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手紙配達者(文づかい)30 *最終回

「私の家もこの国では名のある一族ですが、いま勢いのある国務大臣ファブリイス伯とは深い好(よしみ)があり、この事を表から願えばたいそうたやすいだろうと思えましたが、それが叶わないのは父君の心が動かしがたいためだけでなく、私の性格として、人とともに嘆き人とともに笑い、愛憎ふたつの目で長い間見られることを嫌うので、このようなことを誰かに伝え、誰かに言い継がれて、あるいは勧められ、あるいは諫められる煩わしさに耐えません。まして、メエルハイムのような心の浅い人に、イイダ姫は自分を嫌って避けようとしているなどと、自分ひとりに関わることのように思い見做されては口惜しいことでしょう。自分からの願いと人に知られないで宮仕えをする手段はないかと思い悩むうちに、この国をしばらくの宿として、私たちを路傍の岩や木のように見るだろうはずのあなたが、心の底にゆるぎない誠を包みなさっていると知って、以前から私をいとおしんでくださっているファブリイス夫人への手紙を、ひそかに頼み申し上げました」
 「しかしこの一件のことはファブリイス夫人が心に秘めて親戚にさえも知らせなさらず、女官の欠員があるのでしばらくの勤めとしてと言って呼び寄せ、陛下のご希望を断りにくいとして遂にこうしてとどめられています」
 「浮世の波に漂わされて、泳ぐことを知らないメエルハイムのような男は、私を忘れようとして白髪を生やすこともないでしょう。ただ痛ましいのは、あなたが宿りなさった夜、私のピアノを弾く手をとどめさせた子供です。私が発った後も夜な夜な小舟の纜(ともづな)を私の部屋の窓下につないで寝てましたが、ある朝羊小屋の扉があかないのに気付いて、人々が岸辺に行ってみると、波が空っぽの舟を打って、残っていたのは枯草の上の一枝(一本)の笛だけだったと聞きました」
 語り終わる時、午夜の時計が朗らかに鳴り、もはや舞踏は長い休憩となり、妃はお休みなさる時なので、イイダ姫は慌ただしく座を起(た)って、こちらへ差し伸ばした右手の指に私の唇が触れる時、隅の観兵の間に設けた夕餐に急ぐ客人が群れをなしてここを過ぎた。姫の姿はその間にまじり、次第に遠ざかって、時折人の肩の隙間に見える、今日の晴衣(はれぎ)の水色だけが名残りであった。



*これで全部終わりである。余韻嫋々という感じの作品で、兎唇の醜い少年のけっして報われるはずのない絶望的な恋が憐れではないだろうか。私はイイダ姫の性格も好きである。自我の強さと優しさと賢明さが共存している。顔があまり美人でないところもいい。

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手紙配達者(文づかい) 29

「メエルハイムはあなたの友人です。悪いと言えば、弁護もなさるでしょう。いいえ、私もその真っすぐな心を知り、顔立ちも優れているのを見る目が無いのではないが、長年つきあった末に、私の胸に埋もれ火ほどの温かみも出てこず、ただ厭うと増すのがあちらの親切で、両親の許した交際の表面上、腕を借(注:原文のまま)されることもあるが、ただ二人になった時は、家も庭園も、行く方も無く鬱陶しく思えて、思わずため息をついて頭が熱くなるほど耐えがたくなる。なぜと問いなさるな。それを誰が知りましょうか。人を恋するのも、恋するがゆえに恋すると聞いてます。嫌うのもまた同じでしょう」
 「ある時、父の機嫌が良いのを見て、自分の苦しさを言い出そうとしましたが、私の様子を見て半分も言わせず、『世に貴族と生まれた者は、卑賎な者のような我儘な振る舞いは思いもよらないことである。血統の権利の代償は人の権利である。私は老いてはいるが、人の情けを忘れたなどとは夢にも思うな。向かいの壁に掛けた私の母の絵姿を見なさい。心もあの顔のように厳格で、私に浮ついた心を起こさせなさらず、私も世の楽しみは失ったが、幾百年の間、卑しい血を一滴も混ぜることのなかった家の名誉は救った』といつもの軍人らしい言葉つきの荒々しさに似ない優しさに、前もってこう言おう、こう答えようと思っていた計画も、胸にたたんだまま、その計画を別の方向に変えることもできず、ただ心が弱くなって終わりました」
 「もともと父に向かっては返す言葉も知らない従順な母に、私の心を明かして何になろうか。しかし、貴族の家に生まれたと言っても私も人間です。父母がいまいましい門閥、血統への盲信の土くれと見破っては、私の胸の中に投げ入れるところがありません。卑しい恋に浮身をやつせば、姫御前の恥になりましょうが、この習慣の外に出ようとするのを誰が支えましょう。『カトリック』教の国には尼になる人があるとは言っても、ここ新教のザクセンではそれもかなわない。そうだ、あのローマの寺に等しく、礼を知って情けを知らない王宮こそ、私の墓穴だろう」


