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超人とモラル

私の別ブログに書いた記事をもうひとつのブログに自己引用した記事の、このブログへの引用である。つまり、ブログ記事の、2度にわたる異世界転生だwww
自分の書いた記事だから、少なくとも自分にとってだけは面白いから転載するわけで、まあ、「なろう小説」、特に異世界転生物への批判だが、実はここで書かれている類の漫画やアニメ、あるいは素人小説(なろう小説)はやたらに多いのである。と言うより、なろう小説から漫画化やアニメ化された作品が膨大にあり、その大半は主人公が異世界転生と同時に超人化するのである。

(以下自己引用)元記事に書き加えた部分がある。

超人とモラル

別ブログに書いた創作論だが、自分で読んでも(自分で読むからこそだがwww)わりと面白いので、ここにも載せておく。ちなみに、ここで言及されている「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」は藤子不二雄の漫画で、私はこれでアイドルタレントの「枕商売」というものの存在を初めて知ったと思う。というより、それが「当然のこと」のように描かれていることに愕然としたのである。そのころは私はまだ中学生くらいで、清純派タレントは本当に清純だと思っていたのであるwww さすがに今の子供は小学生でもそういう素朴さはないだろう。

(以下自己引用)
私は昔から、小説や漫画などの与える快感は主人公の「上昇感覚」だという説を持っている。たとえば「レ・ミゼラブル」のジャン・ヴァルジャンは、最下層の身分で泥棒の罪で監獄に半生の間入れられ、無一文で世間に放り出される。これ以上はない、最底辺の境遇だ。それが、ミリエル司教との出会いをきっかけに厚生し、工場経営者、市長として尊敬される身分になる。そしてコゼットを養女として育てることで親としての幸福も得る。そういう上昇感覚が読者にも共感されるわけだ。そして後半ではその身分と境遇を捨てることで、社会的には再び底辺の生活になるが、自分を犠牲にしてコゼットの恋人を救ったことで、いわば「天上的レベル」で至高の位置に上るわけである。
つまり、前半は物質的・世俗的上昇であり、後半は宗教的・精神的上昇の物語である。だから、読んでいて読者にこの上ない幸福感や快感を与えるのである。
で、「最初から高い立場にいる人間」が権力をふるう話は面白いか、と言えば、やはりそこには上昇感覚は無い。
そこを勘違いしているのが多くの「なろう小説」であり、特に「異世界転生物」だろう。主人公が最初からあらゆる才能に恵まれた「なろう主人公」や、異世界転生で超人的能力を身に付けた主人公の話を読んで、面白いのは最初の間だけだろう。そこにはもはや上昇感覚は無いからだ。
なぜこんな話をしたかと言うと、昨日一昨日と半村良の遺作「獄門首」を読んで、やはり上手い作者だし、面白いのだが、その面白さが「読む快感」とは少し違うなあ、と感じたからである。つまり、私の言う「上昇感覚」の方向性が違うという感じだ。主人公はゴマの蠅の子供で幼くして両親を失くし、寺の小僧みたいな身分で育てられる。ところがこの主人公はあらゆる才能に恵まれ、何をやっても成功するのである。つまり、「なろう主人公」だ。では、その主人公の成功がそのまま読者の快感となるかというと、それが少し違う。それは、主人公が世俗的なモラルを持っていないからではないか、というのが私の推定である。
「超人」というのは、モラルに縛られるという弱さすら持たないからこそ超人なのだ、ということは分かる。しかし、ではそのような超人が好き勝手をやる話を読んで面白いか、快感があるか、と言えば、それは「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」を読めば明白である。読者は主人公の破壊的行動に面白さを感じながらも、そのモラルの無さに眉を顰めるはずだ。なぜなら、読者である我々は、その「超人」に蹂躙される弱者であり平凡人であるのは明白だからだ。
確かに、弱点を持たない超人というのは多くの人の夢であり理想だろう。誰でもそういう立場になりたいと思う。しかし、全知全能の神になって面白いか、と言えば、面白くもなんともないのは自明だろう。面白半分で世界を創造し、気まぐれに世界を破壊して、何が面白いのか。いつでもどこでも好き勝手に美女を犯して何が面白いのか。
モラルというのは「禁止の体系」である、という指摘がある。まさにその通りであり、モラルに従うというのは束縛されることだ。では、それは無意味かと言うと、世界からあらゆるモラルが消えた状態を想像したらいい。それは野獣の世界そのものだろう。あらゆる悪が許される世界なのである。
なろう主人公というのは、自分だけがモラルを超越し、他の人間はモラルに従うから別の話だ、という反論も可能だろう。では、幼児を相手にゲームなりスポーツをして、勝って面白いか。
勝利が面白いのは、勝つ相手が「悪」だからであり、強敵だからだ、ということを私は指摘しておきたい。つまり、必然的に主人公は善の立場であり、モラルに即した話でないと、実は面白くない、快感は無い、ということだ。
 

