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人類総雌化

実は、中断中の「隣のエイリアン」のラストは、地球人が全員雌になる(その結果、人類の暴力志向は無くなり、平和な世界が実現する。)にしようかと思っていたのだが、パソコンの不調などもあって、まったく手を着けていない。まあ、とりあえず、人類が全員雌になっても存続するというのは、下の寄生バクテリアを利用しても可能なようだ。




宿主を性転換させる寄生バクテリア
> ボルバキアに感染したオスは、生殖能力のあるメスに性転換するか命を奪われる。メスの場合はオスを必要とせず、単独で子を作らせる

マジかよ自然界にこんな百合厨過激派みてえな奴いるの!?


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隣のエイリアン 第十章





第十章 先輩と後輩


 


部屋(と言うか、家というか、未だによく分からない)には「父親」がいて、パソコン(デスクトップ型である。)に向かっていた。彼は私たちを見て驚いた顔になったが、驚いたのは娘たちも同じだった。こんな平日の昼間に「大人」が在宅しているのは想定外だったのだろう。


「あ、い、いらっしゃい」保(我が「父親」)は言った。


「あ、お、お邪魔します」


リーダーで、タマコと呼ばれた娘が言って頭を下げた。


「お邪魔しまーす」


「お邪魔しまーす」


他の二人も続く。


「どうぞ、上がってください」


私の言葉に娘たちは靴を脱いで上がった。


私の部屋に入ってドアを閉めると娘たちは大きく吐息をついた。


「親父が家にいるなんて言わなかったじゃねえか。ったくあせったぜ」


タマコが言った。


「息子が女3人連れ込んで、あっちもあせったんじゃないですかね」


もうひとり、こちらはやや細面で背の高い方が言った。


「さすがに、こりゃあ、エッチはできませんね」


他のひとり、丸顔のほうが言った。


「まあ、ゲームでもしようぜ」


タマコが言って、3人は大人しくゲーム(いわゆるアクション型RPGと言うものだろう。)を始めたが、そのうち興奮して大声を出し始め、ゲラゲラ笑ったりし始めた。なるほど、人間にはこういうのが面白いのか。


私は娘たちを放っておき、自室を出た。


パソコンデスクの前の保(我が「父親」)は、困ったような顔をして私を見た。


「おい、お前、あれは3人とも友達か」


「ああ、そうだよ」


「あれは、原幕高校の女生徒の制服だぞ」


父親は父親なりに原幕高校のことを調べていたみたいだ。


「さっき、美郷公園で知り合ったんだ」


「知り合ってすぐに家に呼ぶとは、お前もやるなあ」


「変かな」


「いや、変じゃあないが、少し羨ましいぞ」


「親父も女が欲しいのかい」


「ば、馬鹿、女がほしいなどと下卑た言い方をするな。ただ、母さんが亡くなってからもう十年以上になるなあ、と思ってな」


(これは私が彼に与えた「捏造記憶」である。)


「まあ、親父もそのうち再婚したらいいさ」


「いや、俺はお前を育てるのが最優先だ」


(これは捏造記憶から彼が勝手に作り上げた「意思」である。「自由意志論」など脆いものだ。)


「何か飲み物でも持っていこうか」


「あ、そうだね。お願いします」


前に言ったように、我々はほとんど水分補給の必要性が無いので、人間が絶えず飲み物を飲む生物であるのを失念していたのである。


部屋に戻ってしばらくすると、「父親」が、お盆にコップ4個と清涼飲料水(ジュースとコーラとアイスティーのボトルである。)と菓子皿に入ったお菓子数種類を持って入ってきた。


「あ、済みません」


タマコが言うと、他のふたりも「済みませーん」と声を揃える。


「あんたたち、原幕高校だよね」


と「父親」が言うと、3人は顔を見合わせ、中のひとりが顔を伏せて小声で「やべ、ばれた」と言った。


「こいつも今度原幕を受験する予定なんで、もし合格できたら仲良くしてやってください」


と「父親」が頭を下げると、娘たちは「こちらこそ、よろしくお願いします」と答えた。


 


