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蓋然性の自殺

「大摩邇」から転載。
「蓋然性の殺人(確率による殺人)」という殺人方法が推理小説の小さなジャンルとしてあって、たとえば殺したい亭主の毎日運転する自動車にわずかな故障個所があるのを知っていながら黙っているとか、階段が滑りやすいことを知っていながら直さない、というものだ。事故と殺人の区別がつかないので、「犯人」の犯行だとは分からないわけである。実際、犯罪だという証明すらできないだろう。(若い母親が幼児を部屋に閉じ込めて遊びに行くなどというのは、蓋然性の殺人行為だろう。これは犯罪だとされているが、大人に対する「蓋然性の殺人」は立証困難だ。)
下の記事は「蓋然性の自殺」である。
一種の文学性すらある。現代とはそういう時代で、日本とはそういう国だということだ。

我々の隣の人はみな(身内も含め)「語らざれば憂い無きに似たり」かもしれない。


(以下引用)

2022年12月24日07:46
カテゴリナカムラクリニック
危険だから、打つ
ナカムラクリニックさんのサイトより
https://note.com/nakamuraclinic/n/n69949b5d87cd

<転載開始>

30代男性
「憂うつと倦怠感で、生きることも嫌になっていて、でもかろうじて仕事には行けていたのですが、3か月ほど前、いよいよ限界がきました。「しんどいので今日は会社を休みます」と連絡しました。そんな欠勤が3回ほど続いたとき、社長から連絡があって、「どうしたんだ、大丈夫か」と。そこではっきり言いました。「もう無理です」。食欲がないし、睡眠薬を飲んでも眠れない。何も意欲がわかず、ただ横になっているだけ。すると社長が「そうか、分かった。無理なら休んでいてもいい。ただ、今月いっぱいは籍を置いておくから、働けそうなら出社してくれ」
おかしなもので、5年間お世話になったこの会社も、もう終わりなのか、もう来なくていいのかと思うと寂しくて、最後くらいはもうちょっと頑張ろうという気になりました。
「あと1週間でこの会社ともお別れか」なんて思いながら働いていたのですが、そのときにふと、「こんな状態で会社をやめても、次に再就職した会社でまた同じことになるだろう。新しいことを覚えるのもおっくうだし。なんで俺はいつもこんな感じなんだろう」
自分でも思いがけず、怒りのような感情がわいてきました。ほとんど経験したことのないような胸騒ぎでした。
「なぜ人と話すことを避けるのか?情けない!もっと堂々としていればいい。萎縮しちゃいけない。周りのみんなは同じ人間で、同じ職場の同僚じゃないか」
自暴自棄、やけくそ、捨て鉢。胸の内から湧き上がったそういう感情が、僕をある行動に駆り立てました。
同じ班の女性に話しかけたんです。仕事中、それほど関わりがない人でしたが、どうせ仕事をやめるのだから、この人に話しかけておこうと思いました。
僕はこれまで女性とお付き合いしたことはありません。人と話すこと自体が苦手で、女性相手となればなおさらです。でも、このとき、僕の人生でほとんど初めて、蛮勇がわきました。「話しかけて嫌われたってかまわない。それならそれで、仕事をやめる理由が増えるだけのことだ」
その人は僕の話を聞いてくれました。僕の悩み、過去の生い立ちなど(それは先生もご存知の通りです)、じっくり聞いてくれました。一度に全部、ではありません。5回くらいにわたって、合計したら12時間ほどは聞いてくれたと思います。
その子も僕に自分の話をしてくれました。過去に親から虐待されたり、いじめを苦にして不登校になったり、自殺未遂をしたり。僕は驚きました。僕より何倍も明るくて人当たりのいい女性なのに、ある部分では僕よりも重い過去を抱えているなんて、まったく思いもしなかった。
そして、その子が僕にそういう打ち明け話をしてくれたことが、僕にはとてもうれしかった。電話番号も教えてくれました。「私でよかったら、話、聞かせてね」って。
優しさに付け込んだらダメだと思って、電話はできるだけしないように我慢しています。すると、禁断症状みたいになって、スマホ持つ手が震えたり、頭が熱くなったりする。これは何の病気だ、と思いました。
その子は、いわゆる美人というタイプではないのかもしれない。でも、その子の顔を、声を、僕は愛しく思うようになりました。仕事していないプライベートのときにも、その子のことを思ったり。

