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ムーンリバーで朝食を

村上春樹訳の「ティファニーで朝食を」を読んでいたら、主人公ホリー・ゴライトリーの男兄弟を「兄」と書いてあったが、映画では「弟」だったはずで、これが兄だとホリーの「保護者意識」が不自然になる気がする。まあ、ホリーを19歳としていたので、その弟が徴兵年齢であるのはおかしいわけだから、「兄」としたのだろうが、あるいは、映画の方が設定を改変したのかもしれない。私は映画は見たが、小説はほとんど読んだ記憶がないので、どちらかは分からない。つまり、ホリーの「保護者意識」自体が。映画の改変かもしれない。このほうがありそうではある。ホリーの「弟」への保護者意識は、ホリーの「この世界を自分につなぐ細い縄」としてリアリティを持っていたので、いい改変だと思う。
小説は小説として名作であり、映画は映画として名作、としていいのではないか。(この映画でオードリー・ヘップバーンが演じるホリーは「大都会の妖精」的ではあるが、実はフリーの娼婦なので、ヘップバーンのファン、特に若い人にはショックかもしれない。私がこの映画自体が好きになったのは、だいぶ年を取ってからである。)
なお、この作品の映画での改変として有名なのは、小説中でホリーが歌う歌の歌詞が「眠りたくない。死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい」(村上春樹訳)という、素っ気ないものであるのに対し、映画では有名なヘンリー・マンシーニの曲のついた「ムーン・リバー」であることで、私はこのムーン・リバーの歌詞が大好きなので、記憶で書いてみる。

Moon River wider than a mile
I'm crossing you in stile someday
Old dream maker
you,heartbreaker
whereever you going,I'm going your way

Two drifters off to see the world
there's such a lot of world to see

We after the same rainbows end
waiting round the bend
My Huckleberry friend
Moon River and me

英語の綴りは自信が無いが、だいたいこんなものだったと思う。訳してみる。

月の河、1マイルより広いそれを
私はいつの日かお洒落な恰好をして渡るだろう
古い夢を紡ぐもの
人の心を砕くお前
お前が行くところ、どこへでも私も行こう

世界を見ようと岸を離れた二人の漂流者
そこにはたくさんの見るべき世界がある

私たちは同じ虹の両端を追っている
河の曲がり角で待っている
ハックルベリー・フィンのような私の友達
月の河と、私


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内田樹の「山岸凉子」論

「内田樹の研究室」は、滅多に読まないのだが、さきほど気まぐれで覗いてみると、山岸凉子の話を書いていて、その論旨が妥当かどうかはさておき、私自身が先ほど書いた「怪奇趣味」の話と偶然の一致があって面白いので、ここに転載しておく。
ただし、山岸凉子は怪奇趣味というより、本当に彼女自身に霊媒体質があるらしく、「あれ」が見えるらしい。それ自身が怪談であるwww
私自身は山岸凉子は「怖い話」だけでなく、あらゆるジャンルで稀な語り部の才能を持っていると思う。その絵柄が苦手だという人もいるかと思うが、あの絵でないと彼女の作品の味わいは出ないだろう。自分で話を作るだけでなく、「話に対する嗅覚」が優れていて、トルーマン・カポーティの作品の中でほとんど語られることのない、オールドミスの叔母と幼年時の作者の自伝的作品を漫画化したクリスマスの話(先ほど、少し前に古本屋で買った村上春樹訳の「ティファニーで朝食を」を開いたら、その中に入っていた。)など、名作中の名作である。あるいは、「白い部屋のふたり」など、音楽をつけて映像化したくなる作品だ。もちろん、そういう作品は彼女だけでなく、大島弓子などにも多い。萩尾望都も含め、24年組は天才揃いである。彼女らの初期短編でアニメのシリーズを作ったら、国宝級の素晴らしいものになるだろう。


(以下引用)

