢字は日本人には「恨み」としか読めない。だから、「恨みがましい奴らだ」という印象を持つだろうが、「忘れない」ことは必ずしも「恨み」の感情だけでなく、愛情でも忠誠でも成り立つのであり、それこそ楠木正成の「七生報国」など、「恨」の極みである。日本のように何でも「水に流す(淡白な、忘れっぽい)」国民性では、こうした強烈な「恨」の感情を持つほうが稀であるだろう。死んだ人の魂すらお盆にしか帰ってこない国民なのである。

ということで、「恨」と「恨み」は違う、という話だ。


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人間五十年下天のうちを較ぶれば夢幻のごとくなり

私は中尾ミエのファンでも何でもないが、ここで語られたことは、かなり大きなことだと思う。織田信長の言葉(あるいは俗謡のひとつか)だったようだが、「死のうは一定。忍び草には何をしよぞ。一定(一条:ひとくだり)語り起こすよの」の感じを彷彿とさせる内容である。「死ぬのはひとつの定めである。さて、一生の想い出に何を語ろうか。何かひとつ面白いことでも語りおこすのだよ」とでも訳するか。我々がこの世(人間「じんかん」)にいるのも、五十年くらいのものだ、という覚悟で一生を生きた信長どころか、我々凡人は70代80代90代まで生きているが、さて「忍び草」に何があるだろうか。

(以下引用)

 すると、中尾は「ないですね」と返答し、園さんとの別れを振り返った。「まりちゃんもそうだし、私の同級生の子も亡くなったんだけど。まりさんも最後、棺桶に入ったんですけど…。何回かお見舞いに行って。緩和ケアに入るってことを本人も分かっているじゃないですか?自分の家の整理したものも、私とゆかりに“最後の整理をして欲しい”と言われて、ドレスとか小物を整理して。病室に行って、“まりちゃん、これもらうからね”って言って、了承を得て」。生前に園さんの人生を振り返り、形見分けをもらって永遠の別れをしたという。


 亡くなった同級生からは、最後に電話が掛かってきたという。「私の同級生も、電話が掛かってきて“たぶんもう持たないと思う”って、本人が。“楽しかったね。じゃあね、バイバーイ”って言って別れたのね」。明るく別れを告げられたことが新鮮な驚きだったようで、「こういう別れ方をできるのっていいなって、我ながら。だって、みんな終わりは来ますからね。その時に、こういうふうに、寂しくなく納得して別れられるのって、私もそうありたいな」と話していた。





(追記)ついでに、まったく無内容な一生だっただろう、と想像させる、ある元「偉い人」の発言を転載する。こういう愚劣な精神で生きる一生というのも我々の「反面教師」にはなる。

前駐豪大使・山上信吾が日本外交の舞台裏を抉る!~「みすぼらしい」日本人~© アサ芸biz

読書にせよ執筆にせよ、とにかく静謐な軽井沢では捗るので、「在軽」の時間が年々長くなっている。だから、普段着など、大抵のショッピングは駅前のアウトレットで済ませてしまう。アジア諸国からのインバウンドの観光客にも人気のスポットだ。好みのネクタイの色や柄について時に意見が異なる家内と一致するのは、すれ違う人々が話している言葉を聞くまで何処の国の人間か全く分からなくなった点だ。


昔は、こんなことはなかった。1980年代、ニューヨークのコロンビア大学に留学していた頃、アジア人女性好きのユダヤ系アメリカ人の同級生からこう言われたものだ。


「日本人を他のアジア人から見分けるのは簡単だ。バッグと靴だ。日本人の女の子は、ヴィトン、グッチ、セリーヌなどのバッグを抱えて、靴は上品なパンプスを好む。しかも歩き方は草履文化のなごりか足を引きずるように歩く。一発で朝鮮人や中国人と見分けがつく」

みすぼらしい服装の非さえ認識できない連中が日本国の世評とイメージを貶めていく。

こんな日本に誰がしたのか!?


●プロフィール


やまがみ・しんご 前駐オーストラリア特命全権大使。1961年東京都生まれ。東京大学法学部卒業後、84年外務省入省。コロンビア大学大学院留学を経て、2000年ジュネーブ国際機関日本政府代表部参事官、07年茨城県警本部警務部長を経て、09年在英国日本国大使館政務担当公使、日本国際問題研究所所長代行、17年国際情報統括官、経済局長などを歴任。20年駐豪大使に就任。23年末に退官。同志社大学特別客員教授等を務めつつ、外交評論家として活動中。著書に「南半球便り」「中国『戦狼外交』と闘う」「日本外交の劣化:再生への道」(いずれも文藝春秋社)、「歴史戦と外交戦」(ワニブックス)、「超辛口!『日中外交』」(Hanada新書)、「国家衰退を招いた日本外交の闇」(徳間書店)、「媚中 その驚愕の『真実』」(ワック)等がある。

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頭を使うという娯楽

私の別ブログに書いた記事だが、こちらのブログに前に書いた記事の補足として、ここにも載せておく。なお、脳の成長には年齢の限界はない、と私は思っている。中学や高校のころよりも、私の脳はよく働いていると思う。(まあ、もともとの出来の悪さは置いておく。)

