小説には娯楽小説と純文学があるというのが私の考えだが、西洋の小説の中にはその垣根を超えたものが多い。サマセット・モームの選んだ「世界の十大小説」はほとんどすべてそれだと言っていい。
すなわち
1:トム・ジョーンズ
2:高慢と偏見
3:赤と黒
4:ゴリオ爺さん
5:ディヴィッド・コパーフィールド
6:ボヴァリー夫人
7:モウビー・ディック
8:嵐が丘
9:カラマーゾフの兄弟
10:戦争と平和
である。ただし、私はこの中で「ボヴァリー夫人」は読んでいない。たぶん、「娯楽性」がゼロだろうからだ。モーム自身も、この小説を「楽しくは読めない」と思っているらしいことがその筆致で分かる。しかし、「見事な小説」だから、高く評価したのだろう。
それ以外の九つは、すべて偉大な小説でありながら、娯楽性も抜群なのである。まさに、それこそが小説の目指すべきものだろう。
だから私は日本の「純文学」が嫌いなのである。そこには鋭い人間観察や人生への深い洞察はあるが、まったく「娯楽性」が無いからだ。読んでいて気が滅入る小説をなぜ書くのか。これが人間の真実だからと言って、美女の出した大便や無残な死体を目の前に置かれて嬉しいか。
と言うことで、私が読んで楽しくないだろうな、と見当をつけた小説を私はまったくと言っていいほど読まないが、それらが無価値だとは思わない。単に「私には」ほとんど無価値であるだけだ。
と書いたのは前置きで、先ほど読んだ中学生向けの名作短編集の中で、人間の聖性と地獄性について考え、そして、娯楽小説は概して人間の聖性を本質とし、日本の純文学は人間の地獄性を本質としているのではないか、と考えたからだ。というか、それは当たり前の話で、娯楽とは読んで楽しいということであり、地獄を見て楽しいという人間は稀だろう。そして聖性とは人間が天使的存在になることで、光に満ちているわけだ。
その意味では、この短編集「家族の物語」に載せられた向田邦子の「かわうそ」は日本的純文学で、井伏鱒二の「へんろう宿」や太宰治の「黄金風景」は娯楽小説だな、というのが私独自の評価である。遠藤周作の作品「夫婦の一日」も純文学だ。これらが一般的な「娯楽小説」と「純文学」の区別とは別の基準であることを注意しておく。遠藤周作が純文学と娯楽小説の二股をかけていたことは言うまでもないが、「夫婦の一日」は純文学であり、人間の生の地獄性を暗示していると思う。「へんろう宿」や「黄金風景」の背景は最底辺の庶民の生活や人生である。しかし、そこに聖性がある。つまり、光に溢れているのである。もちろん、庶民の生活がすべてそういうものであるはずはない。しかし、ここに描かれた生活は、人生の地獄を地獄とせず、明るく前を向いて生きている人々の生活だ。それを私は聖性と言うのである。つまり、人生を地獄にするか天国にするかはそれぞれの人次第である、という話だ。
なお、太宰治の「黄金風景」の冒頭に、プーシキンの詩の一節が置かれている。この作品を読んだ後で、この詩に戻ると、なぜそれが冒頭に置かれたか分かる。
「海の岸辺に緑なす樫の木、
その樫の木に黄金の細き鎖の結ばれて」
つまり、この「黄金の細き鎖」こそが人間の中の聖性である。
(注)人間の地獄性は、スィフトや筒井康隆のようにそれをブラックユーモアにした時に娯楽になるので、一応、注意しておく。これには高度な知能が必要なのであり、ネットのブラックジョークは、夜郎自大の下種たちの弱者叩きが大半で、笑えるものはほとんど無い。
すなわち
1:トム・ジョーンズ
2:高慢と偏見
3:赤と黒
4:ゴリオ爺さん
5:ディヴィッド・コパーフィールド
6:ボヴァリー夫人
7:モウビー・ディック
8:嵐が丘
9:カラマーゾフの兄弟
10:戦争と平和
である。ただし、私はこの中で「ボヴァリー夫人」は読んでいない。たぶん、「娯楽性」がゼロだろうからだ。モーム自身も、この小説を「楽しくは読めない」と思っているらしいことがその筆致で分かる。しかし、「見事な小説」だから、高く評価したのだろう。
それ以外の九つは、すべて偉大な小説でありながら、娯楽性も抜群なのである。まさに、それこそが小説の目指すべきものだろう。
だから私は日本の「純文学」が嫌いなのである。そこには鋭い人間観察や人生への深い洞察はあるが、まったく「娯楽性」が無いからだ。読んでいて気が滅入る小説をなぜ書くのか。これが人間の真実だからと言って、美女の出した大便や無残な死体を目の前に置かれて嬉しいか。
と言うことで、私が読んで楽しくないだろうな、と見当をつけた小説を私はまったくと言っていいほど読まないが、それらが無価値だとは思わない。単に「私には」ほとんど無価値であるだけだ。
と書いたのは前置きで、先ほど読んだ中学生向けの名作短編集の中で、人間の聖性と地獄性について考え、そして、娯楽小説は概して人間の聖性を本質とし、日本の純文学は人間の地獄性を本質としているのではないか、と考えたからだ。というか、それは当たり前の話で、娯楽とは読んで楽しいということであり、地獄を見て楽しいという人間は稀だろう。そして聖性とは人間が天使的存在になることで、光に満ちているわけだ。
その意味では、この短編集「家族の物語」に載せられた向田邦子の「かわうそ」は日本的純文学で、井伏鱒二の「へんろう宿」や太宰治の「黄金風景」は娯楽小説だな、というのが私独自の評価である。遠藤周作の作品「夫婦の一日」も純文学だ。これらが一般的な「娯楽小説」と「純文学」の区別とは別の基準であることを注意しておく。遠藤周作が純文学と娯楽小説の二股をかけていたことは言うまでもないが、「夫婦の一日」は純文学であり、人間の生の地獄性を暗示していると思う。「へんろう宿」や「黄金風景」の背景は最底辺の庶民の生活や人生である。しかし、そこに聖性がある。つまり、光に溢れているのである。もちろん、庶民の生活がすべてそういうものであるはずはない。しかし、ここに描かれた生活は、人生の地獄を地獄とせず、明るく前を向いて生きている人々の生活だ。それを私は聖性と言うのである。つまり、人生を地獄にするか天国にするかはそれぞれの人次第である、という話だ。
なお、太宰治の「黄金風景」の冒頭に、プーシキンの詩の一節が置かれている。この作品を読んだ後で、この詩に戻ると、なぜそれが冒頭に置かれたか分かる。
「海の岸辺に緑なす樫の木、
その樫の木に黄金の細き鎖の結ばれて」
つまり、この「黄金の細き鎖」こそが人間の中の聖性である。
(注)人間の地獄性は、スィフトや筒井康隆のようにそれをブラックユーモアにした時に娯楽になるので、一応、注意しておく。これには高度な知能が必要なのであり、ネットのブラックジョークは、夜郎自大の下種たちの弱者叩きが大半で、笑えるものはほとんど無い。
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