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古い言い回しの危険性と価値

某スポーツブログの読者投稿の一節だが、「由とする」はもちろん「良しとする」の誤りだとしても「以って銘すべし」は「以て瞑すべし」の誤りかと思う。もちろん「以って」は間違いではないが、「以て」のほうが私には好ましい。「瞑すべし」は「(納得して)目をつむるべきである」の意味だろうと思うので、「銘すべし」ではたぶん意味が通らない。
こういう古い言い回しは私もよく使うが、もちろんカッコつけである。使うと気持ちがいいから使うのだが、間違いを犯しやすいという欠点がある。
確か、赤川次郎(今ではほとんど忘れられた名前のように思うし、実は私は一作も読んでいないが)の作品には常套的表現(慣用句の類か)はほとんど出てこないと聞いたことがあるが、当時はそれが新鮮でも、そういう文章や作品に永続性があるというわけでもないようだ。逆に言えば、慣用句やことわざなどは百年以上の風雪に耐えた底力があるわけである。

(以下引用)


とは言え、上原は、補助戦力的・お客さん的使われ方を由とする人ではないでしょう。勝利の方程式として起用された末、力及ばず打たれたとしても、以って銘すべし、とする人なのではないでしょうか。

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母性神話への反逆

「私お母さんだから」について前に少し考察したためか、ふと「乳ぜり泣く子を捨てっちまおか」という中七下五(実際は下七。調子から言って「すてちまおか」より「すてっちまおか」あるいは「すてちまおうか」が良い。)の俳句を思い出したが、その上五が思い出せない。ということは、上五は他の部分との関連として「動かない」ものではないのかなあ、と思って調べると、「短夜や」であるらしい。「夏の夜や」でも別に構わない気がする。その方が、赤ん坊の泣き声にいらいらする感じがもっと出るのではないか。「短夜」というのは雅やかなイメージが付きすぎているような感じがする。
で、まあ、自分の赤ん坊を「捨てっちまおか」と考えるというのは、いわば母性神話への反逆宣言みたいなもので、この俳句が発表された当時、さぞ衝撃だっただろうな、と思う。
なお、「すてっちまおか」を漢文風に書いた意図は、作者の一種の自己防衛だったのではないか。つまり、「須らく捨つべしや」と読めて意味は分かっても、俳句としてどう読むのかは不明なわけで、この作品を批判しにくくなるわけである。



(以下引用)



こういう俳句に出会いました。 「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎」 (竹下し...


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ID非公開さん


2005/8/2408:57:31



こういう俳句に出会いました。

「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎」
竹下しづの女)

これは何と読むのでしょうか。どんな意味でしょうか。お教え下さい。

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ID非公開さん


2005/8/2409:03:08



ひゃー!
おもしろい俳句ですね。

「みじかよや ちちぜりなくこを
すてちまおか」

ただでさえ、暑く寝苦しい夏の夜に
お乳を欲しがって泣く子がうるさいので
捨ててしまおうか!という
母親の心情を詠んだものらしいです。
http://www.bekkoame.ne.jp/~hujino/001/ha-izumiryouko.html






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英語版エーライシャン

ヘレン・メリル版の「エーライシャン(夜来香)」の歌詞である。親切に、ネットに載せてくれている人がいたので、私がワープロ打ちしなくて済んだ。
このヘレン・メリル版が、エーライシャンの歌の中で私は一番好きだ。英語の歌詞は、曲にうまく乗らない部分もあるが、原詩の情緒をよく伝えていると思う。
試みに、英詞から逆に日本語訳してみる。もちろん意訳である。youが、エーライシャンの花と恋人のどちらを指すのか、少しわかりにくいかもしれない。いちおう、恋人は「あなた」、花は「お前」としたつもりだ。



