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「未成年」とはどんな小説か

「未成年」読了。傑作である。だが、ドストエフスキーの作品の中ではおそらく評価が低く、あまり人気も無いと思われ、その理由はこれが非常に特殊で難解な手法で書かれ、それにメインの事件が遺産相続での骨肉の争いという、地味な話だからだろう。そこに恋愛が重要な要素として絡んでくるが、問題は「話し手」が「未成年」の馬鹿な(未熟な)青年で、その書いている内容は「すべてを正直に、正確に」書くという原則に基づいているが、何しろ、「自分の見た目、見た範囲」でしか書けないので、すべてが五里霧中のまま話が進んでいくわけだ。つまり、読者は話し手(語り手)を信頼できないまま読み進めるしかない(デイケンズの「大いなる遺産」もそれで、これらの小説が実は映画化不可能な理由はそこにある。)わけで、細部の面白い描写や語り手の独特な思想や鋭い感性に興味が持てないと、「全体として何が起こっているか」は理解しにくいので、途中で投げ出す読者が多いはずだ。最低限、登場人物のリスト(人物紹介)を自分で作り、姓や名や代名詞(彼、彼女など)が誰を指すのか理解しながら読み進める必要がある。ロシアの人名はもともと覚えにくいのである。ラスコリニコフくらいは覚えられても「ロジオン・ロマーヌイッチ・ラスコリニコフ」と全部を覚えるのは難しい。(たまたま、大島弓子に同名の作品、もちろん、「罪と罰」の漫画化、があったので、私は覚えているだけだ。)たしか、ロジオンの愛称は「ロージャ」だったか、そういう「愛称」も「未成年」にも頻出する。
私は工藤精一郎の訳で読んだが、訳の細部の適否はともかく、巻末の解説、特にミハイロフスキーによる「悪霊」批評の紹介は素晴らしい。ドストエフスキー作品の欠点である、「キリスト教への盲目的帰依」と「社会主義への感情的批判」を明晰に批判している。私自身は「ドストエフスキー大好き」人間であると同時に、「社会主義者」である。こういう人間は昔の文学愛好者には普通にいたものだ。
なお、この中に出て来るタチヤナ・パーヴロヴナという女性は、容姿に恵まれない初老の女性だが、毒舌家で、語り手の「未熟者」アルカージーには敵のように見えるが、実は最後に至って、その正体が単なる脇役ではなく、スーパー・ヒロインだと分かる。つまり、「キリスト」なのだが、人類全体のためのキリストではなく、「自分の愛した男性」に愛されることを最初から望まず、その男とその家族の人生を生涯にわたって守ることに決めた、そういう「愛の殉教者」だったのである。そういう視点でこの小説を最初から読めば、小説内の出来事がすべて違った色彩で見えてくるのではないか。ちょうど、「まどかマギカ」で、暁美ほむらの正体が分かった時に、すべての事件の様相がまったく違う色彩で見えてくるように。
ついでに言えば、タチヤナは、そういう生き方をすることで、単なるオールドミスとしての人生では味わえなかった「家族のイベント・事件」に参加できたわけで、それは「自分ひとりだけの人生」では味わえない、大きなメリットだったかもしれない。これが、「他人と共に生きる」ことの意味だろう。私のような「独楽主義者」が言うのも変だが、面倒事も苦労も苦痛も苦悩も失敗も挫折も人生の大事な一部だという思想だ。それらをすら「面白い」と思えれば、この世に怖いものはない。つまり、(主観的に、だが)地上がそのままで天国になる。「未成年」の脇役の巡礼や、「戦争と平和」の脇役、プラトン・カタラーエフなどがそういう人物に思われる。


