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ネトウヨの反中国言説と、中国人

内田樹の「箱根で感じた中国のリアル」という記事で、あまり期待しないで読み始めたのだが、面白いところがある。つまり、「中国は『資本主義国家』である」という当たり前の話だ。ところが、ネットでは中国を「共産主義国家である」という言葉が後を絶たない。だが、これは、「悪質な経済行為」には政府の指導が入るということで、それこそ「新自由主義」資本主義の悪質さの教師になるべき「望ましい資本主義」であり、「社会主義の精神を残した資本主義」と言うべきだろう。
私の認識では、もともと中国人というのは「政府の存在をあまり気にしていない」民族であり、革命直後の(毛沢東を中心とした)共産党政府が、革命政権維持のために国民を強固に罰則で縛っていただけであり、今の共産党政権は、かなり軟化していると思う。そうでなければ、とっくの昔に「再革命」で政府は倒れていたはずだ。天安門事件や香港騒動など、米国を背後にした中国政府打倒運動を見ればいい。あの運動で、中国政府は倒れなかった。いや、微動もしなかったと言っていい。つまり、国民の大半は政府を支持していたと判断できるだろう。
ところで、今の岸田政権や自民党の支持率は何パーセントだったっけwww

ちなみに、ネトウヨ(反中国、反ロシア、野党嘲笑のネットコメント)の多くは自民党工作員であることが、とっくにdappi事件で判明している。日本国民もそろそろ、そうしたインチキ言説から脱皮すべきだろう。

(以下引用)


 城崎に続いて、箱根に旧友たちと湯治に出かけた。箱根湯本はコロナ前のにぎわいを取り戻し、旅館も一時は「閑古鳥が鳴いている」状態だったがほぼ旧に復し、従業員数もコロナの間は半減していたが、またもとに戻った。
 宿泊客の半分以上が外国からのお客さんだった。浴衣の帯をとんでもない結び方をした人たちがお箸で器用に和食を食べている。
 中国からの人はだいたい見ればわかる。日本人と外見は変わらないが、どこか違う。何と言うか「昂然と頭をもたげている」感じがする。規則だから(納得ゆかないけれど)従うとか、傍らの人が嫌な顔をしているから遠慮するとか、そういう「調整」にはあまり気を使わないようである。そういうのが中国人気質なのだろう。
 少し前に凱風館にも20人ほど中国からのお客さんを迎えた。引率された毛丹青先生に「この人たち、どういう方なんですか?」と訊いたら、「ビジネスで成功して、もう働く必要がなくなったので悠々自適の生活をしている人たち」だと教えられた。年代は30代から50代。功成り名遂げた中国のお金持ちたちである。アメリカなら、フロリダに屋敷を買って、ゴルフをしたりセーリングをしたり毎晩パーティをしたりして過ごすのが定番だけれど、中国の富豪たちは一味違っていて、彼らの間では今哲学や宗教に対する関心が高まっている。それを求めて訪日したのだと聞いた。
 たしかに、物質的な欲望が充足されたあとに「精神的な飢餓感」を覚えるということは理解できる。なにしろ中国では文化大革命で清朝以来の伝統的な施設は解体され、その後は北京五輪と上海万博で「古い中国」の痕跡はほぼ消え去ってしまったからである(北京の伝統的な胡同もその時に壊された)。今の中国人が「古い中国」への郷愁が兆した時にどこに行けばよいのか。
 朝鮮半島にも「古い中国」はほとんど残っていない。朝鮮戦争の時に「山奥の寺院に敵兵がたてこもっている」という噂に煽られて、歴史的建造物が惜しげなく焼き払われた。だから、韓国で私が訪れたいくつかの寺院も、遠目からだと美しいが、近くにゆくとほとんどがコンクリート造りの「レプリカ」だった。ソウルにも平壌にも、もう李氏朝鮮時代の建物はほとんど何も残っていないと聞いた。
 だから、中国の人たちが「古い中国」の郷愁を覚えた時に行く先は日本しかなくなったとしても不思議はない。たしかに日本には「古い中国」が残っている。宋や明や清の時代のものが日本列島に伝来して、いろいろなかたちで、そのままアーカイブされている。
 箱根でも、中国からのお客さんたちもずいぶんリラックスしているように見えた。だって、部屋の床の間には漢詩の掛け軸や南宋画が掛かっているのである(私たちの定宿はロビーの壁に中国の馬だけを描いた巨大な画布がかかっていた)。それを見た時の彼らの安堵はいかばかりであろうか。
 もし、私たちがアジアのどこかの国に旅したときに、ホテルのロビーに芭蕉の句や西行の歌が達筆で書かれている扁額を見出したら、ずいぶんほっとするはずである。そう考えると、中国のお客さんたちの気分にもいくぶんかは想像が及ぶ。(2023年9月1日、)


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アメリカと「アメリカ的精神」に世界はどう対応できるか

「隠居爺の世迷言」記事で、世迷言どころか、非常に優れた歴史認識、世界認識で、その表現が単純明快で素晴らしい。ただし、氏の持論である「ディープステイトは存在しない」という意見を私は否定する。アメリカ人の精神が異常であるとしても、ではそれにどう対処できるのか。アメリカ人を皆殺しにするしかないとすれば、それこそ世界の「アメリカ人化」である。深淵を見つめるものが深淵に見つめ返され(、溺れ)るわけだ。
ちなみに、このニーチェの有名な箴言の前文は「怪物と戦う者は、みずからも怪物とならぬようにこころせよ」である。(ニーチェ「善悪の彼岸」箴言146:竹山道夫訳)

(以下引用)
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 タッカー・カールソンという "アメリカの保守派政治コメンテーター" なる人物が、ロシアのプーチン大統領に直接取材(インタビュー)を行ったことは、SNSに接している人であるならばご存知のことかと思う。もちろん、アメリカに飼いならされた日本のマスメディアは取り上げないか、悪意からの偏向報道をするかのどちらかになる。

 しかし、私にとっては大変に楽しいインタビューだった。お互いに全く嘘がないとはいえないだろうが、アメリカや日本政府のプロパガンダとはレベルがかけ離れている。基本が正直で、公にできない情報のみが隠されるか、オブラートで包まれるかになる。

 しかし、日本政府やアメリカのプロパガンダは基本が子供騙しの嘘になる。真実が語られるとすれば都合のいいことだけになる。マスメディアも、そんなプロパガンダに輪をかけて報道する。真実などどうでもよくて、ひたすらその情報が日本政府に有利か、アメリカに有利かということだけを判断の基準とする。昔の大本営発表の上を行っているのが、今の日本のマスメディアになる。

