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優れた「少年漫画」は女性キャラに魅力がある

記事タイトルがコピーできなかったが、好記事である。
私自身は「ドラゴンボール」も「ハンター×ハンター」も好きだが、前者の創作対象はやや年少の男の子であり、後者は全体が好きというより、「キメラアント編」のキメラアントの王の死の場面の凄絶なロマンチシズムが、「至高のラブロマンス」として漫画史上に残るものだ、という「芸術的評価」である。「少年漫画」でこれを描いた富樫義博は天才だ。なお、私は同作品の悪役、ネフェルピトーも大好きで、富樫作品の女性キャラは魅力があることが多い。造形が素晴らしいので、正体が頑健な男(オカマ)であるらしいビスケも実に造形的、キャラ的に魅力がある。

(以下引用)

伊勢丹本店でトークショーに出席する声優の野沢雅子さん(右、悟空役)とアラレちゃん役の小山茉美さん、東京都新宿区、2017年5月2日© PRESIDENT Online
『ドラゴンボール』『Dr.スランプ』など国内外で愛される漫画を世に送り出した鳥山明さんが死去。鳥山さんの漫画を読んで育ったというコラムニストの藤井セイラさんは「鳥山さんの描く女性は絵柄の造形的にも自然で、その生き方もわが道を行くもの。男性の願望を反映した役割消費はされず、素直に共感できた。鳥山作品は時代の先を行っていたのではないか」という――。

「Dr.スランプ」という題名がアニメ化の際「アラレちゃん」に

幼稚園の頃、アラレちゃんが大好きだったわたしに父が教えてくれた。


「本当は『Dr.スランプ』っていう漫画なんだよ。でもアラレちゃんが大人気だから、アニメでは『Dr.スランプ アラレちゃん』になったんだ」


女の子キャラの人気が出すぎて、作品タイトルが変わるだなんて! わたしは感動した。少年漫画雑誌に連載されていたのに、その人気で則巻千兵衛博士を食ってしまったアラレちゃん。それくらい鳥山明の描く女性キャラは、イキイキとして主体性があり、やんちゃで魅力的だった。


単なる絵的な「添え物」でもなければ、すべてを受け入れる寛容で忍耐強い「母」でもなく、高嶺の花の「マドンナ」でもない。泣き、笑い、怒り、知恵を働かせ、自分の意思で動いていく女の子キャラクター達。

『Dr.スランプ』は、フランケンシュタインを思わせる人造人間製造シーンから始まる。少女のサイボーグを則巻博士が接続している少しホラーな絵面で、先に完成しているアラレちゃんの頭部が「あ〜たいくつ」などとペチャクチャ喋り、博士がそれをウザったがる。ロボットなのに、いうことを聞かないのだ。

一人称が「オレ」のあかねちゃん、「クピポ」と破壊するガッちゃん

当初、博士とアラレは、ゼペットじいさんとピノキオのような、造物主と無垢な存在(タブラ・ラサ)という関係だった。しかし動きはじめたアラレちゃんは、ぶつかるものみなすべて壊す「キーン」というアラレちゃん走りと天才的頭脳、そして底抜けの明るさと怪力とで騒動を引き起こし、すぐさま博士の手には追えないペンギン村の人気者となる。


アラレちゃんの他にも、『Dr.スランプ』には印象深い女の子キャラが数多く登場する。不良ぶってはいるが根はいい子、一人称が「オレ」のクラスメイトあかねちゃん。その姉で喫茶店を経営する、客あしらいの上手い葵ちゃん。アラレの担任であり、則巻博士が恋する相手の山吹みどり先生。


それから「クピポ」と独自言語を話す、空飛ぶ破壊神ともいえる恐るべき赤ちゃん、ガッちゃん。サングラスで三輪車をかっ飛ばし「ナウい」「ダサい」と容赦なくなんでも批評する保育園児きのこちゃん。ちなみに彼女の前髪ぱっつんは、『Dr.スランプ』の連載開始より2年先にパリコレデビューした、当時のコシノジュンコそっくりである。

ドラゴンボールの第1話タイトルは「ブルマと孫悟空」だった!

ドラゴンボールでも女性の活躍は続く。そもそも第1話タイトルが「ブルマと孫悟空」。語順に気をつけて見てほしい。「悟空とブルマ」ではない。


少年漫画なのだから、ブルマは悟空から武力で一方的に守ってもらう「か弱き存在」として描かれてもおかしくはない。だが彼女は、ホイポイカプセルで悟空を驚かせ、科学技術の恩恵に与らせる。実家の太さ、受けてきた高い教育、メカニックの腕前、経済力、行動力、それらで悟空をある意味、圧倒する。


ブルマは夏休みに一人でバイクを駆って、自作のドラゴンレーダーで宝探しの旅をする、アクティブで自立した女子高校生なのだ。悟空から「おまえ」と呼ばれると、失礼だからやめてと拒否する。あくまでも「孫くん」「あんた」と呼んで対等さを示し、一定の距離を置く。