南風が頬を撫でて過ぎる。
花が揺れ、私の心を波立たせる。

その香りとあなたのために私は嘆く。
ああ、エーライシャン、夜の優しい花。
羽音を立てぬ夜鶯が、私を憐れむように歌っている。
彼女はあなたと私の恋の物語を知っている。
ああ、エーライシャン、夜の愛らしい花。
エーライシャン、私の心はあなたのために歌う。
エーライシャン、私の夢を本当にしておくれ。
私はお前の愛らしい顔に口づけする。
お前を抱きしめる。

私は遠くからあなたを愛するしかないけど、
あなたがいつもここにいると私は知っている。
ここ、あなたと愛の花園に。
ああ、エーライシャン、夜の一番美しい花、
南風が頬を撫でて過ぎる。
花は揺れ、私を気弱にさせる。
愛の香りとあなたのために。
ああ、エーライシャン、夜の孤独な花。
エーライシャン、私の心はあなたのために泣く。
エーライシャンよ、私の夢を本当にしておくれ。
どんなに私はあなたの顔に触れたいか、どんなにあなたの腕に抱かれたいか。
エーライシャン、エーライシャン、エーライシャン……



The southern wind is on my cheek. The flowers sway and leave me weak. Weak with the fragrance of you and love, oh Yeah Lei Shang, lovely flower of the night. A nightingale on silent wings. A mournful song to me she sings. She knows the story of you and love. Oh Yeah Lei Shang, lovely blossom of the night. Yeah Lei Shang, my heart sings for you. Yeah Lei Shang, make my dreams come true. How I kiss your lovely face. Hold you here in my embrace. Though I must love you from afar, I’ll always know that here you are. Here in a garden of love and you, oh Yeah Lei Shang, fairest blossom of the night. The southern wind is on my cheek. The flowers sway and leave me weak. Weak with the perfume of love and you, oh Yeah Lei Shang, lonely flower of the night. Yeah Lei Shang, my heart cries for you. Yeah Lei Shang, make my dreams come true. How I long to touch your face. Long to be in your embrace. Yeah Lei Shang, Yeah Lei Shang, Yeah Lei Shang.
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Sweet are the uses of adversity

表題に書いたのはシェークスピアの「お気に召すまま」の中で、追放された公爵が、自分がたくさんの感謝すべきものに満たされていたことを述懐する科白である。
「Sweet are the uses of adversity」を福田恒存は「失意、逆境ほど身の為になるものはない」と訳している。「sweet」の訳が難しい科白だが、なかなか苦心の訳だ。要するに、逆境も、工夫次第、気持ち次第で天国になる、という思想である。だから、「身のためになる」という訳も頷けるのだが、単純に「面白い」「楽しい」とでもしたら「sweet」の肯定感、満足感がより強く表現できるのではないだろうか。「逆境も心次第で楽しいものだ」くらいの訳はどうだろうか。
なお、原文は、こういうように続く。(第二幕第一場冒頭)

Sweet are the uses of adversity
Which, like the toad,ugly and venomous,
Wears yet a precious jewel in his head;
And this our life exempt from public haunt
Find tongues in trees,books in the running brooks,
Sermons in stones and good in everything.
I would not change it.











