書くことがない。


 ……という、このとっておきの書き出しを繰り出すのは、職業的なライターとして出発して以来、はじめてのことなのだが、いつか奥の手として使ってみようと思っていた。


 結果的に文字として書き記される文章の内容は、「書く」という具体的な動作の必然として自然発生的な偶然を含んでいる。
 これは本当のことだ。


 原稿を書く人間のご都合主義だと思うかもしれないが、歩くという行為に目的地が不要であるのと同じく、書くという動作を開始するために必ずしもテーマは不可欠ではない。


 通常、私は、連載のためのテキストを書き始めるにあたって、ある程度の目算と意図を持っている場合が多い。しかしながら、実際に書き終えてみると、当初思い描いていたのとは違う場所に着地するケースが少なくない。こんなことが起こるのは、書いている間に構想が変わってしまうからだ。そして、これは自分にとっても意外なことなのだが、「書く」という行為の中から偶然立ち現れるその「変更後の執筆プラン」の方が、書き始める以前に構想していたアイディアよりも優れているものなのである。


 言葉が言葉を呼んでくる、と言うといささか大げさな表現になるが、手前味噌を承知で申し上げるなら、偶然の言葉が召喚してきた思いもよらぬ言葉は、なぜなのかポエジー(詩的感興とでも翻訳すれば良いのだろうか)を含んでいる。それゆえ、文章を書く人間は、時にはテーマに拘泥することをやめて、筆を遊ばせなければならない。


 というわけで今回は、特に行き先を定めることなく書き始めて、根気が尽きたところでタイピングを終えることにする。思考と言葉がどんな経路をたどってどこに落着するのかはわからない。というよりも、それがあらかじめわかっているのなら、はじめからコラムなど書かなくても良いのかもしれない。


 私が書くことを見つけられないでいるのは、実は、いまにはじまったことではない。


 11月のはじめに入院してから、ずっと似たような状態の中にある。
 理由は、自分では見当がついている。


 その、自分の状態を説明する。


 ちょっと前に読んだタイガー・ウッズのインタビュー記事で、彼が面白いことを言っていた。


 彼は、もはやツアープロのスケジュールに従って活動する気持ちを抱いていないのだという。「ありえない」のだそうだ。当然だろう。交通事故で負傷した足の問題もあるし、5回も手術した腰だって万全とは言えない。普通に考えて、事故直後は切断の可能性すら検討された足のけがが回復して、レギュラーなアスリートとしてプロゴルフのツアーに復帰することは不可能だ。


 でも、そうした事情とは別に、タイガーの話の中で印象に残ったのは、彼が指針としている考え方だった。苦しい入院生活と退院後の単調なリハビリの時間を過ごすべく、彼が意識していたのはこんな話だ。


 タイガーは、尊敬する父親がむかし話してくれた、戦場での時間の過ごし方を参考にしたのだという。
 記事を引用しても良いのだが、ここは私が記憶している内容に沿って書くことにする。


 タイガーの父親は、こんな話をした。


 戦闘がおこなわれている場所では、敵襲を予測することができない。いつまで平穏が続くのかもわからない。戦闘は5時間で終わるかもしれないし、5週間続くかもしれない。いずれにせよ先を読むことはできない。だから片時も安心できる時間がない。


 そういう神経の休まらない時間を、とにかくやり過ごすためにタイガーの父親は、「次の食事まで」の時間を無事に過ごすことに集中したのだという。朝食を食べたら次の昼食まで、昼食を食べ終えたら夕食の時間まで、というふうに、だ。時間を短く区切って、その細切れになった時間をひとつずつ無事に過ごす実績を積み重ねることで、戦場の中の長い時間を乗り越えたのだという。


 で、タイガーも父親のもたらした教訓に従って、先のことを考えるのをやめたのだという。


 このお話は、とてもよくわかる。


 私は2015年に足を骨折して以来のこの7年ほどの間に、なんだかんだで7回の入退院を繰り返している。


 まさに七転八起(←どうして8回起きる必要があるのか、その理由が昔からどうしてもわからないのだが)と言っていい。


 入院するたびに、自分の中のタイムスケールが短くなる。


 入院患者は、未来に思いを馳せなくなる。
 一カ月後や半月後のことも、ほとんど考えない。
 入院が長引くと、明日のことさえ思い浮かべないようになる。


 そんなわけで、よく訓練された患者は、その日一日のことしか考えない。


 そうやって即物的に過ごすことが、精神の安定のためにも、病状の改善をはかる上でも最も理にかなった方法であることを、長い目で見れば患者であるわれわれは、あらかじめ知っているのだと思う。