あるとき、話していて、その子がコロナワクチンを4回接種していると知り、焦りました。僕は先生の記事を読んでいるから、ワクチンは一度も打っていません。危険性についてある程度分かっているつもりです。ただ、なぜ、どういう理由で危険なのか、そういう理屈はうまく言えません。でも頑張って伝えようと思って、先生の記事なんかを見せながら説明しようとすると、「うん、言いたいことは分かるよ。危ないんだよね。打って亡くなってる人がたくさんいるんでしょ。そういうのはどこかで聞いたことがある」
「じゃ、なぜ打ったの?4回も」と聞いて、返ってきた答えが、僕には衝撃でした。
「私、自殺未遂をしたことがあると言ったけど、それは終わった話じゃないの。今でもしょっちゅう、消え去りたいって思う。それでリストカットをしたりする。
ワクチンがリスクだなんて聞いたら、普通の人は打たないだろうけど、私はそうじゃない。リスクが魅力に見える。私、おかしいでしょ。打ったら2年後に死ぬとかいうけど、本当かな」
そう言って笑うので、僕は悲しくなりました。
彼女によると、こういうタイプの人は意外に多いみたいです。学校行きたくないとかもうこの世なんてどうでもいいと思っている人。そういう希死念慮のある人は、このワクチンに飛びつく。危険だから、打つ。安楽死のない日本に突如として現れた、合法的安楽死注射。緩慢な自殺の道具として使っているんです。
あるいは生活苦の人が進んで打つ。「打って死ねれば4000万円入ってくる。子供の生活のたしになるのなら、母さん打ってくるよ」みたいな貧困家庭が実際にあるっていうんです。なんて世の中なんだ、と思います。

僕は彼女の話を聞いて、何も言えなかった。そして、家に帰ってから、泣きました。彼女の前でも泣きそうだったけど、それだけは我慢した。
彼女には「危険だから打っちゃダメ」とも言えないし「自分を傷つけちゃダメ」とも言えない。僕には言葉がなくて、ただ悔しくて、泣くことしかできなかった。

勇気を持ってその子に話しかけたとき、僕はその子のことを好きになるつもりなんてまったくなかった。でも今は、とてもつらい。つらくて、苦しくて、できればその子のことを嫌いになりたい」

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小説の視点と「信頼できない語り手」

今、遅ればせながら、と言うか、10年遅れくらいで「涼宮ハルヒ」シリーズの原作を読んでいるのだが、いろいろと思考ネタを与えてくれる稀有な作品である。ただ、それは「創作技法」についての考察である。特に視点の問題だ。誰の視点で話を語るのかという問題である。
このシリーズの話の語り手はキョンと呼ばれる高1から高2の生徒だが、その語彙が物凄いレベルの語彙で、私は彼が言っている言葉の8割から7割程度しか理解できない。あるいは6割くらいかもしれない。ただし、それは主に「ライトノベル的な語彙」とも言えるもので、SF小説や通俗科学書や高校教科書レベルの歴史や科学の用語が膨大に出て来るのである。私が、「物凄いレベルの語彙」と言ったのは、それを本気で理解しようとしたら、凡人にはほとんど不可能、という意味だ。ただし、それらはいわば「冗談で使われていて、理解の必要性はほとんど無い」のである。何しろ、1行ごとに比喩が出てきて、その比喩は上記の語彙を使った比喩なのである。読んでいる人は、理解できなくても、それらの語彙に接しているだけで、自分の頭が高度になった気がすると思う。
一例を挙げよう。