山岸凉子先生のマンガはどうしてこんなに怖いのか

2023-08-05 samedi




 山岸凉子先生の描く「怖い話」はほんとうに怖い。類を見ないほど怖い。どうしてこんなに怖い話を描けるのだろうか。
 私の仮説は、山岸先生はご自身の心の奥底にわだかまっている恐怖の「種」をマンガにすることで「祓っている」というものである。
「お祓い」なのだから、手抜きはできない。うっかり一番怖いところを「祓い残し」たら、そこから恐怖が再び鎌首をもたげてくるかも知れない。膿は出し切らなければいけない。だから、徹底的に怖い話、これ以上怖い話はこの世にないという話を語ることを山岸先生はみずからに使命として課しているのである。
 そして、世には無数の恐怖譚があるけれど、どういう物語が最も根源的に、最も救いなく人を恐怖させるのか、それを考え抜いた結果、山岸先生がたどりついた結論は、「自分自身が自分を恐怖させる当のものである」という恐怖譚が最も救いがないというものであった。
 外から鬼神の類が訪れてくるのであれば、仲間を集めたり、あるいは霊能力の高い人にすがって、それと「戦う」という積極的な対策も立てられる。結界を引いてその中に「閉じこもる」という防御策も講じられる。だが、自分自身が自分を恐怖させている当のものである場合、「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」が同一である場合、いわば恐怖に釘付けにされていること自体がその人のアイデンティティーを形成している場合、その恐怖からは逃れる手立てがない。そういう話が一番怖い。「汐の声」は「私の人形はよい人形」とともに私が「山岸ホラーの金字塔」とみなす傑作だけれど、まさに「そういう話」だった。
 それ以外でも山岸先生の「怖い話」はどれも「他の人は感じないのに、私だけが恐怖を感じてしまう」という「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」がひとつに縫い付けられていることの絶望が基調音を創り出している。ああ、書いているだけで怖くなってきた。
(『ダ・ヴィンチ』9月号)





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俳句の破調と怪奇趣味

最初に変なことを書くが、人生を気楽に生きるには、「プロにならないこと」だ、というのが先ほど思いついた思想なのだが、なぜかというと、プロになると職業的義務が生まれ、その義務に束縛される人生になるからである。プロというのは、その仕事でカネを稼ぐということで、つまり、生まれつきの資産家以外は、この資本主義の世の中では真の自由人にはなれないということである。そこで、ほとんどの人はプロとしての奴隷の時間と、自由人としての余暇の時間を使い分ける人生になる。もちろん、その、プロとしての仕事の時間そのものが楽しいなら、それは幸せな生き方になる。まあ、仕事が辛いとは言っても、昔は仕事に耐えられない年齢になったら仕事から引退して隠居したもので、隠居というのは素晴らしい「社会制度」だったな、と思う。今なら、年金生活か。しかし、その老齢年金は生活保護より低い金額で、それもどんどん減らされる傾向にありそうだ。
まあ、そういう世知辛い話はここまでとする。

ここからは、一種の芸術論になる。ただ、それが素人の論考だから、最初に「素人の良さ」を書いて無意識に煙幕を張ったのだろう。素人の論考だから、責任は持たないよ、ということだ。ただし、素人とプロの本質的な(絶対的な)違いは、その仕事や作業でカネを得るか得ないかというだけだ。

さて、西東三鬼の有名な俳句がある。

「算術の少年しのび泣けり夏」

というもので、全体の音数はちゃんと17字になっているが、意味で切った場合は「算術の」「少年しのび泣けり」「夏」という、「5,10,2」という、とんでもない破調である。(もちろん、「算術の少年」「しのび泣けり」「夏」という「9,6、2」でもいい。これも滅茶苦茶な破調だ。)これを「5,7,5」で読むと「算術の・少年しのび・泣けり夏」という、意味不明の文章になる。
だが、名句であることは確かだ。誰が読んでも、この形でしかこの俳句の良さは出なかっただろうと思うのではないか。
で、ここからが本題だが、実はこの型破りの句法にはモデル(先例)があり、それも、芭蕉の句だというのが、私がここで例証しようとしていることだ。
先ほど、寝床で東雅夫編「文豪怪談傑作選・芥川龍之介集」を読んでいると、龍之介の小論的随筆の中で引用された連句の付け合いで、こういうのがあった。

小夜嵐とぼそ落ちては堂の月  信徳
  古入道は失せにけり露   桃青

桃青はもちろん芭蕉の俳名のひとつだが、この「古入道は失せにけり露」は、まさしく三鬼の「算術の少年しのび泣けり夏」と同じ句法ではないか。どちらも、最後に2音の名詞を「無理やり」付ける形である。そして、どちらも「露」「夏」という、その名詞で世界が広がりながらも、俳句世界を確定している。寺の堂に出没していた古入道が消えた後、庭の草葉に乗っていた一滴の露をクローズアップしたことで、世界が広がり、秋という季節が読む人の感覚に刻まれるのだ。その露には、あるいは前句で書かれた「月」の光が宿っているだろう。


ここで終わってもいいのだが、芭蕉の怪奇趣味(「気違を月のさそへば忽(たちまち)に」など、面白い。狂気を「ルナティック」と言うように、月が狂気を誘うという観念は洋の東西に共通しているようだ。)を龍之介は論じていて、その最後に載せてある龍之介自身の短歌が面白いので、載せておく。面白いとは言っても、内容は残酷で、その美は哀切の美だ。
「河郎」はおそらく「河太郎」つまり、河童のことで、河童は龍之介偏愛の妖怪である。