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「金閣寺を燃やす」ことの意味

私は三島由紀夫の人生や思想には興味があるが、作品は少ししか読んでいないし、その理解も幼稚なものだろうと自覚している。「金閣寺」は読んでいない。
下の引用は「紙谷研究所」のものだが、「サヨク」の紙谷氏の言葉には三島への軽薄な軽侮が時々感じられ(「なんだ、自分のポジションへのこだわりかよ」など。自分のポジションへのこだわりは、社会に「自分自身を発信する人間(表現者)」にとっては最大の重要事だろう。それをいい加減にする人間こそ批判されるべきではないか。)、「三島理解がこんなものでいいのかな」という感じは受けるが、あちこちに興味深い記述や引用があって、参考にはなる。
で、問題の「絶対を滅ぼす」だが、それは言い方が不十分で「絶対を滅ぼすことの意味は何か」「絶対が滅びるとは、人に何をもたらすか」というように言ったほうがいいのではないか。
それは「この世界の片隅に」ですずさんが終戦の詔勅(というのか、天皇の宣言だ)を聞いた時の心だったのではないか。「絶対と思っていたものが滅びた」から、彼女は慟哭し、やり場の無い怒りに泣いたのだろう。
まあ、私は「この世界に絶対など絶対に無い」とは思うが、何かへの絶対的信頼が庶民の生活や生き方を幸福にする(盲目的にもするが)とは思う。西洋のように「神」という絶対性が滅びた社会は自由な社会になるのか、野獣の社会になるのか。現在は半々だ。

(以下引用)長いので、途中省略するかもしれない。

三島由紀夫『金閣寺』


 リモート読書会で三島由紀夫金閣寺』を読んだ。


 ストーリーは有名だが一応言っておくと、国宝だった金閣を青年僧が放火した実話にもとづく物語であるが、主人公をはじめ登場人物の名前は変えられ、三島が自身の作品世界を構築するために再構成したフィクションである。


 (中略)


 宮本百合子の『播州平野』の有名な一節を思い出す。


そのときになってひろ子は、周囲の寂寞におどろいた。大気は八月の真昼の炎暑に燃え、耕地も山も無限の熱気につつまれている。が、村じゅうは、物音一つしなかった。寂として声なし。全身に、ひろ子はそれを感じた。八月十五日の正午から午後一時まで、日本じゅうが、森閑として声をのんでいる間に、歴史はその巨大な頁を音なくめくったのであった。東北の小さい田舎町までも、暑さとともに凝固させた深い沈黙は、これ迄ひろ子個人の生活にも苦しかったひどい歴史の悶絶の瞬間でなくて、何であったろう。ひろ子は、身内が顫えるようになって来るのを制しかねた。


 歴史が悶絶している沈黙の瞬間は、三島にとっても宮本百合子にとっても、重く・不思議な・時間停止のごとき「断面」であったが、それでも宮本百合子のような戦後民主主義派あるいは左派にとってはやがて新しい時代をもたらす躍動の画期であったに違いない。しかし、のちに戦争支持と断罪された日本浪曼派の系譜の末流に位置づけられた三島にとっては、それは「歴史はそこで中断され、未来へ向かっても過去へ向かっても、何一つ語りかけない顔」に見えたのであろう。


 

「どう読んでいいかわからん」というAさん

 読書会の参加者であるAさんは、「この作品をどう読んだらいいのかわからん」とボヤいていた。Aさんには、「せっかく貧苦から抜け出す方途を保証されながら使い込んだり学業不良になったりするしょうもない奴が、あれこれ心で言い訳をしながら、自堕落を責められ、最後は自暴自棄で国宝に火をつけるというとんでもないことをやってしまった話」としか読めなかったのである。


 


 正直に言えば、ぼくもどう読んでいいかは迷った。


 迷ったので、平野の解説を手に取ったのである。他にも、水上勉金閣炎上』(一部を拾い読み)、水上と三島を比較した酒井順子金閣寺の燃やし方』を読んだ。どちらも参考になったが、全体の補助線として平野の解説は大変役に立ったので、ぼくもその線で一旦読んでみた。


(中略)


 平野の解説は、『金閣寺』のテーマを、三島が創作メモに書きつけた「絶対性を滅ぼす」という点に見出した。そして、金閣を戦前は絶対性のもとにとらえられた天皇の比喩として解釈を施している。ぼくはそれを導きの糸にした。


 ぼくもこの小説を実際に読むまでは、金閣寺にありえない美をみた若い僧侶がその美を永遠のものにするために金閣と心中しようとした話…みたいに思っていたのだが*1、主人公の中で金閣の美しさは動揺しまくるし(最終的には金閣は「虚無」となる)、確かに金閣の美しさというより主人公の中に途方もなく大きくなった金閣からどう抜け出すかということの方がテーマっぽい気がした。