カノッサ城において神聖ローマ帝国ハインリヒ四世と面会した教皇グレゴリウス七世のような威厳たっぷりな満足笑顔と口調で、

これはハルヒが何かを宣言する前置きだが、これを言っているのは「劣等生」とされているキョンである。もちろん、たいていの高校生は「カノッサの屈辱」という言葉は知っているだろう。だが、それが「ハインリヒ四世」と「グレゴリウス七世」との間の権力闘争だったということまで知っているだろうか。いや、教科書を読んではいても、「四世」とか「七世」まで覚えているだろうか。覚えていないという私が特別に劣等生で、人間ではなくゾウリムシ並みの知能なのだろうか。
ここで、視点の問題が出て来る。この話の語り手であるキョンは、実は作者本人の代理だということだ。キョンの語彙は作者、谷川流の語彙であり、「劣等生」キョンの語彙ではない。しかし、それを読んでいる読者はそれをキョンの言葉として読むのである。そこにはすでに推理小説で言う「信頼できない語り手」という問題が存在しているわけである。

以下は、私の別ブログの旧記事だが、いろいろと間違いや訂正したい部分もある。ただ、小説の「視点の問題」を扱っているので、そのまま載せておく。

映画「羅生門」が欧米映画界に与えた影響は大きなもののようだが、それまで、「複数視点からひとつの事件を見ることで、『真実』に疑義を呈する」という発想は欧米にはほとんど無かったのだろう。「羅生門」が芥川龍之介の「藪の中」を元ネタにし、その「藪の中」は米国のアンブローズ・ピアスの或る作品を下敷きにして書かれたらしいのだが、アンブローズ・ピアスのその作品(私も題名を知らない。あるいは忘れた)を欧米人がほとんど知らないらしいのが不思議である。つまり、そこが「文章表現」と「映像表現」の差だろう。文章は「読解能力」が要求されるが、映像はかなり知的理解力が低くても、かなり理解できるわけだ。逆に、映像は「描かれたものがすべて」になるので、映像で「真実が何かは分からない」ことを描くことはかなり手間がかかることになる。
ちなみに、ディッケンズの「大いなる遺産」は、語り手の一人称で話が進むが、その語り手自身の主観で語られるので、語る内容が真実を伝えているわけではなく、まったく別の解釈もある、ということが、読解力のある読者には分かるように書かれているという、実に極限的技法の作品だが、そのことを指摘した文章を私は知らない。つまり、「一人称視点でありながら、実質的には三人称視点(神の視点)でもある」という作品で、こういう作品は「大いなる遺産」以外に私は知らない。

(以下「竹熊健太郎」のツィートを引用)

リドリー・スコット「最後の決闘裁判」を観た。最近、映画は極力前知識を仕入れないで観るようにしている。この映画もタイトルからスコットの処女作「デュエリスト」みたいな映画かなと思って観たのだが、黒澤明「羅生門」のスコット版みたいな映画だった。

