山岸凉子先生の描く「怖い話」はほんとうに怖い。類を見ないほど怖い。どうしてこんなに怖い話を描けるのだろうか。
私の仮説は、山岸先生はご自身の心の奥底にわだかまっている恐怖の「種」をマンガにすることで「祓っている」というものである。
「お祓い」なのだから、手抜きはできない。うっかり一番怖いところを「祓い残し」たら、そこから恐怖が再び鎌首をもたげてくるかも知れない。膿は出し切らなければいけない。だから、徹底的に怖い話、これ以上怖い話はこの世にないという話を語ることを山岸先生はみずからに使命として課しているのである。
そして、世には無数の恐怖譚があるけれど、どういう物語が最も根源的に、最も救いなく人を恐怖させるのか、それを考え抜いた結果、山岸先生がたどりついた結論は、「自分自身が自分を恐怖させる当のものである」という恐怖譚が最も救いがないというものであった。
外から鬼神の類が訪れてくるのであれば、仲間を集めたり、あるいは霊能力の高い人にすがって、それと「戦う」という積極的な対策も立てられる。結界を引いてその中に「閉じこもる」という防御策も講じられる。だが、自分自身が自分を恐怖させている当のものである場合、「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」が同一である場合、いわば恐怖に釘付けにされていること自体がその人のアイデンティティーを形成している場合、その恐怖からは逃れる手立てがない。そういう話が一番怖い。「汐の声」は「私の人形はよい人形」とともに私が「山岸ホラーの金字塔」とみなす傑作だけれど、まさに「そういう話」だった。
それ以外でも山岸先生の「怖い話」はどれも「他の人は感じないのに、私だけが恐怖を感じてしまう」という「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」がひとつに縫い付けられていることの絶望が基調音を創り出している。ああ、書いているだけで怖くなってきた。
(『ダ・ヴィンチ』9月号)
サガンの200ページ足らずの小説を読むのに数日かけているのに、恩田陸の500ページの小説を6時間くらいで読んでしまうのは、両者の小説的性質が違うからだろう。サガンのものは、映画的詩情を味わいながら読むもので、恩田陸のこれは、「ガラスの仮面」を一気読みするようなものだ。つまり、後者は「小説エンジン」(読者を先へ先へと引っ張る力)が強烈なのである。
なぜ「ガラスの仮面」を引き合いに出したかというと、これが演劇の世界を扱い、演劇世界でのライバルとの戦いと友情を描いているからである。正直言うと、作中での演劇的課題の難問性は、解答不可能であり、それへの回答(正解)も私のようなひねくれものには「はたして、それが本当に正解と言えるのか」という疑問を持たされはするが、まあ、演劇にはまったく無知な素人なのだから、細部細部の描写の面白さを楽しめばよい。演劇的難問とその解答・回答というのは「ガラスの仮面」でも何度も出てきて、その回答(正解)に読者が首をひねるのも、同じだろう。
まあ、要するに、面白さ抜群の小説であるが、個人で買う資力の無い人は、近くの図書館で探してみることをお勧めする。欠点は「チョコレートコスモス」というタイトルが意味不明(最後に説明される)で、たいていの人は魅力を感じないだろうということと、装丁が「ホラー小説」的であることだ。内容と完全に乖離した装丁で、これは装丁者が小説内容を知らないで作ったか、あるいは出版社が「恩田陸=ホラー小説」という定番扱いで売ろうとした出版戦略のミスだろう。正直言って、手元に置きたくない装丁である。装丁者は平野甲賀という、有名な人だ。
(以下引用)書評を見てみると、「ガラスの仮面」を引き合いに出している人が多かった。やはりそう思う人がほとんどなのだろう。演劇の世界の話だからではなく、「演劇バトル」の話だからではないか。なお、「蜜蜂と遠雷」という作品のことを言っている人も多い。