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愚劣な税制は社会を滅ぼす

江戸時代に、江戸の町人は田舎の人間を田舎者と呼んで軽蔑したが、では、税金を負担していたのは誰か、というと、その田舎者である百姓たちで、一般の町人はまったく税金を払っていなかった、という事実を知らない人が多いのではないか。一部の商人には運上金や冥加金が課せられたが、これ(特に前者)は幕府の財政逼迫を救うための恣意的な「臨時税」や特別税に近いもので、彼ら商人の収入の把握はほとんどできなかっただろうし、運上金や冥加金の「見返り」は当然あっただろうから、逆に商人の権力を拡大する一因でもあった。江戸幕府の崩壊の真の原因は、この馬鹿げた税構造にあった、というのが私の考えだ。
江戸は幕府のお膝元ということで、江戸への特別扱いがなされたのは、現代に通底している。原発を地方に作り、電気は東京に送るという構造などもそれである。

(以下引用)赤字部分は夢人による強調。




現在の税金に相当するもの(以下税金)は、江戸時代にもあった。まず思い浮かぶのは年貢、つまり米だ。それでは、江戸に住み百姓でもない八っつあん、熊さんは税金をどうやって払っていたのだろう。二人のプロフィールはだいたい次のようだ。名前は八五郎と熊五郎、仕事は職人か小商人(こあきんど)で長屋住まいの江戸っ子。落語に度々登場する二人は特定の人物ではなく一般庶民である。



この絵は式亭三馬の滑稽本、『浮世床』のなかでもっとも知られている挿絵の一つ、長屋の暮らしが生き生きと描かれている。文化文政の頃のことだから、ちょうど今から二百年前の庶民の姿だ。八っつあん、熊さんの住む長屋は、このような木戸(入り口)を入った所にある。
八っつあんも熊さんも税金はなかったというのが正しいと思う。取得税も住民税も、当然消費税もない。税金と思われるものは一銭も、いや一文(もん)も払っていないのだ。長屋住まいの一般庶民から税金を徴収する制度自体がなかったのである。



では誰が税金を納めていたのだろう。それは八っつあん、熊さんが住む長屋とその土地の所有者である地主だった。ということは、家賃に税金が含まれていたとの見方もできるが、家賃はそれほど高くはない。1カ月の家賃は職人の日給で2日分程度だったという。長屋には様々なクラスがあり、収入に応じて相応の暮らしができた。収入における家賃の割合は、今より低い感覚である。



大江戸八百八町”は、江戸中期(18世紀前半)になるとこの数字を上回り、江戸後期には1,600~1,700ほどの町(ちょう)が存在した。これは町奉行の支配地が広がり、江戸が拡大したことによる。この町が江戸の行政単位で、町の地主たちが町の運営をまかされていた。つまり、八っつあん、熊さんは税金がないかわりに口を出すことはできず、町の運営権はもっぱら地主が有していたのである。
江戸の行政システムは町奉行を頂点に、町年寄(まちどしより)…町名主(まちなぬし)…地主というピラミッド型だ。町年寄は江戸開府以来、三家(奈良屋、樽屋、喜多村)の世襲。その下の町名主はランクがいろいろあったが、地主のうちの代表者(有力者)と位置づけられ、今で言うと区長あたりに相当する。その下の地主が実質的な町の運営者であり、合議で物事が取り決められた。町役人(町役人)とは、通常この町年寄、町名主、地主を指している。町奉行所からの町触(まちぶれ)もこの順で伝達された。
町の運営の仕事は多岐に及ぶため、地主は「家主(いえぬし)」と呼ばれる代理人を立て、家主で構成される「五人組」が実際の町政を担っていた。



地主が負担する、いわゆる税金の使われ方を見てみよう。町の経費を「町入用(ちょうにゅうよう)」と言い、その内訳は町によって特色があり様々だった。
いくつかの史料を総合してみると、およそ二分の一から三分の一が自身番屋(じしんばんや)と木戸番屋(きどばんや)の維持・管理費に充てられ多くを占めている。前者は、町の事務所であると同時に交番のような役目もあった。また建物の脇や屋根には火の見櫓があり、消防署のような役割も兼ねている。後者は、町境に警備のために設けられたまさに木戸で、木戸番が詰めた。
その他に、橋や道路・上下水などの維持管理費、町火消しの費用もある。祭礼にもお金がかかるし、ゴミ処理の費用も町の負担だ。町で発生するほぼ全ての費用を地主がその規模に応じて負担し、町入用を捻出しなければならなかった。



町入用のなかには幕府への上納金もある。規模の大きい商工業者(問屋、酒造業者、各種商業団体など)には運上金(うんじょうきん)が課せられていたし、免許を得て商売する業者には営業免許税のような冥加金(みょうがきん)もあった。他に公役(くやく)という人夫を出す制度があり、これが後に金納になっている。