「1年後輩かあ。こんなにでけえのに中三かよ」


「父親」が部屋を出て行くと、丸顔で小柄な(体つきはふくよかな)方が言った。


「アタイより40センチは高いよなあ」


「何か、スポーツやってたんか」


と背が高く細面の方が言った。


どうやらゲームを続けるのはやめて、こちらの「身元調査」に切り替えたらしい。


「背が高いから、バスケットかバレーだな」とタマコ。


私はスポーツ番組はまったく見ていないので、バスケットもバレーも詳しくは知らないが、ニュース番組の最後のスポーツコーナーで少し見たことはある。


「いや、スポーツはまったくやっていません」


「それでも男かよ。まあ、見た時から、何となく弱っちい感じはしたがな」


タマコが言った。


「でもまあ、顔はいいよな」


と続けたタマコの言葉に勢いを得たように、他のふたりが同感した。


「そうだよなあ、実際、うちの高校でお前に勝てるハンサムはいねえと思うぜ」


と細面。


「お前、彼女いるのか」


と小柄の太目。


彼女という言葉が単なる3人称ではなく、恋人の意味であることくらいは分かる。


「今はいません」と言って、私は自分でもおかしくなった。


「今は」と「いません」が頭韻というか、洒落っぽいと思ったのと、そもそも彼女などいたことは無いからだ。前に言ったように、我が星には「恋愛」の概念が無い。


「あ、笑った。怪しい」


と娘たちは言って笑った。


 


「ところでさ、さっきのカネは返しとく。同じ高校の生徒をカツアゲしたんじゃあ、停学されそうだし」


タマコがスカートのポケットから先ほどの十万円を取り出して私に返そうとした。


「いや、結構です。お近づきの印に、何か皆さんで使ってください」


「お前、気前がいいなあ。ありがてえ。じゃあ、ひとり3万円で1万円は返すわ」


その場でカネを配分して娘たちは引き上げたのである。


















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隣のエイリアン 第九章






第九章 招待された客たち


 


もちろん地球人が我々とは違うとは言っても、「顔の貸し借り」はできないだろうと思ったから、「顔を貸せ」がいわゆる「慣用句」だろうな、ということはすぐに理解したが、それがどういう意味かはまだ分からなかった。


だが、娘たちが先に立って歩きだしたので、私に何か用があるのは確かだろうと判断して私はその後に付いて行った。


「たらたらしてんじゃねえよ」遅れて付いて行く私に、娘のひとりが後ろを振り向いて言った。


これも「慣用句」だな、と思い、その口調から、私は自分が叱られたのだと判断したが、なぜ叱られたのかは分からない。「タラ」というのは魚の一種だと思うが、それが重なって「タラタラ」というのは何か。また、それが「タラタラする」という動詞になるのはなぜか。


まあ、後でその言葉の意味は聞けばいい。


 


娘3人は、公園の一番奥まったところで立ち止まり、私の方を向いた。


私には地球人や日本人の顔の美醜は分からないが、3人ともテレビの歌番組に出るBKA48のメンバーにいそうな顔である。それが日本人の娘の平均的な顔か、特別な顔かは分からない。私には、テレビで見た娘たちや目の前のこの娘たちの顔の微細な違いは分かるが、その「優劣」は分からない。ただ、この娘たちの視線が鋭く、あまり友好的な表情ではないことは分かった。その中のひとりが「リーダー」という存在だな、というのが何となく分かったのは、人間は複数になると必ず上下関係を作る、ということをこの前から意識して、テレビドラマや映画などを見ていたためだろう。つまり、何のためらいもなく(他者の承諾なく)発言・行動するのはリーダーで、他のふたりは何かの言動をする前に必ずそのリーダーの顔(表情)の確認をすることが、その後の事態の進展で分かったのである。


 


