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「恨」と「恨み」の断層

「恨」という漢字は日本では「うらみ(うらむ)」以外の読みはおそらく無いが、これは漢字の誤訳だろう。それが分かるのは、白楽天の「長恨歌」の末尾である。



七月七日長生殿七月七日長生殿ちょうせいでん七月七日、長生殿
夜半無人私語時夜半やはん人無く私語の時誰もいない夜中、親しく語った時(の言葉である)
在天願作比翼鳥天に在りては願はくは比翼ひよくの鳥と天にあっては、願わくは比翼の鳥となり
在地願為連理枝地に在りては願はくは連理れんりの枝とらんと地にあっては、願わくは連理の枝となりたい
天長地久有時尽天は長く地は久しきも時有りて尽くとも天地はいつまでも変わらないが、いつかは尽きる時がある
此恨綿綿無絶期此の恨み綿めん々として絶ゆるのとき無からんしかしこの悲しみは綿々と、いつまでも絶えることがないだろう




さて、ここに書かれた感情は、日本人の言う「恨み」だろうか。誰を恨むのか。あるいは天を恨むのか。明らかに違う。これは単に「思い」なのである。玄宗皇帝の楊貴妃への思いである。上の現代語訳では「悲しみ」と訳しているが、それも違う。
「恨」はりっしんべんに「艮」の字で、「艮」は

①もとる。さからう。 [類]很(コン) ②とまる。とどまる。 ③易の八卦(ハッケ)の一つ。山・止まるなどの意を表す。 ④うしとら。北東の方角。

などの意味がある。つまり、「とどまる」意味だ。だから「恨」の字は、「心がこの世にとどまる」意味である。

お隣の国の心性を「恨」という言葉で表すことがあるが、その漢字は日本人には「恨み」としか読めない。だから、「恨みがましい奴らだ」という印象を持つだろうが、「忘れない」ことは必ずしも「恨み」の感情だけでなく、愛情でも忠誠でも成り立つのであり、それこそ楠木正成の「七生報国」など、「恨」の極みである。日本のように何でも「水に流す(淡白な、忘れっぽい)」国民性では、こうした強烈な「恨」の感情を持つほうが稀であるだろう。死んだ人の魂すらお盆にしか帰ってこない国民なのである。

ということで、「恨」と「恨み」は違う、という話だ。


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