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「金閣寺を燃やす」ことの意味

私は三島由紀夫の人生や思想には興味があるが、作品は少ししか読んでいないし、その理解も幼稚なものだろうと自覚している。「金閣寺」は読んでいない。
下の引用は「紙谷研究所」のものだが、「サヨク」の紙谷氏の言葉には三島への軽薄な軽侮が時々感じられ(「なんだ、自分のポジションへのこだわりかよ」など。自分のポジションへのこだわりは、社会に「自分自身を発信する人間(表現者)」にとっては最大の重要事だろう。それをいい加減にする人間こそ批判されるべきではないか。)、「三島理解がこんなものでいいのかな」という感じは受けるが、あちこちに興味深い記述や引用があって、参考にはなる。
で、問題の「絶対を滅ぼす」だが、それは言い方が不十分で「絶対を滅ぼすことの意味は何か」「絶対が滅びるとは、人に何をもたらすか」というように言ったほうがいいのではないか。
それは「この世界の片隅に」ですずさんが終戦の詔勅(というのか、天皇の宣言だ)を聞いた時の心だったのではないか。「絶対と思っていたものが滅びた」から、彼女は慟哭し、やり場の無い怒りに泣いたのだろう。
まあ、私は「この世界に絶対など絶対に無い」とは思うが、何かへの絶対的信頼が庶民の生活や生き方を幸福にする(盲目的にもするが)とは思う。西洋のように「神」という絶対性が滅びた社会は自由な社会になるのか、野獣の社会になるのか。現在は半々だ。

(以下引用)長いので、途中省略するかもしれない。

三島由紀夫『金閣寺』


 リモート読書会で三島由紀夫金閣寺』を読んだ。


 ストーリーは有名だが一応言っておくと、国宝だった金閣を青年僧が放火した実話にもとづく物語であるが、主人公をはじめ登場人物の名前は変えられ、三島が自身の作品世界を構築するために再構成したフィクションである。


 (中略)


 宮本百合子の『播州平野』の有名な一節を思い出す。


そのときになってひろ子は、周囲の寂寞におどろいた。大気は八月の真昼の炎暑に燃え、耕地も山も無限の熱気につつまれている。が、村じゅうは、物音一つしなかった。寂として声なし。全身に、ひろ子はそれを感じた。八月十五日の正午から午後一時まで、日本じゅうが、森閑として声をのんでいる間に、歴史はその巨大な頁を音なくめくったのであった。東北の小さい田舎町までも、暑さとともに凝固させた深い沈黙は、これ迄ひろ子個人の生活にも苦しかったひどい歴史の悶絶の瞬間でなくて、何であったろう。ひろ子は、身内が顫えるようになって来るのを制しかねた。


 歴史が悶絶している沈黙の瞬間は、三島にとっても宮本百合子にとっても、重く・不思議な・時間停止のごとき「断面」であったが、それでも宮本百合子のような戦後民主主義派あるいは左派にとってはやがて新しい時代をもたらす躍動の画期であったに違いない。しかし、のちに戦争支持と断罪された日本浪曼派の系譜の末流に位置づけられた三島にとっては、それは「歴史はそこで中断され、未来へ向かっても過去へ向かっても、何一つ語りかけない顔」に見えたのであろう。


 

「どう読んでいいかわからん」というAさん

 読書会の参加者であるAさんは、「この作品をどう読んだらいいのかわからん」とボヤいていた。Aさんには、「せっかく貧苦から抜け出す方途を保証されながら使い込んだり学業不良になったりするしょうもない奴が、あれこれ心で言い訳をしながら、自堕落を責められ、最後は自暴自棄で国宝に火をつけるというとんでもないことをやってしまった話」としか読めなかったのである。


 


 正直に言えば、ぼくもどう読んでいいかは迷った。


 迷ったので、平野の解説を手に取ったのである。他にも、水上勉金閣炎上』(一部を拾い読み)、水上と三島を比較した酒井順子金閣寺の燃やし方』を読んだ。どちらも参考になったが、全体の補助線として平野の解説は大変役に立ったので、ぼくもその線で一旦読んでみた。


(中略)


 平野の解説は、『金閣寺』のテーマを、三島が創作メモに書きつけた「絶対性を滅ぼす」という点に見出した。そして、金閣を戦前は絶対性のもとにとらえられた天皇の比喩として解釈を施している。ぼくはそれを導きの糸にした。


 ぼくもこの小説を実際に読むまでは、金閣寺にありえない美をみた若い僧侶がその美を永遠のものにするために金閣と心中しようとした話…みたいに思っていたのだが*1、主人公の中で金閣の美しさは動揺しまくるし(最終的には金閣は「虚無」となる)、確かに金閣の美しさというより主人公の中に途方もなく大きくなった金閣からどう抜け出すかということの方がテーマっぽい気がした。


