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「怒りの葡萄」

いわば、「資本主義批判」とも言えるこの小説への大資本家と米政府による「回答」が米国の第二次大戦参加である。つまり、葡萄(国民大衆)は踏みつぶされ、その血は戦場で流されたわけだ。

(以下引用)一部省略


怒りの葡萄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

著者ジョン・スタインベック
発行日1939年
発行元The Viking Press-James Lloyd
ジャンル小説
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語英語
形態文学作品
前作二十日鼠と人間
 

怒りの葡萄』(いかりのぶどう、英語The Grapes of Wrath)は、アメリカ合衆国作家ジョン・スタインベックによる小説である。初版は1939年。1930年代末に発生した干ばつと砂嵐を契機とした農業の機械化を進める資本家たちと、土地を追われカリフォルニアに移っていった貧困農民層との軋轢闘争を素材とした小説で、1930年代のアメリカ文学を代表する作品として評価されている[1]。この小説により、スタインベックは1940年ピューリッツァー賞を受賞した[1]。後のノーベル文学賞受賞(1962年)も、主に本作を受賞理由としている。

物語

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世界恐慌と重なる1930年代、大規模資本主義農業の進展や、オクラホマ州はじめアメリカ中西部で深刻化したダストボウル(開墾によって発生した砂嵐)により、所有地が耕作不可能となって流民となる農民が続出し、社会問題となっていた。本作は当時の社会状況を背景に、故郷オクラホマを追われた一族の逆境と、不屈の人間像を描く。


オクラホマ州の農家の息子である主人公のトム・ジョードは、その場の激情で人を殺し、4年間の懲役刑から仮釈放で実家に戻ってきた。彼の家族の農場はダストボウルで耕作不能となり、生活に窮した家族は、オクラホマを引き払い、仕事があると耳にしたカリフォルニア州に一族あげて引っ越そうとしているところだった。トムは一族や、説教師のジム・ケイシーなどとともに、カリフォルニアへの旅に合流した。物語の前半では、すべての家財を叩き売って買った中古車でジョード一家がルート66を辿る旅が描かれる。


祖父や祖母は、アリゾナ砂漠やロッキー山脈を越えてゆく過酷な旅に体力が耐えられず車上で死亡し、従兄弟も逃亡する。そして、そのような苦難の旅の末、一家は人間らしい生活ができると思っていたカリフォルニアに辿り着く。しかし、当時のカリフォルニアには、大恐慌機械化農業のために土地を失った多くのオクラホマ農民が既に流れついていたため労働力過剰に陥っており、ジョード家の希望は無惨に打ち砕かれる。移住者たちは、「オーキー英語版」(Okie。“オクラホマ野郎”の意味)と呼ばれ蔑まれながら、貧民キャンプを転々し、地主の言い値の低賃金で、日雇い労働をするほかなかった。労働者を組織しようと活動をはじめたケイシーは、地主に雇われた警備員に撲殺される。その場に居合わせたトムは、ケイシーを殺した警備員を殺害し、家族と別れて地下に潜る。家族を次々と失ってゆくジョード一家のキャンプ地に、豪雨と洪水がやってくる。

解説

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本作は、奇数章に作者のスタインベックの評論、偶数章にジョード一家の物語を整然と配置した構成を取っている。このような構成を取ることによって、本作は単純な「ジョード一家の物語」という枠を超えて、当時の大恐慌下のアメリカ社会に対する直接的な告発ともなっている。


作者のスタインベックはキリスト教文学、とりわけ聖書に決定的な影響を受けた作家である。本作でジョード一家が貧しいオクラホマから、乳と蜜の流れる、豊饒な「約束の地」であるカリフォルニアに脱出するところは、旧約聖書のエクソダス『出エジプト記』をモチーフとしているという。また、物語の最後でママ・ジョードが言う、「先の者が後にまわり、後の者が先頭になる」と。これも新約聖書の一節である。


このように本作は、一見「社会主義小説」とも評される内容であるが(実際、出版当時そのような論評が数多く見られた)、それだけにおさまらない、きわめて深い内容を持つ作品である。

タイトルの意味

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「葡萄」とは、神の怒りによって踏み潰される「人間」のことを意味すると一般に解釈されている。

なお、怒りの葡萄(grapes of wrath)という表現は、同じくヨハネの黙示録に題材を得たアメリカの女流詩人ジュリア・ウォード・ハウの1862年出版の『共和国の戦いの歌』(リパブリック賛歌)の歌詞からとったものであり[5]、当時としても広く知られているものであった。1938年6月時点では作品名として「レタスバーグ事件」と名付けられて作品の製作が進められていたが、内容に満足しなかったスタインベックは改稿を重ね、1938年に脱稿、「怒りの葡萄」と名を改して出版された[6]