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「感傷性」への称揚

講談社が発行している「赤の謎」「青の謎」「白の謎」「黒の謎」という、4冊シリーズの江戸川乱歩賞受賞作家の中短編を集めた作品集があり、さすがに作家それぞれ達者なものである。乱歩賞自体は推理小説作家の登竜門的なものだろうが、その後ベストセラー作家や中堅作家になった人が多い。つまり、乱歩賞選定委員の鑑識眼が確かだということだろう。そういう意味では、作家歴が長いだけの作家への「功労賞」的な受賞が時々ある直木賞や、一発屋(特に、既に他のジャンルで名を成している有名人への、「宣伝効果」目当ての授賞)が多い芥川賞よりまともかもしれない。

で、ここで妄想的考察をしたいのは、藤原伊織の「ダナエ」という作品を読んでの感想だ。それは、彼の作品は他の推理小説作家の作品群との違いがあるのではないか、という説である。そして、それは「センチメンタリズム」だ、というのが私の考えである。これは悪い意味ではなく、それを「詩情」と言ってもいい。
他の作家の作品は、「上手く虚構を作れましたね」と感心はするが、感動はあまりない。まあ、推理小説に感動を求めるのが間違いで、あくまで娯楽だ、というのが本当だろうが、そこに推理小説(あるいはSF小説、あるいはホラー小説)が「文学」より一段下に見られるところがあると思う。(これは世間的評価の意味で、私は優れた娯楽小説は「文学」より貴重だという考えだ。そもそも、私も含め、大衆は「文学」など読みもしない。)
で、「ダナエ」を読んで私は不覚にも涙を浮かべたのだが、それがあきらかに「センチメンタリズム」の涙だ、というのも意識していた。いや、人間は、感動で涙するよりも、感傷によってこそ涙するのではないか、というのが私の主張である。
まあ、感動と感傷は何が違うかと言えば、それは独断的に言えば「詩情の有無」だと言っておく。
ついでに言えば、「ダナエ」は、推理小説として完璧な構成を持っており、細部の破綻がまったくと言っていいほど無い。特に「ダナエ」というタイトルが、完全に小説の主題を暗示しているのが最後に分かるのが見事である。で、小説の最後に至って、読者に涙を浮かばせるのであるが、それは「推理小説」としての感動ではまったく無い。それを私は「センチメンタリズム」と言っている。それは演歌の中にも学校唱歌の中にもポップスの中にもある。
私は俗流ハードボイルド小説(ピストルと拳骨とセックス)が大嫌いなのだが、一流のハードボイルド小説には詩情がある。その詩情を「センチメンタリズム」と私は言っている。 


ちなみに、リラダンの短編、「センチメタリズム(サンチマンタリズム)」は、まさしくハードボイルド小説である。ハードボイルドとは、「声を上げて鳴く虫よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす」ということだ。けっして「男のハーレクインロマンス」ではない。もちろん、「ハーレクインロマンス」を軽蔑する女流作家が、それ以上の作品を書いているとは限らない。少なくとも売れていない。


(追記)「隠居爺の世迷言」を読んでいたら、末尾にこのような部分があったので転載する。若手小説家の作品に情緒が欠けているのは、「合理主義」優先の世相の反映かもしれない。感性がアメリカ式にドライになり、「恋愛=即セックス」「嫌悪感=即殺人」では、情緒も何もあったもんではない。

 最近の世の中には、情緒が無くなっているような気がする。人はもちろんそうだけれども、建物などの人造物からも情緒的なものを取り除いていっているような。アメリカナイズってそういうことなのかな。情緒はおしゃれじゃないから?