「おい、お前(「おめえ」に近い発音をした。)、高校生か」


「いや、まだ高校には入っていません。休学中です」(英国と日本の学制のタイムラグ期間はそういうことになるのだろう。)


「何だ、どっか悪いのか。それともサボりか。引きこもりか」


「ええと、どうでしょう。よく分かりません」


「まあ、引きこもりがこんなところをうろついちゃあいないか。ところで、カネは持っているか」


「はい。持ってます」


「財布を出しな」


私は財布を出した。


「お、すげえ持ってんじゃん。20万くらいあるな。半分もらうぜ」


「全部いただきましょうよ」と他の娘が言った。


「まあ、半分で十分だ」


私は笑った。「半分」と「十分」が、いわゆる洒落というものだと思ったのだ。


「何がおかしい。全部貰ってほしいのか」


「必要でしたらどうぞ」


「変な奴だな。まあ、気に入った。少し付き合え。ゲーセンに行こう」


「ゲームがやりたいなら、僕の部屋にもありますが」


「おっ、ご招待かい。どうせスケベでもしようってんだろ」


私の部屋にゲーム機があるのは事実で、それでネットテレビなどを見たり、有名なゲームをしたりしているのだが、正直言って、ゲームというのは小説以上に理解ができないものだった。つまり、何が面白いのか分からないのである。


「タマコさん、男1人に女3人ですか?」


「こいつが持たねえか。まあ、このお坊ちゃんがどんな家に住んでいるか、見たいじゃないか」


「家じゃなくて、部屋です。マンションとか言いますね」


「マンションってのは家じゃねえのか。そう言えばそんな気もするな。で、ここから近いのか」


「歩いて行けます」


「なら話は簡単だ。行こうぜ」



















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隣のエイリアン 第八章





第八章 子供が親を生む


 


11月になった。


私は、ここのところ、同居人の「教育」を続けている。


まず、念動力で彼の脳神経の損傷個所を修復し、通常の機能は回復したが、彼の記憶の中で私の計画にとって不都合な部分は「書き換え」た。つまり、私の父親であるという架空の記憶に置き換えたわけだ。


彼の名前は衛利保(たもつ)とした。私と同じ一字名のほうが親子らしく思われるかと考えたからだ。


風呂に入れて服装をきちんとさせたら立派な中年紳士の出来上がりだ。鼻の下には口ひげも生やさせたので、知的な感じがする。中学の国語の本に写真が載っていた夏目漱石に少し似ている。もともと頭脳は悪くないようで、何かのために記憶喪失になっていたようだ。つまり、記憶はあるが「想起」はできない、という状態だったので、それを「新しい記憶」で置き換えたわけであるが、古い記憶が消えたわけではないので、「書き換えた」という言い方は誤解されるかもしれない。単に、古い記憶はそのまま水面下に置いたまま、新しい「経歴の記憶」を表(意識される部分)に作ったということだ。


人格そのものはあまり変わっていない。会話も普通にできる。本などを読むこともでき、それが好きなタイプらしい。現在の職業は、自由業で、ネットで株や金融商品の売買をしていることにした。まあ、高校入学程度なら、保護者がそういう怪しげな人間でもさほど問題はないだろう。銀行口座も作り、そこには500万だけ「創造」した。つまり、電子操作で書き込んだ。


彼の古い記憶を発掘すれば、私の「地球人調査」に有益な知識が得られるかもしれないが、とりあえずは私の高校入試のための「偽保護者」が必要なのであって、そのためには今は、古い記憶は邪魔なのである。(なお、私はたまたま精神障害者に出逢って、それを利用したが、普通の人間を同じように精神操作することもできる。ただ、ホームレスのほうが「いなくなっても誰も騒がない」という点で好都合だったわけだ。)


彼は、現在の自分の状態にほとんど疑問を持たず、本当に私の父親だと思い込んでいる。ひとりで外出して隣家の家族に会った時も、そう自己紹介をしたようだ。


彼の「取り引き」のために彼にもパソコンを買い与えたら、ちゃんと操作法を理解し、すぐに本当にネット取り引きのサイトに登録して仕事をしている。まあ、200万円程度を取り引き限度額としているようなので、さほど害は無い。子供の遊びである。スマホも自分で購入できたようだ。