人間の姿を恋ひしかばこの川の河郎の子は殺されにけり









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アニメの絵画的(感覚的)面白さと話(理屈)の関係

ある精神科医のブログ「シロクマの屑籠」の記事の末尾である。
文中の「絵本や神話の周波数」という比喩は、要するに、理屈を超えた、人間の原初的な感覚をそのまま理屈抜きに捉えるということだろう。
私は「君たちはどう生きるか」を未見だし、ぜんそく体質なので劇場で見ることは不可能だが、この作品を宮崎駿自身が「私にもわかりません」と言っているのは、彼が理屈ではなく直観に導かれてこの作品を作っていったことを示していると思う。もともと彼は、「描きたいシーン」が先にあって、話をその後に作っていく人間だったのである。つまり、話(理屈)は後付けにすぎない。

(以下引用)

いまどきの私たちは、ドラマを見るでも、アニメを観るでも、すっかり文明化した大人としてそれらに接しがちだ。だから絵本や神話の周波数でそれらを観ようとしても忘れている人がいるかもしれないし、なかには子ども時代から絵本や神話に馴染んでいなくて、背筋をおばけに撫でられるような読後感に出会ったことのない人もいるだろう。だから現代社会の作品で表向き、重要なのは『推しの子』の優れたプロットのような、現代的で計画的で堅牢なストーリー、そしてキャラクターなのだろうと思う。
 
だからといって絵本や神話の魅力が途絶えたわけではない。宮崎駿アニメをはじめ、ときにアニメは、絵本や神話の良さを繰り出してきて、面白さの主旋律、または対旋律や伴奏を任せていたりする。絵本や神話には、いまどきのコンテンツ論になじまない、別種のコスモスをみせる力がある。で、この『君たちはどう生きるか』でもその別種のコスモスがどどんと提示されていて、絵本や神話の周波数に合わせるときれいに像を結ぶようにできていた。
 
宮崎駿という人は、晩年になるほど、そういう絵本や神話の周波数で別種のコスモスを描く、それか、別種のコスモスに開く"ゲート"を備えたアニメをつくるようになっていった感じがあって、そうしたなかで『君たちはどう生きるか』がつくられ、たぶん絶作になるのだと思うと、なんだか胸が熱くなる。この人は最後の最後に絵本と神話の世界に帰っていったのかなぁ……。
 
この作品に登場する、白いフワフワ、ホーミングミサイル、魚と包丁、便所、門、本、部屋、ジャムパン、黄色い通路、飛び石、ドア、オウムたちの挙動、そういったものはしばしば過剰だったり冗長だったり唐突だったりする。でも、絵本や神話の周波数で捉えるぶんにはそれらも必要で、辻褄が合っているようにもみえる。だからひとつひとつの表現に当惑したら、絵本や神話の周波数に頭を切り替えてみると、飲み込みやすくなるかもしれない。
 
なお、もう一度繰り返しておくけど、ここに書いたことが『君たちはどう生きるか』の鑑賞態度として好ましいのか、そうでないかは私にはまったく判断できないのであしからず。こういう鑑賞態度もあるのでもし迷ったらご参考までに、という話、宮崎駿アニメをそういう鑑賞態度で眺めると面白いかもよ、という話として書いた。

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人生の道草を楽しめなかった人間の描いた「道草」

停電でも昼間なら窓際で本は読めるとは前回記事に書いたが、そのおかげで、読みかけの漱石の「道草」を読了できた。
私は漱石の中期以降の作品、詳しくは「三四郎」より後の作品はほとんど読んでいないので、漱石の「真面目作品」を読むのはほとんど初めてである。いや、「門」か「それから」は読んだかもしれないが、まったく記憶に残っていない。つまり、少しも感銘するところが無かったのだろう。
もちろん、これは私の文学的教養の低さのせいであり、漱石の真面目作品に感銘する人も多いようである。

「道草」は、私には「興味深い」作品だった。読んでよかったし、読む価値、時間を使う価値は大いにある作品だと思った。しかし、「面白さ」を娯楽性とほぼ同じとすれば、娯楽的な面白さはほぼゼロであり、これは中期以降の漱石作品はすべてそうだと思う。
「娯楽」とは何かと言えば、「嬉しい」「楽しい」ということである。それは「笑い」に象徴され、そして、笑いは基本的に誇張で生み出される。だからこそ漱石は小説創作で笑いと娯楽性を封印したのではないか。つまり、真剣に人間精神の探求をするのに、笑いの精神は邪魔だと考えたのだろう。その考えはおそらく正しく、だから漱石は「純文学」界でも高く評価されたのである。しかし、大衆小説、娯楽小説には笑いや奇抜さ、誇張はむしろ大きな柱である。だから。山田風太郎のように、漱石の傑作は「猫」と「坊ちゃん」だとする人もいるわけだ。

