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リクルートやビジネスマナーコンサル会社が作る糞マナー

コメントの中にもあるが、こういう一部の会社や組織が勝手に作ったルールを昔からのきまりのように言い広めるのは「文化犯罪」として処罰していいのではないか。面接で椅子の後ろ(横か? それも右が正しいとか左が正しいとかうるさい。どっちだっていいんじゃ、ボケー!)に立つとか、お辞儀のときは腹を押さえるとか(阿呆か、お前は腹でも下しとるのか!)ワケワカメである。江戸しぐさが根拠無しであることは知られてきたが、相変わらず、意味不明出所不明のビジネスマナーを布教するキチガイが多い。
「了解」は警察でも軍でも目上に使っていい言葉である。これは「相手の言葉を完全に理解した」ことを伝えるのだから、指示を受けた場合の返答としては最適とすら言える。「承知しました」は「あなたが言うことは聞いた」くらいの意味であり、「完全に理解してはいないが、理解した範囲でその指示には従います」という返答だと言える。つまり、組織レベルでは「了解」よりワンランク下の、あいまいさを含んだ返答であるはずだ。
なお、「了解」は相手との身分の上下を示す言葉ではないからダメだ、という考え方は日本的悪習の最たるものだろう。



リクルート「目上の人に『了解しました』はダメ」

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△「了解しました」→○「かしこまりました」



最近よく「NG例」として耳にするのが「了解しました」。
「了解」という言葉は「物事を理解したうえで承認する」という意味で、謙譲の意味合いは含まれていません。「しました」をつけることで、最低限丁寧な言い方にはなっていますが、目上の人には「かしこまりました」を使うのが妥当でしょう。

※下記リンクより、一部抜粋。続きはソースで
http://next.rikunabi.com/journal/entry/20151001_S1



>>1 ああ おやすみ


>>1 了解=言葉を理解したというだけの意味。 「かしこみ」は態度を表すだけの意味だから, 「かしこみ」に続いて「承る」場合もあるし,「物も申す(反論する)」場合もある。


>>1 かしこかしこまりましたかしこー の方がより丁寧


>>1 いやかしこまりはまた別だろ。 承知しましたが適切。


>>1 りょ


>>1 これマナーをビジネスにしてるおばさんが数年前から言い出しただけで、マナーでもなんでもないんだよな


>>1 最近、こういうのどんどん覆されてってるんだよね、 長らくビジネスマナーとされてきたけど 「別にそんなことなかった」ってパターンで。 元を辿ってみると、80年代の根拠の解らんビジネス書が初出だったりさ。


>>1 チャットワークで。 (roger)


>>1 リクルートとかいう勝手に謎ルール作ってる会社


>>1 いみじくもかしこみかしこみ申す。


>>1 ごちそう様は上司を走らせることになるから、美味でしたと言いましょう。


>>1 承知致しました。


あのさ、>>1は「了解しました」自体が失礼かどうかなんて話をしてないよね? 普通に読めばわかるけど、謙譲語が必要な場面で「了解しました」を使うのが失礼だと言っている。 つまり「了解しました」が謙譲語かどうかというのが問題の中心。 それを謙譲語の必要性の議論と勘違いしてる馬鹿の多いこと多いことwwwwwww


>>1 かしこまー!が正解やぞ


>>1 なるほどですねー


>>1 ラジャー





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顔を見れば人間は分かる

写真の中には、「奇跡の一枚」という類のものがあるが、下の両陛下の写真もそのひとつだろう。これほど幸福感を感じさせる写真も珍しい。背景の荒海との対照がまた素晴らしい。映画の一シーンとしても、これほどのシーンはなかなか無い。もちろん、お二方の表情の素晴らしさは言うまでもない。
かねがね言っているように、「顔を見れば人間は分かる」のである。なぜ、世間の人は顔を美醜だけで判断し、その中に現れる人間性を見ないのだろうか。本当に美しい顔、というのはこういう顔なのである。特に皇后陛下のお顔は菩薩のようだ。


(以下引用)



海外「日本人は幸せだね!」 両陛下を写した1枚のお写真に外国人が感動
今日23日、天皇陛下は82歳の誕生日を迎えられました。
陛下はお誕生日を前に皇居宮殿で記者会見に臨まれており、
この中で陛下は、被災地へのお気遣いや戦没者への思いを語られ、
今年喜ばしかった事には、日本人研究者2人のノーベル賞受賞、
そして国産ジェット旅客機の完成・試験飛行の成功を挙げられています。