そして山育ちで礼儀も衛生観念もない悟空に、パンやコーヒーといった人間世界の食べ物を味見させ、入浴と歯磨きを指導し、男女の別を教え、レディーの前では脱がないようにと教育する。Dr.スランプでは則巻博士とアラレちゃんにあった「教育者」と「無垢なる天才」という構図が、ドラゴンボール序盤ではブルマと孫悟空に置き換わっている。

マドンナ、母親、天使――女性キャラは役割消費されがち

少年漫画の主人公は少年だ。当然、描かれる「女の子」はどうしても「客体としての女性キャラ」となる。例えば部活のマネージャー、憧れの先輩、争奪されるトロフィー、支えてくれた亡き母親などだ。


例えば映画『ONE PIECE RED』(2022年)には、CGで紅白にも出演した女の子キャラクター・歌姫UTAがいた。彼女は天才児で、父や師と仰いでいた男達から嘘を教えられて育ち、それに則って行動しただけなのに、最終的に物語全体の罪を負わされて自滅する。


UTAに歌声をあてたAdoとと楽曲群のすばらしさゆえにその悲惨さはあまり目立たないが、完全に捨て石だった。上げるだけ上げてから落とされて、いいところは少年ルフィが持っていく。愚かな女のしりぬぐいは大人の男シャンクスがしてくれる(騙していたのは彼らなのに)。21世紀になってもまだ少女はこんな使い捨ての駒として描かれるのか、と痛感させられた。

ブルマの冒険少女、仕事、子育て、経営者というキャリアパス

しかしブルマは違う。第1話から登場し、主人公とコミュニケーションを取り、ドラゴンボールという宝物の存在を悟空に教え、冒険のきっかけをつくる。ページにつねに出ているわけではないが、物語世界のどこかで生きていて、何か発明品を持って戻ってきては、悟空達を支える。ブルマは女性の目から見ても納得のいくライフステージの変遷をたどった。


恋する冒険少女の時代を経て(ヤムチャとつきあっていた)、仕事のできる大人となり、恋愛よりはむしろ憐憫の情からベジータと結ばれて息子(トランクス)を産み、育児をし、父・ブリーフ博士から家業のカプセルコーポレーションを継ぎ、子どもの手が離れ、また仕事がノッてくる時期までもが描かれる。

やがては会長職に就いて経営手腕を見せながらも、エンジニアとして手を動かす原点も忘れない。ブルマは年齢とキャリアにあわせ、髪型も服装も変わっていく。それなりにお金はかけていそうだが機能性を優先したファッション、流行を取り入れつつ意思の強さを感じさせる髪型、足元は動きやすいブーツが多かった。

「おっぱい要員」的な造形もなく、女性も読みやすかった

胸の大きさも自然だ。ドラゴンボールにも胸の大きな女性は登場するが、さまざまだ。やはり前述のONE PIECEでは、少女と老婆(醜さが強調されることが多い)以外の現役の女性は、人体の構造上これは無理だろうというレベルで胸が大きく、それを強調する衣装も多い。おっぱいのインフレーションが起きている。細い腰骨が折れないか心配になる。


ママ友が「最近のジャンプって油断するとめちゃくちゃおっぱいの大きい女の子が出てくるので、気軽には(息子に)買えない」と話すのを聞いたことがある。神経質と思われるかもしれないが同感だ。女性にはそう感じる人もいるのだ。

ナビゲーター的女性キャラは冨樫義博「幽遊白書」などにも

そういえば、鳥山明以外でも物語をナビゲーションする女性キャラの登場するジャンプ作品があった。冨樫義博の『幽遊白書』と『HUNTER×HUNTER』だ。前者では水先案内人が女性キャラであるし、後者は壮大で複雑な物語で、美女や小悪魔はもちろん、賢者や間者といったバラエティ豊かな女性キャラクターが登場する。彼女達の性格も、プロポーションやファッションも実にさまざまだ。


そういえば冨樫義博はその妻が『セーラームーン』の武内直子であるし、鳥山明もみかみなちという先輩漫画家と結婚している。時に制作を手伝うこともあり、「かめはめ波」を名づけたのも彼女だという。家庭内に対等かつ尊敬できる同業者がいるというのは、二人の共通点として挙げられるだろう。

プリキュアの20年前に、「ケア労働」から自由な女性を描く

ドラゴンボール』にはブルマだけでなく、他にも個性ある女性達が登場する。例えば一見おしとやか、男性の理想を引き受けたマリリン・モンロータイプに見えるランチさんは、「くしゃみ」がスイッチとなり別人格が表に出て銃を乱射する。また半ばおしかけ女房のように孫悟空の妻となり、悟飯という子をなして、しっかり教育を施すチチなどだ。