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安いと高いは買い様による

この前から中里介山の「大菩薩峠」を読んでいるが、(まだ途中なのだが)これは大傑作である。たとえるならば、日本版「レ・ミゼラブル」である。話は面白いし、人物像は主役脇役みな個性的で魅力がある。悪党すら、面白い。とんでもない人間の屑が善良な美女に執着(ストーキング)してとうとう手に入れるかと思えば、心優しい人間(たいていは女性だが、中には悪どい女性もちゃんと出てくる)が、その善良さのゆえに惨憺たる目に遭ったりする。
一般的には机龍之介が主人公視されているが、主人公のひとりと言うべきだろう。脇役のひとりひとりの人生がそれぞれ簡潔に描かれているのであり、群像ドラマである。
まあ、若いころには文体の「ですます調」が安っぽく感じられて食わず嫌いをしたのだが、たくさんの小説を読み飽きた目にこれだけ面白く読める小説というのは滅多にない。しばしば出てくる美文調の表現も、少し古文を齧っていれば気にせずに読める。まあ、中学生ではさすがに読み味わうのは無理か。大学生でも無教養な学生には無理かもしれない。
とにかく、単純な「正義は勝つ」ではないし、だからと言って悪を勧めるわけではもちろんないし、ニヒリズムでもない。面白ければそれでいいといいう無責任な書き方でもない。たしか「大乗小説」と作者が言っていたとかどこかで読んだ記憶があるが、まさにそれである。大乗的見地から人間界の浮き沈みを眺める小説というわけだ。こういう小説を読めば、自分で生きるよりもはるかに面白いwww 学校で古文漢文を学ぶのも、こういう小説が読めるようになるためと思えば無駄ではない。
作中に出てくる、どんな患者でも(格安の)十八文で診る酔いどれ医者の道庵先生の言葉。

「どうして、世の中が斯う面白いんだか、世間でクヨクヨしている奴の気が知れねえ、おしなべて天下の事が十八文で定まりがつくんだ、十八文より高くもなし、そうかと云って十八文より安くもねえ、安いと高いは買い様による」


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悲しみの色

「谷間の百合」から転載。
味の嗜好がそれぞれなように歌の嗜好もそれぞれだが、私も谷間の百合さんにほとんど同意見である。
実は、「この世界の片隅に」の主題歌が「悲しくてやりきれない」だと知った時に、「おお、素晴らしい選曲だ。この作品(漫画原作)のイメージにぴったりではないか」と思ったので、実際に映画(アニメ)を見て、コトリンゴ嬢の歌を聞いた時には正直言ってかなりがっかりしたのである。もちろん、コトリンゴのファンにとっては最高の歌なのかもしれないが、妙に気が抜けたような歌い方で、私にはまったく「悲しみ」は伝わらなかった。いや、力を籠めて歌えというのではないし、谷間の百合さんが言うように「明るく」歌えというのでもない。ただ、無色透明な中に、ある種の絶望を籠めて歌ってほしかった。
そもそも、「悲しくてやりきれない」の悲しみは、空を見上げたり、空を行く雲を眺めている時になぜか湧き起こる、「やるせないもやもや」であり、たとえば戦争への怒りとか人が死んだことへの悲しみのような具体的な対象があっての感情ではない。それだけに「この限りないむなしさの救いはないだろか」と思いつつも、しかし、人が生きるのは、こういうもやもやを心の底に抱いて生きるということだ、という感じがこの歌にはあり、だからこそ「この世界の片隅に」にぴったりだと思っていたわけである。
すずさんはいつも呑気な感じで生きているが、それは「やるせないもやもや」を心の底に押し込めているということでもある。たとえば、自分が結婚した相手と本当に結ばれてよかったのか、それとも水原を自分は愛していたのではないか、あるいは、夫はもしかしたら遊郭の女と関係があるのではないか。そういう不快な感情はこの漫画やアニメの中ではほとんど表面化しない。それは戦争という理不尽な出来事への怒りが表面化しないのと同様だ。しかし、心の奥底には、そういうもやもやがかすかにあるのである。
さて、コトリンゴさんの歌に、そういう「伏流水」は感じられただろうか。
なぜアニメの監督(片淵監督)さんがフォーク・クルセイダーズの歌でなく、別の人にこの歌を歌わせたのか、そこが私には分からない。クルセイダーズの歌があったからこそ、この曲を主題歌に使おうと思ったはずだ。それが、なぜ別の歌手になったのか。私には分からない。


(以下引用)


「悲しくてやりきれない」を悲しく歌ってはいけない。

はしだのりひこさんが亡くなりました。
つぎつぎと人が死に、そのスピードが速まっているのを感じます。
かれを偲んで、ユーチューブで何曲か聞いたのですが、「悲しくてやりきれない」を聞いたとき、いままで、わたしの中でわだかまっていたものを吐き出したくなりました。
この曲は「この世界の片隅で」のオープニングテーマ曲に採用されコトリンゴさんが歌っています。
圧倒的な高評価、好評価を受けています。
なので、それに異を唱えるのは身のすくむような思いなのですが、大袈裟ですが、千万人と雖も吾往かんの気持ちを奮い起こして書きます。