ただ、自分が本当の父親だと思い込んでいるので、時々「父親風」を吹かせるのには閉口する。つまり、一緒にいる時に、自分(保)はこの私(安)より上の存在だと思っているような言動をする。「自分はリベラルな父親だから、ふだんは対等な口を利くがそれは自分が寛容だからだぞ」と思っているのが見え見えである。特によその人間の前だとそうだ。笑止だが、まあ、それも「地球人研究」の材料ではある。


 


この「上下関係」というのが地球人、特に日本人の間ではかなり重要らしいということに私は気付いていた。あらゆる組織はこの「上下関係」が基本になっているようだ。私がこれから入る予定の「高校」などの学校でも、学校に関したフィクションやノンフィクションを読むと、特に運動部などの部活では上下関係が厳しいらしい。なぜかと言えば、そこには「命令⇔服従」関係が存在し、それを可能にするのが上下関係だ、ということかと思われる。これは我々の星とはかなり違うところで、「命令⇔服従」という状況自体があまり無い上に、それが必要な場合でもべつに「命令者が服従者より上」という意識は無い。


もしかしたら、地球の歴史のほとんどを占める戦争と殺戮というものは、「上下関係」から起こるのではないか、という推定もしたが、これはまだ仮説にすぎない。もちろん、ここでの文明の発展が「上下関係」を原動力としているという仮説も可能だろう。少なくとも、命令に対する「絶対服従」というのが軍隊では必須条件であるようだ。まあ、我々の星には軍隊という制度自体発達しなかったので、これは今後の研究課題である。


 


 


私は毎日のように近くの公園に行くのだが、それは緑の木々や花々を見るのが好きだからで、これは私の星には無いものだ。その公園の後ろ側はなだらかな斜面になっており、斜面の終わりは江戸川の岸辺だ。つまり、公園自体が小高い丘にある。名前は美郷(みさと)公園と言う。


その公園にはさほど人は来ない。いても数人程度だ。桜の季節以外はそんなものであるらしい。だが、それらの人々を見ていると面白い。実に平和で幸福そうだ。たとえホームレスでも、安らかな顔をしている。これが、木々や花々の効果、あるいは青い空や白い雲や川の流れなどの美しい景色の効果ではないかと私は考えている。


私の心の在り方すら、故郷の星にいたころとはだいぶ変わっている。つまり、物ごとに感動するという心的機能がかなり増幅されているのは確かである。今でも、テレビドラマや映画などでの「感情過多」の人々の不合理な言動には馬鹿馬鹿しさを感じるが、それでも、以前よりは彼らへの理解は進んでいる気がする。


要するに、彼らの言動が馬鹿馬鹿しいのは、それを作る側の人間、脚本家とか監督が馬鹿なだけだろう、というのが最近の私の判断だ。それにしても、公園で見る人々の表情の美しさに対し、ドラマや映画の俳優の顔の醜さは、なぜなのか。演じる役柄のためだけでなく、「嘘の表情」というものが彼らの顔を醜くしているのではないかと思う。


 


今日は少し面白い出来事があった。こちらの若者の言葉で言えば、「逆ナン」というか、「逆ナンパ」されたのである。どうやら、異性間の交遊は、男から女を誘うのが通常で、その逆を「逆ナン」と言うらしいが、公園で私がぼんやりと散策していると、高校生らしい娘3人(3人とも同じ服を着ていた。)が「おい、顔を貸せ」と言ってきたのだ。


うん、たぶんこれが「逆ナン」だろう、と私は思った。


















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隣のエイリアン 第七章






第七章 美とは何か


 