今回ご紹介するお写真は以前に海外のサイトで紹介されていたもので、
冬の葉山でしょうか、天皇皇后両陛下が笑顔で寄り添い、
仲睦まじく散策されていらっしゃる際の瞬間が収められています。

天皇皇后両陛下の温かいお人柄や、お二人の絆の深さが伝わってくる1枚に、
幸せな気分に包まれる外国人が続出していました。

海外「国のトップの模範」 被災者を慰問される両陛下の姿に外国人感動

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翻訳元




■ まさに理想の夫婦ですね。 +4 ポルトガル
  



■ 日本の天皇陛下と皇后陛下のお写真をシェア。 +669 国籍不明



   ■ 私達もお二人のように年を重ねていきたい……。 フィリピン



   ■ 日本に幸あれ。
     この写真を見て、そう思ったよ。 +2 オランダ
    


   ■ 本当に美しい1枚だね。
     この瞬間を写した写真家は素晴らしい仕事をした。 国籍不明



   ■ 前にお二人を直接拝見したことがある。
     あんなに穏やかで慎しみ深い人に出会ったのは、
     私の人生の中で初めてのことだった。 +9 オーストラリア



■ お二人とも、なんて素敵な雰囲気なんだろうか。
  あんなに素敵な"国王"を戴いてる日本人は幸せだね! +3 フロリダ




■ この写真大好き。愛に満ち溢れているから。 +4 イタリア




■ ウワー……。なんて、なんて素敵な写真!!! ドバイ




■ 50年以上連れ添っていて、あれだけ仲の良い夫婦は滅多にいないよ……。
  何と言っても幸せそうだしね……。 アメリカ




■ 現在の天皇は、日本の軍国的なイメージを払拭させた。
  先代の時代にはこう言った写真は一切見られなかった。 アメリカ




■ 本当に素敵で、素晴らしく愛らしい♥♥♥ +6 フィリピン(日本在住)




■ お二人は世界中の夫婦の模範だ! ブラジル



   ■ 夫婦の姿として、美しい例外と言えるかもしれないね。 ブラジル



■ 本当に素敵だし、ロマンティック! フィリピン



 
■ いくつになっても寄り添っていられる関係って素敵…………。 国籍不明




■ 両陛下は伝統的な日本人の姿そのものだと思う。
  あの素敵な笑顔を見てくれ! +2 タイ 




■ 日本特有のエレガントさがありますね……。 +3 国籍不明

海外「美しい国だなぁ」 日本の一般の人々の振る舞いの美しさに外国人が感動




■ 美しい!!!!
  私も将来は夫と両陛下のような夫婦になりたい。 +6 ブラジル




■ 天皇は一人の男として素晴らしいと思うし、日本も最高だ。
  ……これからも日本が上手くいくことを願ってるよ :) +2 シドニー




■ 完璧なまでの美しさだ。
  もちろん風景のことを言ってるんじゃないぞ。 アメリカ




■ 高齢のカップルを見るのっていいよね。
  変わらぬ愛というものが存在することが分かるから……。 国籍不明




■ 天皇陛下は素晴らしい出会いが出来たんだね。
  どんな立場であれ、人を愛するのは当たり前の事なんだ。 アメリカ




■ お二人が初めてのデートをした時、ちょうど日本にいました。
  カルイザワでテニスをしていらっしゃったの。 マレーシア 




■ ため息が出ちゃうくらいに素敵な1枚……。 イタリア




■ 両陛下のご健康を心から願っております。 +1 タイ




■ 大好きな一枚です。
  お二人とも心から幸せそうに見える。 +1 オーストラリア


 

■ 両陛下のことが大好き。
  2000年の1月に、光栄にもイッパンサンガに参加出来たの。 イタリア

海外「日本には今も皇帝がいたのか」 一般参賀の光景に外国人も感銘




■ この穏やかな空気感がたまらないね!
  いつかあんな雰囲気を纏える人間になりたいものだ! +2 イタリア




■ お二人以上に素敵なカップルは世界中どこにもいない!!! +6 インド




■ 美しいご夫婦ですねぇ。 +2 オランダ




■ 皇后陛下のような女性になれますようにって、
  そういつも神様にお願いしているんです。 +3 フィリピン




■ 両陛下はいつ見ても変わらず素敵だ。
  服装も常にシンプルで控えめでね……。
  それは素晴らしいことだと思うんだ! :) 日本在住




■ 日本の天皇は、俺が世界で唯一尊敬できる王族。 +4 アメリカ




■ 本物の王室はかくあるべき、って姿を体現してると思う。
  本当に幸せそうだし、愛し合っているのが伝わってくる! アメリカ 

海外「欧州の王宮と全然違う」 皇居を特集した番組に外国人興味津々




■ 天皇陛下、どうかいつまでもお元気で。 +1 タイ




■ この写真は、時代を超えて愛され続けると思う。 +1 アメリカ





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意思と思考と無意識

特に書きたい話題も無いので、昔書いた文章をここに転載しておく。昔の私の方が、「思考の楽しみ」をよく味わっていたようだ。





意思と思考と無意識




「個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」


 (『国体の本義』より。佐藤優『国家の神髄』よりの引用)



