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庄屋はこの里の役人で、月丸と花瀬という夫婦の犬を飼っていた。この家に貰われてきて以来、二匹とも庄屋本人はもちろん内の人々にたいそう可愛がわれたので、二匹はそれをとても恩義に感じ、主に忠実に仕えるとともに、家人と財産を守っていた。この月丸と花瀬の働きで、長らく庄屋の家には泥棒も入ることがなく、財産家として栄えていた。
この数日続く大雪に、まるで久しぶりにお越しになった伯母様にお会いできたような嬉しい心持ちになっていた月丸は、大きな屋敷の広い中庭で妻の花瀬と一緒に遊び戯れていた。そのときのことである。裏庭の鶏小屋の辺りから、いつになく騒がしいニワトリの鳴き声に混じって、コンコンとキツネの声が聞こえた。
「やや、あの声は狐。さてはあの狐の奴、今日もまた我が主の屋敷に忍び込んで来たな。先日あれほど懲らしめてやったのに、もうその痛みを忘れ、再びわが主のニワトリに牙を掛けようというのだな。性懲りもない憎き奴め、最早容赦はせん、今度こそは討ち取ってくれる」
と言うと、月丸は折から深く降り積もった雪を蹴立て、広い中庭を真一文字に横切って裏庭の鶏小屋へと急行した。狐は月丸が一目散に自分に向かって来るのを見ると、以前と同じように慌てふためいて、今度は表門の方向へ逃げて行く。月丸はその狐を逃すまいと後を追い、表門を駆け抜けようとしたその時であった。ガオオオ!この世のものとも思えぬ猛り声が聞こえ、表門の横合いから急に月丸に飛びかかろうとするものがあった。月丸は、これは一体何者かと、相手を見た。すると、何と月丸の身体より二回りも大きな虎が、目を怒らせ、その牙を鳴らし、刃のように反り返った爪を振り立て襲いかかって来ようとするではないか。その恐ろしさといったらこの上もないものであった。普通の犬であればおそらくその場で恐怖のあまり腰を抜かしたことであろう。しかし月丸は生まれつき勇猛な犬であった。襲いかかって来た大虎に雄叫びを上げながら喰い掛かり、反撃した。月丸は大虎としばらくの間死力を尽くし闘ったが、もとより勝負の行方は明らかで、残念ながら大虎と相打つほどの力は持ち合わせていなかった。無残なことに、月丸は大虎の牙と爪にかけられ、肉裂け、皮破れ、悲鳴を上げ息絶えてしまった。大虎は月丸のその亡骸をその鋭い牙の生えた大きな口に咥えるや庄屋の門を後にし、雪を蹴立てて、己が山奥の棲処の洞へと戻って行った。月丸が果てたその場所には血だまりだけが残され、その血飛沫は辺りの雪の上にあたかも紅梅の花びらを散らしたかのようであった。そして大虎が山奥に向かって残した雪の上の足跡に沿って、月丸の亡骸から滴り落ちた鮮血がはるか山の彼方まで点々と続いていた。
物陰に隠れていた月丸の妻の花瀬は、夫・月丸と大虎との死闘、夫の果敢な勇ぶり、そしてその最期の様子までの一部始終を目を皿にして見つめていた。花瀬はか弱い雌犬であった。しかも折しも月丸の子を身ごもり、乳房も垂れ、夫に加勢して大虎と闘うなどというわけにはゆかぬ体であった。花瀬は、夫・月丸が非業の最期を遂げるのを目の当たりにし、自ら救いの手を差し伸べることさえできない無念さに、胸が塞がるほど悶え苦しんだ。花瀬が精一杯できることと言えば、甚だしく悲しみに充ちた声を振り絞って頻りに吼え立てることのみであった。悲鳴にも聞こえる花瀬の狂ったような吠え声を聞きつけ、主の庄屋と家人たちは「これは只事ではない、何事かあったに相違ない」と次々と屋敷から出て来た。皆がやって来て屋敷の門の前を見れば、ここ数日降り積もった雪が四方八方に蹴散らされているばかりか夥しい血に染まっている。庄屋をはじめ集まった者たちは「これは如何に」と、大きな獣の足跡に沿い滴り落ちた血の行方を見ると、遙か遠くの山陰を一匹の大虎が行く姿が見えた。大虎は口に獲物を咥えていた。それはどうやら月丸の亡骸であった。
「あっ、あれは月丸だ!月丸!おまえ、喰われてしまったのか!くそ、もう少し早く気づきさえすれば、おめおめとあの大虎におまえを喰わせなぞさせなかったのに。ああ、かわいそうなことをした。月丸を見殺しにしてしまった」
主の庄屋は可愛がっていた月丸の思いもよらぬ最期を見て、地団駄を踏んで悔しがったが、なすすべもなく、それは後の祭りであった。夫の非業の死を受け入れられぬ月丸の妻・花瀬は大変に取り乱していた。庄屋の内の者たちは代わる代わる花瀬の悲しみを和らげようとなだめすかしたが、花瀬の心は激しく動揺し、その日から心を乱すようになってしまった。花瀬は朝から晩まで犬小屋に籠もったきり、餌を与えてもなかなか食べようとはしなかった。錯乱した声で吠え散らかし、門を守る役割も忘れてしまった。あれほど忠実であったにもかかわらず、もはや番犬の用さえ果たせなくなった。主の庄屋は花瀬がこうして取り乱してしまった原因を知っているので、その狂おしい姿を見ていっそう気の毒さが募り心を込めて介抱してあげた。だが花瀬の症状は変わらず、次第にやつれていくのみで、体の肉は次第に落ち、骨が見えるほどに痩せこけ、潤っていた鼻先も渇き、この世の犬とは思えぬ心細い変わり果てた姿になってしまった。こうした中、お腹の子の月が満ちた花瀬は産気づき、錯乱した精神と激しい陣痛に見舞われながら一匹の子犬を産み落とした。生まれた子犬はそれはそれはとても端正で立派な茶色の毛の生えた雄犬だった。その子犬の背中には金色の毛が混じり、まったくもって霊妙な光を放っていた。それ故、庄屋はその子犬に「黄金丸」という名を付けたのであった。