反響

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本作品は出版当時、アメリカ全土で一大センセーションを起こし、作品内に描かれた小作人、地主、移動労働者、資本家、行政当局といった人々がその真相を伝えているかどうかを巡って全米で論争が起こった。作品の舞台となったオクラホマ州とカリフォルニア州においては擁護する声よりも非難する怒号が圧倒的に大きかった[7]。オクラホマ州では多くの図書館で『怒りの葡萄』が禁書扱いとなり、州出身の国会議員により「オクラホマの小作人は他の土地の小作人に勝るとも劣らぬ立派な頭脳と心情を持っている。この本はねじくれて歪んだ精神が生んだ黒い悪魔の書だ」といった弾劾演説が行われた[7]。初版は50万部を超えて『風と共に去りぬ』の次に売れたといわれ、社会的反響の大きさは1852年に出版されたハリエット・ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』以来と言われている[8]


保守層からは目の敵にされ、カリフォルニア州では出版から2か月後には反論パンフレット『喜びの葡萄 ―ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』に対するカリフォルニアの清新溌溂たる回答―』が出版された[7]。一方で記述の正確さを擁護する声も少なくなく、社会学者や聖職者、行政府の役人といった様々な階層の人間が作品内の出来事を事実として証言している[7]。また、映画『怒りの葡萄』の製作に先立ち、ダリル・F・ザナックが私設探偵をオクラホマ州に派遣して調査させたところ、事実は小説以上に酷かったとのエピソードもあった[7]


発表翌年の1940年にはジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演により映画化され、ニューヨーク映画批評家協会賞の作品賞、監督賞、またアカデミー賞監督賞助演女優賞ジェーン・ダーウェル)を受賞している。詳細については『怒りの葡萄 (映画)』を参照。


1995年にはブルース・スプリングスティーンがアルバム「ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード英語版」(The Ghost of Tom Joad)を発表している。


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固有名詞の力

八潮市の道路陥没問題はマスコミ報道もほとんど消えている印象だが、まあ、私はテレビも見ないし新聞も(取ってはいるが)ほとんど読まないので、報道され続けているのかもしれない。

だが、私が不思議なのは、道路陥没で地中に沈み、消息不明のトラック運転手の名前が一度も報道されていない(らしい)ことだ。そして、その生存は絶望視された結果なのか、その捜索もしていないように思える。そして、日本全国はこのトラック運転手を完全に忘れたように思える。
それこそが、運転手の名前を報道しなかった狙いではないのか?

つまり、たとえばこれが小川さんなり何なりだったら、誰の心にも「小川さんはどうなった?」という疑問が残るが、名前が無いと、単なる「物体の消失」になるのである。

たとえば、いい方の例で言うと、だいぶ前に山で幼児が行方不明になった時に、ヴォランティアで捜索していた老人がその幼児を見つけ、その発見者の名前(尾畑春夫さんだったか。字は曖昧にしか覚えていないが)が全国的に知られたのである。今でもその事件も尾畑さんのことも覚えている人は多いだろう。

だが、今回は「消えた運転手」は人々の記憶からすら無くなったのではないか。名前が「ない」から記憶されないのも当然なのである。これが固有名詞の威力だ。名前があるから我々は誰かを「人間」として認識すると言ってもいい。これが「某政治家の汚職」と言われても、「政治家なら汚職して当たり前じゃねえの?」くらいにしか認識しないだろう。つまり、名前が無いと個人ではなく、人間として認識すらされないわけだ。

まあ、八潮市の道路下の下水道の工事をした業者の名前まで公表しろとは言わない。その業者の責任なのか判定は困難だろうからだ。

私は、日本社会の「官僚支配」は、上級官僚の名前がマスコミに出ないことが一番大きな力になっていると思っている。「無名のヴェール」に隠れているから、彼らは悪事ができるのである。
あなた、財務省や外務省の上級官僚の名前を知っていますか?