「士農工商」のうち、八っつあん、熊さんは工や商に属する町人の身分である。しかし、この層の多くは町への納税義務はない。厳密な意味では、彼らは江戸の町に住んでいながらも町人ではない。町人とは町入用を負担する地主層までである。長屋の家主(=大家)も同じことで、納税義務はなかった。大家の意味が現在と違っているので注意したい。大家は長屋や土地のオーナーではなく、あくまでも地主から長屋の運営を任されていた管理人の立場だった。
八っつあん、熊さんたちには、税金をはじめ水道代のような公共料金もなかった。水道料金は、水銀(みずぎん)と呼ばれ、これも町で負担してくれた。長屋暮らしは貧しいものと相場は決まっている。彼らこそが江戸の一般庶民と言っていいだろう。お上(かみ)は、彼らには課税しなかったのである。



文 江戸散策家/高橋達郎
参考文献 『浮世床』式亭三馬 『一目でわかる江戸時代』竹内誠監修(小学館)





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昭和天皇個人と「天皇制」問題の混同について

「混沌堂主人雑記」記事の一部を転載。
私が尊皇主義者であることは耳が腐るほど書いてきたが、混沌堂主人さんは逆にあらゆる記事の最後に、その記事が天皇に関係があろうが無かろうが、「すべて天皇が悪い。天皇を殺せ」みたいなことを書いているわけで、まあ、強烈な反天皇主義者だと言えるだろう。だが、私は混沌堂主人雑記の愛読者というか、非常に得るところの多いブログだと思っており、そこから引用することもしばしばある。逆に私のブログが引用されることもあり、まあ、お互いさまだ。いわば「囲碁仇」のようなもの、と思っている。トムとジェリーではないが、今後も「仲良く喧嘩」していきたいものだ。
で、私が理解できないのは、混沌堂主人さんの強烈な反天皇主義の理由がどこにあるかが分からない、ということだったのだが、その説明をしているのが下の部分と思われるので、今後の参考までに転載しておく。
要するに、太平洋戦争敗戦(あるいは開戦)の責任を昭和天皇が取らなかったのが、現代日本のモラル喪失の最大原因だ、ということのようだが、その理解でいいのだろうか。その点に関しては、「そうも言えるが、敗戦後にもたらされたアメリカ的『自由主義』自体が戦後日本の倫理性低下の最大の原因ではないか」と言っておく。
仮に天皇の「人間宣言」によって社会の道徳性の裏付けとしての権威が失われたとすれば、戦前社会はモラルが高かったという認識になるわけで、むしろ「天皇制そのもの」は社会のモラル維持に役立つ、と言えるのではないか。昭和天皇個人の出処進退が、はたして天皇制の当否の理由になるだろうか。そして、繰り返しになるが、昭和天皇が「戦犯として処刑されなかったから」「天皇が退位しなかったから」戦後社会がアモラル化したと本当に言えるだろうか。


(以下引用)



追記

天皇をなぜ執拗に糾弾するかって・・・

そりゃ、多分現在なら謝って多少賠償したら済むような戦争責任の問題を、未だに謝罪せずに延々と無責任体制と自己の権益とメンツの保護しか考えてない外道になってしまったからです天皇ってのが。


モラルを破壊するモノは、社会・国家を破壊するモノ。

それを一応国家の象徴なり準元首の存在が自ら糺そうとしない・・・

私が糾弾しなくても、世界中のまともな人が「日本人を飼うのは天皇をいじればいい」「日本人の諸悪の根源は天皇だ」って気が付くでしょう。このまま謝罪も賠償もしないと。

となると、天皇は消滅するか、このまま日本人が死滅するかです。

天皇が頭を下げたら、少なくとも天皇も日本人も生存し繁栄する道があるのに、それをせず日本人を殺し続けるのなら、崇徳院や菅公さんも、激怒でしょう。

このまま「悪の権化」でしかなくなった天皇を存続させるのは、少なくとも江戸までの天皇家や天皇家以外の日本の衆生に対する、反逆で冒涜であると思います。


もう、天皇と日本人はとも存在できなくったのです。その選択をしたのは天皇家でした。

それだけです。

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著作権について

2013年の記事だが、言及された内容と状況は現在でも同じだろう。
私はかねてから著作権の期間が長すぎることを批判しているが、二次創作(模倣)は創造の出発点であり、著作権によって素人が創造に参加する機会が減り、創造する内容も貧困化するのは自明だろう。場合によっては、歌手が自分の作った歌を人前で歌うとジャスラックからカネを請求されるという逆立ちした状況も出てくる。
著作権があまりに拡大したために、「新作」しか本屋の店頭に並ばなくなり、愚作が山のように店頭に溢れているが、半年後にはそのほとんどは消えているという状況ではないか。それでは客も「マスコミの誘導や宣伝やステマ」に何度も騙された結果、「小説(漫画)などつまらん」と思うようになり、本も漫画も読まなくなって当然である。そして宣伝にカネをかけられないが良心的な本を出している出版社から先に、どんどん潰れていく。
著作権は、著作権者の死亡と同時に消滅、というのが正解だろう。企業が著作権を持つ、というのは原則禁止でいいと思う。まあ、現在の著作権保護法はディズニー社の延命のためだけに保護期間延長を繰り返してきたようなものではないか。他国がその真似をする必要など無い。