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技術の進歩と「話の面白さ」

ネットテレビで見たい作品というか、食指の動く作品が見当たらないので、選択レベルを下げて、「取りあえず、最初だけでも見てみる」ようにしているのだが、「たぶん面白くないだろう」という最初の勘が外れて面白かったのは数えるほどしかない。ただ、面白くなくても、細部に感心することはある。
で、全体として言えることは、今のテレビ映画(とでも言っておこう。)は、技術的には最高度に達しているのではないかということだ。特殊技術で何でも描ける。しかし、「話そのもの」が面白いという作品は数えるほどであり、またその「面白さ」も「不愉快さ」を伴った面白さだ、と私には感じられる。いわば、「Q・タランティーノ的な面白さ」が世界に広がっているという感じだ。「面白ければ何でもあり」という、「抑制を取っ払った娯楽性」である。映画的な常識や文法も破壊し、メタ視点が平気で横行するわけだ。
もうひとつ、面白さ自体が破壊されるのは、今さらだがポリコレである。テレビ映画の7割くらいが主人公が若い女性か少女で、それが男のように戦争をしたりアクションをしたりするわけである。それを見ていてうんざりするのは私が単に爺いだからか。そして、人種がいろいろ混じっていて、黒人はほぼ必ず理性的で善良、白人は主人公以外は馬鹿か悪人とされていて、アジア人はまあ、ただの脇役だ。現実世界の差別構造が、フィクションの中では「ポリコレ化」されて漂白されるわけだ。LGBTも同様だ。現実世界での女性への差別が、フィクションの中では女性のヒーロー化で誤魔化されている。おそらくそういう脚本を優先的に採用しているのだろう。その結果、見るもの見るもの、すべて似たような印象のフィクションとなる。
まあ、ためしに「ジェイコブと怪物」というアニメ映画を見てみるといい。技術的には完璧であり、今や3Dアニメは実写映画以上の表現力を持っているとすら言える。風景や物体の質感は見事に現実に迫っている。しかし、フィクションとしては物語性が最低である。明らかに「白鯨」を土台にした話だが、「白鯨」の持つ荘厳さと神秘性と話の面白さをこれほど台無しにした「二次創作」は、まさに原作への冒涜だろう。日本の「空挺ドラゴンズ」も、話のつまらなさに途中で視聴放棄したが、「ジェイコブ」は、映像技術の見事さだけを見るために、とうとう最後まで見てしまった。で、見た後で、時間を浪費したと物凄く後悔した。(途中からは冷静に批評するために音声を消して見たので、何とか最後まで見たのである。)
要するに、いくら映像技術が発達しても、「話の面白さ」を作る能力はけっして発達しないということだ。それは個人の天才性によるもので、時代や技術の進歩はまったく関係しない。

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小説の登場人物の扱い

今、読みかけの小説は5冊以上あると思うが、ドストエフスキーの「死の家の記録」は、読み終わるのがもったいないので中止している。で、最近読み始めたのが同じくドストエフスキーの「二重人格(正しくは「ドッペルゲンガー」と訳すべき内容)」であるが、これは面白い反面、かなり理解困難な作品で、何が理解困難かというと、要するに作者がこれを書いた意図がつかめないわけだ。
明らかにコメディなのだが、笑いの対象は主人公その人で、要はその俗物性と神経症的行動の突飛さを笑うのだろう。つまり、読者に笑わせるのだろう。しかし、読者はそれを笑えるのだろうか。読者の大半は俗物であるだろうし、下級役人の主人公の卑小さは、同じような立場の人間には笑えないと思う。では、上級国民用の喜劇かと言うと、かつてそんな作品はあった試しがないだろう。つまり、笑いはその大半が権力への風刺であり、貧しい者や弱い者は同情の対象ではあっても、嘲笑や攻撃の対象ではほとんど無かったのである。
ドストエフスキー自身、弱者や貧しい者への同情や共感は他の作品でずいぶん書いているのに、この作品では貧しい弱者が、その性格が卑俗で図々しく奇矯であるために笑いの対象として選ばれているようなのである。いや、さほど貧しくも弱者でもない、一応は召使も持っている中級から下級の役人なのだが、そういう人間がより高い暮らしや地位を目指して足掻く、その姿が醜いからと言って、笑える人間がどれほどいるのだろうか。
私など、この主人公の言動を哀れだとは思うが、嘲笑する気にはなれない。彼にはそういう「身の程を知らぬ」行為をする権利があると思うわけだ。その結果、惨めな姿をさらすわけだが、私にはそれが笑えない。
もちろん、ドストエフスキーの書くものだから、細部の面白さはいくらでもあり、読む価値は十分にある作品だ。しかし、この作品が彼の作品の中でも珍しく一般的な評価がまったく得られなかったのは、実はここで笑われているのが一般読者の「同類」だったからだろう、と私は推測する。
読みながら私は、小説の登場人物が自分の扱いについて作者に抗議するという「メタ小説」を考えたのだが、そういうのは手塚治虫などが漫画でとっくにやっていた。


