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特別支援学校での教師の勤務実態

「はてな匿名ダイアリー」という冷笑サイトには珍しく真面目な内容である。障害児への偏見に満ちている、と憤慨する人もいるかもしれないが、書かれた内容や心情はすべて本当だろうと思う。発言者の人間性は別問題だ。そして、私などから見ると、ごく普通の人格に見える。
社会勉強になる、という意味でこのブログに載せる。おそらく、社会の99.99%の人は特別支援学校やその教師の勤務の実態を知らないはずだ。つまり、知っている人は1万人にひとりくらいではないか。いや、10万人にひとりかもしれないし、知っていても平然と無視しているだろう。だからこそ下の記事のような状態が永続的に続くわけだ。

(以下引用)省略した部分にこそ面白い記述があるが、なぜか容量オーバーなので割愛。

特別支援学校教員なんだが、もう限界かもしれん

関東公立特別支援学校正規教員をやっている。


一応中高の免許は持っているが、特別支援学校免許は持っていない。無免許教員だ。


なぜ無免許教員ができるのかというと、いろいろ事情がある。


特別支援学校といっても、障害の種類によって実態は様々である


そのうち、身体障害者知的障害を持たないため、高等学校に準ずる教育をしなければならないことになっている。つまりは、高校と同じ教科指導を行う必要があるのだ。


特別支援学校免許をとるためには、基礎免許状といって小中高のいずれかの免許をとらなければならないが、だいたいの人は小学校免許をとる。


高校免許を持っている人間結構レアだ(自分の周りでは)。そのため、身体障害者特別支援学校では常に人手不足状態に陥っている。


ではどうやって人材を確保しているのかというと、うちの自治体高校枠の教員が教科指導のために特別支援学校で勤務させられている。


学校の枠を超えて、高校いくらでもいる教科指導ができる人間を引っ張ってくることが認められているのだ。


だが、高校生に教えたくて教員になった人間特別支援学校希望することはほぼありえない。


希望者なんか募ってもゼロに近いだろう。それに、ちょうどよく不足している教科の教員が来るとは限らない。


から自治体は、どこに配属されても文句を言えない初任者を特別支援学校で勤務させるのだ。


自分は運悪く、初年度に特別支援学校に配属されてしまった一人だ。


一応、教科の免許は持ってはいるが、障害がある生徒を相手にしているので、普通に授業をするわけにいかない。


障害理解し、個々に応じた指導をしなければならない。そのために何時間残業することは当たり前。


右も左もわからない状態でなんとかやっているのに、ベテランから支援がなっていないとボロクソに詰られる。


研究授業でも褒められるポイントは授業内容ではなく、支援策。やってられるか。


そして、勤務校は身体障害者がメインの学校とはいえ最近知的障害を併せ持つ生徒が増えてきている。


障害の程度は様々だが、中にはトイレの世話を見なければいけないような生徒もいる。


特別支援免許を持っている人間にとってはそんなのは当たり前だと思うかもしれないが、仕事先で生徒のケツを拭く(物理)なんて思ってもいなかった高校枠の人間としては、かなりキツいものがある。初めてトイレについていかなければならないと知ったときのなんとなくわかってはいたけどマジか…という感覚は今でも忘れられない。



(中略)


これを読んでいる特別支援学校の生徒の保護者がいたら、教育委員会に問い合わせるなどしてほしい。


免許あなたの子供に教育してます障害知識なんかないので、常に探り探りやってますあなたよりも障害知識が乏しい可能性もあります


一部身バレを防ぐためにフェイク入れてますがほぼ実話です。


同じような無免許教員が何人もいますなんやかんやみんな責任感があるので、文句を言いつつ仕事ちゃんとやっています


なので現状を誰も問題にしてくれません。


助けてください。

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戦闘教師ケン氏の「トランプ・ゼレンスキー会談」論評

戦闘教師ケン氏の記事だが、「物の見方」の問題なので、政治ブログではなく、こちらのブログに載せる。トランプ・ゼレンスキー会談を「リアリティショー」であり、「論評する価値はない」としていること自体がなかなかの「論評」だという根本的矛盾があるように私には思えるww

