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内田樹の「山岸凉子」論

「内田樹の研究室」は、滅多に読まないのだが、さきほど気まぐれで覗いてみると、山岸凉子の話を書いていて、その論旨が妥当かどうかはさておき、私自身が先ほど書いた「怪奇趣味」の話と偶然の一致があって面白いので、ここに転載しておく。
ただし、山岸凉子は怪奇趣味というより、本当に彼女自身に霊媒体質があるらしく、「あれ」が見えるらしい。それ自身が怪談であるwww
私自身は山岸凉子は「怖い話」だけでなく、あらゆるジャンルで稀な語り部の才能を持っていると思う。その絵柄が苦手だという人もいるかと思うが、あの絵でないと彼女の作品の味わいは出ないだろう。自分で話を作るだけでなく、「話に対する嗅覚」が優れていて、トルーマン・カポーティの作品の中でほとんど語られることのない、オールドミスの叔母と幼年時の作者の自伝的作品を漫画化したクリスマスの話(先ほど、少し前に古本屋で買った村上春樹訳の「ティファニーで朝食を」を開いたら、その中に入っていた。)など、名作中の名作である。あるいは、「白い部屋のふたり」など、音楽をつけて映像化したくなる作品だ。もちろん、そういう作品は彼女だけでなく、大島弓子などにも多い。萩尾望都も含め、24年組は天才揃いである。彼女らの初期短編でアニメのシリーズを作ったら、国宝級の素晴らしいものになるだろう。


(以下引用)

山岸凉子先生のマンガはどうしてこんなに怖いのか

2023-08-05 samedi




 山岸凉子先生の描く「怖い話」はほんとうに怖い。類を見ないほど怖い。どうしてこんなに怖い話を描けるのだろうか。
 私の仮説は、山岸先生はご自身の心の奥底にわだかまっている恐怖の「種」をマンガにすることで「祓っている」というものである。
「お祓い」なのだから、手抜きはできない。うっかり一番怖いところを「祓い残し」たら、そこから恐怖が再び鎌首をもたげてくるかも知れない。膿は出し切らなければいけない。だから、徹底的に怖い話、これ以上怖い話はこの世にないという話を語ることを山岸先生はみずからに使命として課しているのである。
 そして、世には無数の恐怖譚があるけれど、どういう物語が最も根源的に、最も救いなく人を恐怖させるのか、それを考え抜いた結果、山岸先生がたどりついた結論は、「自分自身が自分を恐怖させる当のものである」という恐怖譚が最も救いがないというものであった。
 外から鬼神の類が訪れてくるのであれば、仲間を集めたり、あるいは霊能力の高い人にすがって、それと「戦う」という積極的な対策も立てられる。結界を引いてその中に「閉じこもる」という防御策も講じられる。だが、自分自身が自分を恐怖させている当のものである場合、「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」が同一である場合、いわば恐怖に釘付けにされていること自体がその人のアイデンティティーを形成している場合、その恐怖からは逃れる手立てがない。そういう話が一番怖い。「汐の声」は「私の人形はよい人形」とともに私が「山岸ホラーの金字塔」とみなす傑作だけれど、まさに「そういう話」だった。
 それ以外でも山岸先生の「怖い話」はどれも「他の人は感じないのに、私だけが恐怖を感じてしまう」という「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」がひとつに縫い付けられていることの絶望が基調音を創り出している。ああ、書いているだけで怖くなってきた。
(『ダ・ヴィンチ』9月号)





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