 さて、タッカー・カールソンのプーチン大統領へのインタビューを見ていて感じたことは、「ロシア人はアメリカ・インディアン扱いされている」ということだった。このことを理解するには、アメリカに移住してきた白人たちが、アメリカ・インディアンをどのように扱ったかを知る必要がある。

 それほど難しいことではなく、アメリカ合衆国という国家はインディアンを征服することによって建国されたという事実を認識すればいい。コロンブスがアメリカ大陸を発見した1492年以降、ヨーロッパの白人はアメリカインディアンからの強奪と虐殺を繰り返した。その結果、1890年にアメリカインディアンは完全に征服された。

 この間、白人がいかに汚い手口を使ったかについては、ネットを検索すれば得られる情報になる。私が漠然と認識しているところでは、白人たちは最初友好的なフリをして近づく。そして、相手が油断したところをみはからって、盗みや強奪を行う。これが一番原始的なアメリカ白人の手口になる。

 しかし、そんなことはいつまでも続かない。インディアンが警戒し始めるからだ。そこでアメリカ白人は、インディアンと約束(契約)を交わす。土地を借り受けるとか、交易をするなどのことによって交流を図る。何のためにそんなことをするかといえば、それはインディアンを油断させるためだ。

 いかにもルールに基づいて紳士的な交流が行われるかのように見せかけながら、アメリカ白人はインディアン虐殺の準備を整える。そして、準備が整ったところで突然襲いかかり、インディアンを皆殺しにしてしまう。要するに今でいえばジェノサイドを行う。

 その際、それまでのルールをアメリカ白人の都合のいいように勝手に変えてインディアンを怒らせ、インディアンの方から攻め込ませるという手の込んだことも行った。アメリカ白人が自分たちは防衛のために正義の戦いをしているとアピールするためだ。あるいは、インディアンの一つの部族を篭絡して、他の部族と戦わせるなどのこともしている。それは現在もアメリカの得意技の一つだ。

 アメリカ白人は最初から「インディアン皆殺し、財産は全てを奪う」と決めて近づいているが、インディアンの方は白人皆殺しなどとは思っていない。それだけでも戦いは不利になる。そして、1890年にインディアンが完全に征服されるまで、卑怯なだましと強奪とジェノサイドをアメリカ白人は繰り返した。

 以後、今の今に至るまで、アメリカにはこの建国の精神、つまり「だましと略奪と虐殺」の精神が脈々と続いている。アメリカ人は今でも「だましと略奪と虐殺」が大好きでたまらない。中東でも、アフリカでも、南米でも、アジアでも、それを何度も何度も繰り返してきた。アメリカは血塗られた国といえる。

 そして、1991年にソ連が崩壊して以降、アメリカはロシア征服に乗り出した。やはりアメリカの西部開拓、つまりインディアン征服と同じ手口を用いた。まずは、ロシアに対して「NATOを1インチたりとも東方に拡大しない」と約束することから始まった。

 しかし、その約束はどうなっただろうか。ベラルーシとウクライナ以外のいわゆる東欧と呼ばれる地域が徐々にNATOに組み込まれてしまった。明らかな約束違反だ。インディアンを征服する手口と同じになる。そして、アメリカ白人は残されたウクライナも標的にした。

 ウクライナはロシアの隣国であり、ここをNATO加盟国にされて核ミサイルなどを配備されてはロシアもたまったものではない。ゆえに抵抗する。これが現在行われているロシア・ウクライナ紛争の本質になる。過去のアメリカが西部開拓という名のインディアン征服を行ったように、現在のアメリカはロシア開拓に乗り出して、ロシア人を征服しようとしている。それにロシアが反発している。

 ウクライナに介入を始めたときのアメリカ白人は興奮状態だっただろう。活気でみなぎっていただろう。なにしろ、アメリカの西部開拓が場所を変えてまた始まろうとしていたのだから。いくらでもだまし放題、盗み放題、殺し放題なのだから。アメリカ白人の原始人としての血が騒ぐというものだ。

 面白いことに、ロシアに領土拡張の野望がないことも、アメリカ・インディアンと同じになる。今回のインタビューでもプーチンは、ロシアがアメリカからの侵略に対応しているだけであることを、歴史をひも解くなどして説明しようとした。ロシア人はアメリカ・インディアンが先住民としてアメリカで自然に暮らしていたのと同じであると私には聞こえた。ポーランドなどへの侵略の意思がないことも明言した。

 しかし、アメリカは違う。アメリカの野望は他国の征服だからだ。アメリカを侵略したのはイギリスになるが、そのイギリスも侵略によって出来上がった国といえる。つまり、アメリカは侵略の歴史しか持たない。アメリカ建国の精神は侵略・征服になる。

 日本人はほとんど気がついていないようだが、1853年の黒船来航から現在に至るまでの約170年間、日本も英米の侵略にさらされてきた。日清戦争や日露戦争は、英米の代理戦争をさせられたものだ。今のウクライナと同じように。
日本の始めた戦争ではなく、また、日本が勝ったのでもない。


 


 大東亜戦争の敗戦以降は、日本は明確にアメリカの植民地になった。ただし、アメリカは巧妙に日本は独立していると嘘を教え、多くの日本人がその嘘を現在も信じている。なぜ日本は30年間も経済発展をしないのか、国民の所得が増えないのかを考えるだけでも、アメリカの嘘には気づけるはずだ。

 加えて、なぜ日本にはアメリカの軍事基地があるのだろうか。専用施設が80か所近く、共同使用施設を含むと約130か所が存在している。何のためだろうか。日本を守るため? ご冗談でしょう。日本を支配するため、そして、中国やロシアを威嚇牽制し、いざというときには前線基地として使うためだ。おめでたい日本人は、従順に従うばかりで疑問を持とうとしない。

 日本はほぼアメリカに征服されたといってもいいけれども、昨今のアメリカの様子を見ていると、この先一層支配を強めようとしているように見える。何かと理由をつけては日本から金を巻き上げる。日本が植民地だと思っているアメリカにとっては当然のことではあるけれど。思いやり予算もそう、ウクライナ支援もそう、防衛費倍増もそう、郵政民営化もそう、ワクチン接種もそう。全部アメリカの懐に大金が入っていく。与野党含めて日本には反対する者が皆無に近い。

 今の世界ではこれ以上ない悪党がアメリカになるけれども、インタビューでプーチンは、バイデンは敵ではなく、アメリカはずっと同じ力で支配されており、対峙しているのは彼らだと述べている。「それこそがディープステートだ」と好きな人は言い始めるのだろうが私はそうは思わない。

 敵はアメリカ建国の精神になる。インディアンをだまし、インディアンから略奪し、インディアンに対してジェノサイドを行ったアメリカ建国の精神。それを今でも世界に対して実行しようとするアメリカンスピリット。アメリカ人一人一人の心の中に根付いている侵略者精神。それこそがディープステートになると私は思う。それを退治しないことには世界に平和は訪れない。