 主人公・溝口は、自分の中にある金閣を、2つに分ける。当初父から「金閣ほど美しいものはない」として教え込まれた「心象としての金閣」、やがて戦争が終わり戦争とともに消滅すると思われていた金閣が無傷で残り、自分の中でそれに囚われ続ける存在、「観念としての金閣」を区別する。


 

「戦後」とどう付き合っていいのか

 平野は、三島の個人史を参照している。


 三島は戦前に文壇デビューし、紹介者の系譜から行って日本浪曼派のヴァリアントの中に位置づけられた。しかしほどなく戦争が終わり、日本浪曼派は戦争支持の芸術グループとして断罪され、他方で戦後文学は全く刷新された顔で次々と新しい書き手がデビューしていく。三島はすっかり色あせ、居場所を失ってしまうのである。


 そして、誤診から「肺浸潤」とされて戦争に行かず、生き残ってしまった。それは三島にとってのコンプレックスになったという。


 三島は「戦後」とどう向き合っていいかわからなくなった、というのが平野の解釈と読んだ。戦前的なものをあまりにも簡単に「清算」してしまい、無節操に新しい時代を謳歌する「戦後」への不信である。


 


三島は晩年になるほど文壇の悪口をたくさん言うようになるのですが、戦後派作家の何が嫌だったかというと、敗戦と共に突然我が世の春が来たかのように解放されて、一気に大きな顔をし出したところだ、それがとにかく許せなかった、ということを言っています。戦争というあれだけ大きな体験をした後に、人間はそんなにすぐ変われるはずはない。三島の中にはその思いがあったのです。(平野p.97)


 


 そう考えれば、三島が戦後民主主義の「左」からの批判者であった全共闘の集会に出て行ったのも宜なるかなと思えるのである。


 なんだ、自分のポジションへのこだわりかよ、と思ってしまうが、出発点がそういうところにあって社会への見方を形成するということの方がリアルに思えるのも事実である。


戦争が終った時の、不幸。それは戦争末期、「間もなく、確実に日本は滅びるのだから、それまでは全速力でつっ走ろう」とゴールに向かっていたつもりであったのが、一億玉砕すること無き敗戦によって、ゴールテープが消えてなくなってしまったという不幸でしょう。死というゴールがなくなり、急に「ではこのトラックを、ずっと走っていてください」と、延々と周回しなくてはならないことになった瞬間のうんざりした気持を、三島は「不幸」としたのです。敗戦は三島にとって解放ではなく、人生というトラックの中に閉じこめられるような気持にさせるものだったのではないか。(酒井前掲、KindleNo.1206-1212)


 


(中略)



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再建された現在の金閣寺




 こう書いてくると「金閣天皇なのか? 戦後はもう絶対性なんか全然どこにもなかったじゃないか」という反論が来そうである。


 単純に、心の中に天皇の絶対性が残っていたわけではないと思う。


 しかし日本社会は戦後の刷新があったものの、依然として社会にも政治にも、戦前との連続性が存在していた。そしてそのことへの本当の清算なくして「戦後」には向き合えないはずであるという観念もまた正当なものだろう。


(中略)



 ノンフィクション作家である保阪正康は三島の自裁について次のように語る(2020年11月24日「東京新聞」)。


「彼は『戦後社会に鼻をつまんで生きてきた』と語った。戦後の空間を全否定し、激しい嫌悪感を持って事件を起こした。『(自分の気持ちを世間に)分かってほしくない』と彼の方から線引き(自決)をしたんだと思う。事件を肯定するのは難しい。私たちは冷徹に見ていいんだと思う」


 平野の言葉を裏返してしまうなら、三島は溝口を生かしてしまったために自分の代わりを引き受けさせられず、結局死なねばならなくなった、とも言える。だが、平野は、そこは優しく結論づけている。小説の人物と自分の思想を一致させるという思いが三島には他方で存在し、それゆえに、ここで溝口を生かした時には、三島は確かに戦後社会を生きようとしていたのだと平野は考えたのである。


 また、酒井順子も次のように述べている。


 三島の死もまた、彼の小説に出てくるかのような物語です。生の途中で死ぬことによって、彼の生は「完成」しました。その死が劇的なものとなり得る最後の年齢において、最も自分好みのキンキラキンの死を、彼は選んだということができましょう。


