かなり誠実に書かれた記事だと思うので参考までに転載するが、私自身はAIとお付き合いする気はまったく無い。人間と付き合うのも億劫だが、AIはそれ以上に「面倒臭い奴」という感じをこの文章から受ける。だが、これから社会に出る人には今後必須のツールになるだろう。気の毒と言えば気の毒である。
(以下引用)
課金開始:あまりの便利さ、可能性に度肝を抜かれた
で、課金した。
世界が変わった。
無料AIではなかなか手が届かなかったところにスッスッと手が届くと感じた。
まずテンプレ的文章づくりを試した。
形式のしっかりした文章なら、AIに書いてもらって遜色ないことが判明した。音声入力との相性も良い。私の文章を幾つか読み込んでもらい、それを手本にしてくださいと依頼するといい感じに真似てくれた。
なにこれ、本気で省力化できちゃうぞ?!
AIが、いきなり私の秘書的存在&口述筆記の召使になった。指が痛い時、PCの前まで移動したくない時、就寝前に思いついたアイデアを簡単にまとめてもらいたい時、AIは痒いところに手が届く仕事をしてくれる。現時点ではAIに文章づくりを完璧に任せきれないし、そこまでAIを使いこなせる目途も立たない。それでも、込み入った文章を書いた後に助言をもらうにせよ、下書きしてもらって私が仕上げるにせよ、AIがあるのとないのでは雲泥の差だ。「支援してもらう」ことに徹するぶんには、私にとってのAIは既に強力なツールだと思う。これだけで月額課金の元を取った気持ちだ。
次に、イラストの作成。
イラストは、はじめに想像していたよりもずっと上手く作成してくれている。細かいことを言えばきりがないし、たぶん、その細かなことに注文をつける使い方こそが肝心なのだろう。けれど、まったくの初心者でもある程度は使いこなせることがわかった。幾つかのAIを比較検討してみたい分野でもある。
図像の作成も悪くない。イラストもそうだが、AIは人間とは異なる目を持っているらしく、AIが出力するものと人間が満足するものの間にはしばしばギャップがある。そのギャップを埋めるには、AIに事前にあれこれ条件を付け加えるだけでなく、生成された図像について、追加の指示を出さなければならない。現在の私では、完成までフルにAIにお任せしようとすると時間効率はそこまで良いとは言えない。でも、中途までAIにお任せして、残りを自分で完成させるような「支援してもらう」使い方なら、もう十分に使えるレベルになっている。
それから調べごと。
楽しい! 家庭のこと、調べたい資料のこと、天候のこと、専門領域のこと、どれもgoogle検索よりも簡便に、柔軟に色々なことを教えてくれる。google検索やPubmed検索で私自身がうまく拾えなかったURLや資料を、AIは見事にひっかけてくれた。ときどき空想上の資料を提言してしまうことがあるが、それはご愛敬。そういう時のAIはなんとなく雰囲気がわかるし、そのとき参照した資料やデータベースの提出をお願いすれば見当がつく。
その際、質問に次ぐ質問をとおして疑問をもっと深めたり、関連する課題を芋づる式に発見するのに向いている。
AIは、google検索やwikipediaの豪華版みたいな使い方に加えて、「やりとりをとおして最初の質問の周辺について見当をつける」使い方もできる。この過程が楽しく、とても参考になる。夢中になりすぎると時間と体力を消耗してしまうのがぜいたくな悩みだ。
PCやネットが初めて「使える」と思った日を思い出す
こんな具合に、課金AIは初日から威力をみせてくれた。ファイルの変換、紙媒体の変換、斜め読みしたい資料の翻訳や要約もいけている感じだ。完璧ではないかもしれないけれども、完璧ではないと割り切り、支援ツールとして手伝ってもらうぶんには十分すぎるほど実用的だ。
そして面白く、刺激的だと感じる。
この面白さ、この刺激的な感触は、遠い昔にPCやインターネットを初めて「使える」と感じた日に似ている。それか、初めてgoogle検索を使った日や、初めてwikipediaを熟読した日の感触にも似ている。AIは私にとって新しい玉手箱で、過去に新しい玉手箱として体験された諸々にどこか似ている。そして、それら同様、今後の私自身の習熟とAIの成長を期待せずにいられない。