 アメリカにとってみれば、ロシア領土はかつてインディアンが暮らしていたアメリカ大陸と同じに見えるのだろう。アメリカにとってみれば、中国領土もかつてインディアンが暮らしていたアメリカ大陸と同じに見えるのだろう。それゆえアメリカのすることは一つしかない。「だましと略奪と虐殺」になる。ロシア相手でも、中国相手でも。

 プーチンはインタビューの最後にこんなことを述べている。「実話になるが、戦場でウクライナ兵がロシア兵に囲まれて降伏することを勧められた。しかし、ウクライナ兵は完璧なロシア語で "ロシア人は降伏するな" と叫び、全員が死んだ。」

 これは二つのことを意味しているように思う。敵として戦うウクライナ兵であっても、内面にはロシア人としてのアイデンティティを持っていること。つまりウクライナ人はロシア人であり、ウクライナはロシアであるということ。

 もう一つは、アメリカがウクライナやロシアを侵そうとしても、ロシア人は死ぬまで徹底抗戦をするということ。金さえ儲かれば平気で魂を売るような軽薄なアメリカ人と、ロシア人とでは人格が違うということ。

 そろそろアメリカ人も自分たちの誤りに気がついていいように思う。正義のない戦いはいずれ必ず敗北する。ロシア人をアメリカ・インディアンと同一視して、頭皮剥ぎをするような真似を続けるべきではない。私としては人道的な観点から、そう、ヒューマニズムの観点から、ロシア、そしてプーチンを応援したい。


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世界的食糧生産削減という奇怪なアジェンダの「論理的根拠」

「大摩邇」所載の「あかいひぐま」氏の記事の一部で、私自身はその記事を斜め読みしただけだが、この部分には、私が疑問に思っていたことへの答えがあるように思う。「徽宗皇帝のブログ」に載せてもいい、政治経済的に重要な記事だとは思うが、裏付けの困難な「思索のヒント」にとどまる内容なので、このブログに載せておく。

要するに、私はDSが一枚岩だと考えていたが、NWOとは、実はロスチャイルドとロックフェラーのふたつの家族が、衰退していく西側経済の中で自己防衛のために推進しているだけのものだ、という考えである。で、世界の食糧生産削減という、怪奇極まるアジェンダの意味も、「世界経済規模を縮小させることで、両家族の世界経済への相対的権力を増加する」、というアクロバットである、ということである。なるほど、世界人口の大規模削減同様、悪魔的だが、ある意味論理的でもある。

(以下引用)

エネルギーとグリーン・アジェンダ

このアジェンダは、自称ダボスのエリートたちによって考案されたもので、ロックフェラーの弟子であるモーリス・ストロングによって1992年に構想された。ロックフェラーの弟子であるモーリス・ストロングが1992年までさかのぼる。このアジェンダに組み込まれた夢は、グレート・リセット(無意味な炭素ゼロのグリーン・アジェンダ)を実施することだ。ロックフェラー一族の目的は、この詐欺を使って世界経済を脱工業化することだ。


石油、ガス、石炭、原子力といったエネルギー生産の増加は、労働者一人当たりの生産性を向上させ、余剰を生み出す。逆もまた真である。エネルギーを削減すれば、経済は停滞し、衰退する。つまり、産業活動と生産性を低下させ、ウォール街の政策を優先させ、生産を破壊することは、家族にとって利益となるのだ。生産されないものを食べることはできない。


西側が衰退し、東側が台頭しているため、西側を支配する2つのファミリーは、衰退しつつある世界的な権力にしがみつこうと懸命になっている。


同様に、南半球における食糧生産も同様だ。アメリカの巨大農業企業に有利な土地改革を含む新たな政策が、これらの国々のほとんどに強要された。食料、エネルギー、金融がロックフェラーの支配下にあるため、これらの国々はワシントンの政策に従うか、飢餓に陥るか、制裁を受けるか、侵略されるかのいずれかである。


経済、金融、軍事、イデオロギー、メディア支配など、2つのファミリーを支えてきた主なベクトルは、すべて衰退の一途をたどっている。もうひとつの側面は、グローバル・サウスにおける天然資源の略奪である。

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笑いの権力化という笑えないシステム

私自身の別ブログに載せた記事だと私自身が書いているから、おそらく、この「酔生夢人」ブログのことだろう。再転載する。「笑いの上納」システムwww
なお、私自身はテレビを見ない人間なので、ここで言われているのが的を射ている発言かどうかの判断はできないが、私は小田嶋隆の知性と感性を信じている。惜しい人を亡くした。

(以下引用)

お大尽と取り巻き

私自身の別ブログに載せた引用記事である。

(以下引用)


『災間の唄』出版記念 小田嶋隆・武田砂鉄対談 後編

糸井重里と松本人志を小田嶋隆・武田砂鉄が改めて語る「“機嫌の悪い人って嫌だよね”で糸井村のムードに」「松本に笑いが上納されている」

「松本人志は、織田信長が「あっぱれじゃ」と言うと「ほほー」みたいな世界に入っちゃっている」

糸井重里と松本人志を小田嶋隆・武田砂鉄が改めて語る「機嫌の悪い人って嫌だよねで糸井村のムードに」「松本に笑いが上納されている」の画像2
『災間の唄』を発売した小田嶋隆氏と武田砂鉄氏(写真/尾藤能暢)

──糸井氏の「ユーモアが大事だよね」ということともつながりますが、この本のなかで小田嶋さんはユーモアや笑いが持つ暴力性も繰り返し指摘されています。その代表格こそ松本人志ではないかと。


〈笑いは権力に抵抗するための有効な手段だと言われている。もちろんそういう側面もあるのだろう。でも、テレビ経由で流れているお笑いネタの大半は、強い者が弱い者をナブる時に起こるアクシデントを笑うパターン芸で、むしろ権力の作用そのものだったりする。〉(2017年10月17日)


小田嶋 私が若いころに面白かった人といえばだいたい左側の人で、野坂昭如とか青島幸男とか、あるいは橋本治とか。右側の人たちは喚いてばかりいて、いつも興奮していて、およそユーモアのない人たちだったんです。それで私自身は思想的に左だったわけじゃないけど、左側の人たちのほうが柔らかみや余裕なんかがあってかっこいいよねと思っていたわけです。ところが、吉本が笑いの中心になってから、批評的な笑いが一切消えて、後輩をいびってみんなで笑うような、ほもソーシャルのなかの笑いが主流になってしまった。松本人志はそのチャンピオンでしたからね。松本は地頭が良くて、教室の後ろのほうでときどき面白いことを言って混ぜっ返すタイプ。それが力を持ってしまったということが、なんていうのかな、真面目に考えることをバカバカしくしちゃう空気をつくり出したんじゃないのかな。