(以下自己引用)


あるいは、この「娯楽ブログ」で私が書いた「真面目記事」としてはこれが最後になるかもしれない。と言うのは、ネットとの接続が不調で、かなり異常が続いているからだ。

さて、本題である。

「あらゆるものに縛られたあわれ空しい青春よ
気難しさのために僕はすべてをふいにした」

というのはランボーの詩だが、この「気難しさのためにぼくはすべてをふいにした」というのは、私を含めて多くの人が陥った事態だろう。むしろ、そうでない「陽キャラ」のほうが少数派ではないか。そして、陰キャラ派は彼ら陽キャラを軽蔑することで、自尊心を守るのである。
そのあたりは「弱キャラ友崎くん」で見事に描写されている。
だが、これは「陽キャラ」か「陰キャラ」かというだけの話ではなく、「人生の歩き方」の問題として大きなテーマなのである。つまり、「気難しさ」とは、実は「自己防衛」であり、「自己美化」でしかない、ということだ。いわゆる「孤高」を気取る生き方である。

ここで私が特に言いたいのは、そうした「自己弁護」あるいは「自己欺瞞」は人生をかなり大きく毀損する、ということである。

たとえば、私は「理解できないことを覚える」のが大嫌いだった。自分が理解できないことが知識の中、脳の中にあり、どっしり座っていること自体が不愉快だったのである。
当然、私は「理解できないことは覚えない」道を選び、わずかに理解できることだけで何とか大学まで進んだが、そこでは「理解できないこと」の山で、ギブアップし、退学するしかなかった。
これは私が「頭が悪かった」ためだろうか? もちろん、そうでもあるだろうが、それ以前に「理解できないものは覚えられない」という、長年の習性が祟ったのである。
東大などに進む連中は習ったことをすべて理解しているか? そんなはずはない。彼らは、理解できなくても覚えて、それを使っているうちに理解してくるのである。つまり、彼らの脳には「理解していない知識」が膨大に眠っているわけだ。その部分が空っぽの私とはそこが違うのである。そして、その「眠っている知識」もまた財産なのである。

さて、あなたは「オン・バサラ・アラタンノウ・オン・タラク・ソワカ」という短い呪文(真言)を理解できるだろうか。いや、理解しなくていい。あるいは、これを何回も繰り返して唱える(心の中でもいいが、口で唱えるほうが効果はあると思う。)ことで、「理解できないことを覚える」経験の入り口になり、今後はその種の事態への拒否感を緩和できるかもしれない。
そもそも、新しい知識や体験をすべて拒否していたら、赤ん坊のままではないか。







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アメリカ経済の衰退とアメリカ文化の衰退

今朝の未明の散歩はほんの少し小雨で、歩いているうちに「明日に向かって撃て」の主題歌「雨に濡れても」が頭の中で再生され、散歩の間じゅう、「そう言えば、アメリカ映画のヒットやアメリカで流行った歌が日本で聞かれることがなくなったなあ」という考えが頭の中に浮かんでいた。それは、アメリカの衰退を如実に表しており、その点ではアニメや漫画が今まさに世界に浸透しつつある日本はまだマシかな、とも考えたが、それもこのままでは衰退する可能性もあるだろう。いずれにしても、少し前までの「アメリカ文化」がこれほど見事に消えていったのは凄い。これは、どういうことだろうか。それは欧州文化も同様である。つまり、経済の衰退と文化の衰退は同期しているということだろうか。
なお、ベトナム戦争で「自己反省」したアメリカだが、それでも下の映画のころまでは「向日性」を持っていた。それは、「雨に濡れても」の歌詞でよく分かる。

「雨(不幸を意味する)は僕を打ち負かしはしない。そいつはそんなに長くは続かないし、その後には幸福が僕にやって来るのだから」という趣旨だ。

なお「明日に向かって撃て!」という日本語題名も「雨に濡れても(Raindrops falling on my head)」という日本語訳も素晴らしい。原題以上のセンスである。昔の人たちの言語感覚は抜群だった。

(以下引用)

明日に向って撃て!

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

監督ジョージ・ロイ・ヒル
脚本ウィリアム・ゴールドマン
製作ジョン・フォアマン
製作総指揮ポール・モナシュ
出演者ポール・ニューマン
ロバート・レッドフォード
キャサリン・ロス
音楽バート・バカラック
主題歌B・J・トーマス
雨にぬれても
撮影コンラッド・L・ホール
編集ジョン・C・ハワード
製作会社ニューマン/フォーマン・カンパニー
配給20世紀フォックス
公開アメリカ合衆国の旗 1969年9月23日
日本の旗 1970年2月21日
上映時間110分
製作国アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語英語
製作費1,200万ドル(43億円)
次作新・明日に向って撃て!
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明日に向って撃て!』(あすにむかってうて、原題: Butch Cassidy and the Sundance Kid)は、1969年公開のアメリカ合衆国映画である。実在の銀行強盗ブッチ・キャシディサンダンス・キッドの逃避行を題材にした西部劇