女性だってランチさんのように暴力性を発露することもあるし、チチのように家庭において夫をコントロールすることもあるのだ。


『ドラゴンボール』はその人気ゆえ、連載が長期化し、修行や冒険よりバトルが主軸となっていく。登場する女性キャラの数は相対的には少ない。それでもキラッと光る女性キャラクターが幾人もすぐに思い浮かぶのは、彼女達が「ケア労働」、つまり癒しや家事育児の担い手「のみ」としては描かれなかったからだろう。


「女の子だって暴れたい」をコンセプトに大ヒットした「プリキュア」シリーズが生まれたのが2004年。その20年以上も前に、鳥山明は自分の意思を持って生きる女性像を、少年漫画の中でごく自然に描いてくれた。

血統主義、血縁主義からは遠い、柔軟な家族観とキャラクター造形

そもそもアラレちゃんと則巻博士は血のつながらない家族だ。孫悟空も山で拾われた孤児である。悟空の息子・孫悟飯は、両親のもとではひ弱なお坊ちゃんだったが、ナメック星人のピッコロに育てられて大きく成長する。ピッコロにいたっては卵生で「親の愛」など知らないはずだが、悟飯を身を呈して守る。


女性観だけでなく、家族観や子ども観もまた柔軟なのかもしれない。父はこうあるべき、母はこうあるべき、子とはこうあるべき、という固定観念から自由な世界がそこにはあった。血統主義、血縁主義ではないのである。


少女漫画も恋愛の成就で物語が終わってしまい、女性の「その後」を見せてくれるものが少なかった子ども時代に、天才で怪力で奔放なアラレちゃんや、仕事と家族の充実を体現するブルマを見ると、何かスカッとする思いを抱いたのを覚えている。あの感覚は、いまにして思えば「エンパワメント=本来持っている力や才能を気づかせて開かせようとする作用」だったのかもしれない。

おきまりの言い方になるが、ようやく時代が、鳥山明がナチュラルに描いていたこの家族像、女性像、子ども像に追いついた、とも感じられる。これから先のクリエイターにとっても、彼の偉大な作品は折にふれてヒントをくれるものとなるだろう。


---------- 藤井 セイラ(ふじい・せいら) ライター・コラムニスト 東京大学文学部卒業、出版大手を経てフリーに。企業広報やブランディングを行うかたわら、執筆活動を行う。芸能記事の執筆は今回が初めて。集英社のWEB「よみタイ」でDV避難エッセイ『逃げる技術!』を連載中。保有資格に、保育士、学芸員、日本語教師、幼保英検1級、小学校英語指導資格、ファイナンシャルプランナーなど。趣味は絵本の読み聞かせ、ヨガ。 ----------


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「稗つき節」の歌詞の謎

「ツネさんのフォトブログ」という、たまたま見つけたブログから記事を転載する。
子供のころから気になっていた「稗つき節」の謎の歌詞の意味を調べたいと思って探しているうちに出会った記事だ。
いや、そもそも、その名前が「稗つき節」だというのも探していて知ったが、歌詞はほとんどがコピー不可能なので、その第一節だけ下の記事で読むしかない。この手の民謡の歌詞までコピー不可能というのはおかしいのではないか。いったい誰に著作権があって転載不可なのか。

それはともかく、この歌詞のどこが謎なのかというと、

1:「サンシュウの木」とは何か。
2:「鈴の鳴る時は 出ておじゃれよ」とは誰に向かって言っているのか。

の2点で、1は、宮崎県では「山椒」を「さんしゅ」と言うと下の記事で知った。
問題は2で、これは歌詞の2番3番を見ても、納得できない。どうやら、牛飼いか馬飼いに呼びかけている感じだが、なぜ「鈴の鳴る時」に限定されるのか。木の枝に掛けた鈴なら、風が吹く度に鳴るだろう。私は、幽霊か、妖怪か、死んだ親しい人の魂に向かって「鈴の鳴る時は 出ておじゃれよ」と呼びかけているのかと想像していた。

ちなみに、この民謡は、おぼろげな記憶だが、亡父が友人たちとの酒宴で、酔った時に歌ったような記憶がある。つまり、亡父に関する記憶である。これもちなみに言えば、「百舌鳥が枯れ木で鳴いている」も亡父の好きな歌だったように覚えている。哀調のある歌が好きだったようで、いいセンスだったと思う。


(以下引用)下の記事では説明が無いが、「山茱萸(サンシュユ)」は、俗に「山グミ」と呼ばれているものだろう。グミの酸っぱい実を味わった経験のある人も今は少なくなっているかと思う。


サンシュユって、「ひえつき節」の歌詞に出てくる木?(2016.03 No.10)