──2019年にも〈松本人志がヤンキーのヒーローたり得たのは、勉強漬けのインテリの知的武装をワンフレーズのボケで無効化してしまうその地頭の良さにあったわけなんだけど、この20年ほどのていたらくを見ていると、「勉強しない地頭」の劣化サンプルみたいなことになっている。〉とツイートされていましたよね。


小田嶋 松本人志がすごく面白かった時期は、とにかく不思議なアドリブの冴えがあったんですけど、でも、あそこから何も成長していない。


武田 たぶん、いまの小田嶋さんのたとえで言うと、これまで、教室の後ろでやんややんや騒いでいた人たちが、いまはもう、教壇に立っているわけですよね。で、その教壇から生徒に対して何を求めるかといえば、同調です。教壇でやっていること、言っていることの面白さに気付けとか、あるいは、いい感じに揺さぶってみろと迫る。僕はナンシー関さんのコラムが大好きでしたが、ナンシー関さんは生前、松本さんのことを高く評価されていた。それは、業界の仕組みに突っかかっていく一匹狼的なところへの評価だったはず。いま彼を見て一匹狼と思う人はいないでしょう。一匹狼ではなく、群れの長です。


小田嶋 それはビートたけしも同じで、軍団つくっちゃったでしょう? たけしがすごくつまんなくてもみんな笑う。松本周辺に起きている笑いも同じ。いつもパターンが一緒なんですけど、同じことを混ぜっ返すだけなのにすごく笑いをとるんです。ある若手芸人が「これ美味しくないですね」って言ったとすると、「それ『美味しくないですね』か?」って言うだけなんですよ。オウム返しするだけで笑いがとれる。あれはなぜ笑いがとれるかと言えば、その立場にいるからなんですよ。


──教壇に立っているから、と。


小田嶋 中小企業の社長がなんか言うとどっと受けるとか、織田信長が「あっぱれじゃ」と言うと「ほほー」みたいな。その世界に入っちゃっている。お笑いの世界じたいがそういうピラミッド構造のなかで、下の者は「私は笑っていますよ」というサインを出す。あれは権力関係の笑い。笑いが上納されているんですよ。


──視聴者もそこに組み込まれていますよね。


小田嶋 これを笑わないと笑いのセンスがないって言われてしまうことへの同調のなかで笑うという動作が発生している。


武田 EXILEグループの皆さんは、一斉に笑いながら、手を叩いて立ち上がります。全体で同意しているぞ、というのを作る、見せる、というのが大事なんでしょうかね。


小田嶋 彼らはTRIBEって言っていますからね。「部族」「種族」ですよ。


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経済学的に見た「正義」と「公正」

昔書いた文章をフラッシュメモリーから発掘したので、載せておく。面白い内容だと私自身は思うし、「経済学」的意義もあると思うので「徽宗皇帝のブログ」向きだとは思うが、本文に書いてあるように、末尾がぐずぐずなので、ここに載せておく。繰り返すが、これは現代社会の根本的な間違い(か?)を指摘していて「面白い」と私は思っている。

(以下自己引用)文中の菅総理は菅直人。私は鳩山・小沢へのクーデターの一員として菅総理を嫌っていたし、今も好感は持っていない。


まるでまとまっていない文章だし、結論もグズグズだが、読み手自身の考察のきっかけくらいにはなるだろうから、ご笑覧を願おう。


 


 


 


経済学的に見た「正義」と「公正」


 


 


「これからの正義」について私も考えてみようというわけだが、まず話を経済的側面に限定しておく。そして、正義ではなく「公正」について論じることにする。


正義と公正に違いがあるかと言えば、多分ある。それは「公」という字が冠についているかどうかという違いである。「公」の字がつくとなると、「正義とは個々人の主観にすぎない」という議論は排除されることになる。すなわち、「最大多数の人間が許容する正義」が「公正」だと定義できるだろう。


誰が何と言おうと俺こそが正義だと主張するのは個人の勝手だが、それが多くの人の賛同を得なければ公正のレベルには達しないわけだ。


では公正は正義より上かというと、そうでもない。これは、客観が常に主観より価値があるわけではないのと同様であり、話が面倒だから、ここでは正義と公正の価値の上下は論じない。


 


さて、経済学的に見た公正の問題とは、当然ながら「分配の問題」である。内田樹風に言えば「社会的リソース」の配分の問題だ。すなわち、様々な社会的資源をどのように配分するのが公正であるかということだ。


わかりやすい例を言えば、「働かない人間を社会が養うのは公正か」という問題がある。実は、この問題こそが、社会全体に常に多くの軋轢を生んでおり、生んできたのである。富裕層や「有能な人間」はそうした「穀潰し」を社会が養うのは不正義だと常に主張してきた。政治は時には福祉政策によって「穀潰し」を養い、時には福祉削減政策を行って「穀潰し」を死に追いやってきた。


ここで私が「穀潰し」という差別語を使うのは、福祉反対論者の心の底には必ずこの観念があると思うので、それを代弁しているわけだ。社会的弱者と言っても、その中には働いている人間が無数にいるのだから、働かずに生きている人間を「穀潰し」と表現するのは不適切ではないだろう。ただし、大金持ちのドラ息子はここでは考慮の対象外とする。あくまで、福祉の対象者としての「穀潰し」を社会が養う必要があるかどうかを考察しようというわけだ。


 


独力では生き切れない人間を社会が制度的に養うのは、それ以外の人間の取り分を奪うから不公正である、というのが「福祉否定論者」の考えだろう。


その考えへの批判は簡単だ。


我々の社会は、「穀潰し」を養うのに十分以上の余力がある。


人類の科学の進歩は、食物生産能力の面でも、エネルギー獲得の面でも、人類全体の人口をさらに二倍にしても養えるだけの能力を持っているはずだ。これはべつに証明された事実ではないが、世界の姿を虚心坦懐に眺めれば、そう推察できる。


つまり、マルサスの主張(人口増加に食糧生産は追いつかない)は、科学の進歩の前に破綻した、というのが私の主張だ。何の数字的根拠も資料的根拠も無いが、それは直感的に分かる。直感で分かることは数学的前提のようなもので、証明の必要もないことだ。


 


では、なぜこれほどの貧民が世界におり、これほどの飢餓があるのか。


すべては配分の問題である。配分があまりに異常であり、富裕者の優位性を維持するために下層民への配分が意図的に異常に低く抑えられているからである。


しかも、富裕者は、その持っている富を必要とすらしていないのだ。当たり前の話だが、生活のためだけなら、年間に1000万円もあれば優雅そのものの生活ができるはずだ。では、年収が何十億円とある人間は、その金をどう使うのか。使いようなどないのである。死蔵するだけだ。つまり、世界の富は流通などしていないのだ。もちろん、帳簿の上で移動するマネーゲームの金は別の話だ。


実体経済の上で流通すべき巨額の金が、超富裕者の懐に入ることで、残りの人間が貧困生活を送ることになる。


これが世界の現実である。


で、私はこれを不公正だと見るが、法律上はこの状態が公正と見做されているわけだ。


こんなのは公正か?