 そう考えるならば、金閣に放火してその只中で死ぬ、という死に方も、十分に三島好みの派手さです。悲劇的で、英雄的でもある。


 だというのになぜ、三島は溝口を殺さなかったのかと考えてみますと、その時の三島自身が、「生きる」という方向を向いていたからなのではないかと思うのです。酒井前掲KindleNo.2070-2075)


 


 


*1:「作者・三島が、金閣寺のことを美しいと思っていたわけではありません」(酒井順子金閣寺の燃やし方』講談社、Kindle1932-1933)。


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トゥーレの王(森鴎外訳)

トイレで用足しの際に少しずつ読んでいる「ファウスト」だが、その最初のあたりに「トゥーレの王」が出てきて驚いた。大昔に「ファウスト」は読んでいて、また「名訳名詩集」という本で「トゥーレの王」も読んでいて、大好きな詩なのだが、これが「ファウスト」の中で少女マルガレーテが口ずさむ歌だとは知らなかった。たぶん、中学か高校くらいに「ファウスト」を読んだ時にはほとんど味読しなかった部分だったのだろう。まあ、若いころの読書とはそんなものだ。だから、名作文学(ほとんどは古典として残る)は再読する価値がある。

(引用)某サイトから採ったが、「盟」の読みは私が補足した。この部分は私が読んだ版では「盟を渝(か)へぬ」だったと思う。「かへせぬ」という言葉は文脈的におかしいのではないか。また、不規則な句読点はサイトの筆者が付けたものだろう。念のために言うが「妹(いも)」は妹背の「妹」で、「愛する女性」のことである。つまり、ここでは王妃か愛妾である。

昔ツウレに王ありき
盟(ちかひ)渝(かへ)せぬ君にとて
妹は黄金の杯を
遺してひとりみまかりぬ

こよなき寳の杯を
乾しけり宴の度毎に
此杯ゆ飲む酒は
涙をさそう酒なりき

死なん日近くなりし時
国の県の数々を
世嗣の君に譲りしに、
かの杯は留め置きぬ。

海に臨める城の上に
王は宴を催しつ。
壮士あまた宮のうち
御座の下に集ひけり。

これを限の命の火
盛れる杯飲み干して、
その杯を立ちながら
海にぞ王は投げてける。

落ちて傾き、沈み行く
杯を見てうつむきぬ。
王は宴の果ててより
飲まずなりにき雫だに。
 

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創作者と創作物

ドラクエは好きだし、ドラクエの音楽も好きだが、すぎやまこういちという人物の政治思想は大嫌いである。杉田水脈や高須院長や安倍晋太郎の同類だ。愛国者ではなく下種な狂信者である。
人格低劣なクリエイターだが作品は素晴らしいということはよく見られる。これは当たり前の話であり、何かの能力や才能と高潔な人格が結びつく理由は無い。高度な技術はその技術の修練で得られるのであり、そこに見られる人格は「努力家」であるか、あるいは「何かに熱中する性格だ」ということだけだろう。あるいは「人気者になって人から賞賛されたい」という性格かもしれない。そのジャンル以外の部分では小学生並みの頭脳や三歳児の倫理感覚であってもおかしくはない。しかし、クリエイターが下種や人格破綻者だと知ると、その作品を楽しめなくなるのが普通の人間だろう。
まあ、最低限の心得として、「公的な場にはその人物を起用しないし、その作品を使わない」とするのが正解だろう。既に使ったがwww
 
(以下引用)

ドラクエ作曲者「私財投じて安倍首相を応援する」理由

すぎやま氏の自宅にて。現在も精力的に音楽活動を続けており、3月1日には京都コンサートホールにて、4月14日にはアクロス福岡シンフォニーホールにてコンサートが行われる〔PHOTO〕原 一平

 ゲームを始めるときは、「さあ、これからどんな物語が始まるのだろう」と胸が躍るものですが、誕生したばかりの安倍政権についても「これからどんな政策を実施して、どんな日本を創ってくれるのだろう」とワクワクしていますね。


 いまの日本は〝日本軍〟と〝反日軍〟に分かれた内戦状態にあるんですよ。日本の良さを守り、継承していこうというのが日本軍。日本を弱めようというのが反日軍。そして反日軍のリーダーが民主党だったと思っています。ようやくその民主党が倒れて、安倍晋三・自民党政権が誕生しました。これで日本が正しい方向に進む、と安堵しています。