 本来の自然な情緒が取り除かれている一方で、コロナ怖いとか、ウクライナかわいそうなどという、金儲けのために作られた情緒に人々が簡単に乗せられてしまうというか、洗脳されるというか。LGBT推進法などというのもその手のものだよね。

 情緒的ではなくなったように見えるけれど、実は原始的で単純な情緒しか持つことが許されなくなってきたということかな。要するに官製情緒だね。つまらない世の中になってきたものだ。岸田総理お勧めのグレートリセット、そしてその後の世界というのも、官が一人一人の情緒をコントロールしようとするものなんだろうなあ。これ以上ない基本的人権の侵害であるように思うな。ていうか、人を人とも思わぬ所業だよね。

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浮かれ女盛衰記

作者名も詩題も知らないが、おそらく森鴎外主宰の新声社の翻訳で、七五調の音声が快くて覚えている詩がある。ただしうろ覚えである。


流れの岸のひともと(一本)は
御空の色の水浅黄
波ことごとく口づけし
はたことごとく忘れゆく


「はた」は「また」と同じ。もちろん、これはある種の女性と男たちの関係を描いたものだろう。
これで思い出すのが、大島弓子の「海にいるのは」で、主人公(あるいは副主人公)の母親が娼婦で、その女性が窓辺で椅子にかけて時折口ずさむ詩である。「海にいるのは」というフレーズ自体は中原中也の詩の一節だろう。

海にいるのは男たち
寄せる偽り
返す真実
寄せる真実
返す偽り

これもうろ覚えで、最後の2行は私が作ったかもしれない。
で、このふたつの詩で私が連想するのはバルザックの「浮かれ女盛衰記」という小説のタイトルで、私はその小説自体は読んでいないが、男女関係においてある種華やかな生き方をしてきた女性の幸福と悲哀を表す題名だな、とは思う。もちろん、娼婦と単なる「浮かれ女」を同一視はできないが、男女関係という点では同一だ。まさに、男たちは彼女に一時期だけ近づいて消えていくのである。川岸や海岸に寄せる波と同じである。もちろん、男たちの中には彼女を「忘れ得ぬ人々」のひとりとして一生記憶に残している男もいるだろう。



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推理小説における「観の目」と「見の目」

宮本武蔵の「五輪の書」に、「観の目と見の目」という思想が書かれていて、これは人生哲学として非常に重要な思想だと私は思っている。それは、「物事を大きく広く見る観の目と、物事の細部を詳しく見る見の目が剣術家(当時は芸者と言っていた。今は武芸者と言う)には必要だ」という思想である。
私は、「観の目」が優勢な人間で、「見の目」は開きめくらに近い。まあ、日本人では異端の血液型のせいだろう。小さなものを注視するのが苦手で、同じ物を十秒と続けて観察できない。A型の人間は「見の目」が優勢のようだが、日本人はA型が一番多いらしい。それは、造形芸術など、特に模写能力の高さとして現れる(ネットには素人の描いた見事な写実絵画が無数にある。)が、飛躍的な物事を苦手とする。だから、日本では優れたシュールレアリズム絵画は生まれなかった。そして、「不思議の国のアリス」のような小説も生まれなかった。まあ、漱石の「夢十夜」あたりが、いちばんそれに近いか。