 


いや、彼らはそれを自分で稼いだんだから、それを死蔵しようがどうしようが勝手だ、と言われるだろうが、果たして、それは本当に自分の手で稼いだと言えるのか。詐欺だろうが何だろうが、法的に許容される手段であれば問題ない、というのが社会的合意のようである。で、私はそれを不公正と見るわけだ。


要するに、100人の人間が利用する資源が100あって、それをその中の一人が99独占したら、残りの人間にとってそれは公正か、という話である。「手続きが正しければ、それでも公正だ」というのが法律家的判断だろう。そんな法律など、糞喰らえである。では、その法律とやらが、その99を独占するためにその男が作ったものならどうなる? 実はこれが各国の中央銀行の起源であり、自由貿易制度や金融システムの起源だというのが私の考えだ。法律など、法律を作る人間を抱きこめば、いくらでも作れる。その程度のものだ。経済システムも国家財政も然りである。


我々が見るべきことは、現在の科学水準から見れば、全世界の人口を養うのは実に容易なことだ、という事実だ。工場などの生産能力は、商品価格維持のためにその半分以下に抑えられ、過剰生産された農産物は、これも価格維持のために廃棄される。全世界の工業製品が、本当に必要な機能だけに限定された堅牢な製品になれば、あらゆる国の国民に安価な工業製品が行きわたり、収穫された農産物や漁獲物を無駄なく加工して配分すれば、全世界の飢餓など解消されるはずだ。


つまり、ここにも配分の誤りがある。


仮に、世界政府を作ろうという人間が、そのように貧困や飢餓や戦争の無い世界を作ろうというのなら、私はNWOだって受け入れる。だが、全世界から血と汗と涙を絞り取ってきた悪魔が、世界に奉仕することなど絶対にありえないことである。


 


さて、話が飛躍したが、こういうわけで、「穀潰し」を養うかどうかが問題になるのは、社会に余力が無い場合であり、社会に余力があれば、こんなのは問題にすらならないことだし、むしろ社会的弱者を救うのは大いに褒められることだ、と私は考える。


 


考えてみればいい。あなたの前に可愛い子猫がいる。これは生産性ゼロの存在だ。では、あなたはわざわざ足を上げて、それを踏みつぶすか?


子猫が例として不適当なら、では汚らしい老人がいたとしよう。援助すればあと数年は生きる。援助しなければ数日で死ぬ。これを死ぬに任せるというのが現在の福祉削減の方向である。子猫は「可愛さ」という能力があるから生かしておくが、汚い老人は殺してもいいな、というのが大方の人間の気持ちだろう。そんなものである。まあ、私もそう思うし、私自身がそう見られている可能性もある。では「可愛い老人」を目指すか? それくらいなら死んだ方がましである。要するに、金のない老人は社会的に存在価値がない、というわけで、多くの人々は老年が近付くにつれて、必死で蓄財に励むのである。そしてますます嫌悪すべき存在になるのだが、まあ、それはどうでもいい。


子供は可愛いから保護し、援助するが、老人を保護し、援助するのは金の無駄だなあ、と大半の人は心の中で思っているだろう。それは無理からぬことではあるが、少し立ち止まって考えよう。


どんな人間であれ、少なくとも社会的に無害な存在なら、生かしておくだけの人情味のある社会こそが、人間らしい社会と言えるのではないか? それが野獣の世界とは違う人間の世界ではないか? 福祉削減や福祉の廃止というのは、私から見れば野獣の世界に戻るということなのである。


また、人間の価値を能力や効率性だけで考えるというのも問題がある。簡単な話、仕事などまったくしたことのない陽気なプレイボーイと、仕事一筋で趣味などまったくない仕事人間と、女ならどちらを選ぶか。人間の生活は、仕事だけではないのである。私はプレイボーイなど大嫌いだが、後者のタイプが定年離婚という目に遭うのも自業自得だと思う。


では、老人の価値は何か。別に老人であることに価値などない、と言えば話はそれまでだが、実は(体力の低下と体の脆弱化はどうしようもないが)、頭の中身に関しては、老人でもそれほどの能力低下は無いのである。多少、新しいものへの対応力が鈍くなったり、記憶するのが苦手だったりするが、今の時代、記憶だけならパソコンという外部記憶装置がある。つまり、知的にすぐれた人間なら、老人になっても十分な生産性がある場合もある、ということだ。いや、私まで生産性で人間を量ってしまっている。


ともあれ、人間の価値は、生産性だけではないし、老人でも生産性が高い場合もある、という話である。


 


で、福祉というものが、「与えるだけ」であることに我慢ができない、というのが実は世の中の福祉否定論者の本音だろうと思う。


あの「穀潰し」どもは、社会的にまったく貢献していない、そんな連中に金など出すな! ということだが、そういうご本人たちが実は社会から搾取するだけの存在であったりする。つまり、「穀潰し」よりも社会的害悪になっているわけだ。


しかし、それはともかく、社会的貢献をしなければ、存在価値はないか?


 


先ほども書いた、「可愛さ」によって貢献する存在や、未来の可能性を持った存在である子供たちを保護したり援助したりするのはいいが、汚らしい老人に金を出すのはいやだ、という議論にまた戻ろう。


とりあえず言えるのは、「社会に貢献しない存在でも保護し、援助して何が悪いの?」ということである。前に書いたように、それで誰かが損をしているという考えもおかしいのであり、もしも損をしているとすれば、100あるものをその99まで奪っている連中が存在するからである。社会的配分が1しかないから、そのうちの0.00000001の配分さえ許せない気持ちになるわけだ。


「有能さを自負している人間」の他人への冷酷さを見れば、そういう人間のほうが社会に不要だと私などは思う。そういう人間がいなくても、他の「有能な人間」の代わりはいくらでもいるのである。官僚やら陣笠代議士や会社社長などもそうで、取り換え不可能な人間などいないというのは、あの菅総理でさえ総理は務まるし、野田総理でさえ総理は務まるのを見ればわかるだろう。


東電の清水社長など気の毒なくらいで、原発事故さえなければあっぱれ有能なコストカッター社長として偉そうな老後を送れたはずなのである。どこかの製紙会社の御曹司にしても、いい大学を出ているし、ハンサムだしで、ああいう馬鹿なことさえしなければ、一生安泰だったのだ。つまり、本来たいしたことのない人間が、高い地位にいるために後光がさしているだけだ。