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「逆アントワネット生活」の勧め

「パンが無ければケーキを食べればいいじゃない」というマリー・アントワネットの言葉は捏造らしいが、ほぼ永遠に残る名言だろう。つまり、上級国民の下級国民生活への無知と同情心欠如、愚昧さの象徴だが、これを逆転させれば、下級国民の生活の知恵になる。
つまり、我々の生活は自分でも意識しない「実は代替可能な」贅沢品が周囲にあるのではないか、ということだ。
私など、最近のコーヒーの不味さに辟易して、いっそコーヒー中毒をやめようかと思っているが、これは麻薬をやめるより難しい。何であれ常習性のあるものは麻薬的なのである。
しかし、「逆アントワネット」哲学で、「コーヒーが無ければお茶を飲めばいいじゃない」と考えれば、「哲学的に」あきらめることができそうな気もする。さらに、お茶の葉も案外高いので「お茶が無ければ水を飲めばいいじゃない」とも言えるし、水道料金が高いとか薬品などの混入物が不安なら「水道水がダメなら雨水を飲めばいいじゃない」となり、資本主義社会は崩壊するwww
まあ、最後のあたりはもちろん冗談だが、「お米が無ければパスタにすればいいじゃない」は既に多くの家庭でやっているだろう。つまり、米作産業自体が崩壊する危険は目前なのである。
これが「物価高騰を放置する」ことの結果である。
ちなみに、電力料金高騰で多くの家庭が電気代節約をやっていることが、私の早朝散歩の時、常夜灯をつけている家が半減、いや、それ以下になっていることで分かる。

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中国の「不動産バブル崩壊」への中国政府の対応

「耕助のブログ」の某記事の一節だが、ここに「社会主義的資本主義」の見本があると思う。民間企業に自由にやらせても、その失敗が国民全体に悪影響を及ぼす場合は、国が「事態の最善の解決策」を策定し、実行するわけだ。
該当というか当該記事全体が興味深い内容だが、中国下げ以外の中国関係の記事を見ると脳卒中や心臓麻痺を起こす人もいるだろうから、ここでは載せないwww
なお、中国の「景気減速」は庶民生活にはまったく無関係のようだ。当たり前の話で、景気変動はそれが庶民所得と大きく関係する場合に問題になるのであり、それ以外は単に企業の問題だ。そして「すべての企業が不景気になる」のは作られた恐慌の場合のみだ。あえて言えば、金融資本主義社会で、銀行が一斉に窓口を閉めた時だけだ。そして投げ売りされた土地や企業や貴金属類を誰かが買い占める。

(以下引用)

– 住宅販売と価格は2024年後半に安定し始めた。政府は余剰供給を買い取り、低価格の手ごろな住宅に転換する計画を立てている。

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牧歌的ネットの時代の終焉(完全管理体制と収益ビジネスへの移行)

「大摩邇」所載の井口博士のブログ記事の一節だが、私の愛読していたブログ群も、この種のCMが頻繁に入り、読みにくいので見るのをやめたものが多い。「隠居爺の世迷言」などもそれである。
私はこうした広告を、ブログ主の「広告料目当ての下種行為」として軽蔑していたのだが、そうではなかったようで、ブログ主催者たちはとんだとばっちりを受けたようだ。広告の中には画面いっぱいを占領し、それが除去できない仕様のものも多い。つまり、ネットののどかな「原始共産主義的世界」は終わり、本格的な「資本主義化」と「検閲体制」が露骨になってきたのだろう。

(以下引用)
ところで、最近急にブログの本文中にCMが入るようになって非常に読みにくくなったように思う。
しかしこれは私が拙ブログでCM料のために登録したからではない。
エキサイト本社の方が設定を変えたようで、いつもはブログ欄の下段にCM帯があってその中に出るのだったが、それが本文中に割り込むようになったわけだ。
昨日早速クレームを送ったが今のところ返答はない。
というような事情で、読みにくくてすみませんが、ご了承願いたい。


(夢人追記)「大摩邇」別記事の一部である。


【注意】ブログがアメーバアプリなどで真っ白になる不具合と対策については、こちらのページにまとめてあります。



 



 



 


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資本主義社会では経済犯罪は日常茶飯事

私の別ブログに書いた記事だが、いつ閉鎖されてもいいように、重要記事はこちらにも載せておく。

(以下自己引用)

「天国の鍵」で善と悪の問題の考察をしているが、まあ、子供向けの話である。だが、そこでも善は本当に善か、悪は本当に悪か、くらいの議論はしている。
で、下のコメントはtogetterから拾ったものだが、社会の上級国民には常識だろう。今、読んでいる最中の広瀬隆の「億万長者はハリウッドを殺す」の中には、アメリカの億万長者たちがいかに犯罪的なビジネスをして巨万の財を成したかがかなり詳しく書かれている。
たとえば、会社を興して株を売り出す時、億万長者は自社株を自分で買い、株価を吊り上げて人気株にする。(そのカネは自分に戻るのだから懐は痛まない。)そして株価が十分に上がったところで他者に売れば、会社を作った費用はそれだけで回収できるわけだ。
そして現在でも、株価が本当には誰が決めているのか、証券会社内でどんな操作(談合?)をして株価を決めているのか、外部の人間には分からないのである。単に「人気の変動で決まっている」と言われているのを信じて株を売買するのが一般人だ。