2016-03-11 18:02:44 | 草花
宮崎県の民謡「ひえつき節」に出てくる歌詞、
「庭のさんしゅうの木 鳴る鈴かけてヨーホイ 鈴の鳴る時ゃ 出ておじゃれヨー」
の“さんしゅう”は、このサンシュユの木の事かと思っていたのですが、調べてみるとそうではなくて“山椒”の事なんだそうです。宮崎県では“山椒(サンショウ)”の事を“サンシュ”と呼んでいるらしいです。
ということで、「ひえつき節」の歌詞に出てくる木ではありませんが、サンシュユの黄色い花が真っ盛りです。
 (いずれも大阪府河内長野市の花の文化園で撮影)
*以下の写真をクリックしていただければ、もう少し大きなサイズで見ることができます*
(元に戻られる際は、ブラウザーの「戻る」ボタンで戻ってください)

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ギャッツビーが「偉大な」理由

これも私の別ブログに書いたばかりの記事だが、ここにも載せておく。

(以下自己引用)
フィッツジェラルドの「The great Gatsby」の日本語訳題名が「華麗なるギャッツビー」というアホな訳がされているのはみなさんご承知だろうが、これはその当時映画題名に「華麗な(る)」という題名を付けるのが流行っていたため、映画がそういうアホな題名になり、その後では小説もそういう題名を踏襲しているだけなのを知っている人も少なくなったのではないか。当然、原題は「偉大なるギャッツビー」と訳すべきものである。
ところで、このアホな死に方をした、どうやらギャングの小ボス、あるいは成り上がりチンピラらしい男がなぜ「偉大な」とされているか、ということを問題視した人はあまりいない気がする。
というのも、フィッツジェラルドはアメリカ文壇では群小作家のひとりだとされているからではないか、と思われるし、それも当然ではないか、と私は思うが、別の面では大作家たちが足元にも及ばない重要性を持った作家だとも思っている。たとえば、私はほとんど読んだことがないが、スタインベックとかフォークナーなどは、長い作品を書いただけの、根気のある鈍才作家だと見ることも可能だろう。そこは趣味の問題だ。
では、なぜフィッツジェラルドが重要作家だと私が思うのか。それは、彼の詩人性と思想性にある。このふたつは一体である。つまり、彼は詩も哲学書も書かなかった詩人であり思想家なのである。そして、小説を書く才能(「物語」を作る才能)が無いのに小説家になった、「道を間違えた」作家だ、というのが私の考えだ。

「偉大なるギャッツビー」は、私が昔から気になっている作品なのだが、小説を読んだこともなく、映画もまともに見たことがない。映画は、レッドフォード版をテレビで見たと思うが、ほとんど覚えていない。ところが、小説を読まなくても、私はこの作品を日本で一番理解している人間、いや、それは言い過ぎだが、この作品の精神をかなり理解している人間のひとりだという気がする。それは、この作品の本質が、作品冒頭に書かれたエピグラフ(引用句)にあると思うからだ。極論すれば、この小説を読まなくても、小説の大筋を知っていて、このエピグラフに感動できるなら、それはこの作品を本質的に理解したということである、と私は思う。何しろ、フィッツジェラルドは「小説の下手な小説家」なのだから、真面目に作品を読むと、かえって混迷に陥るとすら私は思うのである。

そこで、ダイジェスト好きの私が、この作品を思い切ってダイジェストしてみるつもりだ。英語版を元にするつもりだが、私は英語は苦手なので、この作品の「本質」を示す部分だと私が思う部分だけを訳(意訳になるだろうが)してダイジェストにする。
まあ、冒涜的作業と思う人もいるだろうから、そういう人は、次回の「偉大なるギャッツビー」ダイジェストを読まなければいい。
念のために言うが、「物語」的部分はほとんど省略するので、ダイジェストではなく、作品の「エッセンス」と言うのが適切だと思う。つまり、一種の「作品評論」でもある。







 そして、彼女が望むなら金の帽子をかぶるがいい
 高く跳ね上がることができるなら、彼女のために跳ねるがいい
彼女が「金の帽子をかぶった恋人よ 高く跳ね上がる恋人よ
 私はあなたを愛します」と言うまで
                 (トーマス・パーク・ディンビリエ)


ーーーーーーーーー

ただギャッツビーだけが私の反発心から免れていた。ギャッツビーは、私が自然な軽蔑心を持つすべてを代表していたのだが。
仮に個性というものが、途切れることなく続けられた一連のジェスチャー(身振り:仮装や演技)であるなら、彼には何か豪華なものがあった。約束された人生への高められた敏感さのようなものが。
それは軟弱な感受性とは異なる、希望を求める度外れた才能、ロマンチックな心構えとでも言えそうなもので、私が他の誰にも見たことがなく、これからもおそらく見いだせないと思う。
ギャッツビーは、その正しさを最後に証明した。「希望」はギャッツビーを捉えたのである。
彼の夢からの目覚めに伴う汚いゴミの浮遊物は、悲哀の不毛さや人間の意気揚々たる絶頂期のはかなさへの私の目を時々閉ざさせるのである。

ーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーー

ギャッツビーは青い信号を、熱狂的な未来を信じた。その未来は我々には毎年のように後退していくのである。そして、我々の傍を巧みにすり抜けていく。だが、それは問題ではない。ーーー明日は我々はもっと速く走るだろう。両腕をより遠くに伸ばして。……そして、ある晴れた朝にーーー
だから我々は流れに逆らってボートを漕ぎ続ける。絶え間なく過去に押し戻されながら。














(夢人追記)

あまりにも露骨な説明なので、書かないほうがいいかもしれないが、要するにギャッツビーとは、存在しない「永遠の恋人」の幻のために、滑稽な金の帽子をかぶって高く跳ね上がって墜落して死んだすべてのアホな男の象徴である。そして彼らのその度を超した愚かさこそが「偉大」なのである。
今では、女性への崇敬(女性の神格化)というものは女性にとって唾棄すべき概念とフェミニストの女性たちから言われていると思うが、はたしてそれは男にとっても女にとっても幸福な在り方なのだろうか。
少なくともギャッツビーという存在には、ある種の永遠性、象徴性があるようだ。

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児童文学の心理学

市民図書館から借りて来た、リンドグレーンの児童文学「ラスムスくん英雄になる」を、気の向いた時に間断的に読んでいるが、リンドグレーンというのは、少し前の流行語で言えば「根が暗い」作家だな、という気がする。つまり、脳天気な子供の世界の背後に、常に、どこか暗い大人の世界がチラチラしている感じが私にはある。たとえば、「名探偵カッレくん」などだと、子供の探偵ごっこの世界に実際に現実の殺人事件が起こるのである。(子供のころ読んだ記憶で書いているので、本当にそういう内容だったか確かではないが。)

で、ここで論じたいのは、昨日書いた「エランヴィタール」と「フランヴィタール」の話である。その定義を私なりにすれば、エランヴィタールとは「無秩序な生命力」、フランヴィタールとは「秩序ある生命力」で、後者は、「生命力」の本質とは異なるもので、前者だけが本当の生命力だろう、と私は思う。鋳型にはめられた生命力というのは本質的生命力ではなく、外的な力の産物だろう。だが、その概念を使うなら、人間の人生とは、(その良し悪しは別として)エランヴィタールがフランヴィタール化される過程である、と言えるのではないか。
たとえば、性欲の発現の仕方は原始的な無秩序性から、倫理や法律や習慣(風習・制度)という社会的強制によって「許容される性発現」と「許容されない性発現」に分けられていく。これは女性を「所有物」としていた男社会の産物で、女性は概してこの分化に否定的な感情を持っている、つまり性的アナーキズムに惹かれる傾向があると感じる。女性の自然性と言ってもいい。だが、性的アナーキズムの下では、性交(強姦含む)はあっても恋愛や結婚は無い、と私は考えているので、恋愛や結婚という人工的文化を完全に否定していいのかどうか、非常に疑問視するわけだ。

これが児童文学とどう関係するかと言えば、児童文学がなぜ「腕白小僧」を主人公にするか、という問題を私は論じたいわけだ。
腕白小僧の言動は周囲の迷惑だが、外部の観察者や観客の目からは「面白い」から彼らを主人公にする、というのがその理由だろう。では、彼らはなぜ周囲に迷惑な行動をするのか。それが「エランヴィタール」の発現だからである。彼らは社会について無知だから、やっていい行動といけない行動の区別がつかない。だから、結局は、活発な子供は傍迷惑な腕白小僧の行動をし、おとなしい子供はやりたいことをじっと我慢する。どちらが「話として面白い」かは明白だろう。

子供の頭の中の知識は、「理解されず、知っているというだけの、ゴミのような、無秩序な知識」と「整理され、理解された有益な知識」に分類される。前者でも、その知識が冗談のネタにはなるから、無益だとばかりは限らないが、人生の指針や参考にはならないわけだ。学校で習う知識の大半が、結局はそういうもので終わることは誰でも認めるだろう。まあ、進学に有益なだけだ。

で、知識についても、「無秩序から秩序へ」という進行が頭の中で起こるのが知的進化だろう、というのが私の説だ。つまり、エランヴィタールからフランヴィタールへというわけである。
だが、どんな大人の中にも、子供のころの「無垢な(白紙の)状態で」世界を見ていた、あのころへの懐かしさというものがあり、それが子供期をある種の「黄金時代」と思わせるのだろう。