逆に言えば、その辺の係長を社長の座に就けても、まったく問題ないのであり、一般的に言って、ちょっと口がうまくてその場をごまかす能力さえあれば政治家も重役も務まるものである。あまり自分は有能だなどと自惚れないほうがいい。要するに、人間の能力など大差はない。ただ図々しい人間や野心的な人間は出世しやすいというだけだ。これは恐ろしいことに学問の世界ですらそうで、学問的実績よりも政治力で上に行く人間はあきれるほど多いという。


なんで長々とこんなことを書いてきたかというと、「無能な人間」と「有能な人間」の差などたいしてないし、能力による人間評価など、評価者の主観が半分だと言いたいのである。


野球なら3割打者と2割8分打者は1億円プレーヤーと5000万円プレーヤーの差があるが、実は、年間の安打数ではせいぜい20本程度の差しかない。いや、10本程度の差でも、打数次第ではもっと打率の開きが出る。では、この給料の差は妥当だろうか?私は、レギュラー選手である限りは、給与の差がこれほど開くのはおかしいと思う。


守備の下手な三割打者と、守備の上手い2割5分の打者と、どちらがチームに貢献しているか、簡単には言えないだろう。だが、後者の給料が前者を上回ることは、まずない。


では、会社社長や重役というものは、平社員の百倍の給料を貰う資格があるか?


あるとすれば、その経営判断が常に正しく、会社が常に大儲けをしている場合であり、会社がうまくいかないならば、平社員よりも給与は低くていいはずだ。彼の経営者としての無能性は会社の不業績で証明されたのだから。だが、経営不振で会社社長や経営陣が自分たちを減給したという話は聞いたことがない。まあ、オーナー社長なら仕方がないが、雇われ社長ですら減給されないのが不思議である。


要するに、我々の社会の能力主義とやらはあまりに度を越しており、野球のチームであれば、レギュラー全員の給与差が数千万も開くのはおかしいということだ。


逆に、能力でばかり人間を見る見方というのが現代社会を毒していると思うから、わざと極端な言い方をしてきたのである。


 

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原発反対派が珠洲市を救った

「阿修羅」から転載。「徽宗皇帝のブログ」に載せるべき内容だが、あちらは数が増えたのでここに載せておく。
さすがに「東京新聞」である。珠洲市民の原発推進派は反対派に頭を下げて謝罪、感謝すべきだろう。(ところで、「すず」と書いても「珠洲」と変換されないのは、原発村のネット操作だろうか)

(以下引用)

珠洲原発を止めて「本当によかった」 無言電話や不買運動に耐えた阻止活動28年の感慨(東京新聞)
http://www.asyura2.com/22/genpatu54/msg/342.html
投稿者 蒲田の富士山 日時 2024 年 1 月 23 日 14:50:22: OoIP2Z8mrhxx6 ipeTY4LMlXiObY5S

2024年1月23日 12時00分

https://www.tokyo-np.co.jp/article/304462

 能登半島地震の震源地近くに建設が計画されていた「珠洲(すず)原発」。建設予定地だった石川県珠洲市高屋町は、今回の地震で住宅の大半が壊れ、陸路も海路も閉ざされて孤立状態に陥った。もし原発が実現していたら、重大事故が起きて住民の避難がより困難になった可能性もあった。建設を阻止したのは、住民らの長年にわたる根強い反対運動だった。どのような思いで止めたのか。(岸本拓也)

◆あと1年続いてたら僕らがつぶれていた
 「どこで何があるか分からん。本当に珠洲原発を止めて良かった」
 今回の地震で被災した高屋地区にある円龍寺の住職・塚本真如さん(78)は今月中旬、同県加賀市にある2次避難先のホテルで「こちら特報部」の取材にほっとした様子で語った。
 珠洲原発計画の反対運動で中心的な存在だった塚本さん。1975年に持ち上がった計画は、住民の反対運動と、それを切り崩す電力会社側との28年に及ぶ「闘争」の末、2003年12月に凍結された。塚本さんは「あと1年粘られたら、つぶれとったのは僕らの方やった」とかつての日々を振り返る。

◆関電は飲食や視察旅行で懐柔を図る
 関西、中部、北陸の3電力は1976年に正式に原発計画を公表した。しかし、関電が建設計画を進めた高屋地区では当初、住民のほとんどが反対していたという。そこへ関電側が住民の懐柔に動いた。「タダで飲み食いさせたり、原発視察名目の接待旅行に何度も招いたり。芸能人を呼んだ住民向けのコンサートも開かれた。僕は一度も行かなかったけど、最後は住民が飽きて視察に参加しなくなるほどだった」
 関電から、地域の祭りで使う奉灯「キリコ」の収納庫や農作物の保冷庫などを建てるための多額の寄付もあった。原発予定地の土地を貸して、億単位の賃貸料を得た住民もいたという。「カネ」の力の前に、一人また一人と賛成に回り、地域は分断されていった。

◆「安全はウソ」 学ぶほど疑念は確信に
 計画が持ち上がった当初、塚本さんは原発に賛成でも反対でもなかった。しかし、「推進、反対の本を100冊は読んだ。学ぶほど、安全はウソで固められていると疑うようになった。放射能と人間は共存できんなと」。米スリーマイル島や旧ソ連チェルノブイリでの原発事故もあり、疑念は確信に。反対運動へ深く関与していった。
 転機となったのが、関電が高屋地区での原発建設に向けた現地調査に乗り出した89年5月。塚本さんを含めた住民たちは調査に入ろうとする関電の車列を阻止し、市役所で約40日間にわたる座り込み抗議を始めた。円龍寺は反対運動の拠点となった。
 「それまで表に出ないようにしていたが、このときは大声を上げた。行動しないと何もならんと。知らん間にリーダー的な存在に祭り上げられていた」と塚本さん。住民らは念仏を唱えて道路に座り込んだ。調査を中断に追い込んだ。

◆「絶対に推進派の個人攻撃だけはするな」
 この頃から原発を巡る対立は激しくなっていく。高屋地区では住民の賛否が分かれる中で、毎年秋の住民運動会が中止された。生活雑貨店を営み、原発に反対した井上伸造さん(76)は「『反対派の店で物を買うな』と、不買運動も起きた」と明かす。
 塚本さんへの圧力も強まった。自宅では連日、無言電話が鳴り、電話が盗聴されたとしか思えない内容が書かれた手紙などが届いた。嫌がらせは、計画が凍結されるまで10年以上続いた。推進派に包丁を突きつけられたこともあった。しかし、「絶対に推進派の個人攻撃だけはするな」と周囲に何度も言い続けた。