問題は「リアリティショー」だから「論評する価値はない」という見方が妥当かどうかだ。むしろ、こうした「リアリティショー」をマスコミや大衆に提示するのは、どういう必要性があったのか、というのが問題なのではないか。
私は「リアリティショー」はテレビの実物を見たことがないし、アニメ「押しの子」で知っている浅い知識しかないが、「すべてが嘘」ではなく、ある種の偶然や出演者の意志も加味される「虚実皮膜(漢字はこうだったか。読みは「ひにく」だが「皮肉」の字ではなかったと思う。)」つまり、半分嘘で半分本当というのがその特徴だと思っている。
つまり、トランプは、相手に強引な和平策を示す必要性があったし、それが拒否されても別に構わなかった。ゼレンスキーは、それを絶対に呑めないし、拒否してもNATO欧州勢が後押しするから大丈夫だという確信があってのあの「大喧嘩」芝居だった、ということなら、それはそれで大きな意味のある会談だっただろう。それでお互いの面目を立てる、というのが一番の目的だったのだから。おそらく、会談前にゼレ助は欧州首脳たちから今後もバックアップするという確約を取っていたと思う。まあ、それが彼ら全員の命取りだ、というのは私の意見である。(ところで、「ゼレ助」って、なかなかのネーミングではないか? www)


(以下引用)

2025年03月02日

米宇会談はただのリアリティ・ショー

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米宇会談の破綻を経てリベラル人士が発狂している模様。
だが実際には、トランプとゼレンスキーがお互いに言いたいことを言って物別れになっただけの話であり、特に論評する価値もない。

ゼレンスキーにしてみれば、体面上「勝ち続けて、ロシア国内に反攻を進めている」ことになっているのに、アメリカから「敗北扱いの和平仲介、しかも有償(レアアース)」などという条件を飲めるはずがなく、飲めば国内世論が沸騰し、ゼレンスキー政権が保たないだろう。
そもそもゼレンスキーの勝利条件は「聖戦貫徹」であり、ロシアの無条件撤退以外に権力の正当性を保てる条件はない。

他方、トランプとしては「ウクライナから手を引く」ことが勝利条件であるが、さすがに無条件で手を引くと批判に耐えられないかもしれないので、「有償の和平仲介」を提案したのだろう。トランプ的には、「採掘量もわからない未開発の資源を担保にしてやるんだから破格の条件だろう」という話になる。
もちろんこれは断られることが前提であり、米国民(支持者)の手前、「俺はウクライナのためを思って色々提案したんだけど、あの連中が失礼にも全否定しやがった」という形が必要だった。

トランプとゼレンスキーは互いに万能感あふれる芸能人であり、劇場型政治家でもある。
そこでわざわざ首脳会談という「劇場」を設定し、互いに「言いたいことを言い合った」のだろう。
つまり、リアリティ・ショーである。

そう考えれば容易に納得できるし、わざわざ論評するような類のものでもないことに気づくはずだ。

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「怒りの葡萄」

いわば、「資本主義批判」とも言えるこの小説への大資本家と米政府による「回答」が米国の第二次大戦参加である。つまり、葡萄(国民大衆)は踏みつぶされ、その血は戦場で流されたわけだ。

(以下引用)一部省略


怒りの葡萄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

著者ジョン・スタインベック
発行日1939年
発行元The Viking Press-James Lloyd
ジャンル小説
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語英語
形態文学作品
前作二十日鼠と人間
 

怒りの葡萄』(いかりのぶどう、英語The Grapes of Wrath)は、アメリカ合衆国作家ジョン・スタインベックによる小説である。初版は1939年。1930年代末に発生した干ばつと砂嵐を契機とした農業の機械化を進める資本家たちと、土地を追われカリフォルニアに移っていった貧困農民層との軋轢闘争を素材とした小説で、1930年代のアメリカ文学を代表する作品として評価されている[1]。この小説により、スタインベックは1940年ピューリッツァー賞を受賞した[1]。後のノーベル文学賞受賞(1962年)も、主に本作を受賞理由としている。