 作曲家・すぎやまこういち氏(81)。『亜麻色の髪の乙女』などの名曲の生みの親であり、名作ゲーム『ドラゴンクエスト』の音楽の作曲者としても有名な氏は、安倍晋三氏をはじめとする自民党保守派の熱烈な支援者である。


 民主党政権のときは、本当に日本が終わりを迎えるのではないかとヒヤヒヤしていました。問題を挙げるとキリがないが、特に中国に対する弱腰外交にはうんざりしていた。尖閣諸島の問題に象徴される中国の傲慢な外交に対して、民主党はなにも対処しようとしなかったでしょう。パラオのような小国でも、昨年中国漁船が領海侵犯してきたときには、射撃して追い払おうとしました。ところが、民主党政権は尖閣に上陸した中国の活動家を逮捕して強制送還するだけで、ことを済まそうとした。その程度の対応しかできない民主党政権のままでは日本が「中華人民共和国・日本自治区」になってしまう、と本気で恐れていましたよ。


 しかし、安倍政権が登場したからには、こんなことは二度と起こらないはずです。その裏づけとして、安倍氏は総理に就任早々、東南アジアの国々を訪問しましたね。これが素晴らしかった。東南アジアの国々と団結して、中国に対抗するための布陣を築いていこうとしています。早速民主党との違いを見せています。今後も期待できますよ。

安倍よりメディアが悪い

 すぎやま氏は、2011年には安倍晋三氏に100万円、稲田朋美行革担当大臣に150万円を寄付したのをはじめ、定期的に自民党の政治家に寄付を行っている。さらに、'07年には米ワシントン・ポスト紙に、自費で従軍慰安婦問題に関する意見広告を出した。


 残りの人生を考えたときに、最近は自分のことよりも、日本のこれからについて考えるようになったんですよ。僕のコンサートにはドラクエファンの若い方もたくさん来られるのですが、彼らの姿を見たときに「いまのままの日本を孫たちの世代に渡してもいいのかな」、と。山積する問題を次の世代に放り投げちゃっていいのか、と思うようになったんです。


 81歳になったいまでも、ゲームをやっています。いまは『ドラクエ10』に夢中で、楽団の仲間たちとパーティを組んで進めていますが、まもなく最後のボスとの対決、というところまできました。


 初代『ドラゴンクエスト』のクライマックスで、ラスボスの竜王が勇者に向かって「ワシの仲間になるなら世界の半分をやろう。どうだ、仲間にならんか」と誘惑してくる場面があるでしょう?分かりやすく言えば、あそこで「はい」と答えてしまうようなズルい政治家を生み出してはいけないんです。善き政治家を育てるために自分に出来ることがあるなら、惜しむことなく、力を注ぎたいと思っています。日本を正しい方向に導くための活動を続けて行きたい。


 安倍政権に対する不安は、現在のところありませんが、足を引っ張ろうとする勢力がたくさんいるのが心配ですね。特にメディアは、揚げ足取りをしてでも引きずり下ろそうとする。それが不安です。まだ安倍政権は誕生したばかりでしょう? 参議院選挙が終わるまでは、あたたかく見守って欲しいと思うのです。


「フライデー」2013年2月22日号より



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「魔群の狂宴」の構想

別ブログに書いている脚本構想だが、データが消えないようにここにも置いておく。
まあ、いつ自分が死ぬか分からないので、公開しておくのである。文芸のアイデアなどに著作権は無い。

(以下自己引用)なかなか面白そうだと思いませんか?

別稿の「意味のある描写と意味の無い描写」から生じる「セオリー」は、小説(物語)というのは何より「事件」が大事だということだ。漫画だと創作法としては「キャラクターが先」、かもしれないが、小説のキャラクターは(読者にとっては)「事件の進行によってキャラが固まっていく」のではないか。「悪霊」のスタヴローギンが何者か、というのは物語の前半ではまったく分からず、そこがむしろ読者の興味を搔き立てるのである。もちろん、外貌描写はあるが、最初はそれだけだ。