 ただ、ひとつだけ困ったことがある。


 一日限りのタイムスケールを使い捨てにする日々を繰り返していると、病院の外で生起している世間の出来事に対応できなくなることだ。
 対応できないというよりも、興味を失ってしまうのだ。


 もちろん、入院患者である限りにおいて、世間で起こっている生臭い出来事や、自分たちを取りまく経済的社会的政治的な状況には、なるべくまきこまれないことが望ましい。そういう意味では、はじめから外部の事情に関心を抱くことなく入院生活をまっとうするのは、患者の過ごし方として正しい。
 とはいえ、時事コラムみたいなものを書いて糊口をしのいでいる人間は、そうそう浮世離れしてばかりもいられない。


 で、病室のWi-Fi経由でインターネットにぶらさがりなどしながら、かろうじて世間との接触を保っていたりする次第なのだが、自身の内心に真正な興味が湧いてこないことばかりはいかんともしがたい。


 であるからして、退院してからこれまで、どうしてもリアルな現実社会に対してよそよそしい気持ちを抱いている。


 サッカーの試合結果にもさしたる興味はないし、野党の代表選挙の結果も、冷ややかな気分で眺めることになる。
 新型コロナウイルスに新しい変異株が現れて、またぞろ鎖国が実施されるらしいという噂も、半ば以上、他人事としてうけとめている。


 ツイッター上の発言も激減する。
 書き始めるそばから
 「で、それがどうしたんだ?」
 「こんなことを書いて何の意味があるのだ?」
 と自分でそう思ってしまって、送信ボタンをクリックする手前のところで書いたツイートを消してしまうからだ。


 当欄のコラムに関しても、おおむね同じことが起こっている。


 いくつか腹案がないわけではないのだが、書き始めるや
 「で、そんな話を誰が読むんだ?」
 「しょせんどこかで誰かが言っていることの繰り返しじゃないか」
 と、醒めた自己批評が機先を制してくるわけだ。


 これは、健康な状態ではない。


 「とにかく食事から食事までの間を生き延びること」
 という、タイガーの親父さんがもたらしてくれている指針は、限界の状況を生きる人間の処世としておおいに参考になる。


 しかしながら、現実の社会の中で暮らしている人間が、いったんタイムスケールを短くしてしまうと、さまざまな面で不都合が生じる。


 社会的、経済的、政治的な人間としての役割や思考や哲学を、少なくとも一時的に放棄しないと、タイガーの父の境地に立つことはできない。ちなみに「タイガーの父の境地」というのは、動物的な存在(つまり「時間を持たない/意識しない」)としての人間のことだ。もっと言えば昆虫的な生き方かもしれない。


 この何年か、入退院を繰り返す暮らしの中で、私は、昆虫に近い短期的で遠くを見ない処世を身に付けるに至った。


 それは、必ずしも悪いことではない。


 非日常的な苦しい状況に立ち向かっている人間は、その苦闘の中で、虫みたいな具体的/即物的な生き方を選択する。またそうでなければ、目前の災難に対処することはできない。


 とはいえ、虫はコラムを書けない。


 上質なコラムを書き上げるためには、人間らしい思考と自在なタイムスケールと新鮮な視点を確保していなければならない。


 むずかしいことだ。


「書くことがない」


 という異例の書き出しを採用する直前まで、私は、日本維新の会の政治手法の異様さを分析する原稿を書くつもりでいた。


 ところが、いざ書き始める段になって、その原稿が、たいして面白くならないだろうことに気づいて、それで、執筆を断念したわけだ。


 ストーリーはできあがっているし、理屈の裏付けもある。
 まとめてみると、わりとスリリングな筋立てでもある。
 なのに、どうして面白くなる気がしないのかというと、私自身がうんざりしてしまっているからだ。


 おそらく、維新の政治手法の核心は、支持者を熱狂させる新奇さよりも、支持しない側をうんざりさせる凡庸さの中にある。


 「あんなものを相手にしてもしかたがない」
 「維新なんかにかかわっていたら、自分もあの連中と同じ水準に堕ちてしまう」
 という多くの人々の思いが、彼らをはびこらせている。
 「憎まれっ子世にはばかる」
 という昔ながらの定番の展開だ。


 泥の中に落ちた硬貨を奪い合うヤカラをいましめるために、すすんで泥沼に足を踏み入れる人間は少ない。


 結果として、「泥耐性」の高い者だけが生き残る。
 こんな話は書きたくなかった。
 書き出しにふさわしい結語だと思う。
 いつかやってみたいと思っていた。


 また来週。


(文・イラスト/小田嶋 隆)