 夢人注:イイダ姫の言葉の敬体が途中から常体が増えるのは、途中からは激して相手への言葉ではなく自問自答になっているからだろう。その言葉の乱れこそが表現の妙だと思う。だいたいそのままに訳した。
 夢人注:「父母がいまいましい門閥、血統への盲信の土くれと見破っては、私の胸の中に投げ入れるところがありません。」とは、縁談問題に関しては父母はもはや考慮の外で、無に等しいということだろう。

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手紙配達者(文づかい)28

淡い緋色の地に同じ色の濃い唐草模様を織り出した長椅子に、姫は水色衣のスカートの、威厳のある大襞(ひだ)が、舞いの後でも少しも崩れたところが無いのを、身をひねって横向きに折りながら腰掛け、斜めにある中段の棚の花瓶を扇の先で指さして私に語り始めた。
 「早くも去年の昔になりました。突然にあなたを手紙の使者として、その後お話する機会もなかったので、私の事をどうお思いになっておられたでしょう。けれども、私を煩悩の闇路から救い出しなさったあなたを、心の中では少しも忘れておりません」
 「近頃、日本の風俗を書いた書物をひとつふたつ買わせて読んだところ、あなたの御国では親の結ぶ縁組があって、まことの愛を知らない夫婦が多いと、こちらの旅人がいやしむように記したところがありましたが、これはあまり良く考えていない言葉で、こういうことはこの欧羅巴でも無いことがありましょうか。いいなずけするまでの交際が長く、互いに心の底まで知り合うことの意義は、結婚を諾(はい)とも否(いいえ)とも言い得る中にこそありましょうが、貴族仲間では早くから目上の人に夫婦と決められた男女が、心が合わなくても拒む手段が無いまま、日々に互いに見て相手を忌む心がこの上なく募った時、女がその男に嫁がされる習いは、実に道理の無い世の中です」

  夢人注:3行目の「斜めにある中段の棚の花瓶を扇の先で指さして私に語り始めた」が、その後の姫の話と無関係な動作なので、その後の話を読むと、この動作の意味不明さに悩む読者もいるだろうが、これはおそらくこの部屋で二人が話をしているのを、部屋の外を通り過ぎる人に怪しまれないためのカモフラージュだろう。逆に、こういう部分に作者の周到さが分かる。行間の読めない読者は最初から切り捨てているわけだ。
 夢人注:2行目の「身をひねって横向きに折りながら腰掛け」は、ほぼ原文直訳。「折りながら」の主語は、ドレス(スカート)だと思うが、自信はない。原文は「身をひねりて横ざまに折りて腰掛け」。「裳」をスカートとしたのは間違いかもしれない。ドレスが適訳か。古語辞書は持っていないのである。

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手紙配達者(文づかい)27

時が遷(うつ)るにつれて黄蝋の火は次第に芯の炭化した部分が多くなって暗くなり、燭涙が長く滴って、床の上には千切れた紗、落ちた花びらがあり、前座敷の間食の卓(テーブル)に通う足が次第に繁くなってきた時、私の前を通り過ぎるようにして小首を傾けた顔をこちらに振り向け、半ば開いた舞扇に頤(おとがい)のあたりを持たせかけて、「私を早くも見忘れなさったでしょう」と言うのはイイダ姫である。「けっして」と答えながら、二足三足ついて行くと、「あそこの陶器の間を見ましたか。東洋産の花甕に知らない草木鳥獣などを染め付けたのを、私に解説してくれる人はあなた以外にはありません。さあ」と言って伴って行く。
 ここは四方の壁に造り付けた白石の棚に、代々の君が美術に志があって集めなさった国々の大花瓶が、数える指が足りなくなるほど並べてあるが、乳のように白いもの、瑠璃のように青いもの、さては五色まばゆい蜀錦の色であるものなど、陰になった壁から浮き出て美しい。しかし、この宮殿に慣れた客たちは、今宵はこれに心を留めるはずもないので、前座敷に行き交う人がおりおり見えるだけで、足をとどめるものはほとんどなかった。