それから、AIとの付き合いは私のものの考え方やものの作り方を徐々に変えていくと思われる。ただちに影響はないとしても、このようなツールと長く向き合うことの影響を私が免れるとは思えない。後日、そのあたりについては別稿に書くつもりだけど、私がAIとの間柄をとおしてどうなっていくのかも、よく観察しておきたい。きっとAIは、インターネットが来た後やSNSが来た後に私が変わっていったのと同じように、私自身を変えていくだろう。おそらく他のユーザーもだ。
そうした諸点について懸念するよりもまず、希望をもってAIとお付き合いを続けていきたい。
だけど、こうも考える
他方、私の年齢や経験のためか、古き良き時代にPCやインターネットに抱いたような夢をみるには至らなかった。
第一に、私がAIに耐えられていないという課題。
AIは面白いのだけど、面白いがために、私はすぐに飽和状態になってしまう。私は、面白過ぎる文献や小説を読んでしまった時に頭と心がいっぱいになって何もできなくなってしまうが、それに似たことがAIでも起こり得る。そのことを抜きにしても、AIは疲労を呼びやすい。AIを使っていて疲労するのは、画像生成などで根気よく指示を繰り返す時だけではない。AIが好ましい出力を連発してくれても、だんだん疲労が蓄積する。これは、AIに対して判断力というリソースを投下しているせいだろうか?
それからAIが出力してくれた情報は、単体で値打ちがあるというより、もう少しAIに追加で質問を重ねるか、AI以外の手段で裏取りしたほうが値打ちのあるものが多い。AIの出力がAIの出力だけで完結することはあまりなく、また、完結させるべきとも思えないから、どれほどAIが素早く素晴らしい出力をくれたとしても、人間がその後始末や裏取りをするにはそれなりの手間暇がかかる。少なくとも現在の私の使い方では、そういう手間暇を惜しまないほうが良い気がする。それもまた疲れる。
こんな風に疲れるものだから、私はAIを長時間使えないし、へたに使ってしまうと体力が危なっかしいと感じる。もし、私がもっと若い頃にAIに出会っていたらもっと長時間向き合えたかもしれないし、逆に夜遅くまで使ってしまったりして心身を壊してしまったかもしれない。AIは人間離れしているが、ユーザーである私は今でも脆弱な人間のままだ。
第二に、「結局これもユーザーの使い方次第なんだろうな」的な予測。
ちょうど、google検索がユーザーの検索ワード次第なのと同様に、AIも、ユーザーの入力の巧拙によって出来ることが大きく違ってきそうな予感がプンプンする。実際問題、華麗にAIを使いこなしている人の、華麗に使いこなしているさまに私自身が追いつけるとは、現時点でもなかなか信じられない。AIが革新的なツールであることはわかった、けれどもそのツールでできることの質や量は不可避的にユーザーの力量に左右される。「服屋で服を買うための服がない」ならぬ「AIで知識を仕入れるための知識がない」的な状況も起こりそうで、上を見ても下を見てもきりがない。
昔の私だったら、こういう素晴らしい玉手箱を見かけた時に「人類の進歩!」などと叫びたくなっただろうけれども、今は醒めてしまってそういう気持ちにはなれない。どうせAIも、多く持つ者をより豊かにし、そうでない者との格差を広げるのだろうな、と思う。もちろんそれはAIが悪いというより、社会が悪いとか、娑婆が悪いというべき何かだろう。AIに限らず、革新的なテクノロジーは誰かを押し上げると同時に誰かを没落させるのが常だ。AIによって社会はきっと変わるが、その果実の分配が平等になることはない。
最後に愚痴っぽいことを書いたが、それでも私自身の出来事としてはAIとの出会いはエキサイティングだった。もっと習熟し、もっと使い方を広げて、これからの生活や文章づくりを支える相棒にしたいと思う。AIは、華麗に使いこなせていなくても十分面白いツールだったんだね。でも、今はもっとうまくなりたい。