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哲学と経済学

「蚊居肢」記事の一節だが、ひとつの考え方として面白いので転載する。まあ、あまりに「思想的にお洒落」すぎる印象だが、それは内容より書き方の問題かもしれない。あまりに純粋な思想は数学の理論みたいなもので、一般人には意味不明である。
我々一般人は、たとえば愛国心がなぜ全体主義や暴力や戦争と直結するのか、という具体的な問題なら考察できるが、哲学が社会を動かしたという話は聞かない。民衆を動かすのは常にデマでありデマゴーグ(扇動者)なのである。フランス革命も、哲学ではなく「スローガン」が民衆を動かしたのであり、それは大きく言えばデマが動かしたのである。
下の引用記事も理解困難だが、読み物として面白いということだ。

この部分の前に書かれた「日銀が利上げできない理由=利上げは日銀の破産を意味する」も面白いので、後で別記事として転載するかもしれないが、まあ、ご自分で読むのが一番だろう。
ただ、私は、そもそも、日銀の利上げがインフレ抑制になるという理屈がよく分からない。インフレは企業の通常の活動の結果であり、日銀金利とさほど関係があるとは思えないからだ。経済学の常識というのは、案外落とし穴なのではないか、という気もする。(大企業は膨大な内部留保があり、銀行からの借入金にさほど頼っているとも思えないから、借入金の利払いのために値上げをするとも思えない。単に、他者が値上げするから自分たちも値上げしても大丈夫という便乗値上げだろう。これも「民衆心理」のひとつだ。日銀が利上げしたらいっそう企業も値上げして大インフレ、そしてスタグフレーションになる、という可能性もあるのではないか。)*スタグフレーション=インフレ+不況
今さら言うまでもないが、私のブログはそういう「素人の寝言・戯言(ざれごと)」であることをお断りしておく。

(以下引用)




ここで、私が好んで引用してきたヴィクトル・フーゴーの言葉と柄谷注釈を掲げておこう。



故郷を甘美に思うものはまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。


The person who finds his homeland sweet is a tender beginner; he to whom every soil is as his native one is already strong; but he is perfect to whom the entire world is as a foreign place.


(サン=ヴィクトルのフーゴー『ディダスカリコン(学習論)』第3巻第19章)




こういう言葉があります。 《故郷を甘美に思うものは、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、既にかなりの力を蓄えた者である。全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である。》


これは、サイードが『オリエンタリズム』においてアウエルバッハから孫引きした、一二世紀ドイツのスコラ哲学者聖ヴィクトル・フーゴーの『ディダシカリオン』の一節です。 



これはとても印象的な言葉で、トドロフも『他者の記号学』の中でサイードから再引用しています。僕なんかが漠然と考えていたことを言い当てている、という感じがするんですね。


その言葉は、思考の三段階ではないとしても、三つのタイプを表していると思います。まず最初の「故郷を甘美に思う」とは、いわば共同体の思考ですね。アリストテレスがそうですが、このタイプの思考は、組織された有限な内部(コスモス)と組織されない無限定な外部(カオス)という二分割にもとづいているわけです。〔・・・〕



次の「あらゆる場所を故郷と感じられるもの」とは、いわばコスモポリタンですが、それはあたかもわれわれが、共同体=身体の制約を飛び超えられるかのように考えることですね。あるいは、共同体を超えた普遍的な理性なり真理なりがある、と考えることです。〔・・・〕



第三の「全世界を異郷と思うもの」というのが、いわばデカルト=スピノザなのです。むろん、ある意味でデカルトは第一、第二のタイプでもあるわけです。スピノザは、そういう意味で「完璧な人間」ですね。この第三の態度というのは、あらゆる共同体の自明性を認めない、ということです。しかし、それは、共同体を超えるわけではない。そうではなく、その自明性につねに違和感を持ち、それを絶えずディコンストラクトしようとするタイプです。それは、第一のタイプが持つような内と外との分割というものを、徹底的に無効化してしまうタイプであり、しかもそれは、第二のタイプで普遍的なものというのとも、また違うわけです。(柄谷行人「スピノザの「無限」」『言葉と悲劇』所収、1989年)



私は愛国ときくとほとんど常に悪い臭いを嗅ぐ。


 


人は共同体のネガを目指すべきである。




ゴダールは『JLG/自画像』で、二度、ネガに言及している。一度目は、湖畔でヘーゲルの言葉をノートに書きつけながら、「否定的なもの(le négatif)」を見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうると口にするときである。二度目は、風景(paysage)の中には祖国(pays)があるという議論を始めるゴダールが、そこで生まれただけの祖国と自分でかちとった祖国があるというときである。そこに、いきなり少年の肖像写真が挿入され、ポジ(le positif)とは生まれながらに獲得されたものだから、ネガ(le négatif)こそ創造されねばならないというカフカの言葉を引用するゴダールの言葉が響く。とするなら、描かれるべき「自画像」は、あくまでネガでなければならないだろう。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』2008年)




デカルトは、自分の考えていることが、夢をみているだけではないかと疑う。…夢をみているのではないかという疑いは、『方法序説』においては、自分が共同体の”慣習”または”先入見”にしたがっているだけではないかという疑いと同義である。…疑う主体は、共同体の外部へ出ようとする意志としてのみある。デカルトは、それを精神とよんでいる。〔・・・〕



誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)


もっとも愛国心にはナショナリズム以外に郷土愛(パトリオティズム)がある(パトリオティズムは、生まれ育った共同体や郷土を意味する「パトリア」に由来する言葉だ)。人はこの郷土愛からは容易には免れ難い。

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酔生夢人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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