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手紙配達者(文づかい)26

王族が広間の上座に行き着きなさって、国々の公使、またはその夫人などがこれを囲む時、あらかじめ高廊(夢人注:広間の中二階のバルコニー状の席か)の上に控えていた狙撃連隊の楽人がひと声鳴らす太鼓と共に「ポロネーズ」という舞が始まった。これはただそれぞれが右手に相手の婦人の指をつまんで、この間(ま)を一巡りするのである。列の先頭は軍装した国王が紅衣のマイニンゲン夫人を延(ひ)き、続いて黄絹の裾引き衣(注:長いドレスだろう)をお召しになった妃に並んでいるのはマイニンゲンの公子であった。わずかに五十対ばかりの列が巡り終わる時、妃は冠の印のついた椅子に倚(よ)って、公使の婦人たちを側に居らせなさったので、国王は向かいの座敷にある骨牌(カルタ、トランプ)卓(つくえ)の方へ移りなさった。
 この時、本物の舞踏が始まって、群客がたちこめた中央の狭いところを、たいそう巧みに巡り歩くのを見ると、多くは若い士官が宮女たちを相手にしているのである。我がメエルハイムが見えないのはなぜか、と思ったが、近衛兵でない士官はおおむね招かれないのだ、と悟った。さて、イイダ姫が踊る様はどうか、と芝居でひいきの俳優を見る気持ちで見守ると、胸に薔薇の生花(せいか)を茎のついたまま付けた以外には飾りと言えるものはひとつも無い水色衣の裳裾が狭い間をくぐりながら、たゆまぬ輪を描いている姿は、金剛石(ダイヤモンド)の露がこぼれる華美な貴婦人の服の重たげな様子を圧倒している。

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手紙配達者(文づかい)25

式部官が突く金房の付いた杖が寄木細工の板に触れてとうとうと鳴り響くと、天鵞絨(びろうど)張りの扉が一時に音もなくさっと開いて、広間の真ん中に一本の道が自然に開け、今宵の六百人と聞いた客たちがみな「く」の字のように身体を曲げ、背の中ほどまで切り開けて見せた貴婦人の頸(くび)、金糸の縫模様のある軍人の襟、またブロンドの高髷(まげ)などの間を王族の一行が通り過ぎなさる。真っ先には昔ながらの巻き毛の大仮髪(かずら、鬘)をかぶった舎人(とねり)が二人、ひき続いて王と妃の両陛下、ザクセン、マイニンゲンの世継ぎの君夫婦、ワイマール、ショオンベルヒの両公子、これに主な女官が数人従っている。ザクセン王宮の女官は醜いという世間の噂どおり、いずれも顔立ちが良くない上に、人の世の春さえ早くも過ぎた者が多く、中には老いて皺だらけであばら骨をひとつひとつ数えられそうな胸を、式なので隠すこともできず出しているなどを額越しに見ていると、心待ちにしていたその人は来ず、一行が早くも果てようとする。その時、まだ年若い女官がひとり、殿(しんがり)に堂々と歩いて来るのを、そうだろうか、そうでないだろうかと仰ぐと、これこそ我がイイダ姫であった。

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手紙配達者(文づかい)24

王都の中央でエルベ河を横切る鉄橋の上から眺めると、シュロス、ガッセにまたがる王宮の窓が今宵は特にひかり輝いている。私も招待の数に入り、今日の舞踏会に招かれたので、眺めていると、アウグスツスの広小路に列をなした馬車の間をくぐり、今玄関に横付けした一両から出て来た貴婦人が、毛皮の肩掛けを随身に渡して車の中に隠させ、美しく結いあげた黄金色の髪と、まばゆいほどに白い襟元を露わにして、車の扉を開いた帯剣の護衛者を振り返りもせず入った後で、その乗った車はまだ動かず、次に待っている車もまだ寄らない間(ま)を計り、槍を手にして左右に並んだ熊毛兜(帽子)の近衛兵の前を過ぎ、赤い毛氈を一筋に敷いた大理石の階段を上った。階段の両側のところどころには、黄羅紗に緑と白の縁取りをした制服を着て、濃紫(こむらさき)の袴を穿(は)いた男がうなじを屈(かが)めて瞬きもしないで立っている。昔はここに立つ人がそれぞれ手燭を持つ習いだったが、今は廊下も階段も瓦斯灯を用いることになって、それは無くなった。階段の上の広間からは、古風を残した吊り燭台の黄蝋(ろう)の灯が遠く光の波を漲(みなぎ)らせ、数知れぬ勲章、肩章、女服の飾りなどを射て、祖先代々の油絵の肖像の間に挟まれた大鏡に照り返されている有様、言うのも今さらである。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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