さて、以上は話の枕であるが、本題にももちろん関係する。本題は、今読みかけの「見えないグリーン」のことで、残りページも少ないので、そろそろこの推理小説の出している問題の解答を考えてみようということだ。305ページ中の266ページまで読んだ時点である。つまり、残り2割弱か。ただし、私のそれは「論理的」解答ではない。というのは、この小説自体が「推理小説における『事実』や『論理』への嘲笑、パロディ」ではないか、というのが私の直感だからだ。
推理小説の読者は作中の「事実」や、主人公(多くは「探偵」である)の「論理的」推理を後追いして、小説の謎の解明や犯人が誰かに頭を悩ませる。だが、言うまでもないことだが、その「事実」は作者が提供したフィクションであり、「探偵」の推理も、作者が彼を「名探偵だ」と保証しているだけにすぎない。ヘボ探偵が主人公の推理小説は稀だろう。昔のドーヴァー警視(警部?)とか何とかいった主人公のように、とりあえず近くにいた人間を何の根拠もなく「お前が犯人だ!」と捕まえ、それがだいたいまぐれ当たりするという小説は稀だと思う。
で、私はそのドーヴァー方式で行くつもりだ。
この推理小説の根幹は、前に同じ小説に出て来る小話として私が紹介したパズルにあると思う。
つまり、「情報は、それ自体が誤解を生む」ということである。
で、第三の殺人事件の被害者である推理マニアの老婦人が、なぜ甥とその婚約者のパーティを欠席しながら、あのような「無意味」そうなパズルをわざわざ送ったか、というのが問題だ。
それは、「私には一連の殺人事件(前の2回)の犯人が分かった」あるいは「お前(甥)の身に危険が迫っている」というものだろう。前者の場合はそれを、パーティ参加者全員に知らせることに意味があったわけだ。だが、それで事態の急転を知った「犯人」は、急いでその老婦人を殺したわけである。
さて、あのパズルの意味、あるいは思想は何かと言えば、「物事は、そう見えることの反対であることがある」ということだ。男だと思っていたら女だった、というのがあのパズルだった。
そこで、この推理小説「見えないグリーン」が延々と書いてきたのは、素人推理愛好家7人組にまつわる話で、たいていの読者はその7人の中に犯人がいる、と思うわけだ。だが、殺された老婦人(女史と言っておく。頭脳明晰な女性だ)が言うように、「窃盗で裁判にかけられた男がいて、検察側は彼の犯行を見ていた四人の証人を召喚したの。すると被告は、彼が盗むところを見たことがないという証人を八人呼んだんだって!」ということで、「事実」をいくら集めても「真実」になるとは限らない。女史は、検察側の立場に立って(だと思うが)「反証が無いということは証拠にはならない」と言っているが、この話はむしろ「事実」というものの危うさを示していると思う。黒い烏を何万羽集めても、白い烏が存在しない証明にはならない。
で、この「見えないグリーン」が推理小説愛好家7人組の話を長々と積み上げてきたのは、実はそれが「重要でない」は言い過ぎにしても、「ミスリード」としての機能だった可能性が大きいと私は思うわけである。いわゆる「赤いニシン」である。
で、ほとんど根拠は無いが、ドーヴァー流に、手近な人間を「お前が犯人だ!」とするなら、私は殺害された老婦人の「善良そのものに見える」甥と、その共犯者として彼の善良そうな婚約者を挙げる。このふたりは、少なくとも「第二の殺人」では、犯行機会が一番ある人物で、ただ「犯行動機」が無いと見られて警察には嫌疑をかけられなかったのだろう。で、第一の殺人は三つの殺人事件ではもっとも不可解な「密室殺人」だが、これは密室の中で死亡者が病気で急死したとすれば、殺人事件でも何でもない。この第一の死が例の老婦人に第二の殺人を思いつかせ、甥を手先として第二の殺人事件をやらせた可能性もある。で、「殺人事件計画立案者」の女史が、甥に「例の事件が発覚する可能性がある」という警告の「パズル」を出したことで甥は逆に、「すべてを知っている」伯母を殺害したというわけだ。まあ、甥(あるいはその婚約者)がパーティ会場からどうして抜け出したかは分からないが、これはいくらでも作者が事情を説明する「小説内事実」を出してくれるだろう。
要するに、小説内の情報が多すぎることで、私はこれらの情報の大半はミスリードのための情報だ、と判断したのである。というより、私の記憶能力では、それらの情報を覚えていられないから、ドーヴァー方式を採用するしかないwww


(追記)一応、答え合わせを報告しておくと、私の答えは「半分正解」である。詳しくは言わない。ただし、第三の殺人(メインの殺人)の殺害方法はほとんどギャグである。ゴルフと関係はある(地面に置かれた少し大きいだけのボールをドライヴァーで打つのだから、ゴルフの素人には難しい。ただ、その「ボール」がなぜ動こうとしないのかが問題だ。)が、「ゴルフ場のグリーンとは無関係」と言っておく。第一の死亡事件も他殺で、これもギャグにしか見えない。ヒントは、マルクス兄弟の某映画である。森博嗣あたりが喜びそうな「物理的」手段だ。作者のスラデックは本来はSF小説書きらしい。




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「ローマの休日」という映画題名のこと

世間的にはどうでもいい問題だが、私は誤謬が世間に広まるのが我慢できない性格なので、「逝きし世の面影」ブログが固執する、「『ローマの休日』の映画タイトルは、裏に「他者を犠牲にして得る娯楽」の意味が隠されている」、という説を考察してみる。