「阿頼耶識は、生命の中枢であり、「我」よりもさらにその根底にある生命そのものに執着する。阿頼耶識の発見こそ、唯識論最大の発見であるとされている。


人間が行為(現行)をすればその痕跡が残る。これを種子という。種子は、阿頼耶識中に残って蓄積される。これは、すべての経験は無意識の中に残るというフロイトの考え方と同様で、『過去の経験は、意識の中に何も残らなくても、無意識の記憶となって、すべて蓄積されている』のだ。


この蓄積を『薫習』という。薫習とは、香りが衣服などに付くことをいい、過去の経験が、阿頼耶識に付着、蓄積されることをいう。これを、『現行の種子は阿頼耶識に薫習される』という。


たとえば、よい行為(現行)をすれば、よい種子が薫習される。


種子は、また現行を生む。例えば、よい種子からは、よい行為(現行)が生じる。


(中略)


この心の一部分は、常(不変)に近いから、これこそ『我』であるとしてしがみつく。その心(阿頼耶識)の一部分を、とくに末那識という。末那識は、実在しない『我』を実在すると錯覚して、あくまでもこれにしがみつくのだ。


現行から薫習され阿頼耶識の中に蓄積されている種子は、生まれてからの種子のすべてである。ここまではフロイトと同じだが、ここから先が違う。唯識論では、生まれる前、永遠の昔からの薫習による種子がすべて阿頼耶識に蓄積されていると考えている。すなわち、前世の種子も、前前世の種子も、前前前……世の種子もすべて蓄積されているのである。



遺伝子情報もまた種子の一種と唯識では捉えている。すなわち、阿頼耶識は厖大なデータバンクといえよう。なにしろ生まれる前、遥か昔のいわば天地開闢の頃からの記憶があるのだから。


(中略)


人間の意志、これも一種の譬えであって、意志以前の誰も自覚しない原意識のようなものが、転生する。



   (小室直樹『日本人のための宗教原論』より)




以上の二つの引用は、これから自由意思を論じ、ひいては社会や国家を論じるための前提である。この二つの引用に共通するのは、個人はこの世界全体と歴史的につながっている存在だということだ。我々の頭脳が学校教育や読書、あるいはさまざまなメディアを通じて手に入れた情報を蓄積していることは自明であるが、その蓄積された情報は、実は遺伝子の中にまで含まれている可能性がある、という仮説をここでは「阿頼耶識仮説」としておく。つまり、記憶や知識の遺伝もある、という仮説だ。


ただし、この仮説は、自由意思の問題を論じる時にのみ用いる予定だ。あくまで予定であり、「予定は未定。決定にあらず」と中学生ジョーク的なお断りをしておこう。



先に国家と個人について論じよう。


『国体の本義』(あるいは『国家の神髄』)から引用した部分は、べつに記憶の遺伝までは前提とはしていない。ここで重要なのは、単なる孤立的個人が集合したのが国家なのではなく、「国家によって形成された個人の集合体が国家なのだ、ということである。これが、佐藤優が『国家の神髄』の中で言おうとしたことだろう。その点に関しては、私は佐藤と意見を同じくする者だ。


この考え方からするならば、一つの国家の中に複数の民族文化が共存する国では、国家をまとめていくためには強引な紐帯が必要になる。アメリカなどはその代表であり、そこでは「自由競争こそ正義である」「自由競争の結果を受け入れることが正義である」という思想が常に国民の中に流し込まれている。そこでは、公正な自由競争がなされているか、という点検よりも、まず競争そのものが当然視されている。不正な「自由競争」はあくまで個々の条件による特例とされ、その不正は自由競争の正しさには無関係とされる。


では、日本の場合はどうか。日本の中にも異民族の割合が増えてきた現状では、佐藤優的な意味での愛国心(自らと国家との精神的血縁を前提とする愛国心)は土台が揺らいできたのではないだろうか。