◆住民のわだかまりは「もう過去のこと」
 反対派で建設予定地の土地を共有化したり、関電株を買って計画撤回の株主提案をするなどして手を尽くした。原発に反対する政治家を増やそうと、県議選や市長選などにも関わった。「強い者の味方をしたら坊主じゃない」という父の教えが行動を後押しした。
 塚本さんらの反対もあり、3電力側は2003年12月ついに計画凍結を発表した。11年の東京電力福島第1原発事故の後には「珠洲に原発はなくて良かった」と、推進派だった住民が塚本さんに話しかけてきたことも。だが、今では原発が住民の話題に上ることもない。住民同士のわだかまりは「もう過去のこと」だという。
 今回の能登半島地震で珠洲原発の予定地だった高屋地区の海岸線は数メートル隆起した。もし原発があったら大打撃を受けた可能性もあった。前出の井上さんは「原発事故が起きたら、能登はなくなっとったかもしれんね」。塚本さんは淡々と語る。「言葉を尽くすより、あの様子を見て想像がつくでしょう。やっぱり日本に原発を造れるところなんてどこにもないね、と」

   ◇

◆事業者による活断層評価は「明らかに過小」
 東京電力福島第1原発事故後、市民の立場で脱原発を求める発信・提言を続けている「原子力市民委員会」は、今回の能登半島地震で、地震や津波が頻発する日本の原発の危険性があらためて浮き彫りになったとして、18日にオンラインシンポジウムを開いた。
 「事業者による活断層評価は明らかに過小評価だった。数メートルに及ぶ地盤の隆起や変異を原発の安全設計に組み込むことはできない」「社会インフラが機能不全に陥った。原発事故発生時に避難や機材、人員の増強は不可能だと分かった」
 座長を務める龍谷大の大島堅一教授(環境経済学)が、今回の震災で浮き彫りになった、志賀原発の問題点を列挙した。

◆地割れが隆起が起きたら、原発は持たない
 「原発にとって脅威なのは、想定していない揺れが起こること」と「想定外」の地震の怖さをあらためて訴えたのは、元東芝原発設計技術者の後藤政志氏。志賀原発1号機の直下には活断層が走っていると一時は評価されたが昨年、覆った。「この断層を元に地震が起きると強く主張するわけではない。他で大きな地震が起きた時に連動して揺れ、原発に影響を与えるんじゃないか、という心配をしている」。その上で、「地割れや隆起が起きれば、原発は持たない。原発を断層のない安定した地盤の上に設置することは最低限必要。能登半島地震は原発の危険性を突きつけている」と訴えた。
 原子力資料情報室の松久保肇事務局長は使用済み核燃料(SF)について言及した。北陸電は仮に全電源が喪失した場合、SF冷却プールが100度に達するのは1号機で17日間、2号機で29日間と推定している。だが、松久保氏は「志賀原発は長時間停止しており、SFの発熱量がかなり下がっているからこれだけ時間がかかる。停止直後ならこんなに余裕はなかった、ということになるだろう」と話す。津波についても「今回は原発に3メートルの津波が来たとされているが、3メートル以上来たらどうなるか。海水ポンプも壊れていたのではないか」と危惧する。

◆徒歩も自動車も、屋内退避もままならない
 一方、環境経済研究所の上岡直見代表は、石川県が策定した避難計画で指定する道路の多くが寸断されたとし、「原発避難は30キロ、数十キロ移動する。徒歩は考えられない。自動車で移動するのかといったら駄目ということ」と断じた。
 今回は、多くの家屋が倒壊しており、屋内退避もままならない。上岡氏は「仮に倒壊しなくても、ライフラインが途絶すれば屋内退避はできない」とする。さらに、避難時に放射性物質が衣服や体に付着していないか調べる場所「スクリーニングポイント」の開設や、ヨウ素剤の配布も困難だと指摘した。
 大島氏は「日本は世界にも稀(まれ)な地震、自然災害大国。現行の規制基準に重大な欠陥があり、避難態勢にも実効性がない。現在稼働する全ての原発をただちに停止させるべきだ」と語った。(宮畑譲)

◆デスクメモ
 10年前、大飯原発の運転差し止め命令を出した樋口英明元福井地裁裁判長は13日、「当時の人たちのおかげ」と、珠洲原発を止めた塚本さんらに感謝した(16日東京新聞茨城版)。その感謝の輪に、関電も加わるべきだ。珠洲原発が実現していたら、何が起きたか想像もつかないのだから。(歩)

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政治家と宗教

東海アマ氏の「カトリック教徒がシオニズムを支持するはずがない。したがって、バイデン大統領は偽物だ」という説への参考(反証)として「シオンへの架け橋」というサイト(おそらく、イスラエル情報中心のサイト。ユダヤ側からの情報が主か)から転載する。カトリックとシオニズム(ユダヤ)との関係は、単純なものではない。そもそも、政治家の宗教は、選挙対策なども含めた偽信教であり、真面目に信じているわけではないだろう。本来のカトリック(伝統的カトリック)から言えば、バイデンの堕胎容認やLGBT推進は唾棄の対象であるはずだ。
まあ、バイデンが本物だろうが偽物だろうが、DSにとっては(単なる役者だから)関係がないのだが。

(以下引用)

イスラエルの宗教事情

キリスト教とユダヤ教の微妙な関係


米国の「キリスト教右派」がイスラエルを支持していることは、よく知られています。 ブッシュ政権の強い支持基盤も、やはりキリスト教右派でした。 しかし、キリスト教とユダヤ教の関係は、実はそれほど良いわけではありません。 キリスト教右派、特に「クリスチャン・シオニスト」出現の背景と、その他のキリスト教各派の動きについて解説してみます。

キリスト教の歴史


ホロコースト博物館 wikipediaより


キリスト教と一口に言っても、実は複雑に分かれています。 まず、東方教会と西方教会。 ロシア正教、ギリシャ正教などの東方教会は、ユリアヌス暦という古い暦を使っているので、クリスマスは1月に祝われます。 エルサレムを訪れるキリスト教徒の多くは東方教会系です。
東方教会もユダヤ人を迫害しましたが、西方教会(カトリック)は残虐なユダヤ人迫害を行ないました。 ユダヤ人は「キリストを殺した犯罪者」としてひどい扱いを受け、改宗するか、殺されるか、外国に移住するか、三者択一を迫られたのです。(イスラエルの歴史参照)
エルサレムのホロコースト記念館に行くと、最初の部屋のパネルに、キリスト教の教えがユダヤ人迫害の原因だったと明記されています。 また、ローマ教皇のピオ12世が、ホロコーストを黙認したとの疑惑を示す展示もあります。