10月の半ばになると、日本列島は紅葉の季節になる。


私の住んでいる関東地方ではまだそれほど紅葉は見られないが、テレビで見る紅葉の風景の素晴らしさは、言葉では表現できない。


我々は感情に乏しいのだが、そうなった原因のひとつは「自然の変化が無い」「自然の美が無い」ということだったのかもしれない。少なくとも、この地球では「美感」というものが絶大に発達し、その原因はおそらく自然の変化と自然の美だろう、と思う。


 


たとえば、高校入試を受けるために読んだ「中学国語教科書」の中に、清少納言の「枕草子」の冒頭部分(「春はあけぼの……」)があるのだが、それを読んだ子供たちは自然の美というものを感受するようになる(開眼する)のではないか、と私は推測するのだが、自然を大切にする人間というのは、「他の存在を大切にする」ことを知るわけだから、それが社会の平和の土台になっていくのではないだろうか。大げさに聞こえるかもしれないが、私が日本人大衆の表情に見る温和さの土台は「義務教育」にある、という気がする。それも、「古典」の中にだ。物理や数学では「感情」は育たないと思う。


その一方では「テレビ」は残虐極まる殺人や傷害の事件が頻繁に起こっていることを示しており、また社会の上層の人間が醜悪な行為をしていることもたびたび報道される。


庶民生活とマスコミで報じられる事件とのこの乖離はなぜなのか。まさか、マスコミがすべて虚偽の報道をしているとは考えられず、また「ネット」では一般マスコミで報道される事件のその裏にあるさらに醜悪な事実が報じられている。


 


私は電車や飛行機を利用して関西圏の紅葉の名所の多くを訪ねてみた。特に京都と奈良である。正直言って、単に見るだけならテレビ画面で見る方が美しいと思わないでもないが、実際にその場にいないと味わえない風情(私がこんな言葉を使うのは似合わないだろうが)や匂いや音や空気がある。


私はまだ春の日本を知らないが、桜の景色が紅葉の景色よりも美しいとは想像もできない。単に推測だが、桜など「白一色」ではないか。「ただ白いだけ」で埋め尽くされた光景が、このあらゆる色の豪華な饗宴に勝ることがあるだろうか。


もちろん、それは私の「美意識」が未発達なのだろう、と思う。いろいろ読んだ本によれば、日本人は四季のすべての風景に美を見出すようだ。白一色に閉ざされた雪(この実物はまだ見たことが無いが、我が星の極地の氷から推定はできる。つまり、細かく砕いた氷の細片が空から降るようなものだろう。いや、砕いた氷の細片ではなく自然に出来た結晶だ、ということは知ってはいる。)の風景も美であると見るらしい。ならば、同じく白一色の桜の風景も美と見るのは当然だろう。


おそらく、これは、私の故郷の星がほとんどモノクロームの世界であるために、初めて見る色彩の豪華さに感動しやすいのだと思われる。慣れれば、見方も変わるかもしれない。


 


私は美術館や博物館も幾つか訪ねてみた。


正直言って、そこに飾られている作品の半分以上は、私には「美しくも面白くもない」としか感じられなかったが、自然を写した写真や自然を描いた絵画は美しいと思うものもあった。だが、自然そのものを見ればいいのではないか、という馬鹿馬鹿しさも感じたのである。絵画などには奇抜な誇張をして描いた作品もあり、何を描いているのか分からない作品もあった。それらはまったく「美しい」とは思わないが、「芸術」は単に美を追求するものではない、ということらしく、それを面白いと思わないのは単に観る側の問題なのだろう。


 


「美」というのは何なのか。


もともと感情に乏しい我々は、美というものを感じ取る能力そのものが低い。だが、この地球、いや、日本に来て、紅葉の風景などや青空や渓流や山並みなど、朝焼けや夕焼けなどを見て私が感じた気持ちは、まさに「美感」というものであることは間違いないと思う。それは或る種の快感であり、たとえばそよ風が肌を撫でて行く際に感じる快感にも似ている。(我々は触覚においては地球人とさほど変わらないと思うが、それを精神力で増幅させることは可能だ。)