ということで、「魔群の饗宴」の「物語」を構築していく必要があるわけだ。「悪霊」とは違って、須田銀三郎と大杉栄を「対立的存在」として描くか。銀三郎は貴族ではあるが社会主義に関心があり、理想社会の実現を「考察対象」にしてはいる。そういう存在とするか。
大杉栄(話の中では兵頭栄三)は、ヤクザな性格と社会改革への情熱が同居した人間。物凄い行動力の持ち主で、そこはピョートルと同じ。銀三郎を「利用」しようとして彼に接近するという点でもピョートルと同じ。(「魔群の饗宴」は「魔群の狂宴」でもいい)
中江兆民をステパン先生的な役回りで使うか。栄三とは特に親子関係でなくてもいい。

山のひとつは、銀三郎と栄三の「社会主義論争」(アナーキズムの不可能性について、栄三が銀三郎に完全に論破される。その際に、彼の「自由恋愛思想」が三角関係相手の女に刺されることで破産していることを揶揄される。)

山の二つ目は、大地震(関東大震災)の際に栄三と恋人が官憲によって殺害される事件。

いわば、一つ目の山が栄三の思想的死、二つ目の山が肉体的死である。

しかし、銀三郎も貴族階級の衰退という運命が待っていることを暗示して話は終わる。(その前に、銀三郎は自分自身のニヒリズムによって精神的に破産していることを示す。)

あるいは、資本家という最高の俗物たちが社会の勝利者になる、という「社会主義の墓碑銘」的なエピローグで終わる。

*後藤象二郎と大杉栄のエピソード(実話)も入れる。社会の支配者は左派さえも操縦する、という話。

*ビスマルクの「国家社会主義」の成功の話をどこかに入れる。(佐藤不二雄に言わせるか)同じく国家社会主義の北一輝も登場させるか。

*佐藤不二雄は柳原白蓮(棚原晶子)の恋人とするか。父親は右翼の大物で、当人は社会主義者。白蓮の悲惨な前半生の話も入れる。

*女性はほかに伊藤野枝(伊野藤枝)と神近市子(神市千賀子)も登場。


*佐藤不二雄と桐井六郎の友情を前半の大きな柱とし、桐井六郎の棚原晶子への失恋と、哲学的自殺、佐藤の妻の登場、銀三郎が狂人の妻があることを告白して前半終わり。(前半の内容として、銀三郎への周囲の期待感、銀三郎の登場、彼の老将軍への奇怪なふるまい、彼への周囲の女性たちの恋着など)(兵頭栄三のアナーキスト活動、社会主義者たちのグループへの接近、支配の試み、銀三郎への接近、政治家との結託の工作、女性関係、神市千賀子に刺される事件など)要するに、三本の柱である。
*後半は佐藤の妻の死産、妻の死、工場の火事、理伊子の死、銀三郎の妻の死で始まる。(死人だらけであるww)田端兄妹の死は、銀三郎に話を持ちかけた男に銀三郎が「勝手にしろ」と言ったことを「殺人の命令」と受け取ったことによる。カネは事後の会談で銀三郎が「うるさそうに」与えるが、その直後に栄三が犯人を殺害し、カネを奪う。「このカネは社会改革に使わせてもらうぜwww」「目的は行動を浄化するんだよ」
*工場の火事が、アナーキストグループの犯行ではないかと疑われる。兵頭栄三が銀三郎の庇護を求める。しかし、アナーキズム問答が始まり、ふたりは決別する。憲兵隊による兵頭周辺への捜索。兵頭の逮捕と釈放。国外逃亡。佐藤不二夫と棚原晶子の接近。駆け落ち。(コマ落とし的に喜劇的に描くのもいい)兵頭教授と北一輝の対面。
*兵頭の帰国。佐藤不二夫の病死。
*関東大震災と兵頭の死。大不況と2.26(的な)事件。大正デモクラシー的空気の終焉。銀三郎が兵頭の墓に向かって独白する(「この国はキチガイと馬鹿に支配されている。もうすぐ終わりだよ」「お前が正しかったのかもしれん」)。この場面で全体の終わり。

(配役)