物語

[編集]

世界恐慌と重なる1930年代、大規模資本主義農業の進展や、オクラホマ州はじめアメリカ中西部で深刻化したダストボウル(開墾によって発生した砂嵐)により、所有地が耕作不可能となって流民となる農民が続出し、社会問題となっていた。本作は当時の社会状況を背景に、故郷オクラホマを追われた一族の逆境と、不屈の人間像を描く。


オクラホマ州の農家の息子である主人公のトム・ジョードは、その場の激情で人を殺し、4年間の懲役刑から仮釈放で実家に戻ってきた。彼の家族の農場はダストボウルで耕作不能となり、生活に窮した家族は、オクラホマを引き払い、仕事があると耳にしたカリフォルニア州に一族あげて引っ越そうとしているところだった。トムは一族や、説教師のジム・ケイシーなどとともに、カリフォルニアへの旅に合流した。物語の前半では、すべての家財を叩き売って買った中古車でジョード一家がルート66を辿る旅が描かれる。


祖父や祖母は、アリゾナ砂漠やロッキー山脈を越えてゆく過酷な旅に体力が耐えられず車上で死亡し、従兄弟も逃亡する。そして、そのような苦難の旅の末、一家は人間らしい生活ができると思っていたカリフォルニアに辿り着く。しかし、当時のカリフォルニアには、大恐慌機械化農業のために土地を失った多くのオクラホマ農民が既に流れついていたため労働力過剰に陥っており、ジョード家の希望は無惨に打ち砕かれる。移住者たちは、「オーキー英語版」(Okie。“オクラホマ野郎”の意味)と呼ばれ蔑まれながら、貧民キャンプを転々し、地主の言い値の低賃金で、日雇い労働をするほかなかった。労働者を組織しようと活動をはじめたケイシーは、地主に雇われた警備員に撲殺される。その場に居合わせたトムは、ケイシーを殺した警備員を殺害し、家族と別れて地下に潜る。家族を次々と失ってゆくジョード一家のキャンプ地に、豪雨と洪水がやってくる。

解説

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本作は、奇数章に作者のスタインベックの評論、偶数章にジョード一家の物語を整然と配置した構成を取っている。このような構成を取ることによって、本作は単純な「ジョード一家の物語」という枠を超えて、当時の大恐慌下のアメリカ社会に対する直接的な告発ともなっている。


作者のスタインベックはキリスト教文学、とりわけ聖書に決定的な影響を受けた作家である。本作でジョード一家が貧しいオクラホマから、乳と蜜の流れる、豊饒な「約束の地」であるカリフォルニアに脱出するところは、旧約聖書のエクソダス『出エジプト記』をモチーフとしているという。また、物語の最後でママ・ジョードが言う、「先の者が後にまわり、後の者が先頭になる」と。これも新約聖書の一節である。


このように本作は、一見「社会主義小説」とも評される内容であるが(実際、出版当時そのような論評が数多く見られた)、それだけにおさまらない、きわめて深い内容を持つ作品である。

タイトルの意味

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「葡萄」とは、神の怒りによって踏み潰される「人間」のことを意味すると一般に解釈されている。

なお、怒りの葡萄(grapes of wrath)という表現は、同じくヨハネの黙示録に題材を得たアメリカの女流詩人ジュリア・ウォード・ハウの1862年出版の『共和国の戦いの歌』(リパブリック賛歌)の歌詞からとったものであり[5]、当時としても広く知られているものであった。1938年6月時点では作品名として「レタスバーグ事件」と名付けられて作品の製作が進められていたが、内容に満足しなかったスタインベックは改稿を重ね、1938年に脱稿、「怒りの葡萄」と名を改して出版された[6]