 


自然の風景と、一部の芸術ゆえに、私は地球人擁護派になりたい、と思う。だが、その一方で、地球上に満ちている悪と悲惨は、私に「人間とは本性が悪なのだ」という結論に導く。そのどちらを選べばいいのか。


 


昨日から、同居人ができた。


私が毎日のように散歩に行く、近くの公園で拾ったホームレスの男で、おそらく精神障害者だろう。年齢は50歳くらいか。汚い服を着ていたが、我々の基準では顔立ちは悪くない。つまり、性質の善良さが現れた顔だ。(我々は顔の美醜に無頓着だが、地球人の顔に現れた性格は見抜けるのである。)身長は私より少し低いが、私の父親と言っても通用するだろう。そのために拾ったのである。


私は、精神操作で彼に偽の履歴を覚えさせ、私の父親の役を演じさせるつもりである。(隣家の平南美に「父は英国人で母は日本人だ」と言ってしまったが、それは日本語に慣れていないために言い間違えたと言えばいいだろう。)まあ、ロボットを使うのと同じだが、残念ながらそこまで人間を演じられるロボットは我が星でもまだ作られてはいない。と言うより、作る必要性が無かったのだ。


私にとっては、犬を警察犬として使うのと同じなのだが、人類にとっては、こういう行為はおそらく大きな悪なのだろう。まあ、衣食住の世話をする代償に、少し働いてもらうだけだ、と言えば言い訳になるだろうか。



























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隣のエイリアン 第六章





第六章 受験勉強とその他の勉強


 


原幕高校の入試出願は12月だから、その間に市販の高校参考書を購入して高校の学習内容を見てみたが、中学との差は大きいようだ。これは、中学までが義務教育であるためだろう。


高校の学習内容は、大学進学のための学習、というのが第一の目的であるようだ。試しに大学の入試問題を見てみたが、低水準の文明にはふさわしくない難問が多いように感じる。いや、それが難問である、というのは、「設問の意味や意図が理解できない」ということである。解答例を見て初めて、これはこういう回答を求めていたのか、と分かることが多い。だが、逆に、そういう回答をすればいいのだ、と暗記してしまえば、記憶力の優れた人間なら容易な試験かもしれない。少なくとも、創造性や論理的思考力の高度なものが求められてはいないようである。特に社会科(いくつかに分類されている)などは、知識を問うだけだから、おそらく私は満点を取れるだろう。理科も同様だ。(その知識内容が我々から見たら誤りであることもかなりあるが、試験に合格するのが目的なら、あえてその誤った知識を答として書けばいい。)数学も同様で、まだ高校の教科書そのものは見ていないが、高校参考書の内容から判断すると、「思考力」よりは知識の量が問題であるようだ。つまり、こういう問題パターンはこういう解き方をする、ということを大量に暗記すればいいのである。かえって、小学校の「文章題」などのほうが、方程式を使えないだけに理解や解答技術の習得が(徒労感があるために)困難なくらいだ。


結局、私にとって一番難しいのは国語ではないか、と思う。特に、「小説」というジャンルの、作中人物の「気持ち」や「心理」を考えさせる問題は、私にはほとんどお手上げである。


また、評論文というのも、辞書に出てこない「評論文特有語」が多く、設問意図もよく分からないものが多い。解答例を読んでも、なぜそれが「正解」なのか、理解できないのである。


まあ、英語などは、問題内容がとても易しいので、誤答をする可能性は少ないかと思う。リスニングもテレビの「洋画」や「海外ドラマ」を見て練習したので、大丈夫だろう。


もともと我々の聴覚は人間の数倍優れているので、どのような発音でも、またどのように小さな音でも聞き取れる。これはリスニングには有利である。(なお、「音楽」の性質もかなり我が星と地球では違う。我が星の音楽は、地球ではクラシック音楽と呼ばれるものに近い。特にバッハという作曲家の作品は、我が星の人間が作ったと言われてもおかしくない。一方、ロックとかポップスという音楽の大半は私には「騒音」としか聞こえない。幸い、我々の種族の耳には外部から侵入する音を自動調節する機能があるので、騒音は自動的に「ミュート」される。)