(以下引用)


メモ

著作権による保護は本を普及させず逆に「消失」させている




By Benjamin Zank

著作権法は、作者の権利を保護し文化の発展を促進させることを目的としています(著作権法第1条)。この理念は世界各国の著作権法でも同じです。「文化の発展」には、作品をより普及させること、すなわち多くの人の手に渡るようにするということも含まれています。しかし「著作権による保護がかえって本の出版をさまたげているのではないか?」という驚くべき研究結果がアメリカで発表されました。著作権のせいで本がかえって普及しないとは一体どういうことでしょうか。

The Hole in Our Collective Memory: How Copyright Made Mid-Century Books Vanish - Rebecca J. Rosen - The Atlantic
http://www.theatlantic.com/technology/archive/2013/07/the-hole-in-our-collective-memory-how-copyright-made-mid-century-books-vanish/278209/

How Copyright Makes Books and Music Disappear (and How Secondary Liability Rules Help Resurrect Old Songs) by Paul J. Heald :: SSRN
http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=2290181

イリノイ法科大学のPaul J. Heald教授は、過去200年間に出版された書物の数を10年単位で調べた結果、「著作権の存在は、本の普及を促進させるのではなく逆に妨げになっている」という分析結果を発表しました。





Heald博士は、Amazon.comで発売されている書籍の中からランダムに2317タイトルを抽出、それらを10年間を一つの単位として分類、タイトル数を調べることで、書籍の年代ごとの入手性・普及率を測定しました。本の普及率を年代別に調べるためにはその発行総数を調べることが有効ですが、これは極めて困難です。そこで、発行総数を測定するかわりに、現時点でAmazonで手に入る本のタイトル数を調べることで、入手性を間接的に測定することにしたのです。

その結果がこちらのグラフです(グラフA)。




グラフAからは、Amazonで入手可能な本は、1880年代(1880年から1889年の10年間)は1980年代よりもはるかに多いことが分かります。そして、20世紀中盤の本は相対的に少なくほとんど市場に流通していないことも明らかです。このグラフは著作権の保護を受ける1930年代以降のタイトルが急速に減っていることから「多くの作品が、出版されてからわずかな期間でいったん市場から姿を消し、パブリックドメインに帰した後に再び世に出てくる」ということを表しているのです。衝撃的なことに、1930年代から1980年代までの書籍の数と1800年代から1850年代までの大昔の書籍の数が同じくらいなのです。つまり、出版社は特に新しい作品でもない限り単純に著作権で保護された本を出版しているわけではなく、著作権による保護が本の出版機会を増やすことにはつながらないといえるのです。

もっとも、「Amazonで購入できる本のタイトル数を調べる」というシンプルな手法には問題があります。それは、パブリックドメイン(PD)に帰した本はさまざまな出版社から再発行されるため、同じ本がいくつものエディション(版)として複数出版されていることがあり、版の数が多い(古い)本ほど抽出されやすく、より多く数えられてしまうという問題です。そこで、Heald博士はPDの書籍には1タイトルあたりどれくらいの種類の版があるのかを測定したところ、平均して16であることが分かりました。ただしこれは、ごく一部の本が数百という異常に多い版をもつせいで歪められた数値であることから、Heald博士とその研究チームは統計学的手法を用いて1タイトルあたりの版の標準値が4であるとはじき出しました。このため、Heald博士は、PDの本の数を4で割った値をグラフAの数値として採用し、版の重複による影響を補正しています。

こちらが版の影響を補正した後のグラフです(グラフB)。グラフAに比べ古い年代ほど数値が小さくなっています。




しかし、Heald博士は、グラフが示唆する事実は依然として劇的なものであるといいます。

確かに直近10年間は比較的本が多く出版されているといえます。しかし、20世紀以降の落ち込みは依然として顕著です。仮に、著作権による弊害がないマーケットであれば、2000年代から1800年代まで時間をさかのぼるにつれてグラフはスムーズな傾斜で下がっていたはず。これは古い作品ほど人々の興味を失い市場のニーズが減るためです。著作権フリーな世界とは異なり、現実は、出版数が急激に減退し、本がPDになるやいなや一気に増大しています。

もっとも「10年ごとに同じ数の本が出版されているわけでないことから、グラフBは著作権の影響力を正確に反映していない」という反論がありえます。しかしこの反論は簡単に打ち崩されそうです。

過去200年間に出版された本の数は正確には分かりません。しかし、Heald博士と研究グループは、「WorldCat」という世界中の7万2000もの図書館からの聞き取り調査によって作られたカタログから、本の出版数を近似的に計算することに成功。その数値をたよりにグラフを修正しました。

こちらが修正後のグラフ(グラフC)。




グラフCでは、1920年代以前の本の数と比較して1930年代以降の落ち込みがより鮮明になっています。やはり、著作権の影響が顕著であることを再確認できます。

著作権擁護者は長らくこう言い続けてきました。「本を著作権で保護することは、著作権者に知的財産からより多くの収益をあげることを保証する」「利益によるインセンティブは、本の入手性と流通の向上を保証する」と。この主張は、多くの人の賛同を得ることに成功してきました。