ついでに書いておく。私は2週間に1回、市民図書館から10冊の本を借りてくるが、そのほとんどは最初だけ読んで、読む価値がないと判断したら、それ以上読まないで返す。で、借りる本の半分くらいは児童書である。児童書を「大人の目」で読むと非常に面白いのである。もちろん、その大半は屑であるが、中に非常に優れたものがある。逆に、高名な作家の「大人向け文学」でも、私にはまったく興味を惹かないものもゴマンとある。むしろ、興味を惹くもののほうが希少である。それ以前に、「読むのが面倒くさい」ものが多い。(今回は気まぐれで大江健三郎の「宙返り」という小説を借りてきたが、彼がどういう意図でこれを書いたのか、さっぱり分からず、興味も惹かれないので途中放棄した。登場人物の女性が、奇妙な「事故」で処女喪失する話が冒頭にあるのだが、そのエピソードがどういう「重要な」意味を持って、わざわざ話の冒頭に書かれたのか、理解する気にもなれない。)大衆小説は読みやすさはあるが、たいていは「読むのが時間の無駄」だったということが多い。人生の残り時間が少ない年齢だと、「読むのが面白い」や「読んで有益だった」ということが大事になるのである。
たとえば、現代のアメリカインディアンの少年が、白人の高校に転校する話を書いた「はみだしインディアンの物語」という小説は、現代のインディアンの置かれた状況(主人公の家族や知人が無意味にゴロゴロ殺される。あるいは他人の過失で事故死する。)を舞台に、主人公が悪戦苦闘する様がユーモアを持って書かれて、面白い。まあ、そのユーモアの質はかなりブラックなので、読む人に不快感を与える可能性が高いが、「読んで有益な」作品であるのは間違いない。そういう本が児童文学の書棚(YA、つまりヤングアダルト本だが)にあったりするのである。あるいは、R・L・スチーブンソンの「誘拐されて」などが児童文学に分類されていたりする。これは作者が「宝島」の作者だからという偏見からだろう。実際は、彼の時代のスコットランドの置かれた政治状況を舞台にした高度な「大人向け」小説だが、子供でも読める娯楽性の高い冒険小説だ。それが大人の目に触れない場所にあるわけだ。



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資本主義社会と「感性」と「精神性」

昨日に続いて、私の別ブログの漫画関連の記事をもうひとつ自己引用しておく。まあ、資本主義社会では「売れれば勝ち」である。
下品という言葉は「精神的階級思想」なので、問題があると言えばあるが、貧乏人や社会の落伍者でも「自分は精神貴族だ」と自己満足できる利点があるww  
下層社会の多くの人(もちろん、「多くの」の解釈次第だが)は、精神的にはビル・ゲイツやクラウス・シュワッブ、ユヴァル・ノア・ハラリよりはるかに上だろう。知的に、とは言わない。IQや知識量と精神の高低は別である。宗教者や知識人が一般人より精神的に高いわけでもない。庶民の中にこそ「聖人」のような人間がいる気がする。あなたの近所の爺さん婆さんの中に。

(以下引用)下の論は「精神性」ではなく「感性」の話である。上記の論はそこからの脱線思考である。
ここに挙げられている漫画のほとんどは、「キモい絵だ」という意見に同感である。中には、最初は敬遠していたが読むと違和感がなくなったものもある。
「ゴールデンカムイ」は話作りは評価するが、絵はやはり嫌いで、アニメも抵抗があって、途中で見るのをやめている。「キングダム」や「ブラックジャックによろしく」の絵が嫌いというのも、よく分かる。だが、世間にはその種の抵抗感が無い人も多いのである。「ジョジョ」は第一話しか見たことがない。第一話時点ではまだ普通の絵だったのだが、それでもダメだった。「バキ」は最初から敬遠である。福本伸行(漢字は適当)の絵は嫌いだが、あの内容には合っているようだ。「進撃」は嫌いというより、下手すぎて見る気がしない絵である。まあ、個性はある。個性があるという点では下に挙げられているのはほとんど個性はある。それを嫌うたいていの人は「その個性が嫌い」ということだが、感性の鈍い連中にとっては見慣れると平気になるし、他の作品との差別化が容易なので、売る側としては無個性より個性的な絵が売りやすい。
「ワンピース」の作者はもともとは絵が上手い人なのだが、わざと「人に嫌われる絵柄にしよう」という戦略を取ったらしい。この場合は、「好みのうるさい人、感性の鋭敏な人に嫌われる絵柄」ということである。つまり、大衆の大多数は下品な感性の持ち主だ、という賢い戦略だ。


(以下引用)

三大 絵がキモくて読んだことないマンガ
2023年04月30日
漫画総合

1:   2023/04/29(土) 07:05:03.201 ID:ZqSPfIZwa
バキ カイジ
あと1つは?
entertainment_comic (1)

https://viper.2ch.sc/test/read.cgi/news4vip/1682719503/
2:   2023/04/29(土) 07:05:37.952 ID:/pTk3tzx0
ワンピース

