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キリストの高弟たちの卑劣さと、女性たちの愛と勇気

市民図書館から借りた五木寛之の対談本「神の発見」の中に、対談者である森一弘(カトリック司教)の面白い発言がある。こういう視点は誰も持たなかったのではないだろうか。

森「キリスト教の中心になるのが、十字架と復活です。この中心となるものを、本当に身をもって体験しているのは、当時社会の底辺で差別されて、呻いていた女性たちなんです。それまで女性たちの名前は、男たちの背後に隠れて、断片的にしか表に出てきませんでしたが、キリストが十字架につけられた場面では、女性の名前が明確に出てきます。女性たちは、十字架に磔(はりつけ)られるキリストから、離れられない存在になっていたのですね。
ところが、その場面で、のちに指導者となる男たち、ペトロなど弟子たちは、みんな逃げてしまう。そしてユダヤ人を恐がって、怯え、隠れている。逆に社会的に、人間的に、痛めつけられていた女性たちが、十字架のもとにとどまり、復活を真っ先に体験しているのです。



なお、同書の中で五木寛之が書いているが

五木「ブッダは死後の世界について語ることをさけている。霊魂についても『無記』というかたちでしか語っていない。」


つまり、極楽往生を云々する仏教宗派はすべて仏教(つまりブッダの教え)ではまったくないということだ。ちなみに五木寛之自身は浄土真宗である。その矛盾を彼は感じないのだろうか。もちろん、「浄土とは来世ではなく、自分の心の中の安寧である」とすれば矛盾ではなくなるが、ほとんどすべての日本仏教(たぶん禅宗を除く)ではそうは教えていないと思う。

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