第一に、この題名にそういう意味が隠されているとしたら、それは

誰の利益(娯楽)なのか

という問題だ。映画の内容からすると、ローマの休日を楽しんだのはヘップバーン扮する某国の王女だろう。で、それは誰を犠牲にして得た娯楽なのか。グレゴリー・ペック扮する新聞記者やその相棒の写真家が「特ダネをあきらめて、公表しなかったこと」か。はたして、それが「他人を犠牲にして得た娯楽」なのだろうか。まあ、百歩譲って、そういう「些細な」犠牲でも犠牲は犠牲だ、としてもいいが、それは「自分の自由な人生を半分あきらめて王女として生きる」王女の決心より小さな犠牲だろうか。

第二に英語原題の「Roman Holiday」は本当にそういう意味があるのか。これは調べてみる。romanは形容詞で「ローマの」の意味だ、と英語辞書にはある。つまり、「ローマの休日」は英語の直訳であり、まさにそのままで英語タイトルの意味を伝えているのである。確かにromanには「ローマ人の」の意味があるが、それはjapaneseが「日本の」でもあり「日本人(の)」の意味でもあるのと同じで、ごく普通のことだ。何も、roman holidayを、誰かを犠牲にして成り立つ娯楽、の意味に解することはない。少なくとも、この映画のどこにも、古代ローマのコロッセウムで剣闘士が殺し合ったり野獣と戦ったりしたような殺伐としたものは存在しない。唯一のバイオレンスは、ヘップバーン扮する王女が、彼女たちを捕まえに来た連中のひとりの頭をギターか何かでぶん殴る(カメラマンがその決定的シーンを撮り逃して、「もう一回」と注文すると、もう一度殴るというギャグがある。)シーンだけだwww

私は「ローマの休日」は歴代映画の中でも一、二番に好きな作品なので、宗純氏の度重なる「ローマの休日」への発言は神聖なものへの冒涜としか思えないのである。


(以下引用)


ローマの休日(他人を犠牲にして得る娯楽・利益)



映画史に残る不朽の名作『ローマの休日』(オードリー・ヘプバーン主演、1954年日本公開)は、ローマ滞在中に自由を求めて宮殿を抜け出した王女アン(オードリー・ヘプバーン)と、町で偶然出会ったアメリカ人の新聞記者ジョー(グレゴリー・ペック)の恋を描くラブストーリー(★注、当時のハリウッド映画の定番のハッピーエンドではなく王女は恋を諦め記者はスクープ記事を諦めて別れる悲恋として描かれる)

脚本を担当したダルトン・トランボのオスカー に対する画像結果.サイズ: 184 x 170。ソース: eiga.com

日本語版タイトルは英語を日本語に直訳したものだが、この映画の正しいタイトルは「Roman Holiday」(=ローマ人の休日、「ローマの休日」はホリディ・イン・ローマ)


映画「ローマの休日」の原題の「ローマ人の休日」とは古代ローマ帝国においてコロッセウムでキリスト教徒をライオンに食わせるとか剣闘士の戦い(奴隷同士の殺し合い)を、ローマの民衆たちが見世物として楽しんでいた史実に由来する慣用句で「他人を犠牲にして得る娯楽・利益」という恐ろしい英語表現で、密かにタイトルにもう一つの意味が隠されていた。脚本を担当したダルトン・トランボは当時のアメリカで吹き荒れた「赤狩り」(マッカーシズム)の標的になって投獄され、ハリウッドから追放されたハリウッド・テンの一人で、「ローマの休日」には別人(偽名)で参加。死後の1993年「ローマの休日」アカデミー原案賞がトランボに贈られた。2011年米脚本家組合が『ローマの休日』のクレジットをトランボに変更したと発表した。2022年05月13日 | 経済 ローマの休日(他人を犠牲にして得る娯楽・利益)

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「ロンドンデリーエアー」の各種ミックス

今朝の夢の中で、なぜか昔の職場の同僚(ひとりはなぜか皆川猿時だったようだが、もちろんテレビでしか見たことがない俳優だ。)と雑談して、なぜか、「島崎藤村の『椰子の実』は実は監獄で刑死した我が子を偲ぶ母の歌だ」という「驚異の発見」が生じて、職員一同が驚くという変な出来事があったのだが、起きて考えてみると、その歌(曲)は『椰子の実』ではなく、「ロンドンデリーの歌」だった。まあ、「ロンドンデリーの歌」は確かに(下の記事の津川圭一作詞だと)「我が子の不在(兵士となって、椰子の実と同じく流離している)を嘆く母の歌」ではある。だが、監獄での刑死ではない。
昨日だったか、終身刑になろうとして人を2人殺したアホの記事を書いたが、その残留記憶がこの夢につながったのだろう。
その一節を夢(覚醒前の朦朧状態)の中で作ったので、その部分を載せておく。