 主人公・溝口は、自分の中にある金閣を、2つに分ける。当初父から「金閣ほど美しいものはない」として教え込まれた「心象としての金閣」、やがて戦争が終わり戦争とともに消滅すると思われていた金閣が無傷で残り、自分の中でそれに囚われ続ける存在、「観念としての金閣」を区別する。


 

「戦後」とどう付き合っていいのか

 平野は、三島の個人史を参照している。


 三島は戦前に文壇デビューし、紹介者の系譜から行って日本浪曼派のヴァリアントの中に位置づけられた。しかしほどなく戦争が終わり、日本浪曼派は戦争支持の芸術グループとして断罪され、他方で戦後文学は全く刷新された顔で次々と新しい書き手がデビューしていく。三島はすっかり色あせ、居場所を失ってしまうのである。


 そして、誤診から「肺浸潤」とされて戦争に行かず、生き残ってしまった。それは三島にとってのコンプレックスになったという。


 三島は「戦後」とどう向き合っていいかわからなくなった、というのが平野の解釈と読んだ。戦前的なものをあまりにも簡単に「清算」してしまい、無節操に新しい時代を謳歌する「戦後」への不信である。


 


三島は晩年になるほど文壇の悪口をたくさん言うようになるのですが、戦後派作家の何が嫌だったかというと、敗戦と共に突然我が世の春が来たかのように解放されて、一気に大きな顔をし出したところだ、それがとにかく許せなかった、ということを言っています。戦争というあれだけ大きな体験をした後に、人間はそんなにすぐ変われるはずはない。三島の中にはその思いがあったのです。(平野p.97)


 


 そう考えれば、三島が戦後民主主義の「左」からの批判者であった全共闘の集会に出て行ったのも宜なるかなと思えるのである。


 なんだ、自分のポジションへのこだわりかよ、と思ってしまうが、出発点がそういうところにあって社会への見方を形成するということの方がリアルに思えるのも事実である。


戦争が終った時の、不幸。それは戦争末期、「間もなく、確実に日本は滅びるのだから、それまでは全速力でつっ走ろう」とゴールに向かっていたつもりであったのが、一億玉砕すること無き敗戦によって、ゴールテープが消えてなくなってしまったという不幸でしょう。死というゴールがなくなり、急に「ではこのトラックを、ずっと走っていてください」と、延々と周回しなくてはならないことになった瞬間のうんざりした気持を、三島は「不幸」としたのです。敗戦は三島にとって解放ではなく、人生というトラックの中に閉じこめられるような気持にさせるものだったのではないか。(酒井前掲、KindleNo.1206-1212)


 


(中略)



f:id:kamiyakenkyujo:20211206053309j:plain


再建された現在の金閣寺




 こう書いてくると「金閣天皇なのか? 戦後はもう絶対性なんか全然どこにもなかったじゃないか」という反論が来そうである。


 単純に、心の中に天皇の絶対性が残っていたわけではないと思う。


 しかし日本社会は戦後の刷新があったものの、依然として社会にも政治にも、戦前との連続性が存在していた。そしてそのことへの本当の清算なくして「戦後」には向き合えないはずであるという観念もまた正当なものだろう。


(中略)



 ノンフィクション作家である保阪正康は三島の自裁について次のように語る(2020年11月24日「東京新聞」)。


「彼は『戦後社会に鼻をつまんで生きてきた』と語った。戦後の空間を全否定し、激しい嫌悪感を持って事件を起こした。『(自分の気持ちを世間に)分かってほしくない』と彼の方から線引き(自決)をしたんだと思う。事件を肯定するのは難しい。私たちは冷徹に見ていいんだと思う」


 平野の言葉を裏返してしまうなら、三島は溝口を生かしてしまったために自分の代わりを引き受けさせられず、結局死なねばならなくなった、とも言える。だが、平野は、そこは優しく結論づけている。小説の人物と自分の思想を一致させるという思いが三島には他方で存在し、それゆえに、ここで溝口を生かした時には、三島は確かに戦後社会を生きようとしていたのだと平野は考えたのである。


 また、酒井順子も次のように述べている。


 三島の死もまた、彼の小説に出てくるかのような物語です。生の途中で死ぬことによって、彼の生は「完成」しました。その死が劇的なものとなり得る最後の年齢において、最も自分好みのキンキラキンの死を、彼は選んだということができましょう。


 そう考えるならば、金閣に放火してその只中で死ぬ、という死に方も、十分に三島好みの派手さです。悲劇的で、英雄的でもある。


 だというのになぜ、三島は溝口を殺さなかったのかと考えてみますと、その時の三島自身が、「生きる」という方向を向いていたからなのではないかと思うのです。酒井前掲KindleNo.2070-2075)


 


 


*1:「作者・三島が、金閣寺のことを美しいと思っていたわけではありません」(酒井順子金閣寺の燃やし方』講談社、Kindle1932-1933)。


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