アメリカン・ニューシネマの代表作の一つとされる。ストップモーションを効果的に使用したラストは映画史に残る名シーンとして知られ、主題歌「雨にぬれても」もヒットした。2003年アメリカ国立フィルム登録簿に登録された。

登場人物

[編集]
ブッチ・キャシディ
演 - ポール・ニューマン
強盗団のボス。頭脳派だが人を撃ったことはない。
ザ・サンダンス・キッド
演 - ロバート・レッドフォード
ブッチの相棒。早撃ちの名手。
エッタ・プレイス
演 - キャサリン・ロス
学校の教師。サンダンスの恋人。
パーシー・ギャリス
演 - ストローザー・マーティン
鉱山の管理人。ブッチとサンダンスを雇う。
ブレッドソー
演 - ジェフ・コーリー
保安官。服役していたブッチを温情から釈放する。
ウッドコック
演 - ジョージ・ファース
金庫番。仕事には忠実。
アグネス
演 - クロリス・リーチマン
売春宿の経営者。
ハーヴェイ・ローガン
演 - テッド・キャシディ
ボスの座を狙っている。
ニュース・カーヴァー
演 - ティモシー・スコット
ハーヴェイの相棒。

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ホリーよ「Go rightly」

「壺斎閑話」から転載。私自身は映画「ティファニーで朝食を」があまりに好きなので、原作の小説は未読である。下の壺斎氏の評論は、その小説の内容を余すところなく書いており、小説そのものを読む必要すら無さそうだww まあ、今の日本にはホリー・ゴライトリー(「聖女よ、正しく進め(そして幸福になってほしい)」の意味が隠されていると思う。)に似た境遇の「運命に恵まれないが、ちっぽけな生き方もいやだ」という小妖精たちがたくさんいて、人生や社会に挑戦しては無残に敗北して死んでいくのだろう。得てして、「自我がある」「個性的な」人間は学校でのいじめの標的にもなりがちな気がする。
なお、映画「ティファニーで朝食を」の主題歌である「ムーン・リヴァー」の歌詞の末尾で歌い手(映画ではヘップバーン自身が歌うので、作詞意図が曖昧になっているが)が呼びかける「(私の)ハックルベリーフレンド」は、ホリーを指すと思う。つまり、本来は外部からホリーを見ている人間が歌った歌、という作りではないか。まさにハックルベリー・フィンこそは米文学に現れた魅力的なキャラクターの筆頭で、「社会規範を外れた」悪童ながら、ずる賢い優等生トム・ソーヤーの何倍も豊かな人間性の持主なのである。

(以下引用)




村上春樹訳「ティファニーで朝食を」を読む


訳者の村上春樹がいうように、カポーティの小説「ティファニーで朝食を」は映画でのオードリー・ヘップバーンの印象があまりに強烈だったので、小説本来の雰囲気が誤解されて伝わっている感がある。映画の中では成熟した女性のオードリーが、これもまたタフガイ然としたジョージ・ペパードと大人の演技を交し合っていた。だがこの物語は本来、女性を主人公にした青春小説というべきものなのだ。

なにしろ女性主人公のホリー・ゴライトリーはあと2か月でやっと19歳になるという設定だし、小説の語り手でホリーの男友達たる青年も、やっと少年期を脱したばかりという雰囲気をたたえている。ホリーはこの青年をいつでも、自分の兄の名で呼んでいるし、青年が自分にむかって恋愛感情を抱いていると感じても、それに対してまともに応えようとはしない。二人は恋人同士になるにはまだ幼すぎる。二人は大人になりつつある、中途半端な時期を生きている者として、描かれているのだ。
だがホリーは普通の少女とはあまりにも違った少女時代を生きてきた。彼女はたった14歳で、自分の庇護者となったテキサスの獣医と結婚関係を結んだのを手始めに、数多くの男と性的関係を持ってきた。それは、兄のフレッドとともに、親の保護から見放されて孤児となり、他人の世話にならねば生きていけなかったという境遇を彼女なりに受け入れた結果だった。

だから小説の中でのホリーは、時には娼婦を思わせるようなきわどい生き方をする人間として描かれることもある。だが彼女の18歳という若さが、その生き方に複雑な陰影を与える。それが語り手である青年と聞き手である我々に、ある危うさのようなものと、その背後に見え隠れする若い女性の未熟ながら輝いているような生き方を感じさせるのだ。

その危うさと未熟な輝きとの感覚が、この小説に独自の色彩感をもたらしている。

小説にはこれといって複雑な筋はない。ホリーを巡って色々な人物が登場し、その多くは最後にはホリーを見捨てて消え去ってしまう。ホリーを妊娠させた男も、ホリーが今までに愛したただ一人の男であったにかかわらず、ホリーが問題を起こして、自分の身に不都合になりそうだと感じると、さっさとホリーを捨てて妻子とともにブラジルに去ってしまう。

だがホリーはそんな自分の運命を嘆いて見せたりはしない。過去は過去として受け入れ、新しい未来を自分の手で生きなおすべく選択するのだ。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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