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人生の道草を楽しめなかった人間の描いた「道草」

停電でも昼間なら窓際で本は読めるとは前回記事に書いたが、そのおかげで、読みかけの漱石の「道草」を読了できた。
私は漱石の中期以降の作品、詳しくは「三四郎」より後の作品はほとんど読んでいないので、漱石の「真面目作品」を読むのはほとんど初めてである。いや、「門」か「それから」は読んだかもしれないが、まったく記憶に残っていない。つまり、少しも感銘するところが無かったのだろう。
もちろん、これは私の文学的教養の低さのせいであり、漱石の真面目作品に感銘する人も多いようである。

「道草」は、私には「興味深い」作品だった。読んでよかったし、読む価値、時間を使う価値は大いにある作品だと思った。しかし、「面白さ」を娯楽性とほぼ同じとすれば、娯楽的な面白さはほぼゼロであり、これは中期以降の漱石作品はすべてそうだと思う。
「娯楽」とは何かと言えば、「嬉しい」「楽しい」ということである。それは「笑い」に象徴され、そして、笑いは基本的に誇張で生み出される。だからこそ漱石は小説創作で笑いと娯楽性を封印したのではないか。つまり、真剣に人間精神の探求をするのに、笑いの精神は邪魔だと考えたのだろう。その考えはおそらく正しく、だから漱石は「純文学」界でも高く評価されたのである。しかし、大衆小説、娯楽小説には笑いや奇抜さ、誇張はむしろ大きな柱である。だから。山田風太郎のように、漱石の傑作は「猫」と「坊ちゃん」だとする人もいるわけだ。

「道草」は、漱石の最後から二番目の小説らしい。最後の「明暗」は未完で終わったから、「道草」が遺作と言ってもいい。そして、この作品は、ほとんど漱石の自伝と言っていいと思う。主人公の生い立ち、人生、その妻の性格、夫婦生活は、仄聞する漱石自身の人生や性格や鏡子夫人の性格にそっくりである。
どちらかと言えば、作者の筆致は主人公のエゴイストぶり、夜郎自大的なインテリ自慢、社会的無能さ、社会的無知、それでいながら「無教養な他者」への蔑視、をはっきりと描いている。つまり、漱石は自分の精神を熟知していながら、それを変えることはできなかったのである。そして、主人公の妻(当然、鏡子夫人の似姿)の描き方は同情的だ。読者の目から客観的に見て、主人公の夫人は主人公よりはるかに上等な人物に見える。
つまり、漱石は自分の欠点を熟知していて、他者への行動が愚劣で、他者の彼への対応は彼自身の他者への応対の反作用だとはっきり理解していたのである。しかも、それを変えることは自分には不可能だ、と思っていたと思う。確か、「門」だったか、主人公が禅寺を訪れる箇所があったが、漱石が禅に興味を持ったのも、上に書いたような悩みを克服する道がそこにある可能性を考えたからだろう。
漱石が晩年に愛好した言葉「則天去私」は、まさにその「自分から離れる」理想を言語化したものだと思う。

ちなみに、この「道草」で起こる生活上の問題は、ほとんどが金銭問題である。金銭に無知で無能で嫌悪感すら持っている「高踏的」な人間が金銭に復讐され、人生を台無しにする話でもある。(漱石の金銭への嫌悪、金銭を唯一の価値とする人間への嫌悪は「猫」での金田氏一家の描写でも既に現れている。)


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