「道草」は、漱石の最後から二番目の小説らしい。最後の「明暗」は未完で終わったから、「道草」が遺作と言ってもいい。そして、この作品は、ほとんど漱石の自伝と言っていいと思う。主人公の生い立ち、人生、その妻の性格、夫婦生活は、仄聞する漱石自身の人生や性格や鏡子夫人の性格にそっくりである。
どちらかと言えば、作者の筆致は主人公のエゴイストぶり、夜郎自大的なインテリ自慢、社会的無能さ、社会的無知、それでいながら「無教養な他者」への蔑視、をはっきりと描いている。つまり、漱石は自分の精神を熟知していながら、それを変えることはできなかったのである。そして、主人公の妻(当然、鏡子夫人の似姿)の描き方は同情的だ。読者の目から客観的に見て、主人公の夫人は主人公よりはるかに上等な人物に見える。
つまり、漱石は自分の欠点を熟知していて、他者への行動が愚劣で、他者の彼への対応は彼自身の他者への応対の反作用だとはっきり理解していたのである。しかも、それを変えることは自分には不可能だ、と思っていたと思う。確か、「門」だったか、主人公が禅寺を訪れる箇所があったが、漱石が禅に興味を持ったのも、上に書いたような悩みを克服する道がそこにある可能性を考えたからだろう。
漱石が晩年に愛好した言葉「則天去私」は、まさにその「自分から離れる」理想を言語化したものだと思う。

ちなみに、この「道草」で起こる生活上の問題は、ほとんどが金銭問題である。金銭に無知で無能で嫌悪感すら持っている「高踏的」な人間が金銭に復讐され、人生を台無しにする話でもある。(漱石の金銭への嫌悪、金銭を唯一の価値とする人間への嫌悪は「猫」での金田氏一家の描写でも既に現れている。)


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自然発生する「子供の芸術」

別ブログに書いたものだが、くだらなくて案外面白いのでこちらにも載せる。

(以下自己引用)

わらべ歌のレトリック



実にくだらない話なので、他人が読む価値は無いが、私にとってはひとつの「エウレーカ!」なので、書いておく。

私が子供のころは、軍歌が歌詞だけ変えて学校の運動会の応援歌の曲によく使われたが、子供の遊びの中の「はやし歌」「遊び歌」としても軍歌の替え歌が使われたものである。
そのひとつに、「軍艦マーチ」の替え歌があったのだが、途中までしか覚えていない。それを書いておく。

シゲルとパゲルが喧嘩して
シゲルはしくしく泣き出した
(以下不明)

で、今朝突然気がついたのは、これは「シゲル」という人物をからかうために作られた歌ではないか、ということだ。つまり「パゲル」という人物は本来は不要なのである。当たり前の話で、「パゲル」という名前を持つ人物など存在するはずがない。では、なぜ「パゲル」なのかと言えば、(ここからがエウレカ!なのだが)「シゲル」とは「茂る、繁る」であり、髪がふさふさしているからである。その対義語だから「禿げる」であり、それが「パゲル」と変化したわけだ。
いや、「パゲル」から「禿げる」を連想したのは昔からそうだったのだが、それが「シゲル」と対応関係にあると気付いたのは、半世紀以上も後の今になってからだ、というのが面白い。
ある意味、プルースト的な話ではないか。思い出が突然新たな姿で甦る。
ついでだが、「シゲル」と「しくしく」も押韻している。子供でも自然にレトリックを使うのだ。

(夢人追記)「シゲル」に対して「はげる」ではなく「パゲル」としたのも素晴らしい音感だと思う。「はげる」より「パゲル」のほうが力強いし、「はげる」ではどうしても動詞であって名前には聞こえないが「パゲル」なら、名詞に聞こえる。「シゲル」と「パゲル」の下2字が同音であるのも、押韻になって実に素晴らしい。
なお、「パ」の音が力強いのは、モーツァルトの「魔笛」の「パパゲーノとパパゲーナの二重唱」を聞けば納得するだろう。これが「ハハゲーノ」だと禿げで歯抜けの老人だ。



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「野ばら」

「スキップとローファー」の劇中劇で「野ばら」の替え歌が出るが、確か「野ばら」の原詩はゲーテの作で、シューベルトとウェルナー(だったか)の曲があるはずだ。アニメの曲はウェルナーだろうか。
で、この詩には文語調の名訳があるが、正確には覚えていない。うろ覚えで書いてみる。前にも書いたが「匂う」は色美しいという意味。

童(わらべ)は見たり
野中の薔薇
清らに咲ける
その色愛(め)でつ
飽かず眺む
紅(くれない)匂う
野中の薔薇

「手(た)折りて行かん
野中の薔薇」
「手折らば手折れ
思い出種(ぐさ)に
君を刺さん」
紅匂う
野中の薔薇

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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