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悪人の「無邪気さ」

古本屋(いわゆる新古書店)で買った乙一の「失はれる物語」を3分の2くらい読んでいるが、彼の作家としての才能に感嘆する。
で、彼の作品の特徴として、「事件(出来事)の関係者、特に被害者の心理は精密に書くが、加害者側の心理はほとんど書かない」というのがある気がする。書く場合は、加害者自身が状況の被害者である場合が多いのではないか。
で、これは性善説というより、「悪人の無邪気さ」、つまり、悪人は自分がやる悪事をまったく悪事だと思わず、正当な行為だと思っている、という冷徹なリアリズムによるものだと思う。そういう「悪人の心理」を書いたところで、読者は気分が悪くなるだけである。書く方も気分が悪いだろう。(この点では、青年漫画が、かなり露骨な「悪事(主に暴力)の描写」をする。その加害者の描写も正確だ。つまり、「救いようのない人間」だ。)


勘違いされる人がいるかもしれないが、ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公のラスコリニコフは、まったく悪人ではない。あれは「自分の超人思想の実験として殺人を犯す」頭でっかちの「善人」なのであり、彼には悪人のような「堂々たる悪事(その事例は、たとえば新コロ詐欺、ワクチン詐欺など、政治家や資本家の行為としては普通である)」はできないのである。だから、犯罪の後であれこれ悩むのだ。
世界の偉人、特に戦争での偉人というのは、目の前に膨大な死体が積み上げられても平然としている人間であり、それは戦争をまったく悪だと思っていないからだ。当然、自分が悪人どころか偉人だと思っている。
戦争を煽り立てることで金儲けをする資本家も同じであり、「自分たちはそれをして当然だ」と考えるわけだ。何のためらいもそこにはないだろう。だから世界には永遠に戦争が無くならないのである。つまり、彼らにとって悪事(たとえばそのために人が死ぬこと。あるいは公然と嘘をつくこと)とはビジネス(当然の仕事)、あるいは必然の出来事にすぎないのである。これは、小さいところでは、いじめ事件の加害者が、自分たちの行為を悪事だと思っていないことと同じだ。これを私は「悪人の無邪気さ」と言っている。「無邪気な邪悪さ」という逆説である。
生まれつきの悪人的資質や善人的資質というのはあるかもしれないが、それよりも、善性や悪性は、言語化されないまでも一種の「人生哲学」として成長の段階で自分で作り上げるものだろう。単に利益だけを考えれば、悪のほうが「合理的」であることも多いのだ。


なお、「失はれる物語」の、ここまで読んだ中で、犯罪者側を語り手にした「手を握る泥棒の物語」が私は一番面白く、楽しく読んだ。これも、「無邪気な犯罪者」の話だが、その馬鹿さが精密無比のコメディとして見事に描かれている。(私は、これほど精密に構築された喜劇を読んだことがない。「夏と花火と私の死体」に比肩する精密な話作りである。)

「犯罪の才能」の無い人間は犯罪者になるべきではない。だが、世間ではそれが理解できない馬鹿も膨大にいる。



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