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「味覚については議論はできない」

私ごひいきのtanuki氏の映画論だが、どうも理解できない。全盛期のハリウッドの名作映画がことごとくくだらないと言うのなら、氏が評価するのはどのような映画なのだろうか。
オードリー・ヘップバーンを下品で醜いと言う、氏のごひいきの女優は誰なのか。
「ローマの休日」を「どこが面白いのか」と言う、氏が面白いと思う映画はたとえばどういう作品か。
ちなみに、「ローマの休日」を撮ったウィリアム・ワイラーは、私が世界最高の映画監督と考える監督で、それ以外にも「大いなる西部」や「西部の男」など、あまり知られていない名作もあり、有名なところでは「ベンハー」などの監督でもある。どのようなジャンルでも見事に仕上げる点で、「世界最高の(職人)監督」だと考えるわけだ。
なお、フェリーニやベルイマンや黒澤やキューブリックもすべて凄い監督だと私は思っているが、ハリウッド映画(娯楽作中心)が名作映画を生み出していないとはまったく思わない。観客を楽しませることを第一義としている点を、私は逆に評価する。映画に芸術性があってもいいが、一般大衆が求めるのは何よりも娯楽性だろう。黒澤明などは、娯楽作品を作る能力が非常に高く、「椿三十郎」や「用心棒」や「七人の侍」が彼のベストだと思う。
まあ、「There is no arguing for taste」だから、tanuki氏の味覚は私の味覚とは違うというだけの話ではある。
なお、オードリー・ヘップバーンは私が一番好きな女優であるが、マリリン・モンローも好きであるwww 乳高きがゆえに尊からず。作り物でも、その可愛さが芸術の域に達していれば芸術だ。グレース・ケリーもモーリン・オハラも淫乱だったという話もあるが、映画の中で可愛ければいい。ビッチだろうが何だろうが、それを可愛く見せるのが監督の腕だ。(昔は、映画界の内部情報があまり外に漏れなかったので、ハリウッドは「夢の王国」であり得たのだろう。)

(以下「ネットゲリラ」読者コメントから転載)


あたしゃ最近ハリウッド全盛期の映画を録画してよく見てるんだが、今見るとどれも本当に下らない。アメリカ人のオナニー映画ばかりですな。


ローマの休日なんてどこが面白いのか。
オードリーヘップバーンというのは典型的なカマトトオヤジキラーで頭の悪いふしだらで下らない女しか演じられない。シャレードもティファニーも基本皆同じですな。態度や喋り方もいちいち下品な醜い女で、マイフェアレディのイライザは地ですな。
だがヨーロッパ貴族の血を引く若い女を中年アメリカ男が色女にしちまうといシチュエーションが田舎者に受けて、何度も似たようなのばかり作ってたというわけで。ケリーグラントとかハンフリーボガードなんてのもカッコばかりつけて傲慢で下らないアメリカ男の典型で反吐が出る。こんなものありがたがってた日本人が馬鹿なのです。


さて、ハリウッド流というのはたくさんユダ菌から金借りて、テレビコマーシャルとメディア買収して「面白い」詐偽で観客集めるだけの商売ですな。だが金使ったから面白い映画になるというわけではない。反語的だが金使ってなくても面白い映画は面白いんですな。
問題は上映館やメディアを抑え込んで新しい才能を潰す既成産業。アメリカの音楽もそれで終わっちまった。今回のはそれがめぐりめぐってユダ菌商売が終わっちまったと言うことです。


まあメディアミックスを最初にやったのは実は角川春樹なんですがね。商売のやり方までパクった挙句の死亡。目出度い話です。














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謎の旅人

災厄をもたらす「旅人」で想起するのは、ウィリアム・ブレイクの「Never seek to tell thy love」で、この「thy」はyouの所有格の古語だから、「あなたの」などという訳語ではなく「汝の」とでもすべきだろう。私は「愛について語るな。汝の愛を」と訳している(まあ、誤訳である。つまり、きちんと訳すなら、「お前の愛を(彼女に)語る手段を探そうとするな」ということだろう。つまり、「thy」の訳し方以外は、下の訳が正しいと思う。)が、ここでは誰かの訳文を載せる。
この最後の連に出てくる「旅人」が何者か、研究者の議論の的になっていると言う。
「時」とか「忘却」の比喩だとしたら、「彼女が去ってすぐ後に」と矛盾する。しかし、「目に見えない」存在なのだから、人間ではない。何者なのだろうか。


(以下引用)



Love's secret    
  Three Blake Songs
愛の秘密  
     3つのブレイクの歌

詩: ブレイク (William Blake,1757-1827) イギリス
    The Rossetti Manuscript  LNever seek to tell thy love

曲: バントック (Granville Ransome Bantock,1868-1946) イギリス   歌詞言語: 英語






Never seek to tell thy love
Love that never told can be;
For the gentle wind does move
Silently,invisibly.