しかし、Heald博士は「出版業界は本を最初に出版した数年間を除けばもはやその本を売る気がないように思える」とします。Heald博士のグラフからは、出版された本はほんの数年で市場から消えてしまい、それがPDになり著作権者から解放されるまで長年消え続けるという現実を示唆しています。そしてHeald博士は「著作権は本をこの世から消滅させている。著作権がなくなるときに本はふたたびこの世によみがえるのだ」とします。

Heald博士の研究結果は、これまで著作権擁護者が唱えてきた著作権が生み出すユートピアを真っ向から否定するものです。著作権による保護は作者の死後も続きます(アメリカでは原則として作者の死後70年、日本では原則50年)。著作権のせいで作品が市場から消されているという「現実」は、作者の望む、あるいは望んでいた世界ではないはずです。

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新しい「世界史」の観点

ユダヤ人というのは、キリスト教社会では唯一金融業(金貸し)を許されていた人々だったと言われている。その理由はよく分からないが、労働してその結果を得るのがまともな仕事であり、カネを貸してその利息を得る商売というのは「まともな仕事ではない」という倫理感から来たのではないかと思う。つまり、「労働は尊い」という思想を持たせないと人々が怠けて税収が減るから、とても労働とは思われない金融業を蔑視するモラルが社会の中に作られたのだろうし、それはどの社会でも共通だったのではないか。つまり、金貸しは「賎業」だったわけだ。
だが、金貸しというのは、数字を操作する世界である。何か物を生産したり運んだりすることなく、すべてが頭の中で行われる。後は、対人交渉、つまり演技力や説得力の世界だ。
つまり、ユダヤ人は長年に渡って頭の中の抽象的操作を続けてきたのである。
これが、ユダヤ人が「世界で一番頭がいい民族」になった理由だと思う。
と同時に、それは「実業や生産」をする人々への軽蔑を必然的に生み出しただろう。これは中国古代にもあった思想だが、上級の人士(レベルの高い人間)は肉体労働などしない、という思想だ。まして、ユダヤ教ではユダヤ人以外はゴイムという「人間ではない存在」とされ、軽蔑されている(と言われている)。現実生活で受けている差別が、この教えを逆に確固たる信念に替えたのではないか。
そのユダヤ人にとって、現実の政治や経済は笑止の沙汰だったのではないか。やれ農業だ漁業だ牧畜だと面倒くさい労働を死ぬまでやっている哀れな奴隷たちも間抜けだが、それを管理するのに苦労している連中も結局は「労働者」つまり、家畜的存在にすぎない、というわけである。国王などと言っても、あれやこれやと苦労をし、戦争をしては領土や命を失っている。国王や貴族にカネを貸しているこちらだけが、何の苦労もなく、カネがカネを産むのを待っていればいい。(どこかで貸金がふいになっても、分散投資しているから大丈夫である。)

そういう観点で世界史を眺めれば、領土争いとか戦争とかいうのが実に馬鹿馬鹿しく、陰で笑っている存在が見えてくるのではないだろうか。もちろん、情報を操作して金儲けをするのはお手の物である。戦争の勝敗の帰趨も手に取るように分かっていただろう。馬鹿どもが舞台の上で踊って何百万何千万死のうが、どうせゴイム連中だ。


(追記)

(第一次大戦時に)オーストリアはドイツの銀行から1916年までに二五億マルクもの負債があり、その後も一カ月一億マルクの割で借り入れを続けた。(中央公論社「世界の歴史26」より)

(追記2)

日本の日露戦争の戦費の多くはユダヤ人ヤコブ・シフからの借り入れであり、その返済がやっと終わったのは、何と昭和末期、福田内閣の時である。

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近代史が分かりにくいわけ

別ブログに載せたものだが、ここにも転載。つまり、学校教科書や参考書や学者の書いた世界史(近代史)にはこの視点が完全に欠けている、ということが言いたいのである。で、第一次大戦というのは世界史的に見て第二次大戦以上の意味があると思うのは、勃発当時の情勢がしっちゃかめっちゃかで、何がどうしてあれほどの戦争になったのか、さっぱり分からない、ということだ。分かりにくいにはその理由があるはずで、そこで、下のような視点もある、と提言したわけである。(小説の方は、私は夢想したり構想したりするのは好きだが、自分で書く苦労はたぶん耐えられないと思う。それは、小説を書くのが好き、という人のやることだ。だから、たぶん、夢想に終わると思う。)

