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「私的所有」と「個人的所有」

政治思想というのは本来誰でも理解できるはずだが、下の引用文は、何を言っているのか、私にはほとんど意味不明である。これは、政治を哲学的に考察するという、「水と油を混ぜる」行為をしているためではないか。
そして、政治改革(昔の学生運動など)が常に中途で大混乱し、挫折するのも、こうした「意味不明の思考」が現場を混乱させるからではないか。つまり、誰も理解できないことを大声でわめき合い、互いに殴り合うからである。これを「内ゲバ」という。

(以下「蚊居肢」から引用)「混沌堂主人雑記」でこの文章の存在を知った。「私的所有」と「個人的所有」とどう違うのか、説明してほしいものだ。まあ、あとで私自身、真面目に考察するかもしれない。この両者が同一なら、「私的(個人的)所有を認めない」共産主義は即座に破綻するからである。私(社会主義者である)の共産主義否定論も、その論拠によるものだ。
なお、引用記事冒頭の「マルチチュード」は、最近古書店で買った仏日辞典によると「多数、群衆」の意味らしい。「俗衆、衆愚」の意味もあるようだ。「ひとつの公民one people」というのは、頭がひとつで胴体が八つ(九つ)という「逆ヤマタノオロチ」みたいに思えるwww そんな国民って存在可能かね。まあ、ナポレオン時代のフランスのようなものか。
もっとも、ナポレオンはべつに民主主義者ではなく、独裁者に近かったのだが。つまり、彼自身が龍の頭ではなく、龍の背中に乗って操縦していたのである。独裁者の意志が民意と合致することもある。さて、それは「民主主義」か? その時、独裁者は批判され、殺されるべきか?

マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと解消する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。(…)multitudo 概念を強調して使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、マルチチュードmultitudoとコモンcomunis 概念を推敲するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(…)スピノザの教えにおいて、単独性からコモンsingularity to the commonへの移行において決定的なことは、想像力・愛・主体性である。新しく発明された制度newly invented institutionsへと自らを移行させる単独性と主体性は、コモンティスモ commontismoを要約する一つの方法である。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)


なぜ我々はこれをコミュニズムと呼ばないのか。おそらくコミュニズムという語は、最近の歴史において、あまりにもひどく誤用されてしまったからだ。(…だが)私は疑いを持ったことがない、いつの日か、我々はコモンの政治的プロジェクトをふたたびコミュニズムと呼ぶだろうことを[I have no doubt that one day we will call the political project of the common ‘communism' again]。だがそう呼ぶかどうかは人々しだいだ。我々しだいではない。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)



▶︎「俗に知られているマルクス主義と真のマルクスの思考の相違」



特にマルクスは私的所有[Privateigentum]を否定しつつも個人的所有[Inndividuelle Eigentum]を肯定していることに注意。


 






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