思想面においても、日本固有の文化を知る若者の割合がここまで低下したのでは、もはや日本の固有性を前提とした思想は意味を失いつつあるのではないだろうか。つまり、思想としての右翼はもはや消滅する運命にあるのではないか。左翼に敵対して守るべき日本の固有性、日本固有の文化などもはやほとんど無い。ならば、その戦いの兵士も不要だろう。右翼思想は、せいぜいが、日本人であるだけで近隣諸国の人々よりも自分が上位であると錯覚し、インターネットに汚らしい他国侮辱の言説を書き込むネット右翼のような社会底辺の人間のガス抜きの役にしか立たないのではないか。


日本文化はもはや日本語という言葉、日本語を用いて書かれた古典的書物の中にしか無いのではないだろうか。おそらく、マスコミが戦後すぐから今まで積極的な日本語破壊を行ってきたのは、アメリカによる日本文化破壊プロジェクトの一つだろう。明らかに、日本文化は太平洋戦争を境にしてそれ以前とはっきり断絶しているのである。教育とマスコミの力によって。


一方、左翼思想はフランス革命に源流があり、社会や国家から独立して思考しうる近代的個人と、合理的理性のみを思想の根拠としている。


左翼は、佐藤の言うアトム(原子)的存在である。佐藤はそれを否定的に見ているが、思想が社会や国家に限定され(支配され)ないのだから、世界全体がその視野に入ってくるとも言える。社会を客観的に批判しうるのは、その社会の外部に立つ思念のみだろう。


グローバリズムは新自由主義による世界の捻じ曲げだが、その結果は個々の国家における土着的文化の破壊である。その点だけを見れば、左翼による世界同時革命に近い現象だ。現代社会を批判する論者がしばしば新自由主義者の政治家や新自由主義的政策を左翼呼ばわりするのは、それが従来の社会秩序を破壊するものだという点では正しいと言える。ただし、その社会秩序破壊はただ「金の獲得」だけを目的とするもので、底辺層の幸福や福祉を目的とした社会主義や共産主義とはまったく異なるものだ。その両者を同じ「左翼」の名で呼ぶことは誤解のもとだろう。



さて、国家と個人の関係について考えよう。


人はこの世に誕生して以来、あらゆる情報を吸収して成長する。その情報は、彼が生まれた国の文化に基づく情報である。たとえば、日本人なら日本語による情報になる。彼が得る視覚情報、聴覚情報、言語情報のすべては、日本という国によって枠組みが与えられているのである。つまり、彼は否応なしに日本人として成長するのである。当たり前のことを長々と述べるようだが、これはあまりにも当たり前すぎてその意味に気づかないものなのだ。



我々は自分の頭脳で考え、自分の自由意思で判断している、と思っている。


本当にそうか?



我々がある意思を持つのは、そのように意思するべくプログラムされていたのではないか、というのが自由意思を疑うということだ。


まあ、阿頼耶識までは仮定しなくてもいいが、無意識というものが存在することは、現在の科学でも公理と見ていいだろう。我々の思念のメカニズムは、「意識された問題について意識的思考が行われる一方で、無意識の中から意識の表面に浮かんでくる関連情報によって思念が広がりと複雑さを持ち、それによって生産的な思想的結実を生む」というものだ。我々は自分の思考内容について、すべての情報を思考前から把握することはできない。思考材料は我々の巨大な無意識の「データバンク」の中にあるのだ。


とすると、そのデータバンクに或る偏向があるならば、我々の思考自体がその偏向の影響を受けるのは自然なことではないか。


我々は、或る問題について自分の自由意思で或る判断を下したと思うものだ。しかし、そのように決定するべく、無意識の中で決められていたのではないか? そして、我々の無意識のデータバンクは、日本という国の文化と歴史にその材料の大半を負うている。ならば、我々が純粋に合理的に思考し、判断したと思っている場合も、ただ我々の中の原日本人が判断しているだけだ、という可能性はある。


しかし、これは結局は答えの出ない問題だ。論証不可能。ならば、「語りえないものに対しては沈黙するべきだ」となるか。まあ、語りえないなら沈黙するしかないのだから、このウィトゲンシュタインの言葉は、そう見えるほど深遠なものでもないのだが。


合理的理性には限界がある、というのは当然であり、そもそもその理性の母体となるデータバンクは、巨大な暗闇の中にあるのだ。たまたま我々がちょっとうまい思考をした時には、我々はそれを自分の手柄とし、自分の頭の良さに自惚れるのだが、なあに、それは「偶然の結果」にすぎない。我々の無意識が我々にどんな思考材料を提供するか、我々の意識的理性はまったく関与していないのだから、まぐれ当たりのヒットでしかないのである。