 


高校入試の勉強自体は半月ほどで終わったので、私は市内の図書館に毎日のように通って大量の本を読み進めた。


特に人類の歴史と政治というのは、私がこの地球に来た目的である「人類の査定」と大きく関わるので、図書館の本のすべてを読んだが、いくら読んでも、なぜ人類の歴史が戦争の歴史なのか、その根本原因が分からない。ほとんどすべての歴史の本は、「起こった出来事」が書かれているだけで、それが「なぜ起こったのか」は書かれていないのである。


宗教に関係する戦争も多いようなので宗教関係の本もすべて読んだが、なぜそのように荒唐無稽な説を無数の人たちが信じるのか、その根本が分からない。ほとんどの宗教は平和と愛を説いているのだが、その宗教が原因で戦争や殺戮が平然と起こされたりしている。


為政者の権力があまりに大きく、その為政者がすべて大馬鹿なのだろうか、とも思ったが、なぜそういう大馬鹿を為政者にしているのかが分からない。古い時代には為政者が暴力で社会を支配していたのだろうと推測はできるが、現代は「民主主義」がほとんどの国で採用されているらしいのだから。


とすれば、国民は自ら大馬鹿者を為政者に選んでいる、ということである。


これは実に理解しがたいことである。


少なくとも、世界のほとんどの国は前世紀の半ばまでには民主主義を採用しているのだが、その後も戦争は起こり続け、今では「テロとの戦争」という、本来なら警察が対処すべき事柄まで軍隊を動員した戦争があり、収まる気配はないようなのだ。


つまり、地球人というのは、根本的に残忍で悪辣な生き物なのだろうか。とすれば、私は高校などに通うまでもなく、「地球人絶滅すべし」に一票を投じればいいということになる。


しかし、街で見る子供や老若男女の笑顔や、隣人である少女、平南美の笑顔を見ると、それはまったく信じられないのだ。


仮説としては、人類と我々の間には「欲望」の内容に大きな違いがある、ということなのではないか、と今のところは考えている。


哲学の本を読むと、「快楽主義」と分類されているエピクロス派の言う快楽は主に知的好奇心の充足による快楽であり、それは我々の精神的傾向そのものだ。また、デカルトの「方法序説」の最初の部分にも「考える喜び」が語られている。これは我が星の誰かが書いたとしてもおかしくない内容だ。


だが、世界を暴力で支配してきた人間の欲望というのは、それとはまったく違う欲望であるようだ。それは簡単に言えば、「他人に優越したい」という欲望であり、食欲や性欲などの生理的満足や装飾品による感覚的満足を何より優先し、そのためにはいかに悪辣なことでもする、ということであるらしい。


まあ、我々には理解しがたい精神だが、このようないわば「犯罪者精神」が放置されるどころか、むしろ賞賛されている、というのが太古から現在に至る人類史の基礎にあるのではないか、というのが私の仮説だ。


これはあくまで仮説にすぎないので、あと1年間、研究して結論は出したい。


 


ちなみに、パソコンよりも携帯電話、もしくはスマホというのがネット利用には一般的なようなので、その契約もして、スマホも入手した。


銀行口座も作り、510万円だけ入金した。ただし、最初に入金したのは10万円だけで、残りの500万円は銀行の電子情報を書き換えて作っただけである。現金が必要ならいつでもATMを念動力で操作して引き出せるから、銀行預金は必要ない。ただ、高校への入学金などは預金からの振り込みのほうが便利らしいと思ったのだ。


 


私が一人暮らしをしていることに、隣の平南美が興味を持っているらしい。「食事は大丈夫か」などと聞いてくる。


「あ、大丈夫です。買い置きがあるので」


と言うと、


「インスタント(インスタント食品の意味らしい)ばかりじゃ体に悪いですよ。私、作りましょうか」


「いや、お気持ちは嬉しいですが、本当に結構ですから」


と、この頃は私も普通の日本人らしい対応ができるようになった気がする。














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隣のエイリアン 第五章






第五章 笑いと個性と恋愛


 


