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恋愛遊戯の手段としての相問歌

「新古今和歌集」の夏の歌の最後に紀貫之のこういう歌がある。

みそぎする河の瀬見れば唐衣ひもゆふぐれに波ぞたちける

特に優れた歌でもないとは思うが、この歌を見て、何か気づかないだろうか。
言うまでもなく、少し前に雑談として書いた、藤原清輔の歌である。


おのづから涼しくもあるか夏衣ひもゆふぐれの雨のなごりに

この歌を推理して、「ひもゆふぐれの」の「ひも」が夏衣の縁語で、「ゆふぐれ」は上の「紐」に続けて「紐を結う」と、「夕暮れ」を掛けていると考察したわけだが、これとまったく同じと言っていいパターンで紀貫之も歌を作っているわけだ。「夏衣」と「唐衣」が違うだけと言っていい。
では、これはどちらかがどちらかの真似をしたのか、と言うと、別にそうではなく、こういうのは当時の「共通に利用できる知識」だったわけだろう。「衣」ときたら「紐」で、「ひも」ときたら「夕暮れ」と続くわけだ。
要するに、和歌とは当時の優雅な遊びだったというだけの話である。

これと関連して言えば、恋愛も遊びだったと思う。上級国民にとって結婚と恋愛はまったく別の話で、結婚は家と家とを結ぶのが第一義である。恋愛感情の有無はほとんど問題にならない。
では、和歌にはあれほど恋愛歌が多いのはなぜかと言うと、これは「恋愛ごっこ」という遊びだからである。男が「私はあなたをこれほど愛しています」と詠むと、女は「どうせそれは軽いお気持ちだったのでしょう。それに真剣になった私はこれほど惨めに泣いています」と返すわけだ。このパターンがあきれるほど多いのである。「相問歌」というのは、ほかに詠み様は無いのか、と言いたくなるほどだ。

上級国民(地位と財産が第一義である)の間では恋愛が遊戯化するというのは洋の東西を問わない。
上古の宮中の女性は、高級キャバレーのホステスのようなものとでも思えばいい。ただ、上品に歌のやりとりができるのが現代の上級国民やその相手女性との差だろう。





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