暖かき春の日差しに
監獄に光はめぐる
耐えがたき母の悲しみ
さなり我が子は逝きぬ

最後の2行は誰かが作詞した「ロンドンデリーの歌」の詞をそのまま使った。私が作った前の2行だと、母親を監獄に呼んで、その目の前で殺したみたいだが、まさかそういう習慣は無いだろう。津川圭一作詞の歌詞とミックスすると、こうなる。(「愛(いつく)しむ」は「慈しむ」が一般的だろうからそう書いた。)(「暖かき」は最初は「暖かな」だったが、古文文法に従って「暖かき」とした。すると自動的に「き」「に」「き」「り」と語尾が「イ音」で揃うことになり、少し通韻(押韻)がうるさいかな、と思ったが、そのままにする。各行の語尾も1行ごとに「イ音」と「ウ音」が交替し、これも押韻になっている。)(光は「めぐる」ものではない、という批判は受け付けない。母親が感情の問題でそう感じただけだ。)(この「母親」は刑死した犯人の母親ではなく、殺人犯の死刑に立ち会った、殺人事件の被害者の母親としてもいい。)

吾が子よ 愛しの汝(なれ)を
父君の形見とし
心して慈しみつ
今日まで育て上げぬ

暖かき春の日差しに
監獄に光はめぐる
耐えがたき母の悲しみ
さなり吾が子は逝きぬ

ロンドンデリーの歌 Londonderry Air

18世紀から伝わる古いアイルランドの旋律

『ロンドンデリーの歌』(The Londonderry Air)、または『デリーの歌』(The Derry Air)は、18世紀から伝わる古いアイルランドの旋律『若者の夢(The Young Man's Dream)』に基づく歌詞の無い器楽曲。


1855年出版の楽譜集「The Ancient Music of Ireland(アイルランド古代音楽)」に収録され、ロンドンデリー出身のジェイン・ロス(Jane Ross/1810–1879) が収集したことから、後年この曲名がついた(出版当時は無名だった)。


このメロディには様々な歌詞がつけられているが、『ダニーボーイ(Danny Boy)』が最も有名と思われる。


ロンドンデリーの街並み


写真:ロンドンデリーの街並み(出典:Wikipedia)


『Londonderry Air』のメロディにつけられた数多くの歌詞の中では、キャサリン・タイナン・ヒンクソン(Katherine Tynan Hinkson)が1894年に発表した『アイルランドの恋の歌(Irish Love Song)』が世界的に知られている。


歌詞の一行目から、『私がリンゴの花だったら(Would God I were the tender apple blossom)』の曲名で呼ばれることも多い。


このページでは、この『アイルランドの恋の歌(Irish Love Song)』の歌詞について、その意味・和訳を掲載しておく。

【YouTube】ロンドンデリーの歌 Londonderry Air

歌詞の意味・日本語訳(意訳)

『Irish Love Song』(アイルランドの恋の歌)


作詞:Katherine Tynan Hinkson


1.
Would God I were
the tender apple blossom
That floats and falls
from off the twisted bough,


To lie and faint
within you silken bosom,
Within your silken bosom
as that does now!


もし私がリンゴの花だったなら
ねじれた枝から
ふわり浮かんでふわり落ちて
貴方のシルクの胸元に
舞い降りたい


Or would I were
a little burnish'd apple
For you to pluck me,
gliding by so cold,


While sun and shade
your robe of lawn will dapple,
Your robe of lawn,
and you hair's spun gold.


もし私が磨かれたリンゴの実だったら
木漏れ日の中で ローブが揺れる
金色の髪の貴方に
もぎ取ってほしい


2.
Yea, would to God
I were among the roses
That lean to kiss you
as you float between,


While on the lowest branch
a bud uncloses,
A bud uncloses,
to touch you, queen.


もし私が野薔薇だったら
軽やかに舞う貴方に
身を傾け口づける
貴方に触れたいがため
開く下枝の芽


Nay, since you will not love,
would I were growing,
A happy daisy,
in the garden path;


That so your silver foot
might press me going,
Might press me going
even unto death.