「株には手を出さんよ。あれは仕組まれた芝居だからな」(アル・カポネ)

水原一平などはギャンブルで失敗したから罪になったが、勝って大儲けをして大谷の口座にこっそり返していたら大成功者で巨額の資産を手にしていたわけだ。つまり、そこには「犯罪が割に合う社会制度」が存在する。それが資本主義である。資本主義では経済犯罪は微罪扱いである。4年数か月の懲役刑も軽い処分でしかない。36億円の返済義務も、「破産してカネがないので無理です」で終わりになるだろう。


(以下引用)

こないだ奢りにきた高学歴の前科3犯が「日本に『やってはいけないこと』は一つもない」「ただ罰則があるだけ」「罰則があること、とは『やってはいけないこと』ではなく、『コストを払えばやっていいこと』に過ぎない」「犯罪が割に合う社会設計が悪い」などと言っており、宗教なき世界の限界を見た。



マンチカンのちゃちゃ丸
@Cthulhu015
@philosopium だから人間は法と宗教を作らざるを得なかった

2022-10-30 08:58:13

masaton
@masaton8
@philosopium 人を殺したらこう言う処罰しますねってのが法律で人を殺すのは悪だってのが宗教って事だね。法律に人殺しは悪だとは書かれていない。書いちゃうと死刑出来ないし。

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今の日本社会の惨状は社会各層の「憲法精神無視」(精神劣化)が最大の原因

「東海アマブログ」記事の一部で、他の部分では例によって偏見と独断の主張が多いが、この部分では非常に客観的で重要な事実を述べているので、これからの日本がどうあるべきかを考える指針になるだろう。
ただし、東海アマ氏お得意の「利他主義」という精神論ではお題目だけに終わると私は断言しておく。口には利他主義を唱えながら我欲を追求する悪党が跋扈するのが目に見えているからだ。
要は、法律(特に憲法)を万人平等にきちんと守らせればいいだけである。そして、憲法に違反する行為や法律は厳正に禁じるだけでいい。

(以下引用)赤字は夢人による強調。ただし「責任感を持って仕事をしたい」ではなく、「責任感を持って仕事をするのが当たり前だ」というのがかつての日本人(特に官僚)だっただろう。


 日本社会は、戦後の貧しさのなかで、「国家、国民のために責任感を持って仕事をしたい」という強い目的意識を持った人たちが多く、全世界の国家の中でも、腐敗の少ない健全な組織として機能してきた。

 私の記憶では、2000年頃までは、日本政府も社会も「健全」といえたと思う。
 しかし、このころ、小泉純一郎・竹中平蔵コンビが政権を握り、合理化、金儲け最優先の新自由主義思想を日本社会に持ち込んだ。
 https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20210118/se1/00m/020/003000d
 このときから、日本という国が腐り始めた。

 その結果として、息子の小泉進次郎が、年金支給を80歳からにすると言い始め、竹中平蔵は、年金を廃止して「月7万円のベーシックインカム」を導入すると言い続けている。
 貧しい人には「施し」をすればいいとして、底辺の生活者を構造的に豊かにすることに頑強に反対している。
 財務省が増税路線をやめない本当の理由は、底辺の民衆生活を貧しくして、日本社会に構造的な差別体制を作ることで、特権階級の利権と支配を強固にすることだといわれる。

 小泉体制が定着した今世紀に入って、国家の下部構造である警察や消防、行政にも新自由主義が浸透し、前世紀のような「国民を守る」と決意して業務に取り組む意欲に溢れた人たちが排除され、竹中平蔵が持ち込んだ「市場原理最優先」思想が行政の現場にも蔓延してきた。

 どういう意味かというと、「金にならないことは、やらない」という思想である。
 だから、最初に、赤字経営の続く過疎地方の公共サービスが排除されていった。
 私が、今住んでいる中津川市蛭川に移住した20年前には、約10分離れた停留所に、一日8便のバス便があった。それが竹中平蔵による地方合理化路線によって、数年毎に半減し、2019年には、ついにバス便が廃止され、我が家の最寄りバス停は、徒歩10分から2時間に変わった。
 (バス便は日8便が生活に役立つ最低の便数だ。それ以下では利用価値がない)

 廃止された理由は、バス便への公的補助金が廃止されたからで、地方財政の無駄を切り詰めろという竹中路線だった。
 バスと共に、公共診療所や行政施設、小さな図書館など、次々に廃止されていった。
 バス便が廃止されたなら、必要になるのはマイカーだが、その優遇措置も皆無どころか、税金は3割くらい上がり、今年の自動車保険料は5000円以上、上がった。ガソリン代や灯油代は、20年前の2倍近い。これも財務省の思惑といわれる。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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