もちろん、意識的理性の運用のうまい人もいるし、芸術家などの中には無意識の思考素材調達に才能のある人もいる。画家のキリコなどは、一生のある時期にだけ、無意識の井戸の中から豊富な素材を汲み上げたのだ。また、音楽家などだと、その技術的修練によってその人の無意識が特異な偏りを生んで、天才的な作品を豊富に生み出すということもあるだろう。いずれにしても、我々の意識は無意識の暗い大海の上に漂う小島にすぎない。



国家と個人の関係に話を戻せば、我々の思考も意思(意志)も、その生まれ育ち今生活している国家によって規定されている。ならば、我々がどのような意思を持とうが、それは常に日本人としての意思になる。我々の自由意思は、その偶然的な現れにすぎない、ということだ。であるから国家が我々の無意識を支配するために教育を改変していこうというのは、確かに国民コントロールの手段としては当然だが、その内容が「日本神話を事実として受け入れよ」という『国家の神髄』の主張になると行き過ぎだろう。



だが、こんな議論は空論だ。我々は自分に自由意思があると信じて生きている。そう信じているからには、それが現実なのだ。たとえ自分の判断が我々の中の超自我によるものだろうが、我々は自分の自我がそれを判断したのだと信じている。



しかし、小室直樹の阿頼耶識についての簡明な説明にある、「種子(シュウジ)」と「現行(ゲンギョウ)」の関係は重要である。


我々は常に外界から情報を取り入れ、それが我々の無意識の中に蓄積される。その蓄積された「種子」が我々の判断を形成し、我々の行動を決定する。その行動、すなわち「現行」がまた新しい情報の一つとなり、「種子」となっていく。こうした無限のサイクルが我々の思考や意思決定を形成していくのである。しかも、そのほとんどは無意識のうちに行われている。


簡単な例を挙げよう。ある困難に直面して、「困難と戦う」か、「困難から逃げる」かの選択を迫られたとする。ここで「逃げる」を選択するとあなたの中には「一度逃げた自分」という情報がインプットされ、「種子」となるわけだ。すると、同じような場面ではまた「逃げる」を選択するという習性が作られる可能性は高い。


最初の選択で「困難と戦う」を選択して、良い結果が得られるとは限らない。しかし、「戦った自分」という情報や、「なぜ失敗したのか」という情報は手に入る。それは、次の選択にも影響を与えていく。逃げた場合には得られない情報である。これも「戦った自分」という「種子」である。


こうした無意識の機能を理解すれば、様々な「よく生きるための言葉」が、ただの美辞麗句ではなく、やはり人間知の結集であると分かるだろう。



さて、何のためにこんな埒もない議論をしてきたのかというと、一つには、書かないと、自分の思想は発見できないからである。文章化して私ははじめて自分の中にある思想の一端を知ることができる。言語化しないかぎり、私の思想は無意識の海を漂うクラゲにすぎないのである。で、そのようにして検出された思想に意味があろうがなかろうが、それを考え、書くこと自体が私には楽しい。それが一番の理由だ。



この文章を書くきっかけは、最初に引用した二つの文章である。あの二つの文章は、私の頭脳を刺激し、面白いヒントになりそうだと思われた。だから、まずその二つを思考素材として冒頭に置いたのである。


まあ、国家論と思考論、あるいは自由意志論が思うほどには交わらなかったが、それはそれでいい。断片的思考は断片的思考でまた役に立つこともある。

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「あしながおじさん」と社会主義

昔は、今もそうかもしれないが、大学受験用に英文学の英和対訳本というのがよく使われていて、私の場合は多分長兄が使ったと思われるそれで、和文訳のところだけを読むのが小中学生のころの娯楽だった。それで読んだ中には「トワイス・トールド・テールズ」や「スケッチ・ブック」などがあり、前者の中の「人面の大岩」など、後で小学校国語教科書の中で再会して驚いたりしたものだ。また、「スケッチ・ブック」の中には「リップ・バン・ウィンクル」の話、「スリーピー・ホロー」の話などもあったと思う。もっとも、どちらの本に載っていた話かは混同しているかもしれない。少なくとも、日本の普通の小中学生は知らない話を、こうした英和対訳本で知っていたのは、年の離れた長兄を持つことのメリットだった。
さて、以上は前置きで、本題はここから。
そうした英和対訳本の一つに、「ダディ・ロング・レッグス」つまり、「あしながおじさん」があり、私が社会主義という思想に肯定的な気持ちを持ったきっかけが、あるいはこれかもしれないのである。「あしながおじさん」は児童書にも分類されるくらいだが、内容は必ずしもそうでもない。大人が読んでも十分以上に楽しい作品であり、児童書に分類されるのは、子供でも読める健全な娯楽性がある、というだけのことだ。実際、この作品の主人公は大学生であり、児童書の主人公とするには年齢が高すぎるだろう。
さて、また話がわき道に逸れた。この作品の中に出てくる社会主義の話である。
主人公ジュディを大学に進ませ、学ばせてくれる正体不明の慈善家が「あしながおじさん」だが、その正体がジャーヴィス・ペンドルトンという青年紳士である、というのは別にネタバレというほどでもないだろう。別に、ネタバレで話がつまらなくなる類の小説ではない。そのジャーヴィスに主人公のジュディは好意を持つのだが、彼についてジュディは「あしながおじさん」への手紙でこう書く。(それを読むのが実はジャーヴィス本人になるわけだ。)

