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かわいそうな花瀬は、牝牛の牡丹に息子・黄金丸を頼んだその日の夕暮れ、冥土へと先立った夫・月丸の後を追って死出の山三途の川へ急ぐかのように息を引き取った。主人の庄屋は花瀬の最期を見届けて大変気の毒に思い、その亡骸を棺に納めて、家の裏にある小山の陰に埋葬した。そして夫・月丸と花瀬の名を並べ彫り付けた石をその墓の上に置き、仲のよかった二匹にふさわしく比翼塚の形に整え、懇ろに弔いをした。
こうして黄金丸は皆死児になってしまった。生まれたばかりの何の分別もつかぬ黄金丸は、花瀬が産み守っていた犬小屋の藁の上から、屋敷の裏の牛小屋へと内の者に移された。花瀬の願い叶い、牝牛の牡丹が養母とされたのであった。それからというもの黄金丸は牡丹の乳を飲み、牛小屋で育てられることになった。成長するにつれ黄金丸は普通の犬よりも優れた骨格や体躯、雄々しい性質を表し始めた。そして立派な体格をした頼みになる犬に育っていった。
さて、養母となった牡丹には文角という名の夫があった。文角は生まれつき義侠心が深かったので、黄金丸の母・花瀬の遺言を堅く守り、黄金丸の養育に日夜心血を傾け、たくさんいる自分たちの仔牛の中で一緒に育てた。文角は黄金丸に仔牛たちと相撲を取らせたり、競走をさせたりした。こうして黄金丸と仔牛たちとを競わせることで、自然に黄金丸の肉体が鍛錬されるように仕向けたのだった。その成果が上がり、黄金丸の力量は日々目を見張るほど高まっていった。また黄金丸は闘犬の場にも引き出された。黄金丸は相手の犬と咬み合う真剣勝負の中、どうすれば相手を打ち負かせるかを体験し、学び取っていった。養父の文角も黄金丸の成長をはなはだしく喜んで見守っていた。闘犬では大方の相手を制する技量・力量を備えるようになった黄金丸は、今やどこに出しても恥ずかしくない立派な成犬になろうとしていた。時すでに熟したと見た文角は、あるとき黄金丸をそばに招き寄せた。そして、こう伝えた。
「さて、黄金丸、ここにお坐りなさい。よいか、心落ち着けて、これからする私の話にしかと耳を傾けなさい。実はな・・・、お前は私と牡丹の間にできた子ではないのだ・・・。お前はな、・・・」
文角はこうして黄金丸の出生、身分、そしてなぜ文角と牡丹の養子となり今日まで育てられてきたのかなどなど、その一部始終を誠実に切々と黄金丸に語り聞かせたのだった。黄金丸は初めて知る自分の素性や皆死児となった経緯に驚き、悲しみしながら、今の今までてっきり実の父親と信じていた文角の打ち明け話に黙って聞き入っていた。父犬の非業の死、その下手人・金眸の非道の下りになるとを歯ぎしをりしながら聞いていたが、母犬の精神の錯乱とその死に到る話、自分への遺言を聞くや怒り心頭に達し、遂に声を上げ、この大虎の悪事を罵った。
「お養父様からこのようなお話をお聞きいたしましたからには、一刻も早くその大虎の棲む奥山へと急行し、親の仇・その金眸とやらを咬み殺してくれましょう」
と息巻き、今にも出立せんと勇み立った。文角は、
「これ。そう事を急くな、黄金丸。暫く」
と血気に逸る黄金丸を押しとどめ、こう続けた。
「お前がそのように血に逸るのは理の当然だ。しかし、今はまず逸る心を抑えてここに坐りなさい。よいか、心鎮め、私の話をよく聞きなさい。お前の父母の仇は、大虎の金眸ただ一匹ではないのだ。」
「えっ!憎き大虎の金眸の他にも仇があると言うのですか、お養父様。それは何奴なのです」
興奮のあまり血相を変えて立ち上がっていた黄金丸は、そう言うと文角の言いつけどおり再びお側に控えた。