3:   2023/04/29(土) 07:06:19.176 ID:IpledVKzp
ゴールデンカムイ

4:   2023/04/29(土) 07:06:23.733 ID:k+z2muFDM
ジョジョ

5:   2023/04/29(土) 07:06:48.000 ID:LyEmn5Pha
ベルバラ

6:   2023/04/29(土) 07:07:21.622 ID:WvC0qPPr0
ブラックジャックによろしく、ホーリーランド、ドラゴン桜、キングダム、シグルイ、ゴールデンカムイ、土竜の唄

7:   2023/04/29(土) 07:08:03.730 ID:Lj2BA5YH0
御茶漬海苔の漫画全部

8:   2023/04/29(土) 07:08:11.915 ID:6OqgrTfr0
その2つとジョジョはもう殿堂だろ

9:   2023/04/29(土) 07:08:58.115 ID:d/hSGhui0
カイジって下手だけど不快な絵じゃなくね?

12:   2023/04/29(土) 07:09:38.332 ID:WvC0qPPr0
>>9
わかる

10:   2023/04/29(土) 07:09:19.947 ID:d/hSGhui0
下手でキモい絵っていうとドラゴン桜かなー

11:   2023/04/29(土) 07:09:34.802 ID:74S67dNG0
キングダムは全員同じに見える

26:   2023/04/29(土) 07:59:21.575 ID:fSxl0GgQd
>>11に同意+進撃
あれ系は見るの苦痛

13:   2023/04/29(土) 07:11:30.792 ID:2NPHq1QI0
ジョジョや

14:   2023/04/29(土) 07:15:45.070 ID:YKOtvc1U0
ワンピース
途中まで読んだけど、描かキツくて止めたら

15:   2023/04/29(土) 07:16:45.531 ID:2r9CYrPYd
きらら系全般

16:   2023/04/29(土) 07:17:14.133 ID:EvQd38Iu0
ワンピ

17:   2023/04/29(土) 07:19:03.161 ID:mvD/Sj2C0
きめつ

18:   2023/04/29(土) 07:19:40.249 ID:EvQd38Iu0
スラムダンク

19:   2023/04/29(土) 07:20:10.422 ID:xXtxa1jc0
NARUTO、ワンピ

20:   2023/04/29(土) 07:21:01.679 ID:EvQd38Iu0


21:   2023/04/29(土) 07:26:51.616 ID:081wyv6y0
頭文字D

22:   2023/04/29(土) 07:35:02.512 ID:MBHD0sGT0
めしぬまは読むどころか見たくない

23:   2023/04/29(土) 07:41:05.397 ID:/SJTxwv2r
JOJO定期

24:   2023/04/29(土) 07:46:30.394 ID:9WpEWpql0
鬼滅

25:   2023/04/29(土) 07:56:08.144 ID:04AyYUKk0
トリコ

27:   2023/04/29(土) 08:00:54.459 ID:irItnXnTr
福本の絵はむしろ見た者を一瞬で
惹きつける強烈な絵柄だと思うわ
ヤンマガ連載で限定ジャンケン北見戦を
見たのが最初なんだがアカギ知らなかったから強く印象に残ったな

28:   2023/04/29(土) 08:11:07.583 ID:2BfSLZmn0
バキは最初見やすかったな

29:   2023/04/29(土) 08:11:24.666 ID:DszzvMNsd
ポプテピピック

30:   2023/04/29(土) 08:11:38.891 ID:zpsMnVxS0
進撃の巨人

31:   2023/04/29(土) 08:16:05.066 ID:oftbDXmqp
ゆるキャンは実写面白かったけど原作はキモくて無理だった

32:   2023/04/29(土) 08:18:31.763 ID:rosNG8lK0
ドラゴン桜だなあ

33:   2023/04/29(土) 08:48:01.221 ID:fC9KxSu90
この人の漫画



34:   2023/04/29(土) 08:52:52.287 ID:f7ZSUL1/0
ウシジマくん

35:   2023/04/29(土) 08:55:18.151 ID:Hdpi2OdPd
ウシジマくんとかGANTZとかファブルとかアイアムアヒーローみたいなやつ
なんとなくわかってくれる人いたら嬉しい

37:   2023/04/29(土) 09:16:57.541 ID:VUEk/Pp80
>>35
劇画とマンガの中間くらいの絵柄って事かな

36:   2023/04/29(土) 08:56:06.170 ID:dqYtTHMz0
絵柄で読まず嫌いしたのはめしぬまだけだ
めしぬま。 1 (ゼノンコミックス)
めしぬま。 1 (ゼノンコミックス)
あみだむく
コアミックス
2016-12-20

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実写化に向いた漫画

実写版「ゴールデンカムイ」の評判がいいようなので、私が自分の別ブログで、この作品は実写化に向いていると「予言」した(笑)記事を転載する。2021年6月下旬の記事だと思う。