反響

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本作品は出版当時、アメリカ全土で一大センセーションを起こし、作品内に描かれた小作人、地主、移動労働者、資本家、行政当局といった人々がその真相を伝えているかどうかを巡って全米で論争が起こった。作品の舞台となったオクラホマ州とカリフォルニア州においては擁護する声よりも非難する怒号が圧倒的に大きかった[7]。オクラホマ州では多くの図書館で『怒りの葡萄』が禁書扱いとなり、州出身の国会議員により「オクラホマの小作人は他の土地の小作人に勝るとも劣らぬ立派な頭脳と心情を持っている。この本はねじくれて歪んだ精神が生んだ黒い悪魔の書だ」といった弾劾演説が行われた[7]。初版は50万部を超えて『風と共に去りぬ』の次に売れたといわれ、社会的反響の大きさは1852年に出版されたハリエット・ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』以来と言われている[8]


保守層からは目の敵にされ、カリフォルニア州では出版から2か月後には反論パンフレット『喜びの葡萄 ―ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』に対するカリフォルニアの清新溌溂たる回答―』が出版された[7]。一方で記述の正確さを擁護する声も少なくなく、社会学者や聖職者、行政府の役人といった様々な階層の人間が作品内の出来事を事実として証言している[7]。また、映画『怒りの葡萄』の製作に先立ち、ダリル・F・ザナックが私設探偵をオクラホマ州に派遣して調査させたところ、事実は小説以上に酷かったとのエピソードもあった[7]


発表翌年の1940年にはジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演により映画化され、ニューヨーク映画批評家協会賞の作品賞、監督賞、またアカデミー賞監督賞助演女優賞ジェーン・ダーウェル)を受賞している。詳細については『怒りの葡萄 (映画)』を参照。


1995年にはブルース・スプリングスティーンがアルバム「ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード英語版」(The Ghost of Tom Joad)を発表している。


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固有名詞の力

八潮市の道路陥没問題はマスコミ報道もほとんど消えている印象だが、まあ、私はテレビも見ないし新聞も(取ってはいるが)ほとんど読まないので、報道され続けているのかもしれない。

だが、私が不思議なのは、道路陥没で地中に沈み、消息不明のトラック運転手の名前が一度も報道されていない(らしい)ことだ。そして、その生存は絶望視された結果なのか、その捜索もしていないように思える。そして、日本全国はこのトラック運転手を完全に忘れたように思える。
それこそが、運転手の名前を報道しなかった狙いではないのか?

つまり、たとえばこれが小川さんなり何なりだったら、誰の心にも「小川さんはどうなった?」という疑問が残るが、名前が無いと、単なる「物体の消失」になるのである。

たとえば、いい方の例で言うと、だいぶ前に山で幼児が行方不明になった時に、ヴォランティアで捜索していた老人がその幼児を見つけ、その発見者の名前(尾畑春夫さんだったか。字は曖昧にしか覚えていないが)が全国的に知られたのである。今でもその事件も尾畑さんのことも覚えている人は多いだろう。

だが、今回は「消えた運転手」は人々の記憶からすら無くなったのではないか。名前が「ない」から記憶されないのも当然なのである。これが固有名詞の威力だ。名前があるから我々は誰かを「人間」として認識すると言ってもいい。これが「某政治家の汚職」と言われても、「政治家なら汚職して当たり前じゃねえの?」くらいにしか認識しないだろう。つまり、名前が無いと個人ではなく、人間として認識すらされないわけだ。

まあ、八潮市の道路下の下水道の工事をした業者の名前まで公表しろとは言わない。その業者の責任なのか判定は困難だろうからだ。

私は、日本社会の「官僚支配」は、上級官僚の名前がマスコミに出ないことが一番大きな力になっていると思っている。「無名のヴェール」に隠れているから、彼らは悪事ができるのである。
あなた、財務省や外務省の上級官僚の名前を知っていますか?