やがて9月は終わり、10月になった。このひと月足らずで日本の小学校中学校の学習内容は完全に暗記し、高校1年から始めるなら不自由はまったく無さそうである。日常生活での「人間」との対応も「テレビドラマ」や「映画」などで学習はしたが、理解できないことも多い。特に理解できないのが「流行語」と「笑い」で、ここの人間は他人と会っている時には絶えず冗談というものを言っているように見える。その冗談というのがひとつも面白くないのである。むしろ、冗談を言っているのだ、と了解がついた瞬間に、冗談を聞いた人たちは笑う、という「約束事」としか見えない。


いや、我々の星の人間はもともと感情に乏しいのだが、それでもまったく笑いを理解しないというわけでもないのである。不合理性というのが冗談の基本である、という点では我々の感覚と類似している。つまり、「意想外な不合理性」への反応としては、驚くか笑うかどちらかという点は同じなのだ。ただ、我々はそれに対してせいぜい「口角を歪める」程度の反応しかしない。声を上げて笑うことは無いのである。感情をそのまま表に出すことは「はしたない」と考える「作法」がある、と言えば近いだろうか。そして、「無理に作った笑い」あるいは「笑いを狙った言動」には困惑してしまう。


そもそも不合理性というのは「困った事態」であるわけで、笑いとはその不合理性の指摘なのだから、あまりたびたび生じては困るのである。


しかし、そう思う一方で、人間の笑顔というのは私を魅了する。特に子供や若い娘の笑顔というのは私を感動させるのである。不思議である。


こういうことを考えたのは、お隣の住人であるタイラ・ナミ(漢字では平南美と書くらしい。)と出会う度に彼女が笑顔を見せるのだが、その笑顔を見るたびに彼女が好きになることを私が自覚したからだろう。もちろん、我々の星では恋愛も結婚も無いから、これは恋愛感情ではないだろう。


我が星での友人関係はどうかと言えば、出逢う人間すべてが友人(日本でも沖縄という地方には「イチャリバチョーデー(行き逢えば兄弟)」という言葉があると或るテレビ番組で見たことがある。)のようなものだし、我々は「個性」というものを特に尊重しないので、誰かを特に選んでその人とだけ深くつきあうということもない。


しかし、この星(あるいは、この日本という国)では、「個性」というものが尊重されているらしい。小学校や中学校の教科書に「個性の尊重」という言葉がしばしば出てくるし、ネットで高校を調べた時も、「個性の尊重」を教育理念としている学校は多かった。


そして、漫画やテレビドラマや映画など様々なメデイアでの「恋愛」や「友情」が結ばれる要因は、相手の個性によるものであるようだ。中には、不良だから好きになる、暴力的だから好きになる、という、ネガティブな条件がむしろ有利に働くという理解しがたい「個性→恋愛」というものもある。まあ、これは野生動物時代の本能の痕跡だと思う。つまり、強い個体に従属していれば餌などが確保しやすい、ということだろう。


 


少なくとも日本で一番嫌われているのは「無個性」というものらしい。そして、「恋愛」の一番のポイントは「顔の美醜」であるらしい。


だが、我々は、かなり前に言ったように、顔も体型も自由に変えられる。


つまり、顔がどうこうだから好きになるとか嫌いになる、という前提がそもそも存在しないのである。そもそも、美醜の概念が地球人とは違うだろう。


まあ、この地球でも整形手術というのがあって、その点では我が星と大差はないのだが、それでも顔が「美しい」とか「醜い」とか、スタイルがいいとか悪いとかいうのが恋愛の最大の要因であるというのは、不合理の極みである気がするが、それは感情に乏しい我々の基準で軽々しく判断すべきことではないだろう。

















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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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