(以下自己引用)
アマゾンプライムにもネットフリックスにも見たい作品があまり無いので、アニメ「ゴールデンカムイ」を最初から見ているが、思ったより面白い。最初は、絵が下手なのが気に入らなかったが、見慣れるとさほど気にならない。まあ、「ワンピース」のようなグロテスクに誇張された絵柄ではないから、素人臭い感じは我慢できる。
だが、この作品は実写映画向きだろう。美男美女が出てこないのだから、いくらでも演技力の高い脇役俳優を使える。大部屋俳優には最高に腕の見せどころだろう。
ただ、主演俳優に魅力と人気のある男優が必要だ。それでないと客を呼べない。昔なら、菅原文太とか高倉健あたりか。そうなれる可能性のある無名男優は探せばいるはずだ。
私は「ゴールデンカムイ」という薄っぺらな印象のタイトルも嫌いなので、重厚に「黄金の神」でいいと思う。(カムイはアイヌ語で「神」)

俳優名鑑で調べてみたが、現在の顔写真が無い人も多く、顔は個性的だが演技力不明の者も多い。
とりあえず、
主人公(不死身の何とか)候補は
斎藤工
要潤
オダギリジョー
あたりか。
白石は
鈴木亮平
柳楽優弥
中尾明慶
あたり
後は、かっこいい老人が必要である。
吉川晃司
加藤雅也
榎木孝明
山下真司
鹿賀丈史
本田博太郎
団時朗
綿引勝彦など
悪人顔や面白い顔の俳優も必要
嶋田久作
平泉成
大地康雄
岸部一徳
安田顕
荒川良々
香川照之
古田新太
温水洋一
城田優
森山未來
柄本時生など

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キューブリックの映画が理解できない人たちへ

私の別ブログに書いた文章だが、わりと良く書けたと思うので、こちらにも載せておく。記事中の引用コメントは単なる参考コメント(大半が馬鹿コメント)なのでここには載せない。

(以下自己引用)
大半が馬鹿コメントだが、取捨せずに載せておく。中に、「バリー・リンドン」が面白いと書いているコメントがあって少し驚いた。あれを面白いと思えるのは(それが本当なら)凄い知性と感覚である。あれは「凄い」映画だが、あれを「面白い」とは、観ている間中私には思えなかった。つまり、主人公がどうしようもない立身出世主義の俗物で、その行動も悪辣なので、まったく感情移入ができないからで、しかも主人公の俗物性がなかなか観ている者には分からないので、主人公が明白な暴力型悪党である「時計仕掛けのオレンジ」以上に共感が難しいのである。
キューブリックの特徴のひとつが、そういうところ(キャラへの共感が困難なところ)なので、下のコメントの中の大半がそこで反発しているわけだ。

私は、キューブリックの映画というのは、「宇宙人が地球人を科学的に観察しているような」映画だな、という印象をかなり初期から持っている。観る側もそういう意識で見ると、理解できると思う。「シャイニング」のホテルの名前が「オーバールック」だが、彼の映画そのものが、上方から下界を見る「オーバールック」的なのである。言葉を換えれば「神の視点」だ。物事の客観視というのは、彼がカメラマン上がりであることと関係しているかもしれない。ただ、普通のカメラマンには彼のような映像・音楽・ドラマという万能性は無い。おそらく、彼は膨大な読書の蓄積があったと思う。サッカレーなどという、「誰もが忘れた昔の二流作家」の本(「バリー・リンドン」)まで読み、興味を持つのだから。

だが、キューブリックの特徴の最大のものは、映像と音楽の使い方にある。もっとも、それも中期(バリー・リンドン)以降はやや衰えた印象だが、「博士の異常な愛情」のラストが、地球全土が各国の核攻撃で破壊され崩壊する映像に合わせて、古い懐かしいポップスの「また逢いましょう」(ヴェラ・リン)が流れるなどは、凄いとも何とも言いようがない。「時計仕掛けのオレンジ」も、不良チームの間の闘争場面に重ねて、優雅な「泥棒かささぎ」がゆったり流れるというところ、河畔の暴力場面の映像と音楽など、素晴らしい感性である。まあ、天才としか言いようがない。

要するに、キューブリックの映画は「人物に感情移入せずに、冷静に観て、映像と音楽とドラマそのものを味わえ」ということだ。ドラマ性という点では「時計仕掛けのオレンジ」は一番分かりやすいだろう。(彼は人間に関心はあるが、人間を「昆虫観察」的に見るので、キャラを「人間的」に描くのが苦手というか、あまり好みではないようである。その傾向が一番分かりやすいのは「時計仕掛けのオレンジ」の「ウィリアム・テル序曲」に載せた早送りのセックスシーン。だから、「スパルタカス」での主人公の描き方に満足できなかったカーク・ダグラスは彼と喧嘩し、彼をクズだと言っている。)

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HN:
酔生夢人
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男性
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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