Julia's mother says he's unbalanced. He is a Socialist--except, thank Heaven, he doesn't let his hair grow and wear red ties. She can't imagine where he picked up his queer ideas; the family have been Church of England for generations. He throws away his money on every sort of crazy reform, instead of spending it on such sensible things as yachts and automobiles and polo ponies. He does buy candy with it though! He sent Julia and me each a box for Christmas.
 You know, I think I'll be a Socialist, too. You wouldn't mind, would you, Daddy? They're quite different from Anarchists; they don't believe in blowing people up. Probably I am one by rights; I belong to the proletariat. I haven't determined yet just which kind I am going to be. I will look into the subject over Sunday, and declare my principles in my next.

訳本が無いので(今持っているのは英語原文のものだけ。)私が適当に訳しておく。

「ジュリアのお母様は彼(ジャーヴィス)を偏向していると言っています。彼は社会主義者だと。幸いにも、髪を長く伸ばしたり赤いネクタイをつけていないだけで。いったい彼がどこでそんな妙な思想を拾ってきたものか、彼女には想像もできないのです。この一族は代々の英国国教徒ですから。彼(ジャーヴィス)はあらゆるキチガイじみた社会改革に自分の金を投げ出し、ヨットとか自動車とかポロ用の子馬だとかに金を使うという(金持ちにふさわしい)思慮深いことをまったくしないのです。でも、彼は御自分のお金をキャンディに使ったりもするのですよ。ジュリアと私はそれぞれ一箱ずつ、彼からのクリスマスプレゼントとして貰ったのです。
ご想像のとおり、私もたぶん社会主義者になると思います。お気になさいませんよね。それとも、おじさま、気になさいます? 社会主義者と無政府主義者はまったく違います。彼らは人々を爆弾で吹っ飛ばしたりはしませんわ。たぶん、私はプロレタリアート(無産者階級)として生まれついた権利からしても社会主義者になるべきでしょう。私はまだどういう方向に進むか心を決めてはいません。この問題を次の日曜日にじっくり考えて、次の手紙で私の方針を宣言したいと思います。」

 で、その「宣言」が次のものである。

Dear Comrade,
 
 Hooray! I am a Fabian.
  That's a Socialist who is willing to wait. We don't want the social revolution to come tomorrow morning; it would be upsetting. We want it to come gradually in the distant future, when we shall all be prepared and able to sustain the shock.
 In the meantime we must be geting ready, by instituting industrial, educational and orphan asylum reforms.

                                    Yours, with fraternal love,
                                                                Judy

(親愛なる同志よ

万歳!私はフェビアン主義者です。
これは喜んで待つという主義の社会主義です。我々は社会革命が明日の朝起こることを望みません。それでは大混乱になるでしょう。我々は社会改革がゆっくりと進み、遠い将来に、革命に対する準備が整い、衝撃に耐えられるようになった時に革命(根本的社会改革)が起こることを望みます。
  当面は、我々はそれに備えて産業を興し、教育や孤児院の改革を行っていくべきでしょう。

            友愛をこめて
                  あなたのジュディより)





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「夢の高校」考

夢の高校について考えてみたものを下に転記しておく。末尾の二つの校則は、冗談ではない。「性と暴力」は人間の二大衝動であり、教育の大きな二つの障害である。これを認めたら、教育は不可能になる、と私は考えている。少なくとも、学校内にセックスと暴力は持ち込まない、ということが重要である。もちろん、恋愛禁止、ではない。それは禁止して禁止できるものではない。




「夢の高校」考




「夢の高校」の具体的内容を考えてみる。



まず、基本コンセプト(広告業界では単に「コンセプト」と言うようだが、コンセプトは「概念」の意味だから、「中心的コンセプト」か「基本コンセプト」と言うべきではないだろうか。)から。



