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「古典」の講談性とは何か

「運命」の現代語訳(明治文語文は、もはや古語である。)をしながら、その中に露伴の表現をそのまま残している部分が多いのは、そのような部分は現代人でも理解ができるか、完全に理解はできなくても、意味が推定でき、そして何よりも、言葉のリズムや調子の面白さがそこにあると思うからである。これを「講談性」と言っておく。(これは現代の小説からは完全に失われている。)
この「講談性」はほとんどの古文の古典の文章の中にあるもので、その特長は「聞いていて、あるいは読んでいて気持ちがいい」ということだ。読むというのは、それが自分の脳内で音声化されることでもあるわけだ。

たとえば、「平家物語」の「小督」の章で、帝の命を受けて、帝の愛人だった官女小督(宮廷から行方不明になっている)の居場所を探す侍(?)が、小督が琴の上手だったことを頼りにして発見に成功する、その直前の文章はこうだ。

「峰の嵐か松風か 尋ぬる人の琴の音か」

今、耳に聞こえたかすかな音は、ただの峰の嵐の音か、松風の音か、それとも小督の弾く琴の音だろうか、と侍が自問自答しているわけだ。(私は、この一文以外はロクに読んでいないので、かなり間違いを書いていると思うが。)この文章の「7,5,7,5」の見事なリズムと音韻を味わえない人は、気の毒だと思う。それに感動できる自分が、まさに、「日本人で良かった」と思う。

あるいは、私は「源氏物語」はまったく読んだことが無い(せいぜい、須磨流謫の章だけ。)が、田辺聖子が「文車日記」の中で取り上げた、闇の中に白く咲いている花の名を光源氏が(だったと思う)少し離れた人に問う場面だ。(前に、この言葉について書いたかもしれない。)

「うちわたす遠方人(をちかたびと)に物申す。それそのそこに咲けるは何の花ぞも」

という言葉(発言)の見事な音韻とリズムに感動する。(これも、いい加減な記憶で書いているが。)特に「それそのそこに」が素晴らしい。「咲ける」まで入れれば、S音の4連発だ。しかも、それが少しも嫌みが無く、耳に心よい。

sore sono sokoni sakeruwa

である。しかも、一見無意味な「それ」「その」「そこに」の3連発が、自分の問いを正確にしようとする心理的必然、人がやりがちな「質問の不正確さ」への半無意識の自覚があるのである。古典古文の「見えないリアリズム」と言っておく。


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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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