「世界史の窓」というサイトから転載。
第一次世界大戦勃発時を舞台にした話(小説か、アニメや漫画の原作)を書こうかな、と思っているので、そのためのメモ。
実は、露土戦争の結果勝利したロシアがオスマン帝国(オスマントルコ)との間に結んだ「サン・ステファノ条約」に欧州諸国が横やりを入れて、結局このベルリン条約でバルカン半島の大半は欧州列強(あるいはその傀儡国)の物になるのだが、その詳しい事情が下に書いてあることだ。
で、問題は、バルカン半島が小国分立し、さらに欧州列強に支配されたことで民族運動が激化し、それがサラエボ事件に結びついて第一次大戦が起こるのである。
つまり、このベルリン条約が第一次世界大戦を産み、さらに第一次世界大戦が第二次世界大戦を産み、それが第二次大戦後、現在にまで至る様々な民族主義的内乱やテロ事件を産んでいるわけで、それで得をしたのは「戦争で儲けている連中」しかいないわけである。
とすれば、一般的にはビスマルクによる調停とされているこのベルリン条約を背後で操作したのは欧州ユダ金ではないか、と私は推理しているわけだ。
ついでに言うと、世界近代史というのは、「敵役としてのロシアとイスラム」「善玉としての欧米諸国」という観点でしか描かれていない。当然、誰かが背後で操作してそのように「民衆教育」をしてきたわけだろう。で、実は、どこそこの国が領土を拡大したとか、領土的野心で戦争をした、という見方しか歴史書は描かれないが、領土というものにまったくメリットを認めない集団がおり、それは永遠の流浪の民にして、世界をカネで操る存在である。国というものにまったくメリットを認めないから国家間の政治を(どちら側も)操って、戦争さえさせれば儲かるわけだ。これは、ナポレオン戦争の情報操作で大儲けをした初代以来のやり口だろう。



ベルリン条約


1878年、東方問題に関するベルリン会議でビスマルクの調停によって成立した条約。バルカン半島でのロシアの侵出を抑え、イギリス・オーストリアに有利な調停となった。


 1878年のベルリン会議の結果、「東方問題」の最終的な解決として、ドイツ帝国のビスマルクの調停によって成立した条約。これによって露土戦争の結果としてロシアがサン=ステファノ条約で獲得した領土は大幅に削減された。
主な内容は、
ルーマニアセルビアモンテネグロの三国の独立とそれぞれの領土拡張。
ブルガリアは領土を3分の1に縮小され、オスマン帝国を宗主国とする自治国とする。
・ロシアは、コーカサス山脈以南の諸都市をトルコから、ベッサラビアをルーマニアから獲得。
・オーストリアは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得。
・イギリスは、オスマン帝国からキプロス島の統治権を認められる。
・フランスのチュニス進出の承認。(いつチュニスを占領してもいいということで、フランスは1881年に実行する。)

ベルリン条約の意義とその後


 露土戦争で頂点に達したロシアの南下政策はいったん抑えられ、オスマン帝国領でのバルカン諸国の独立、イギリスとオーストリアにとって有利な領土調停が成立した。ヨーロッパの勢力バランスの維持を図るビスマルク外交の典型であった。
 しかしこの結果、ドイツとロシアの関係は次第に悪化し、ロシアはフランスに接近する。危険を感じたビスマルクは、1882年に三国同盟でオーストリア、イタリアと手を結び、さらにロシアに働きかけ、1887年に独露再保障条約を締結することとなる。

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資本主義の背後の「神(公務員階級)の見えざる手」

前の記事と同じく「つぶやきコミューン」から転載。
こうした読書感想記事は、自分で読む代わりに、誰かが読んでくれてそのエッセンスを教えてくれるわけで、有益だ。もちろん、時間が許せば自分で該当書を読むのがいいが、たいていの本は「情報収集」のためだけならばこうした要約文で十分だ。
苫米地英人は、頭の良さでは日本でも有数の人物だと私は思っているし、政治や経済についての彼の発言も、その山師的な風貌に似合わずなかなか誠実だと思う。
下で書かれた内容も、特にこれから社会に出ようという若い人にとっては特に有益だろう。

社会がこのような形で、金持ちへの願望を植えつけるのはなぜか?それは公務員に生産性がないから税収をあげようと所得の向上を刷り込むためである。一般会計で年度内で消費するような「復興財源」も、もっぱら公務員の給料に消えるまやかし以外のなにものでもない。


という指摘は、目から鱗である。私は資本主義思想と公務員を結びつけて考えたことは無かったが、そういえば、公務員というのは昔の武士階級と同じく、「非生産階級」だった。その階級存続とその生活向上のために、公務員たちが自分たちの持つ「行政」という手段を利用しないはずがない。つまり、現代でも「士農工商」という階級制度は「士・その他国民」という2階級になって存続しているわけである。


(以下引用)





苫米地英人『苫米地英人の金持ち脳 捨てることから幸せは始まる』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本
 



一般的には、オウム真理教事件での脱洗脳に関わったことで知られる苫米地英人氏ですが、きわめて広いフィールドで自在に活躍する天才的脳科学者、おそらくは日本で最も優れた頭脳の一人でしょう。

苫米地氏の著作は、主にルー・タイスのコーチングの理論に基づいた自己啓発書と、日本全体あるいは世界全体を覆う資本主義経済やメディアに対する社会批判的内容の著作に分けることができます。いずれも、潜在意識に書き込まれた情報を書き換え、既成の固定観念や考え方から脱却することを目指したものと言えるでしょう。

