「東海アマブログ」記事の前半の一部で、マンダレーやインパールの話などが面白いので転載する。後半は怪しげな素人学説の話で、私は興味が無い。基本的に地震は予知できないと思っている。できるなら毎度毎度の地震災害は起こらないだろう。予知できても、数分前程度では対策のしようもない。
ちなみに、「マンダレーへの道」は、確かサキの小説に出てきた、当時の流行歌である。
1921年のフランク・オールドフィールドという歌手の歌がユーチューブで聞ける。
「On the way to the Mandelay」という題名だっただろうか。それと紛らわしい「Road to the Mandelay」という歌もあるようだ。どちらがサキの小説に出てくるものかは分からない。
(以下引用)
ミャンマー(ビルマ)でM7.7、死者は24時間で200名程度だが、これが7日後には10倍になる法則がある。おそらく死者数は、数千名を超えるだろう。
震源地はマンダレーで、北に300Kmも行けば、日本人には聞き覚えのあるインパール(インド)がある。ここで牟田口廉也という日本軍きっての愚将が指揮をとった結果、約8万人の日本兵が無駄死にさせられた。
私の父は1941年に知立から徴兵され、中支戦線に送られたが、南京を経てインパール作戦に動員された。
国鉄SL機関士だった父は、わずかだが英語を話せたので、戦争初期に通訳となってインパールで英軍と交渉したときに捕獲され、そのまま数年間、捕虜として過ごした。
戦後、舞鶴に帰還したとき、60Kgあった体重は半分に減り、骨皮筋右衛門になっていたと語った。ただ所属大隊3000名のうち、帰還できたのは100名に満たなかったと言った。
父のインパール作戦の思い出を聞いたとき、現地の女性たちが、あまりにも魅力的だったので、びっくりしたと語っていた。そこはプエラリアミリフィカという女性を美しくする芋の産地だったのだという。
インパールはヒマラヤ山地の境界で、そこから4000mもの標高差を登り詰めると、ブータンやシッキムという国に出る。ここに住むレプチャ族という人たちこそ、日本人の源流の一つで、その風景や民俗は、四国の「山の民」とまるで同じなのだという。
この世界最大の標高差こそ、ヒマラヤ造山運動をもたらした、インド・ビルマプレートの活動の結果であって、今回のM7.7も、その造山プレート運動が原因のようだが、地震予知に関心を抱いていた私でも、過去半世紀以上、ここでの巨大地震の記憶が存在しない。
だから地元民にとっても寝耳に水の衝撃で、ほとんど耐震性ゼロに近い建物の崩壊が相次いだ。(以下は1000Km離れたタイ・バンコク)
ちなみに、「マンダレーへの道」は、確かサキの小説に出てきた、当時の流行歌である。
1921年のフランク・オールドフィールドという歌手の歌がユーチューブで聞ける。
「On the way to the Mandelay」という題名だっただろうか。それと紛らわしい「Road to the Mandelay」という歌もあるようだ。どちらがサキの小説に出てくるものかは分からない。
(以下引用)
ミャンマー(ビルマ)でM7.7、死者は24時間で200名程度だが、これが7日後には10倍になる法則がある。おそらく死者数は、数千名を超えるだろう。
震源地はマンダレーで、北に300Kmも行けば、日本人には聞き覚えのあるインパール(インド)がある。ここで牟田口廉也という日本軍きっての愚将が指揮をとった結果、約8万人の日本兵が無駄死にさせられた。
私の父は1941年に知立から徴兵され、中支戦線に送られたが、南京を経てインパール作戦に動員された。
国鉄SL機関士だった父は、わずかだが英語を話せたので、戦争初期に通訳となってインパールで英軍と交渉したときに捕獲され、そのまま数年間、捕虜として過ごした。
戦後、舞鶴に帰還したとき、60Kgあった体重は半分に減り、骨皮筋右衛門になっていたと語った。ただ所属大隊3000名のうち、帰還できたのは100名に満たなかったと言った。
父のインパール作戦の思い出を聞いたとき、現地の女性たちが、あまりにも魅力的だったので、びっくりしたと語っていた。そこはプエラリアミリフィカという女性を美しくする芋の産地だったのだという。
インパールはヒマラヤ山地の境界で、そこから4000mもの標高差を登り詰めると、ブータンやシッキムという国に出る。ここに住むレプチャ族という人たちこそ、日本人の源流の一つで、その風景や民俗は、四国の「山の民」とまるで同じなのだという。
この世界最大の標高差こそ、ヒマラヤ造山運動をもたらした、インド・ビルマプレートの活動の結果であって、今回のM7.7も、その造山プレート運動が原因のようだが、地震予知に関心を抱いていた私でも、過去半世紀以上、ここでの巨大地震の記憶が存在しない。
だから地元民にとっても寝耳に水の衝撃で、ほとんど耐震性ゼロに近い建物の崩壊が相次いだ。(以下は1000Km離れたタイ・バンコク)
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