親鸞やその思想についての本を少し読んでいると、その思想とカルヴァンの「予定説」との類似性を強く感じるのだが、そのどちらも「既成宗教(仏教・キリスト教)の伝統や本道」への反逆であるという面も感じる。そしてその反逆の結果として仏教そのもの、キリスト教そのものを無意味化し、滅ぼしたという感じもある。カルヴァンの「勤労説」など、その「宗教的テロリズム」を糊塗するための何の根拠もない捏造だろう。本来は、その思想の性質は「すべての地上の道徳を無意味化する」もののはずだ。世の悪人には実に都合の良い思想だろう。
「お前ら弱者善人には来世があると思っているだろうが、来世(天国・極楽)も俺たちのものかもしれんぜ」、ということだ。
ちなみに、親鸞は弟子に「お前に人が1000人殺せるか」と聞き、弟子が「殺せません」と答えると、「それは、そのようにあらかじめ決まっている(業縁だ)からだ」と、まさにカルヴァンの「予定説」そのものの説教をしている。つまり、どちらも「超運命論者(決定論者)」であり、根本的に地上の道徳も信仰も無意味だと言っているのと同然であるわけである。
「なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにあらず。また害せじとおもふとも百人・千人をころすこともあるべし」(「歎異抄」)
(以下引用)
「お前ら弱者善人には来世があると思っているだろうが、来世(天国・極楽)も俺たちのものかもしれんぜ」、ということだ。
ちなみに、親鸞は弟子に「お前に人が1000人殺せるか」と聞き、弟子が「殺せません」と答えると、「それは、そのようにあらかじめ決まっている(業縁だ)からだ」と、まさにカルヴァンの「予定説」そのものの説教をしている。つまり、どちらも「超運命論者(決定論者)」であり、根本的に地上の道徳も信仰も無意味だと言っているのと同然であるわけである。
「なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにあらず。また害せじとおもふとも百人・千人をころすこともあるべし」(「歎異抄」)
(以下引用)
カルヴァンの予定説とは、神によって人間の救済が予め定められており、人間の意志や行動では救済は変わらないという考え方です。救われる者と救われない者が神によってあらかじめ選ばれており、人間の努力ではそれを変えることはできないと主張します。
詳細:
- 予定説では、神の意思が絶対であり、人間の行動や信仰は救済に影響を与えないとされます。
- 誰が救済されるかは、神によって予め定められており、人間にはその決定を知ることはできません。
- 予定説は、神が救済される者と滅びに向かう者を予め選んだという「二重の予定」を指します。
- カルヴァン派では、救済に選ばれた者は、勤労によってそのしるしを示すと考えられており、職業に励んで成功することは救済の証とされました。
- 予定説は、神の意志にかなうように日々の仕事に励むという考え方を強調し、資本主義の発展に影響を与えたとも言われています。
- 予定説は、聖書の箇所を根拠に、神が予め選ばれた者を愛し、彼らを救うという考え方を展開しています。
- カルヴァンの著書『キリスト教綱要』では、この予定説が詳しく説明されています。
- 予定説は、アウグスティヌスの思想と共通する点があり、特にカルヴァンはアウグスティヌスの予定説を徹底させたと言えます。
補足:
- 予定説は、キリスト教の神学の中で議論を呼ぶテーマであり、様々な解釈があります。
PR