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「逆アントワネット生活」の勧め

「パンが無ければケーキを食べればいいじゃない」というマリー・アントワネットの言葉は捏造らしいが、ほぼ永遠に残る名言だろう。つまり、上級国民の下級国民生活への無知と同情心欠如、愚昧さの象徴だが、これを逆転させれば、下級国民の生活の知恵になる。
つまり、我々の生活は自分でも意識しない「実は代替可能な」贅沢品が周囲にあるのではないか、ということだ。
私など、最近のコーヒーの不味さに辟易して、いっそコーヒー中毒をやめようかと思っているが、これは麻薬をやめるより難しい。何であれ常習性のあるものは麻薬的なのである。
しかし、「逆アントワネット」哲学で、「コーヒーが無ければお茶を飲めばいいじゃない」と考えれば、「哲学的に」あきらめることができそうな気もする。さらに、お茶の葉も案外高いので「お茶が無ければ水を飲めばいいじゃない」とも言えるし、水道料金が高いとか薬品などの混入物が不安なら「水道水がダメなら雨水を飲めばいいじゃない」となり、資本主義社会は崩壊するwww
まあ、最後のあたりはもちろん冗談だが、「お米が無ければパスタにすればいいじゃない」は既に多くの家庭でやっているだろう。つまり、米作産業自体が崩壊する危険は目前なのである。
これが「物価高騰を放置する」ことの結果である。
ちなみに、電力料金高騰で多くの家庭が電気代節約をやっていることが、私の早朝散歩の時、常夜灯をつけている家が半減、いや、それ以下になっていることで分かる。

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中国の「不動産バブル崩壊」への中国政府の対応

「耕助のブログ」の某記事の一節だが、ここに「社会主義的資本主義」の見本があると思う。民間企業に自由にやらせても、その失敗が国民全体に悪影響を及ぼす場合は、国が「事態の最善の解決策」を策定し、実行するわけだ。
該当というか当該記事全体が興味深い内容だが、中国下げ以外の中国関係の記事を見ると脳卒中や心臓麻痺を起こす人もいるだろうから、ここでは載せないwww
なお、中国の「景気減速」は庶民生活にはまったく無関係のようだ。当たり前の話で、景気変動はそれが庶民所得と大きく関係する場合に問題になるのであり、それ以外は単に企業の問題だ。そして「すべての企業が不景気になる」のは作られた恐慌の場合のみだ。あえて言えば、金融資本主義社会で、銀行が一斉に窓口を閉めた時だけだ。そして投げ売りされた土地や企業や貴金属類を誰かが買い占める。

(以下引用)

– 住宅販売と価格は2024年後半に安定し始めた。政府は余剰供給を買い取り、低価格の手ごろな住宅に転換する計画を立てている。

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牧歌的ネットの時代の終焉(完全管理体制と収益ビジネスへの移行)

「大摩邇」所載の井口博士のブログ記事の一節だが、私の愛読していたブログ群も、この種のCMが頻繁に入り、読みにくいので見るのをやめたものが多い。「隠居爺の世迷言」などもそれである。
私はこうした広告を、ブログ主の「広告料目当ての下種行為」として軽蔑していたのだが、そうではなかったようで、ブログ主催者たちはとんだとばっちりを受けたようだ。広告の中には画面いっぱいを占領し、それが除去できない仕様のものも多い。つまり、ネットののどかな「原始共産主義的世界」は終わり、本格的な「資本主義化」と「検閲体制」が露骨になってきたのだろう。

(以下引用)
ところで、最近急にブログの本文中にCMが入るようになって非常に読みにくくなったように思う。
しかしこれは私が拙ブログでCM料のために登録したからではない。
エキサイト本社の方が設定を変えたようで、いつもはブログ欄の下段にCM帯があってその中に出るのだったが、それが本文中に割り込むようになったわけだ。
昨日早速クレームを送ったが今のところ返答はない。
というような事情で、読みにくくてすみませんが、ご了承願いたい。


(夢人追記)「大摩邇」別記事の一部である。


【注意】ブログがアメーバアプリなどで真っ白になる不具合と対策については、こちらのページにまとめてあります。



 



 



 


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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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