1)これまでの、「大学入試」だけのために存在するような、学力向上あるいはテスト能力向上のみを目的とする高校、あるいは運動部による売名で生徒集客のみを目的とする高校ではなく、生徒自身がそこに通うことが喜びでありつつ、社会で生きていく能力を増大させられる高校。



2)教師主体ではなく、生徒主体の学校。つまり、教師はあくまで生徒活動の補助と、一部の専門的分野での講義を主とし、その他の生徒活動にはほとんど口を出さない。同様に、生徒も教師のプライベートに口を出さない。基本は生徒の自学自習である。



3)教科内容は大きく二種類あり、第一種はこの高校だけで終了する教科、第二種は大学での勉強につながる教科。後者のための「受験教科」も第二種に含む。つまり、大学入試を完全に無視するわけではないが、基本的には、高校の学習は高校で終了、とする。受験対策は、一部の希望者のみが対象となる。



ここから、詳細内容に入る。



1)第一種の教科はだいたい次のようなものを考えているが、追加や削除は随時行う。



イ:身近な法律(道交法、住民登録その他の登録義務、民法の一部、その他)


ロ:身近な経済(税、公共料金、保険、銀行、会社の基礎知識、その他)


ハ:芸術(楽器演奏、美術実技、文芸実作、書道実技、茶道、その他)


ニ:自動車(特殊車両含む)運転


ホ:家庭科(大工仕事、工作、電気系修理技術、裁縫、手芸、料理、その他)


へ:体育(純粋体育、各種スポーツ、各種武道)


ト:ヘルスケア(栄養学、身体機能学、初歩の生理学、基礎の生物学、市販薬の知識、その他)


チ:情報リテラシー(スマホ、パソコンその他の情報機器の取り扱い方とネットの注意など)


リ:災害対策常識(災害救助、応急処置、サバイバル、その他)


ヌ:身体表現(発声法、演技、ボイスコントロール、メーキャップ、衣装知識、その他)


ル:外国語(エスペラント、英語、中国語、その他)


ヲ:政治学(歴史含む)



2)第二種は現在の高校の授業内容とほぼ同じなので省略。



3)時間配分は、1日に第一種2コマ、第二種2コマの各50分4コマが基本。午後は課外活動、クラブ活動、もしくは自由。土日は授業無しだが、学校は使用可。(3年間、午後は野球だけでも図書館に入り浸りでもピアノばかり弾いていたでも可)



4)校則1「校内でのセックスは禁止」(笑)この種の高校で、これを認めたら風紀退廃は確実。



5)校則2「身近な他者への嘲笑と愚弄、暴力を禁ずる」。目に余る校則違反者は退学。べつにこの高校はDQNの救済機関ではなく、一般の子供の全的な能力を伸ばすことを目的としている。





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ホリーよ、正しく進め

昼間から酒を飲んで、いざ眠ろうかと思うと眠れないので、あれこれ物思いに耽っているうちに、なぜか「ティファニーで朝食を」の映画のことを考え出し、その連想で「ムーン・リバー」の歌詞のことを考え出して、なお眠れなくなったので、起き出してこのブログを書いている。
その前に考えていたのが、処女性というものについての男女の価値観の落差という問題(これはあきれるほど巨大な落差がある。)で、それは、「ティファニーで朝食を」の主人公、ホリー・ゴライトリーが、まだ物心のつかない少女のうちに、やむなく結婚を強いられ、(つまり本人の意思からではない処女喪失をし)その後、夫を捨てて都会に出てアマチュア娼婦として生きてきた、ということへの連想につながったのである。
また、トルーマン・カポーティがホリー・ゴライトリーのイメージとしていたのは実際の主演女優のオードリー・ヘップバーンとは正反対のイメージのマリリン・モンローで、彼女自身、少女時代に不幸な処女喪失の体験をし、ハリウッドデビュー前には田舎の冴えない男と結婚していて、それを捨ててハリウッドに出て世界的なスターとなったという、まさに映画界デビュー前の過去だけを見ればホリー・ゴライトリーそのものである。そして、ハリウッドに行っても、娼婦同然の生活をしているうちに、運よく映画デビューして世界的な大スターになったわけだ。彼女が映画でセリフのある役を貰った時の言葉が、「これからは役を貰うためにプロデューサーにフェラチオしなくても済むのね」だったという。
そうしたマリリン・モンローの実際の生涯と「ティファニーで朝食を」のホリー・ゴライトリーを重ねて見ると、この映画は苦い陰影を帯びてくる。
なお、「ホリー・ゴライトリー」は「ホリー」が「聖なる」で、「ゴライトリー」は「ゴー・ライトリー」つまり「正しく進め」である、というのが私の解釈だ。
つまり、「世界のホリーたちよ、理不尽な運命に負けず、正しく進め」という、トルーマン・カポーティのエール(声援)だろう。正しく進め、とは「自分で自分を抑圧せず、自由に生きろ」ということである。
ついでに、小説と映画の相違を述べれば、小説でホリーが歌う歌の歌詞は