I told my love,I told my love,
I told her all my heart,
Trembling,cold,in ghastly fears --
Ah,she doth depart.

Soon as she was gone from me
A traveller came by
Silently,invisibly --
He took her with a sigh.
あなたの愛を伝ようとしてはいけません
愛は語ることができないものです
穏やかな風が吹く時でも
黙って 目に見えないでしょう

私は自分の愛を告げ 私の愛を語りました
私は彼女に私の心のすべてを伝えたのです
震え 凍り付き 恐れおののいて -
ああ なのに彼女は去って行くのです

彼女が私から去っていったすぐ後
ひとりの旅人がやって来ました
黙って 目に見えないように -
彼は彼女を連れ去ったのです ため息と共に

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時は静かに立っているだけ



朝方、ベッドの中で手塚治虫の「メトロポリス」を読んだ影響で、起きてからアニメ「メトロポリス」のジグラット崩壊シーンの動画をネットで見て、レイ・チャールズの「I cant stop loving you」が頭から離れないので、日本語訳してみる。なお、このパソコンは英文の上の点(アポストロフィと言ったか)が出せないので、「cant」と書いてある。


 


I cant stop loving you」(愛さずにはいられない)


 


あの幸せだった時間


私たちがかつて知っていたあの時間


あんなに遠い昔だが


今も私をブルーにする


壊れた心を時は癒すと人々は言う


だが、「時」はずっと静かに立ち止まったまま


私たちが別れたあの時から


 


愛さずにはいられない


だから私は心を決めた


思い出に生きようと


寂しく孤独の日々の思い出に


 


あなたを求めずにはいられない


何を言われようとも


だから私は自分の人生を


昨日の夢の中だけで生きることにした







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判じ絵の鑑賞




世相を風刺しているというより、単に「面白い状況」を描いただけではないか。
鼠が箱(枡)で抑えているのは猫だと思うが、普通なら猫にやられっぱなしの鼠が巨大化して猫に勝っている(枡はネズミ捕りに使われたらしい。つまり、これも逆転現象。)のが面白い、ということだろう。褌姿で扇を持っている男は立会人で「勝負あり」と判定したところだろう。相撲を取る方ではなく行司が褌姿であるのも逆転現象。扇に「当たり(當)」と書いてあるのは、この勝負で賭けが行われたのかもしれない。

「そのままに転げ落ちたる枡落とし」(芭蕉一門の連句の中の一句)


さんがリツイート

歌川国芳の「狂画絵手本 一」より。世相を風刺した判じ絵と思われますが、意味がよく分かりません。もしかしたら、描いた国芳本人も、はっきりとした意味を考えていなかった可能性もあります。太田記念美術館で10/4より開催の「歌川国芳ー父の画業と娘たち」で展示します。





















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他人の期待を背にして走る(生きる)苦しみ




前回に書いた円谷幸吉の遺書を引用しておく。
国家の威信とかいうものがオリンピック代表選手に物凄い重圧を与えていた時代を映し出す、歴史的な遺書である。


(以下引用)「play note」というブログから転載。


円谷幸吉の遺書に感動した

[読書] 2008/10/28 02:40

調べ物をしていて偶然Googleにひっかかっただけなのだが、あまりにも美しい文章。うつくしくかなしい文章。


円谷幸吉の遺書

父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しゆうございました。克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゆうございました。


巌兄、姉上様、しそめし、南ばん漬け美味しゆうございました。喜久蔵兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゆうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。


幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難ううございました。モンゴいか美味しゆうございました。正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。


幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敦久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正祠君、立派な人になって下さい。


父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。



もう、呪われてしまいそうなくらい美しい。魂をとらわれて閉じ込められてしまいそうなくらい美しい。川端康成の評がほぼすべてを言い尽くしているので転載。



川端康成は、『円谷幸吉選手の遺書』において、「繰り返される《おいしゅうございました》といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、悲しいひびきだ」と語りました。さらに「ひとえに率直で清らかである。おのれの文章をかへりみ、恥ぢ、いたむのは勿論ながら、それから(川端)自身を問責し絶望する」、そして「売文家の私はここ(幸吉の遺書)に文章の真実と可能性を見えたことはまことであった」と文豪川端康成を感嘆させました。


