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大正から昭和前期に至る日本の軍部の独断と横暴

大東亜戦争の発端は関東軍の独断専行にあり、その萌芽は大正初年の軍部の横暴にあり、さらにその萌芽は明治維新での功臣(特に薩摩の西郷と大久保)が長州閥以外早々と殺され、あるいは死亡した結果長州閥だけが軍部(主に陸軍)の中枢を独占したことにある。

ここでは、子供向け(中高生向け)の歴史解説書「日本の歴史 14 (大正・昭和時代初期)」から、大正初年度の軍部の横暴なふるまいを転載する。明らかに、彼らは即位したばかりで若年で虚弱な大正天皇を見くびり、このようなふるまいに出たのである。これが「天皇に統帥権を帰する」ことの明白な危険性である。そしてその軍部の独断と横暴は昭和にも続き、日本を一度滅亡させるのである。

(以下引用)


「憲政擁護」の声が急に高まったのは、1912年(大正1)12月、西園寺公望内閣が総辞職に追い込まれた事件がきっかけでした。
このころ西園寺内閣は、歳出をへらすために(夢人注:日露戦争の負担があまりに巨額で、その外債の返済に政府は苦しんでいた。)、各省はそれぞれ10%あまりの節約、削減すると話し合っていました。ところが陸軍(夢人注:陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥である)は、この方針に従いませんでした。
「3%は予算を削減しよう。しかし、その節約したぶんは、新しく陸軍を二個師団ふやすことに使ってほしい」というのです。
しかも、その要求がはねつけられると、陸軍大臣上原勇作は、直接大正天皇のところにでかけ、辞表を提出するという行動に出ました。
西園寺首相は、陸軍の黒幕である山県有朋と話しあいましたが、山県も承知しません。そればかりか、「二個師団ふやすことを承知しないのならば、陸軍は大臣を推薦しない」と言い出しました。このころ、陸軍大臣は現役の将官でなければならないという決まりがありました。陸軍が、大臣を推薦しないということになれば、内閣を組織することはできません。
そのため、西園寺内閣はついに総辞職することになったのです。この出来事が多くの政治家はもちろん、民衆の怒りに火をつけました。
「山県は長州閥の巨頭だ。彼らがいるからこんなことがおこるのだ」
「今こそ、閥族を倒し、憲政擁護をせねばならぬ」
という意見が高まることになったのです。

(引用終わり)

で、この「憲政擁護」の声の高まりも空しく、その後の日本の政治が軍部に牛耳られるようになり、馬鹿軍人たちの夜郎自大ぶりがこの国を滅ぼしたのは言うまでもない。

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