私が受けた学校教育の内容も、本で得た知識も、すべて「日本文化」なのであって、「沖縄文化」ではない。そして、文化こそがその人間の国籍を決めるというのが私の思想なので、私は「沖縄人」であるよりは「日本人」であるようだ。さらに言えば、それらを超越して「世界市民」である。なぜなら、私の頭は世界文学や世界的思想でも形成されているからだ。ただ、そこには「絶滅した人種・民族・国家」の「文化的痕跡」のフラグメント(断片)はほとんど無い。そこは、暴力は文化を歴史から抹殺するのである。
ちなみに、私は尊皇主義者だが、それは「天皇は国家機関として有益性のほうが大きい」という「天皇機関説」によるものであり、さらに言えば、聖徳太子の「十七条憲法」や明治天皇の「五箇条の御誓文」は、時代的制限部分を除けば、今の「日本国憲法」と大きく乖離することはない、「人民への慈愛と国家首長としての責任」と「協和思想(注:共和ではない)」に基づく、優れて先進的な思想だと思っている。これは現在の「民主主義の腐敗と崩壊」の世界的状況を直視すれば、考えるべきことを含んでいるだろう。
私は、政治体制としては今の「象徴天皇制」こそが天皇制の伝統に近いと思っているが、さらにそれを進化・活用できないか、と考えている。具体的には「重大な政府決定への差し戻し権」を(一種の国民代表として)天皇に与えてはどうか、ということだ。ただし、その後で国民投票によって最終決定をする、というものだ。それには、学識経験者による「天皇参与」という役職を作るべきだろう。
まあ、単に、今思いついただけの妄想だが、政府独裁というよくある事例を防ぐ、わりと優れたアイデアではないだろうか。これは天皇という存在の伝統を持つ日本以外では不可能なアイデアだろう。
(以下引用)
■台湾が中国じゃないなら沖縄も日本じゃないんじゃないかと思ったり
去年の夏、初めて沖縄に行った(厳密には2回目だけど1回目は物心ついてないくらいの歳頃だからノーカン)。
そして思った。
誤解のないよう断っておくが、別に沖縄を見下してるとか差別してるわけではないからね。
人が異国を感じる時って、大きく分けて3つあると思う。
言葉が通じない時、見た目が違うとき、同じ歴史を共有してない時。
沖縄って日本語通じるし、見た目も変わらないしで、一見すると同じ日本に住む日本人って感じがする。
だから沖縄には平安時代もなければ戦国時代もない。なんなら江戸時代すらない。
それってつまり、遣唐使もなければ関ケ原の合戦もないし、戊辰戦争はもちろん、歌舞伎も浮世絵も落語もないってこと。
これってすごいことだよ。
日本本土だったら大体北から南までどこいっても神社があったり城があったりして、「この寺社は西暦云百云十年の頃○○の守の何たらがこの地を訪れ開闢した。うんぬんかんぬん・・・」みたいな説明が書かれている。
どんな山奥のへき地であってもせいぜい西暦1000年くらいまでにはそういう開闢の碑みたいのがあって、しかも大抵天皇の親戚か偉い坊さんか、地元の豪族・武士の名が刻まれてて「あーここは日本なんだな」って実感するわけ。
それが、沖縄には、ない。
代わりにあるのがグスク(城)やウタキ(御嶽=神社みたいなもん)、ウドゥン?(王家の墓)
説明書きを読んでも全然よくわからない。きっと日本の本土の歴史と殆ど交差してないから予備知識が足らな過ぎて理解しづらかったのだと思う。
これってよく考えたら当たり前の話で、沖縄って1872年から1945年までの73年間、そして1972年から現在までの53年間、あわせてたった120年くらいしか「日本」だった歴史がないんだよな。
字面で思う以上に肌感覚としてここは日本じゃないんだなって衝撃だった。
よく「日本は神の国、天皇の国だ」と愛国心の強い人はいうけども、沖縄の人は絶対ピンとこないと思うんだよ。
たしかに日本本土生まれ日本本土育ちの日本本土人が多数を占める日本本土で培われた風習、建造物、しきたりは歴代天皇が君臨してきた日本の歴史と切り離せないから、思想上の賛否は置いといても一定そういう感覚を覚えるものだと思うのだけど、
こと沖縄に関しては第二尚氏が君臨してきた時代が圧倒的に長くて日本に編入されてからの時代も短いしであんまり天皇の影響力を感じられないんじゃないか?
だからもし今後沖縄人が台湾人が中国人を批判するのと同じロジックで独立を主張してきてもおかしくないのかもなとちょっと思った。
(ちなみに北海道には何度も行ったことあるが、あっちもアイヌ文化的な意味で似たようなもんではあるんだけど、あそこは植民の影響で現地アイヌの人たちがほとんど残ってないからあんまり異国感ないんだよね。
住民のほとんどが日本本土からの移民の末裔で、アイヌ文化とは完全に断絶してるからだと思う。