ホロコーストとキリスト教

カトリックから分かれたプロテスタントも反ユダヤ的神学を継承しました。 ホロコーストの背景に、宗教改革者ルターの激烈な反ユダヤ神学があったとの指摘もあります。
そのような中で、19世紀から20世紀になって「ディスペンセーション神学」という神学が勢いを増し、その中から「ユダヤ民族の救い」を説く人々が出現しました。 日本で、その流れをくむキリスト教指導者として知られるのが中田重治(1870-1939)です。
神がユダヤ民族を最後に救われるという神学は、1948年にイスラエルが建国され、1967年にエルサレムが2000年ぶりにユダヤ人の支配下に戻って、勢いを増しました。 キリスト教右派の人々は、この考えにもとづきイスラエルを支持します。

クリスチャン・シオニスト

1967年の第三次中東戦争以降、イスラエルを支持するキリスト教団体が数多く誕生しました。 これらの団体を総称して「クリスチャン・シオニスト」と言います。
代表的なものは、ICEJ(在エルサレム国際クリスチャン大使館)、B.F.P.(日本にも支部がある)、エルサレムサミット、 最近登場したIFCJ(クリスチャンとユダヤ人の国際懇談会)などです。 これらの団体は、かなり莫大な支援金をイスラエルに送り、様々な人道支援活動を行っています。
ユダヤ人のイスラエルへの帰還を助けるJA(ユダヤ機関)は、ユダヤ人からの献金の減少で活動資金に困っていたのですが、IFCJの支援を受け入れました。

ユダヤ人の応答

クリスチャン・シオニスト団体の献身的な働きが認められ、近年では「クリスチャンは友人」だという印象が広がっています。
2000年から始まった第二次インティファーダは、この傾向を加速させました。 全世界の人々がイスラエル非難を強める中で、イスラエルを愛するクリスチャンだけがイスラエルを支持したからです。
そこで「唯一の友人を敵視したままでいいのか」という危機感から、2004年には、超党派の「キリスト教同盟者議員団」(KCAC)が結成されました。 今、ユダヤ人の側からクリスチャンに友好を呼びかけるという前例の無い動きが始まっているのです。
2007年に東京で開催された「エルサレム・サミット・アジアⅣ」も、こうした動きの一環です。

警戒するユダヤ人たち

ところが、こうしたキリスト教団体の動きには、ユダヤ人側から懸念の声が出ています。 2008年初めに、膨大な支援金を拠出したキリスト教団体が、JA(ユダヤ機関)に役員を送り込もうとしたところ、諸団体から非難が相次ぎました。
また、ICEJの主催する仮庵の祭りへのユダヤ人代表の参加を、チーフラビ庁が「ユダヤ法違反」として差し止める動きも出ています。
その背景にあるのは「ユダヤ人をキリスト教に改宗させる動きではないか」という、ユダヤ人の懸念があります。

「改宗」の意味するもの

キリスト教への「改宗」は、ユダヤ人にとっては脅威です。 キリスト教は、長年にわたって改宗したユダヤ人に「あなたは、ユダヤ人をやめてクリスチャンになったのだ」教えてきました。 そして、ユダヤ人も「キリスト教を信じた人はユダヤ人をやめた」と解釈していたのです。
現在でも、子供がキリスト教に改宗すると「お葬式」をして家から閉め出すという話は、よくあります。 強制改宗でも、心からの改宗でも、結果は同じ。要するにユダヤ人が一人、失われるのです。 全ユダヤ人がキリスト教徒に改宗すれば、実質的にはユダヤ民族が「絶滅」することになります。 これが、クリスチャンとの関係改善について、ユダヤ人が抱く懸念なのです。

メシアニック運動

ユダヤ人としてイエスを信じる「メシアニック運動」の主張は、簡単に言うと「イエスを信じてもユダヤ人であり続けること」。 これは上記の考え方を完全に否定するものです。 一見すると、この運動はキリスト教とユダヤ人の「架け橋」になるように思えますが、実際にはそうではありません。 ユダヤ人から見るとこの運動は「ユダヤ人を騙す宣教団体の新手の策略」であり、一方、保守的なキリスト教からも、メシアニック運動は異端だとする見解が根強いのが現実です。 そして、前述のクリスチャン・シオニスト団体に対しては、ユダヤ教の側から「メシアニック運動を支援しないように」との様々な圧力が加えられています。 また、ユダヤ教とキリスト教の対話では、ユダヤ人側の反感を招かないように、メシアニック運動を外すのが普通です。 メシアニック運動の存在は、ユダヤ人にもキリスト教にも複雑な影響を与えているのです。

現代のキリスト教とイスラエル

親イスラエルのキリスト教団体の動きだけを見て、キリスト教が全てイスラエル支持だと考えるのは早計です。 クリスチャン・シオニスト以外のキリスト教が、イスラエルに対して持っている立場を要約すると以下の通りです。
1)二契約説
 ユダヤ人はイエス・キリストを信じなくてもユダヤ教で救われるとする見解です。 カトリックは、イスラム教やユダヤ教との関係を改善するため、ノストラ・アエターテという宣言で、実質的に「どんな宗教でも救われる」という見解を出しました。
2)置換神学
 ユダヤ人は神に捨てられ、その地位は教会に受け継がれたとする見解です。祝福の約束は教会に引継がれ、ユダヤ人には神の呪いだけが残りました。 ユダヤ人は、他の民族よりも呪われており、永遠に地上をさまよう運命を与えられています。
3)民族は無関係
 キリストの前に全人類は平等。ユダヤ人とか、イスラエルの土地とかいう話は、旧約聖書のものであり、新約時代では無効であるとする見解です。 最も常識的であるため、この見解を持つキリスト教徒は多いです。



現在のところは、以上のような見解が多数派で、ユダヤ人によるイスラエル国家の再建を支持するクリスチャンはまだ少数派です。 現代イスラエルを批判し、パレスチナ人の闘争を支持するキリスト教派も多くあります。

雪解けの兆し


ナザレの街のクリスマスの様子


近年、イスラエルではキリスト教に対する人々の意識が急速に変化しています。 その背景の一つは、1990年代に急増したロシア移民です。 彼らは宗教的にはロシア正教の人々が多く、クリスマスなどの風習をイスラエルに持ち込みました。
また、若い人を中心にキリスト教文化が静かなブームとなっています。 クリスマス・キャロルを聴くために教会に行く人が増え、ヘンデルのメサイアの演奏会は毎年盛況です。 イエス・キリストや新約聖書を文化として好意的に取り上げる出版物も増えてきました。

今、イスラエル社会はキリスト教に対する対応で揺れ動いています。 インターネットでは「クリスチャンを追い出せ」という意見と「唯一の友人を敵に回してどうする」という意見を、ユダヤ人同士が激しく戦わせています。




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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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