『苫米地英人の金持ち脳 捨てることから幸せは始まる』(徳間書店)はこの両者が表裏一体になり、後者の内容からスタートしながらも、一人ひとりのお金や仕事に対する考え方を変えることで、周囲に操られない自分自身の主人公的な生き方へと導くことをめざす著作です。

この本は、5つの章から成り立っていますが、そのそれぞれに質問があり、そして解説の後に答えがあるQ&Aの非常にわかりやすい形で構成されています。まず、大雑把に第1章 本当の「金持ち」、ウソの「金持ち」の論旨をまとめることで、苫米地氏の視点を明らかにしておきましょう。

「洗脳」にはよい洗脳と悪い洗脳があり、悪い洗脳とは、恐怖・ネガティブな感情に訴えるもの、よい洗脳とは人のプラスの感情を使うことで、本人の能力や自己評価を高めることを目的とするものである。そして、この視点から言えば、「お金持ちでなければいけない」という経済洗脳は、「お金がないと君は死ぬ」という恐怖感に訴える悪い洗脳である。生活保護や親族を頼らずに餓死したいくらかの人は、貧しさではなく、お金のないことは恥ずかしいことだと考える経済洗脳のために死んだというべきである。

社会がこのような形で、金持ちへの願望を植えつけるのはなぜか?それは公務員に生産性がないから税収をあげようと所得の向上を刷り込むためである。一般会計で年度内で消費するような「復興財源」も、もっぱら公務員の給料に消えるまやかし以外のなにものでもない。代わりに、苫米地氏は、BIS規制を外すという条件の下、被災した企業や個人に対する低利の長期貸出を提案する。

本来人類はサステイナブルな生活を送る存在であり、「お金持ちになりたい」という経済洗脳は、アメリカの経済に始まる過去数十年ほどの出来事にすぎない。こうした経済洗脳を進めるためにアメリカで用いられたのがスポーツ・セックス・スクリーンという3S政策であり、このやり方は功を奏し、消費経済を活性化するほど、税収に結びついたのである。

大企業の論理と政府の論理が一体化したときに生まれたアイデアが、消費経済という「国民への洗脳」だったのである。p38

こうした経済洗脳から脱して、幸福になるためには、物事をあるがままに見るようにすればいいだけである。偽の豊かさとは、他の人が消費させたいものを消費させる欲求を増大させることからくる幻想であり、真の豊かさはこのようなhave to ではなく、want to 自己の内なる欲求から価値を生み出すことによってのみ生まれる。

同時に、金持ちを資産の多寡ではかることは無意味である。金持ちとは、自分が必要なものを買うために必要なお金に困らないことであり、買いたいものがなければ10万円しか持っていなくても金持ちなのだ。

第2章以下では、支出優先型の貧乏脳から脱出し、収入先行型の金持ち脳へと脱却するための必要な条件を明確にすることにあてられています。そのためには、お金では手にはいらないものの価値を知ること、同時に自分は稼げる人間であるというエフィカシー(自己評価)を高めることが必須であると苫米地氏は説きます。

さらに日本経済や社会の意表をついた再建策をいくつも出した後、第3章ではわれわれの中の「貧乏脳」とか何かという本質に入ります。

「貧乏脳」は不満足脳低自己評価脳からなり、記憶や想像力に頼らず、同じものを何度も経験したがることから、不満が生じ、そしてこの不満をお金で解消しようとするから、貧乏脳から脱却できなくなるのである。これこそが資本主義による洗脳である。たとえ、「フリーター」であっても、不満を感じず、自分の能力に対する高い評価があれば、金持ち脳であり、逆に、漠然と「正社員」や「公務員」をめざすのは、そこに職種への憧れや使命感がないのであれば、単なる経済的保証の元に、奴隷のように働きたいという願望に基づく貧乏脳なのである。

第4章では、どうすればこうした貧乏脳から脱出できるのかが語られます。

金持ち脳になるために一番重要なのは、収入を増やすことではなく、支出をコントロールすることなのである。p141
貧乏と感じるのは収入のせいでも不景気のせいでも、収益の上がらない職業のせいでもない。支出をする「自分自身」が、いちばんの問題なのである。p143

支出のコントロールができないのも、欲求をメディアによって支配されているからであると苫米地氏は主張する。その中でも、最大の元凶はテレビである。これはテレビと言う媒体の性質よりも、日本のテレビの番組予算の低さ、そして小学校5年程度の視聴者を想定している番組クオリティの低さ、そしてそのほとんどが広告代理店にあやつられた広告収益主義から来ている。ハリウッドの映画は桁違いの予算をつかっているし、そうしたはるかに質の高い作品がネット上で見られる時代にわざわざ見る理由は思い当たらない。情動に訴える映像メディアよりも、活字メディア、とりわけ本や新聞を情報源とするのが正しいと苫米地氏は言う(本書では、他の本では顕著な記者クラブ批判やクロスオーナーシップには触れられていない)。

本の製作には、広告代理店が関わらないため、唯一、貧乏脳をつくらないメディアと言える。また、そこに詰め込まれている知識量は膨大であり、新聞の比ではない。pp161-162