「眠りたくなし
死にたくもなし。
ただこの大空の広い牧場を
旅していたいだけ」


だったと記憶している。小説の英語版は家のトイレにあるが、調べるのも面倒なので記憶のままで書いておく。
で、映画の中でオードリー・ヘップバーンが歌うのが、かの有名な「ムーン・リバー」である。
これも、ホリー・ゴライトリーの内面世界をうまく描き出した名曲だと思う。

英語がまったく駄目、という人のために私がいい加減な訳をしておく。


月の河よ、1マイルよりも広い河よ
私はお前を洒落た身なりでいつの日か渡ろう
古い夢を紡ぐもの
君よ、我が心を破るもの
お前の行くどこへでも
私もついて行こう

二つの漂流物
世界を見るために岸を離れた二人
世界にはこんなにも見るものがたくさんある
私たちは同じ虹の脚を追っている
曲がり角で待っているのは
ハックルベリー・フィンのような仲間
月の河、そして私



(補足)今朝になって確認してみたら、ホリー・ゴライトリーは「Holly Golightly」なので、「正しく進め」ではなく「光の中を歩め」とするべきかもしれない。まあ、どうせ酔っ払いの書いた文章だから、今さら訂正するのも無意味だが。なお、ホリーの外面描写はまさにオードリー・ヘップバーンであり、トルーマン・カポーティはマリリン・モンローの前半生をモデルにし、キャラクターの外面はわざとM・Mと正反対に変えて書いたのかもしれない。



ムーンリバー(Moon River)
Words by Johnny Mercer /Music by Henry Mancini (1961年)





Moon river, wider than a mile
I'm crossing you in style some day
Old dream maker, you heart breaker
Wherever you're going
I'm going your way

Two drifters, off to see the world
There's such a lot of world to see
We're after the same rainbow's end
Waiting round the bend
My huckleberry friend
Moon river and me

(Refrain)







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「この世界の片隅に」予告編ができた

こうの史代の「この世界の片隅に」は、以前に実写ドラマ化されたらしいが、私は見ていないし、たぶん見ないほうがいいような気もする。あの超名作の原作漫画に対して、実写ドラマ版の評判が少しも聞こえてこないのは、失敗作だったからだろう、と思うからだ。例によって大手芸能プロの若手クズタレントを使っていい加減に作ったドラマではなかったか。(見もしないでいい加減なことを言うのは良くないが、こういう傑作をドラマ化する時は、絶対に失敗してはならない、というのが「原作に対する責任」なのである。)
で、今回のアニメ化だが、これは成功していることを今から予言していい。それは予告編を観るだけで分かる。監督が、あの「マイマイ新子」の監督であることも、信頼できる理由だ。映像は、原作のタッチを見事に生かしていることも、予告編で分かる。
ただ、残念なのが公開が来年2016年であることだ。
「戦争法案」が論議を呼んでいる今、この夏こそ、この映画が公開されてほしかった。そうすれば、多くの人がこの映画を見て、庶民にとって戦争とは何か、戦争は戦場の殺し合いだけにとどまらず(いや、最前線だけが戦場ではなく、国家全体が戦場となる、と言うべきか)「銃後の暮らし」をどのように変えるかを考えるきっかけになっただろう。
で、アニメ公開は来年まで待つしかないが、原作漫画はいつでもどこでも手に入るはずだから、ぜひ多くの人が手に取ってほしい。けっして暗い反戦漫画ではなく、ユーモアと詩情に満ちた作品でもあるのだから、真面目な作品が苦手な人(私もそうである。)も敬遠する必要などない。とにかく、日本漫画史上に残る名作なのである。


(以下「椎名高志ツィッター」から引用)



椎名高志 @Takashi_Shiina 9時間前

こ、これは素晴らしすぎてアカンやつ・・! RT ついに動いてるすずさん観られた!!す……素晴らしい……早く完成した映画が観たい…………༼;´༎ຶ ۝ ༎ຶ༽ 映画「この世界の片隅に」特報1








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趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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