「よしよし、黄金丸。よいか、よく聞きなさい。金眸にはな、聴水という悪狐の配下がおるのだ。この狐は腹黒く、小利口な悪知恵のよく働く、知能の高い奴でな。すなわち頭の回転が速い。相手の動きを観察しては、あらゆる策略、計略、商略、政略、知略、謀略、機略、軍略、方略、奇策、偽計。陰謀、策謀、知謀、遠謀、通謀、密謀、群謀、共謀、詐謀、宿謀、逆謀、深謀、悪謀。仕掛け、当て馬、からくり、画策、自作自演。こうしたありとあらゆる権謀術数の限りを尽くしてくる。事に当たってはずる賢いばかりか計算高く、形勢不利と見れば、誰あろう情理を尽くして空言をまことしやかに騙り、情状を願い酌量を請い欺き、相手が情に流され、心を許すようなそぶりを一つでも見せ、己が偽言に中りありと見るや、その話の上にさらにまことしやかな話を重ね、出法螺、たぶらかしを以てして、今まで敵であったようなものをもまんまと口車に乗せてただ働きさせるなどは朝飯前のこんこんちきだ。こうしてな、己の利のためなら、まやかし、惑わし、はぐらかし、かご抜け、ごまかし、でっちあげ、ペテン、引っかけ、寝首掻き、くらまし、持ち逃げ、二枚舌、ネコばば、こそ泥、担ぎ上げ、時には利敵、売国さえをも厭わぬ鉄面皮。この世のあらゆる罠という罠、嘘八百、誘惑・魅惑、言い寄り、声掛け、おびき寄せ、そそのかし、流し目、色目、秋波を駆使して相手に一杯食らわし、一儲けしようという、口達者で浅ましく、狡猾なずうずうしい姦物じや。また口だけではないぞ。こやつは転んでもただ起きぬ。芝居を打つ。裏の裏まで読む。狂言を使う。算盤さえ合えば、わざわざ遠くまで足を運び、体を動かすことさえ厭わぬ邪な心を持つ手合いじや。おまえにとって大悪の仇があの金眸とあらば、この聴水こそは小悪の仇と言えるのだ。こ奴はな、黄金丸、今申したように世故に長けた悪狐、ある日、主のニワトリを盗みに入ってな、はからずもお前の父・月丸殿に見つけられ、月丸殿は奴の大切にしていた尻尾を咬み取ったのだ。奴はそれを深く怨みに思ったらしい。その意趣返しをせんと企んだが、自分の力足らぬを知り、かの金眸に頼み入り、いわば虎の威を借りた上に謀をし、あの無残な事件を引き起こしたのだ。ここまで聞けば、黄金丸、誰がお前の真の仇であるのか、もう会得したことであろう。あの虎も仇なれど、まずはあの古狐の聴水。こ奴もお前の仇敵なのだ。だから、いまお前がこれを深く理することなく、ただ感情にまかせて無意味に猛り狂い、あの大虎の金眸の棲処の洞穴へ向かい、駈け入って、奴と雌雄を決して争い、万一誤ってお前が敗るれば、もう片方の仇の聴水へ返報を果たせぬばかりか、おまえのその体はあの金眸のフスマ、餌食になってしまわぬとも限らぬ。これこそ自ら死を求める無謀な振る舞い。聴水の奴めにすれば、飛んで火に入る夏の虫、夏の夜の灯に集まり自ら火に飛び込んで身を焼かれ死ぬ虫と何の変わりがあろうか。また、とりわけ金眸という大虎、こ奴は戦を重ね、場数も踏んで年を重ねた老練な、いつも腹を空かした飢虎。お前は犬、奴は虎。たとえ如何にお前に力があろうと、奴はこれまでおまえが咬み合ってきた犬とは段違いの力を持っておるのだ。決して高を括ったり、侮ったりできる相手ではないぞ。金眸との闘いに勝ち、親の仇を討ち遂げるのは大変な難題、なかなか成しがたいことなのだ。だから、今、仇討ちに向かうのは控えなさい。こうしておまえが出自を知った今のこの今より、しばらくの間、おまえは己の牙を磨き、爪を鍛え、まずはあの小悪の仇、聴水の奴を咬み殺し、その上でさらに力を蓄え、時節が熟し到るのを待ってから、かの大悪・金眸を討ち取るがよい。平凡な雄犬のやるように、血気に逸ってただ蛮勇ばかりを頼みにした軽挙妄動、これこそ意味を持たぬ愚かな振る舞い故、厳に慎めよ。さもなくば力もなしに感情にまかせた分限知らずがやることの末路とはまさにこれ、とて世間のもの笑いとなるばかり。そんな笑いの種をわざわざ撒き散らすこともなかろう。まずはお前の父の無念を晴らし、その仇を討つというその心持ちをこらえ、腹の底に収めた上で英気を養い育て、臥薪嘗胆、必ず来るその日その時をじっと待つのだ」
