山岸凉子先生の描く「怖い話」はほんとうに怖い。類を見ないほど怖い。どうしてこんなに怖い話を描けるのだろうか。
私の仮説は、山岸先生はご自身の心の奥底にわだかまっている恐怖の「種」をマンガにすることで「祓っている」というものである。
「お祓い」なのだから、手抜きはできない。うっかり一番怖いところを「祓い残し」たら、そこから恐怖が再び鎌首をもたげてくるかも知れない。膿は出し切らなければいけない。だから、徹底的に怖い話、これ以上怖い話はこの世にないという話を語ることを山岸先生はみずからに使命として課しているのである。
そして、世には無数の恐怖譚があるけれど、どういう物語が最も根源的に、最も救いなく人を恐怖させるのか、それを考え抜いた結果、山岸先生がたどりついた結論は、「自分自身が自分を恐怖させる当のものである」という恐怖譚が最も救いがないというものであった。
外から鬼神の類が訪れてくるのであれば、仲間を集めたり、あるいは霊能力の高い人にすがって、それと「戦う」という積極的な対策も立てられる。結界を引いてその中に「閉じこもる」という防御策も講じられる。だが、自分自身が自分を恐怖させている当のものである場合、「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」が同一である場合、いわば恐怖に釘付けにされていること自体がその人のアイデンティティーを形成している場合、その恐怖からは逃れる手立てがない。そういう話が一番怖い。「汐の声」は「私の人形はよい人形」とともに私が「山岸ホラーの金字塔」とみなす傑作だけれど、まさに「そういう話」だった。
それ以外でも山岸先生の「怖い話」はどれも「他の人は感じないのに、私だけが恐怖を感じてしまう」という「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」がひとつに縫い付けられていることの絶望が基調音を創り出している。ああ、書いているだけで怖くなってきた。
(『ダ・ヴィンチ』9月号)
村上春樹訳の「ティファニーで朝食を」を読んでいたら、主人公ホリー・ゴライトリーの男兄弟を「兄」と書いてあったが、映画では「弟」だったはずで、これが兄だとホリーの「保護者意識」が不自然になる気がする。まあ、ホリーを19歳としていたので、その弟が徴兵年齢であるのはおかしいわけだから、「兄」としたのだろうが、あるいは、映画の方が設定を改変したのかもしれない。私は映画は見たが、小説はほとんど読んだ記憶がないので、どちらかは分からない。つまり、ホリーの「保護者意識」自体が。映画の改変かもしれない。このほうがありそうではある。ホリーの「弟」への保護者意識は、ホリーの「この世界を自分につなぐ細い縄」としてリアリティを持っていたので、いい改変だと思う。
小説は小説として名作であり、映画は映画として名作、としていいのではないか。(この映画でオードリー・ヘップバーンが演じるホリーは「大都会の妖精」的ではあるが、実はフリーの娼婦なので、ヘップバーンのファン、特に若い人にはショックかもしれない。私がこの映画自体が好きになったのは、だいぶ年を取ってからである。)
なお、この作品の映画での改変として有名なのは、小説中でホリーが歌う歌の歌詞が「眠りたくない。死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい」(村上春樹訳)という、素っ気ないものであるのに対し、映画では有名なヘンリー・マンシーニの曲のついた「ムーン・リバー」であることで、私はこのムーン・リバーの歌詞が大好きなので、記憶で書いてみる。
Moon River wider than a mile
I'm crossing you in stile someday
Old dream maker
you,heartbreaker
whereever you going,I'm going your way
Two drifters off to see the world
there's such a lot of world to see
We after the same rainbows end
waiting round the bend
My Huckleberry friend
Moon River and me
英語の綴りは自信が無いが、だいたいこんなものだったと思う。訳してみる。
月の河、1マイルより広いそれを
私はいつの日かお洒落な恰好をして渡るだろう
古い夢を紡ぐもの
人の心を砕くお前
お前が行くところ、どこへでも私も行こう
世界を見ようと岸を離れた二人の漂流者
そこにはたくさんの見るべき世界がある
私たちは同じ虹の両端を追っている
河の曲がり角で待っている
ハックルベリー・フィンのような私の友達
月の河と、私
小説は小説として名作であり、映画は映画として名作、としていいのではないか。(この映画でオードリー・ヘップバーンが演じるホリーは「大都会の妖精」的ではあるが、実はフリーの娼婦なので、ヘップバーンのファン、特に若い人にはショックかもしれない。私がこの映画自体が好きになったのは、だいぶ年を取ってからである。)
なお、この作品の映画での改変として有名なのは、小説中でホリーが歌う歌の歌詞が「眠りたくない。死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい」(村上春樹訳)という、素っ気ないものであるのに対し、映画では有名なヘンリー・マンシーニの曲のついた「ムーン・リバー」であることで、私はこのムーン・リバーの歌詞が大好きなので、記憶で書いてみる。
Moon River wider than a mile
I'm crossing you in stile someday
Old dream maker
you,heartbreaker
whereever you going,I'm going your way
Two drifters off to see the world
there's such a lot of world to see
We after the same rainbows end
waiting round the bend
My Huckleberry friend
Moon River and me
英語の綴りは自信が無いが、だいたいこんなものだったと思う。訳してみる。
月の河、1マイルより広いそれを
私はいつの日かお洒落な恰好をして渡るだろう
古い夢を紡ぐもの
人の心を砕くお前
お前が行くところ、どこへでも私も行こう
世界を見ようと岸を離れた二人の漂流者
そこにはたくさんの見るべき世界がある
私たちは同じ虹の両端を追っている
河の曲がり角で待っている
ハックルベリー・フィンのような私の友達
月の河と、私
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