須田銀三郎:城田優
兵頭栄三:斎藤工
佐藤不二雄:風間俊介:妻を銀三郎に寝取られている。陰鬱な激情家。
桐井六郎:鈴木亮平(岡田将生でも可)いい人だから死ぬ、という点が大事。
棚原晶子:橋本愛
伊野藤枝:長澤まさみ
神市千賀子:満島ひかり
佐藤鱒江:不二雄の妻、銀三郎の子を妊娠している:市川実日子
岩野夫人:貴族:戸田恵子または松坂慶子
岩野理伊子:銀三郎に惚れている。:夏菜または満島ひかり
真淵力也(力弥):理伊子の「家来」的恋人:岡田将生
佐藤菊:不二雄の妹、須田家の養女。銀三郎に惚れている。:北野きい
加賀野将軍:銀三郎に無礼を受ける老将軍。:平泉成または温水洋一
田端退役大尉:古田新太または吉田鋼太郎または香川照之
田端麻里亜:狂人、銀三郎の妻:のん
淵野辺:役人、社会主義仲間:豊川悦司または安田顕
栗谷:社会主義仲間:森山未来
須田夫人:大竹しのぶ
須田清隆(回想):鹿賀丈史または綿引勝彦
清隆の妾(回想):栗山千明または木南晴夏
甘粕大尉:松山ケンイチ

兵頭教授(中江兆民):嶋田久作または平泉成

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「人生にあいわたるとは何の謂ぞ」

北村透谷に「人生にあいわたるとは何の謂ぞ」という題名の評論(だと思う)があって、私は読んだことはないのだが、素晴らしい題名だな、と思っていて、この題名だけでも北村透谷は文学史に名を残す資格があると思っている。
で、私流の解釈をすれば、純文学と大衆文学の境目が、ここだと思うわけである。
つまり、「純文学は読む人の人生と関係する」、ということだ。詳しく言えば、ある作品を読む前と読んだ後では、その人間は「違う人間になる」のが純文学で、そうでないのが大衆文学だ、ということである。その意味では小林秀雄や三島由紀夫の評論も純文学と同じレベルのものがいくつかある。それに対して、大衆文学のほとんどは、読む前と読んだ後で、その読者に何も変化が無いわけである。まあ、読んで面白いかどうかが大衆文学の生命線なので、読んで面白いかどうかという点では純文学よりはるかに勝る大衆文学はたくさんあるし、純文学であると同時に大衆文学としてもレベルが高い作品もたくさんある。その代表がドストエフスキーの作品であるのは言うまでもない。

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二重構造的イメージ

三夕の歌のひとつである「見渡せば花も紅葉も無かりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」(作者が誰だったか忘れたww)について三島由紀夫が、「存在しない花と紅葉が歌の読者の脳裏にイメージされ、それが現実の浦の苫屋の秋の夕暮れの情景と重ね合わされる」という趣旨のことを言っていて、この「読解」は、私を実に感心させたのだが、実はこうした「イメージの二重構造」は、三島の文章を読むずっと前から私は知っていたはずなのである。で、自分が「知っていた」ことに気づいたのがほんの先ほどなので、書いておく。つまり、その「存在」は知っていたが、その「意味するもの」は知らなかったわけだ。こういうのは「知っている」ことになるのか、ならないのか。
まあ、あっさり言えば、その対象が英語の文章と言うか、歌詞だったので、「存在は知っているが、意味は知らない」というのも当たり前の話なのだが、我々の「意識の生活」では、こういう曖昧な存在は膨大にある。そのすべての意味を明確に洗い直すのも不可能であり、あまり意義は無いのかもしれない。とりあえず、我々はそういう「知っているつもり」の物事の中に埋没して生きているという事実を確認しておくだけでも有益だろう。(キューブリックの最後の作品、「アイズ・ワイド・シャット」が意味するのも、「我々は、何かを見ているつもりでも何も見ていない」ということだろう。つまり「広く閉じられた目(見開かれながら何も見ていない目)」である。)
最後に、その英語の歌詞は何かと言えば、大昔に流行った、ブラザース・フォーの「グリーン・フィールズ」である。ここには、恋愛の最中(さなか)の、幸福に満ちた、天上的な色彩に溢れた緑の野原と青空と白い雲という情景と、恋人が去った後の、すべてが色彩を失った荒涼とした灰色の世界が二重になっているのである。その二つの世界が同時に存在するのは、まさに秋の夕暮れの荒涼とした世界の中で幻想の花と紅葉を見ている歌とまったく同じだろう。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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