頭に血が上り、今にも飛び出さんと膝立てにて、養父の話を聞いていた黄金丸は、ものごとの分別を知った文角の言葉に、はっと我に帰り思いとどまったのだ。黄金丸はやや落ち着きを取り戻して、何やら思いを巡らしていたようであったが、しばらしくしてから文角にこう言った。
「お養父様お養母様には、このような因縁でお育て頂いていたとは今日の今まで露も存じませんでした。文角養父さん、牡丹養母さん。お二人のことを、実のお父様、実のお母様とばかり信じ、斯様な育ての大恩ある御方々とは露知らず、ただただ今日まで我が儘勝手に振る舞い過ごさせていただいて参りました。このようにふつつかにしておりました私は、まったくもって慮外の無礼者でございました。どうぞこの罪、お許し下さりますよう幾重にもなりてお頼み申し上げます」
と、黄金丸は養父養母に心からの感謝を籠めて、何度も何度もお礼するのであった。そして、居住まいを正すと、改まってこう言った。
「存じませんでした過去の出来事につきましては是非を論ずるに及びませぬ。しかし今、お養父様からお伺いいたしました実の父の遭難、わが父の無念はいかばかりでございましょう。私に斯様な仇のあることを承り、それを知りました以上、私は我が道を行く上で必ず実行しなければならないことがございます。これを知らぬふりをし黙って過ごすことは最早できるものではありません。これを知りました以上、お養父様にはひとつお願いがございます。お聞き入れ願えませんでしょうか」
「願いとは何か、黄金丸。話によってはお前の願いを許すこともあろう。言ってごらんなさい」
「それは他でもございません。私にお暇を賜れませなんだでしょうか。私、まさに今、これより武者修行へ向かい、諸国を巡り、世に強いと呼ばれる名のあるあらゆる犬と咬み合い、我が牙を鍛えたいと思います。そして一方、私の仇敵の動向に耳目をそばだて、折りあらば、我が仇に名乗りををかけ、父の復讐を遂げたいのです。長年育てて頂きましたご恩へのお返しもしないばかりか、さらにまた、お暇を賜りたいと所望するなど口に出すのもおこがましい以ての外の不義理でございますが、お養父様、我が実の父の仇討ちのためでございます、何とぞお許し頂けませんでしょうか。もし私が、幸いにも、見事、実の父の仇を討ち、復讐をあい遂げ、さらに尚この命を繋ぐことができましたそのあかつきには、お養父様お養母様のご恩に報いさせて頂けるかもしれません。まずはその時まで、お養父様、どうぞ、お暇をお与え下さいまし。」
と、黄金丸は涙を流しながら、文角を説きつけたのだった。文角は黄金丸のその真摯な態度と言葉を聞いて微笑んだ。
「そうでなくてはならぬ、よくぞ申したぞ、黄金丸。お前がもし自らそう言わねば、わしの方から武者修行を強く勧めようと心に決めなしておったのだ。思いのままに諸国を巡り、修行を積み重ね、見事、お前の父の仇を討ちなさい」
文角はこのように黄金丸を激励し、その暇乞いを許した。黄金丸は養父・文角の了承を得、大いに奮起したのだった。こうと決まれば善は急げといわんばかりに、黄金丸は急いで出立の支度をし、用意が済むと再び文角と牡丹の前にやって来てこう言った。
「見事に父の仇の大虎の金眸と悪狐の聴水の印を上げませぬ限り、私、黄金丸、再びお義父お義母様の御前に立つことはござりませなんだ。」
と、黄金丸は文角と牡丹にいじらしくも立派な言葉を奏し誓い、養父養母に別れを告げるや、野良犬の身となり、野犬の群れにその身を投じるや、行方定めぬ諸国流浪の武者修行の旅へと歩を進めたのであった。