「金持ち脳」の考え方からすると、本当にほしい30万円のものと安い10万円のもののいずれを買うべきか。この場合、返済できるならローンを組んでも30万円のものを買うのが正しい。但し、求めるのは機能だけに絞るべきだ。持ち家と賃貸なら賃貸。返済金利と自己負担の補修費と固定資産税の三つから当然導かれる結論である。

そして、第5章では「貧乏脳」から「金持ち脳」に乗り換える仕事の選び方が語られます。

メディアによる経済洗脳から免れても、仕事を嫌々やっている人は貧乏脳に陥る危険がある。だから、好きなことを仕事にすべきである。

やりたくない仕事をしている人は、仕事の外に満足を求めようとするため、どうしても支出が多くなりがちだからである。p184

邱永漢氏の言うように、「いちばんの金儲けの方法は天職を持つことである」。

金持ち脳になるいちばんの王道は、仕事から満足を得ること、そのためには好きなことを仕事にすることである。p186

天職とは、自分の得意なことを仕事にすることであり、選んだ時点の収入が低くても、得意分野の技術に磨きをかけ没頭しなければならない。

「好きなことを仕事にする」という言葉への誤解を、苫米地氏は以下の文章で見事に断ち切っている。仕事にする上で、重要なのはマーケットである。マーケットのないところで、好きなことをやってみてもそれは趣味にしかならない。

趣味にはマーケットを獲得するという発想がないため、仕事には適さない。したがって、好きなことを仕事にすると言っても、趣味のように好きなことを仕事にするということではない。マーケットの役に立つことで好きなことを仕事にする、ということなのである。p199-200

苫米地氏の考えは、昔ながらの知足(ちそく=たるを知る)の考えに似ているように見える。しかし、大きな点での違いがある。それは知足の考えは、現状に対する諦念、あきらめの気持ちに基づいているのに対して、天職とはあくまで高いエフィカシー(自己評価)に基づいた自由な選択の結果なのである。報酬の限界と能力の限界を混同してはいけないと苫米地氏は言う。


報酬の限界はイコール自分の限界ではない。たとえ給料が低い職業でも、自分が求め、選んで就いたのであれば、それがあなたの天職である。なぜ、そのことで自分をおとしめる必要があるというのか。人がなんといおうと。自信を持って精一杯、勤めめればいいのである。p203

この言葉、至言だと思う。

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犯罪者の厚生する可能性

人間なら誰でも罪を犯す誘惑に駆られたことはあるだろうが、そういう誘惑を感じることと実際に罪を犯すこととは天地の隔たりがある。性善説主義者は、「誰でも罪を犯す可能性はあるのだから、犯罪者に寛容になり、その厚生に協力すべきだ」と言うのだろうが、はたして犯罪者は本当に厚生するのか。皆無ではないだろうが、犯罪者のうち再犯者が8割以上いると昔どこかで読んだことがあるが、たぶんそうだろうと私も思う。
もちろん、冤罪の場合もあるから、犯罪にやたらに厳しくしろとは言わないが、再犯者には厳しい罰則が必要だろう。いわゆる「3ストライク制」である。重犯罪(偶然的に人を殺したとかではなく、その内容に悪質性が高い、という判断が必要だが)の場合は(その犯行が明白なら)1回でも即座に死刑でもいい。
下のコメントにもあるが、中学以上で重犯罪を犯す者はほとんど厚生不可能だと思う。


(以下引用)



1: 2018/11/22(木) 17:11:02.24 ID:CAP_USER9
【調査】罪を犯した人の更生「協力したいと思わない」人が増加 内閣府調査

再犯防止対策をめぐって内閣府が行った世論調査で、「犯罪を犯した人の立ち直りに協力したいと思うか」と尋ねたところ、「思わない」と答えた人が40%余りで前回・5年前の調査より増えました。

政府は、再犯を防止するには民間の協力が欠かせないとして、啓発に力を入れることにしています。

内閣府はことし9月、全国の18歳以上の男女3000人を対象に、犯罪を犯した人の再犯防止策に関する世論調査を行い、55.5%に当たる1666人から回答を得ました。

それによりますと、「犯罪を犯した人の立ち直りに協力したいと思うか」と尋ねたところ、「協力したいと思う」と答えたのは53.5%、「思わない」と答えたのは40.8%でした。

前回・5年前の調査では、対象年齢が20歳以上だったことなどから単純に比較はできませんが、「協力したいと思う」は5.6ポイント減った一方、「思わない」は7.6ポイント増えました。

このうち、協力したいと思わない理由について複数回答で尋ねたところ、「どのように接すればいいかわからない」が44.9%と最も多く、次いで、「自分や家族の身に何か起きないか不安」が43%、「かかわりを持ちたくない」が35.5%などとなりました。

法務省は、「再犯の防止には、犯罪を犯した人を雇用する『協力雇用主』など民間の協力が欠かせず、啓発を強化したい」としています。

2018年11月22日 17時03分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181122/k10011720141000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_003