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失恋と祝福、それが人生

森高千里の最大の成功作である、ビールのCM曲「気分爽快」の歌詞の英訳である。もちろん、ネットで拾ったものだが、実は失恋の歌である。私も英訳を見て初めて知った。いい歌詞である。
ネットに「気分爽快」の動画もあるので視聴をお勧めする。
ついでに言えば、英訳の最初の文は「やったね」の英訳である。自分がひそかに恋していた男と自分の親友が恋仲になり、明日デートをすることを聞いて、友人を祝福する言葉だ。

(以下引用)元の英文では行分けされていたが、コピーすると行も連も一続きになって不明になっている。まあ、元の英訳を探すのも面倒なのでそのままにする。


English translation


Hooray. Congratulations You’ll finally have a date with him? You really do it before I knew it Since I was longing for making a cuple with him It’s painful but it’s OK. Let’s toast with beer Let’s drink, today until the end let’s swell Let me listen, your meeting with him, without reservations Let’s drink, today until the end I’ll go along with you Because I liked him too By no means try to make him yours I don’t give up, honestly I’m a little shocked That’s life. This is a casual meeting too “Thanks a lot” you say Tomorrow, tomorrow is your date. Do your best You’ll drive to the park and the sea. You’ll be roasted. Tomorrow, tomorrow in any way Enjoy my relationship If I can, I don’t wanna go home tonight Crybaby as I am, I wanna fall in love soon Let’s drink, today until the end let’s swell However leave his pride behind still Let’s drink, today until the end I’ll go along with you Now I’ll feel great Tomorrow, tomorrow is your date. Do your best Take his hand, grab his shoulder to that bastard Tomorrow, tomorrow I’ll feel fine I’ll feel wonderful, I’ll feel great
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We'll meet again

We'll meet again
don't know when,don't know where
But I know we'll meet some sunny day


「博士の異常な愛情」のラスト、世界が原水爆で壊滅していく中で流れる美しいラブソングの1節である。ウクライナ戦争がいつ全世界的な核戦争に発展するか、予断を許さない状況だし、このブログもいつ不可避的に終わるかもしれないので、あらかじめ挨拶をしておく。

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老年と壮心

「世に倦む日々」氏がNOTEに発言の場を移した最初の記事の末尾だが、「老キ(たぶん、キと読むと思うが、パソコンで出て来ない。「麒麟」の「麒」とは違うようだし、麒麟は馬小屋にはいないだろう。つまり、馬の意味か。)」の意味が分からなくて戸惑ったが、下の写真を見て、これが曹操の詩の中の言葉だと知った。その詩がなかなか面白い。もちろん、独断での解釈だが、だいたいこんな意味だろうか。

 亀は長寿だが

神亀は長寿だが、いつかは死ぬ
龍は霧に乗って飛ぶが、いつかは土灰となる
老馬は馬小屋に伏せるが、その志は千里にある
烈士は生涯の暮方にも、壮心は止まない
満つる時と収縮の時の如何はただ天命にあるだけではない(自分次第だ)
そして、(自ら)喜びを養うことの幸福は生涯あるだろう

最後の一行はかなり恣意的な訳だが、「怡」の意味が漢和字典だと「よろこび、楽しむ」らしいので「養怡」の解釈が難しい。そこで「自ら」の冗語(文章を冗長化する無駄な言葉)を入れたわけだ。「自分で自分の喜びを養う」精神と言うか、知恵は、万人に通じる人生訓としてかなり有益なアドバイスなのではないか。



この新環境が、志は千里を駆ける老騏の馬小屋だと、前向きに。


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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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