わたしは、コトリンゴさんのあの歌い方は作品を殺したと思っています。
「フォーク.クルセダーズ」はたんたんとむしろ明るく歌っているのですが、それが正解だと思います。
悲しそうに歌うことはあの作品の本質の理解を誤らせます。
あの作品のどこに悲しみの本質があったのでしょうか。
親や兄の死も、驚くほどあっさりと描かれています。
悲しみは、ただ生きていくことに追われている中で消化、無化されていたのかもしれません。
感じ方は人それぞれで、わたしが悲しいと思ったのは、幼馴染の水原とまだあどけなさの残る若い娼婦の死ですが、当人たちは運命を運命として受け入れていて、呪ったり悲しんだりしていません。
そこに悲しみの本質があるのではありませんか。
だからこそ、明るくさらっと歌うことで透明感が生まれ、ほんとうの悲しみを表現できるのだと思うのです。
戦争のさなかに、悲しみが入り込む余地はありません。
戦争は、恐怖であり、戦慄であり、残酷な酸鼻を極めた世界です。 
あのような感傷的、情緒的な歌い方は戦争の美化につながりかねません。
あの歌い方に感動するのは戦争を知らない人間の情緒的な反応なのだろうと思います。


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高円の野辺の秋萩

この前から中里介山の「大菩薩峠」を読んでいるのだが、その「龍神」の巻に、高円山という名前が出てきて、懐かしい歌(大島弓子の初期の漫画で言及されていた歌だ。)を思い出したので、ネットの万葉集解説サイトから転載しておく。

「咲きか散るらむ」の「か」は疑問の終助詞が倒置されて係助詞となったもので、「咲き散るらむか」と元に戻せば理解しやすい。(係助詞は終助詞の倒置だというのは、或る国語学者の説だが、学界的に定説かどうかは知らない。だが、そう考えることで古文の文意がつかみやすくなるのは確かである。)なお、下の歌では「たかまと」とか「のへ」と読ませているが、古文には本来濁点は存在しなかったと言っても、他の「秋萩(あきはぎ)」や「いたづらに」などの濁音は現代語のまま濁音表記なのだから、「たかまど」「のべ」でいいような気がする。「たかまと」や「のへ」は私には間抜けな語感に思える。





高円(たかまと)の野辺(のへ)の秋萩(あきはぎ)いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに

巻二(二三一)
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高円山の野のほとりの秋萩は空しく咲き散っているだろうか、見る人もいなくなったいまも。
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この歌も志貴皇子(しきのみこ)が亡くなったときに詠まれた挽歌で、先の巻二(二三〇)の長歌に付けられた反歌のうちのひとつ。
やはり作者は笠金村(かさのかなむら)かと思われます。

志貴皇子の邸宅は現在の百毫寺にあったとも言われ、百毫寺の山門から境内に続く長い階段の両脇にはいまも綺麗な秋萩が咲くことで有名です。
「高円山の秋萩は空しく咲き散っているだろうか。志貴皇子が亡くなって誰も見なくなったいまも…」とは、なんとも寂しい歌ですが、秋に咲く萩の花の涼やかさがまるで志貴皇子の人柄そのもののようにも感じられて皇子を知る人々の悲しみをさらに誘うものになっているように思います。


奈良にある百毫寺(びゃくごうじ)。
百毫寺は志貴皇子の邸宅跡だとも言われています。
秋には山門から境内へ続く石段横を埋め尽くす萩の花で有名です。
(この写真は時期外れで萩の花は咲いてませんが^^;)



百毫寺境内にあるこの歌の歌碑。



歌碑の解説。

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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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