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88: 2018/11/22(木) 17:29:50.69 ID:fVWsvN0Q0
>>1
他人の事までかまってる暇がない

20: 2018/11/22(木) 17:17:05.76 ID:M+LNRsrD0
>>1
でサカキバラは更生したのかよw
報道しない自由w

120: 2018/11/22(木) 17:34:12.42 ID:el3hUuIu0
>>1
サイコパスやら愉快犯みたいなのが大々的に報じられるから「こんな奴に」って思うのは残当

125: 2018/11/22(木) 17:34:51.99 ID:AjXjFiti0
>>1
そんなの簡単じゃん、「リスクだけあってメリットがないからだよ。

毎月いくらの謝礼があるか、それが全てだな

155: 2018/11/22(木) 17:38:40.98 ID:JeHxcQN20
>>1
?更生が終わってないのに社会復帰せせるの???

164: 2018/11/22(木) 17:40:21.89 ID:ZiHNbZZn0
>>1
中学生以上はもう更生なんてしないよ

237: 2018/11/22(木) 17:49:10.08 ID:McKBgaie0
>>1
口ではそういってるけど内心誰だって嫌だろ、己や家族の身を案じればあたりまえ

犯罪者の雇用は人が少ない過疎地でやれよ
人口増えるし、犯罪犯したら過疎地に飛ばされるから抑止力にもなる

3: 2018/11/22(木) 17:12:52.45 ID:QfOJzVMb0
助ける義理ないし
助けるメリットより関わるリスクのほうが大きい

国家制度が罪を贖ったと認めても市民感情は別

4: 2018/11/22(木) 17:12:56.77 ID:QmY8l2gk0
やらかしたら終わり、の方が納得できるよな

6: 2018/11/22(木) 17:13:42.75 ID:uJs1mvz/0
相手によるだろ
一律に判断できるもんじゃない

138: 2018/11/22(木) 17:36:28.70 ID:Mfl0VRFm0
>>6
だな。
ネグレクトされて生活に困窮してやる万引(窃盗)と、遊び半分とかスリルとかで
やるのとは全くの別物。
被害者からすれば完全なる同一物だけど。

更正させたいと思うか、という観点からすれば後者は踏みにじって情報拡散する。
前者は手を貸したい。

7: 2018/11/22(木) 17:13:46.14 ID:mPZcpx900
スリーストライク制で累犯者は処刑とかなら、更生確率上がるだろうけど、
今は無理じゃない?

8: 2018/11/22(木) 17:15:01.00 ID:0M1F4hvt0
犯罪者より障がい者の生活支援に血税使って欲しいわ

9: 2018/11/22(木) 17:15:05.14 ID:qlF17Dea0
更生プログラムは今もどこかで研究が続けられてるのだろうか
それで更生率が上がってきてたりすればいいけど

10: 2018/11/22(木) 17:15:20.55 ID:NO7ZSFV00
交通違反とかならまだいいけど、窃盗や殺人は死んで欲しい

15: 2018/11/22(木) 17:16:18.78 ID:/S+8DTAJ0
人から復讐権を奪って本来刑務所は教育刑を高らかにうたってるじゃないか

再犯を防げない・再犯率が高いは、そもそも教育ができていないという事

それを、『協力雇用主』など民間の協力が欠かせず・・・と言って、人のセイにする

おバカ丸出し

17: 2018/11/22(木) 17:16:33.49 ID:Gf83LexG0
本気で更生しようとしている人を見捨てるのはひどすぎるけど、

多くの前科者は更生とか反省とか、そういうのは全くない世界の人たちだから。

18: 2018/11/22(木) 17:16:56.78 ID:FXRcT/Fj0
>それによりますと、「犯罪を犯した人の立ち直りに協力したいと思うか」と尋ねたところ、「協力したいと思う」と答えたのは53.5%、「思わない」と答えたのは40.8%でした。

思う人が多くて正直ビックリした

19: 2018/11/22(木) 17:17:05.28 ID:2/sEh5pJ0
そもそも更正が必要かどうかも判断すべきだと思うわ
女子高生コンクリ詰めみたいなのは誰も更正なんて望まんのだから即死刑にすべきだし
前科あったら最高刑確定、悪質なら無期や死刑も選択肢に入るようにしていい
犯罪者に甘すぎるんだよ

21: 2018/11/22(木) 17:17:24.90 ID:ztq+7FrX0
社会不適合者なんぞに関わりたくねえよ
人権派弁護士と製造者の責任、裁判官にも責任取ってもらおうか

22: 2018/11/22(木) 17:17:31.02 ID:o1DZy3Ut0
安易に楽なほうにながれ犯罪を犯すようなクズに更生なんか無理でしょ
不良がーワルがー立派に更生してーとか超レアケースを持ちだされてもねぇw
人の道から外れずに地道に生きている報われない人たちにこそ手厚いケアと救済の手を差し伸べるべき

23: 2018/11/22(木) 17:17:36.38 ID:yGPG/GHl0
高齢者以外の一般国民の貯蓄率が下がっているのに、そんな余裕はない。



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