陸上自衛隊 三等陸尉 円谷幸吉 1968/01/09


[http://npo-kazokusou.net/column/life004.html]より










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「愛するって怖い」

別ブログに書いた小論だが、わりと気に入ったので、こちらにも載せておく。



小谷野敦の「このミステリーがひどい!」は、痛快な本だが、勢いで書き飛ばしたような部分も結構あり、自分の「面白い、面白くない」という主観を、対象作品の価値(ひどい作品、馬鹿ミスである)としているのを割り引いて読まないと俎上に上げられた作品群に対して不公平だろう。そもそも、ミステリーのファンタジー性(非現実性)というのはミステリーファンが最初から承知の上で読んでいるのであり、それはプロレスが本気の殺し合いではないのを承知で喜んで見ているのと同じことだ。土台(事件の骨子)そのものが非現実的であっても、デティールを現実的にすることで、その乖離の「浮遊感覚」を楽しむのがミステリーだと言ってもいい。それはまた、文学的価値が無い、という評価にもならない。文学的価値は多様なのである。(ちなみに、私は小谷野氏同様、ミステリーはあまり好んではいない。読むのが面倒くさすぎる。騙されるために読むというのも、正直言って馬鹿馬鹿しい。)
その「このミステリーがひどい!」の中で、古典的文学をミステリー作品と見立てて批評している部分があるが、そこでもやはり作品価値を「ミステリーとしてはひどい」「馬鹿ミスである」とするのはおかしな話だろう。それらの古典は人間の心の深い部分を揺り動かすものがあるから偉大な古典となったのである。御伽噺に鬼が出てくるからといって、「鬼など存在しない。したがって、そういうありえない話を書いている御伽噺は無価値だ」と言うのと同じことだ。
たとえば、馬鹿ミスの例として、「オセロウ」について、

「オセロウは愚かだと言われるが、イアゴーを信じたところが愚かというより、いちおうデズデモウナに確かめなかったところが愚かなのである」

と書いてあるが、これは「比較文学者」、つまり、一応は文学研究者である小谷野氏の発言としては、氏の文学鑑賞眼を疑わせる「浅すぎる」言葉ではないだろうか。
オセロウがデズデモウナをあまりに愛しすぎていたために、彼女が自分を本当に愛しているかどうか自信が持てずにいることは明白に描かれている。ならば、不貞の事実を彼女に確かめることは、彼にとって死ぬよりつらいことのはずである。むしろ、「彼女が自分(のような黒人)を愛しているはずがない」という確信のほうが彼の心の中では大きかっただろう。その彼女に「事実を確かめる」ことができるはずがあるだろうか。それよりは、「不貞が事実かどうか不明のままで」彼女を殺したほうが、「不貞ではなかった」という「美しい可能性」が残るから、そのほうを選ぶ、というのは愚かではあるだろうが、人間心理として大いにありうることだと思う。そういう、かつて誰も描かなかったが「真実」でもある、奇怪な人間心理を描いていることを観客たちは心の底で感じたからこそ、「オセロウ」はシェークスピアの傑作のひとつと評価されたのだと私は思う。

昔、「愛するって怖い」という歌謡曲がヒットしたが、その俗っぽい題名が嫌いで私はロクに聞いたこともない。だが、「オセロウ」と重ね合わせると、まさに「愛するって怖い」は真実なのである。



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海をわたる兎

山下一海著「戯遊の人 与謝蕪村」をぱらぱらとめくっていて、蕪村の或る句で「この世界の片隅に」の或るシーンを思い出したので、メモしておく。

「明月やうさぎのわたる諏訪の海」

という句で、この諏訪の海は瀬戸内海ではなく諏訪湖であり、うさぎがわたるのも昼ではなく明月の下という違いはあるが、水面を走る白い波をうさぎにみたてるのは昔からあったようである。
同じ本の中でも、建長寺の僧自休の詩

「緑樹影沈ンデ魚木ニ上リ、清波月落チテ兎波ヲ奔ル」

や、謡曲「竹生島」の

「緑樹かげ沈んで魚樹にのぼるけしきあり、月海上に浮んで兎も波を奔るか」(もちろん、自休の詩によるものだろう。)

などが紹介されている。
「この世界の片隅に」の作者が、これらの古典を知っていたのか、偶然なのか、どちらでも面白い。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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