花瀬は手の施しようのない重い精神の病にとりつかれていた上に、さらにそこで出産を迎えるという事態であったから、黄金丸を産み落とすや、張り詰めていた心が一気に緩んでいよいよ重篤となり、明日をも知れぬ命となってしまった。臨終の際、花瀬は庄屋の裏で飼われていた兼ねてから懇意の牡丹という名の牝牛を枕元に呼び寄せた。花瀬は苦しい息をほっとつきながら、喘ぎ喘ぎ、そして途切れ途切れに牝牛の牡丹にささやいた。
「牡丹さん。ご覧になられるとおり私の容体は甚だ重いのです。とてものこと、最早、命長らえるわけには行かないでしょう。ですから、牡丹さん、私は、ここで、一つだけなのですが、牡丹姐さんにぜひ頼んでおきたいことがあるのです。ぜひ頼まれてください。私の夫の月丸は、先日、あの猛虎の金眸の牙にかかり非業の最期を遂げました。それは牡丹姐さんもご存じのことと思います。あの時、私は夫・月丸があの金眸に殺害されるのを目の当たりにしながら、それに救いの手を差し伸べることなく、見殺しにしてしまいました。犬の身ではありますが、我ながら自分を節操も信念もない見下げ果てた犬だ、と思うのです。私は月丸の妻です。夫が危難に合っていたら、たとえこの身が滅びようと、夫をそこから救い出さずしてどうして妻と言えましょう。救わなければならなかったのは言うまでもないことです。道を行く上で当然行うべきことを知っていたら、必ずこれを実行しなければならないのが世の道理です。それが義を知る獣の守るべき本来の姿なのですから。こういったことは私風情でも普段から心がけて来たつもりでした。けれども、あの時私が命を惜しんだのは、私が普段の私の体ではなかったからなのです。もしあの夫の火急の危難の場に私が助太刀に出、夫とともにあの猛虎と争ったら、われら夫婦ともども殺され、あの虎の餌食にされていたに相違ありません。こうなったとき、誰が私たちの仇を討ってくれるのでしょう。夫と私と私のお腹の子の三匹があの大虎の牙に掛かって命を捨ててしまっては、それこそ元も子もありません。みなさんは夫の危難を救うことは妻が節操を守ることだと言われるでしょう。でも私はあのとき、そうすることは実は逆に妻としての節操を捨てることだと思ったのです。犬死にというのはまさにこのことを言うのだと思ったのです。そう私は固く心に決め、夫が非業の最期を遂げるのを目の前に見ながら、とても我慢できないことでしたがどうにか我慢して、こらえられないことでしたがそれもようやくこらえて、手も足も出さず、夫をみすみす見殺しにしたのです。それはただひたすら私の決めた節操を守ろうとしたからです。その節操とはすなわち夫の仇を討つのは、今私のお腹の中にいるこの子なのだ、この子に仇討ちを委ねるのだ、だから今目の前で最期を遂げている夫のために、私は身籠もっているこの子を産まねばならないのだ、そう思ったのです。そうして今日までどうにか命長らえたものの、不幸にも仇を云々言う甲斐もなく、病気になり床に伏してしまいました。あの時に絶えてしまったはずの私の命ですが、どうにかこうにか細々とつなぎ、やっとのことでこの子を産むことが出来ました。しかし、残念ながらこの子を育てる願いは叶わぬこととなりました。この子を産み育て遂げようとした仇討ち、それさえもできないこの口惜しさ。お姐さん、どうか推し量っていただけないでしょうか。お姐さん、この子をどうかお姐さんの養子として貰っていただき、お姐さんの乳で育て上げていただけませなんでしょうか。この子がひとかどの雄犬に育った時、お姐さん、その時に、私がお姐さんに申し上げる、今これから申し上げることを伝えて頂けませんでしょうか。お前が母のために何かをしたいというのであれば、それは私の夫の仇を討つことであること。お前が自分のために何かをしたいというのであれば、それはお前の父の仇のあの大虎の金眸を討ち取ることであるということを肝に銘じて、お前のその力量を養うこと。この二つこそ、母がお前に願うことである、と。お姐さん、お姐さんへの頼みというのはこの事です。お姐さん、どうぞお頼みします。お・たのみしま・す。たのみ・・・ます。たの・み・・・」
と、花瀬の声は次第にか細くなっていった。冬の虫の声や草葉の露のように、命というものが脆くはかないのは、犬も人間も同じであった。