貴方が愛してくれないのなら
庭の小道に咲くヒナギクとなって
銀色の靴を履いた貴方に
枯れるまで踏み潰されたい

日本語で歌える訳詞

『ロンドンデリーの歌』には、日本語で歌える訳詞がつけられている。


まずは、訳詞:近藤玲二による日本語の歌詞を次のとおり引用し、その内容を原曲と比較してみたい。


1.
北国の港の町は
リンゴの花咲く町
したわしの君が面影
胸に抱きさまよいぬ


くれないに燃ゆる愛を
葉かげに秘めて咲ける
けがれなき花こそ君の
かおりゆかしき姿


2.
さぎり降る港の町は
リンゴの花咲く町
いつの日も匂いやさしく
夢はぬれてただよいぬ


たそがれにほほすりよせて
リンゴはなにを語る
誓いせしあの夜の君の
かおりゆかしき姿


近藤玲二による訳詞では、「リンゴの花」という原曲との共通点が見られるが、それ以外は独自の内容で日本語歌詞がつけられているのが分かる。

津川主一による訳詞

『ロンドンデリーの歌』の訳詞としては、フォスター歌曲の訳詞で知られる津川主一(つがわ しゅいち)による次のような日本語歌詞が知られている。引用してご紹介したい。


1.
わが子よ いとしの汝(なれ)を
父君の形見とし
こころして愛(いつく)しみつ
きょうまで育て上げぬ


古き家を巣立ちして
今はた汝は何処(いずこ)
よわき母の影さえも
雄々しき汝には見えず


2.
はてしもなきかの路の
あなたに汝はゆきぬ
むなしき我が家見れば
亡き父君おもわる


足もとの草むらより
立つはさえずる雲雀(ひばり)
ああ われも強く立ちて
我が家の栄誉(ほまれ)を守らん


津川氏による日本語歌詞を見ると、『ロンドンデリーの歌』原曲の歌詞とはまったく関係のない内容である事がわかる。


おそらくこの日本語歌詞は、『ロンドンデリーの歌』に別の英語の歌詞がつけられた『ダニーボーイ Danny Boy』の内容を念頭においたものと推測される。

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恋の風雅

睡眠時間が短いので、深夜に目覚めることが多く、寝床の中で目をつぶって半覚醒状態であれこれ妄想的な思考をするのが常だが、今朝の朦朧思考のひとつが「恋の風雅」というものである。ただし、恋とはまったく関係なく、単に思考のタグ付けとして付けたタイトルだ。
先ほどカレンダーで確認すると、今日は旧暦の9月2日のようだ。つまり、暦の上では晩秋だ。なぜ確認したかというと、朦朧思考の内容が「枯れ枝に烏の止まりけり 秋の暮れ」という芭蕉の俳句に関するものだったからで、「秋の暮れ」は「秋の夕暮れ」とも「晩秋」とも取れる。まあ、晩秋でもあり夕暮れでもあるという情景だろう。
で、私が考えたのは、この俳句の音調の良さであり、それが実は「字余り」であることと、飛び飛びに出て来るK音の作るリズムのためだろう、ということである。
「字余り」は普通は俳句の音調を悪くするが、しかしたとえばこの俳句を「枯れ枝に烏止まるや 秋の暮れ」とか「枯れ枝に烏の止まる 秋の暮れ」としたら、実に愚劣な、平凡な印象になるのではないか。この俳句の非凡な印象は実は「烏の止まりけり」という破調にある、ということだ。
そして、K音の作るリズムとは、全部平仮名書きした次の赤字部分で分かるだろう。

れえだにらすのとまりり あ

K音というのは鋭い音である。それが一定間隔で出てくるので、その度に我々の心が驚くわけだ。
「烏の止まりけり」という破調も、「り」のK音を入れた効果もあるわけである。通常は「けり」は伝聞過去の助動詞とされているが、詠嘆の助動詞でもある。

言うまでもないが、「恋のフーガ」はザ・ピーナッツの歌で、「フーガ」とは「遁走曲」と訳されたりする。つまり、同じメロディーが繰り返されるのが、訳名の理由だろうが、上に書いた俳句はK音の繰り返しという、フーガ的な俳句でもあるから、風雅でもありフーガでもある。
ただし、この考察をしていて考えたのだが、この烏が止まっていたのは本当に枯れ枝だったのだろうか。それもまたK音を出すための工夫だったのではないか。烏がわざわざ枯れ枝を選んで止まったわけではないだろう。もちろん、この「枯れ枝」とは、実際に枯れている枝ではなく、晩秋の、葉が落ち切った枝、ということだろうとは思う。

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