私は、ある時点から(たぶん、子犬の悲惨な「人生」を描いた短編小説を読んだ時から)チェーホフという作家が嫌いになったのだが、それは、彼の「冷酷さ」というのが嫌いだからだ。ただし、その「冷酷さ」というのは「科学者的冷徹さ」と言うのが適切だろう。
彼は自分が興味を持ったあらゆる事象を科学者的冷徹さで分析し、表現する。その結果、人生の悲惨さや社会の悲劇が見事に描写されることになるが、それを読んで「気持ちいい」と思う人は、よほどのサディストだろう。
彼の「ユーモア」も、人間の愚かさ、その行動の愚劣さを「冷徹に」描くところから生じるのである。けっして「暖かい」ものではない。つまり、ユーモアではなく、サタイア、皮肉、冷笑と言うべきだろう。もちろん、彼自身は、それを冷酷だとは思っていない。「桜の園」を彼が「喜劇」と言っているのは有名だ。そして、この劇の状況を「喜劇」だとしているところに、彼の冷酷さがある、と私は思うわけである。サドなどのほうが、人間としては温かいと私は両者の作品を比べて感じる。
ただ、チェーホフは作家としては天才的な才能があるのも確かで、読んで有益な、「人間教科書」ではある。心理解剖・分析など、見事なものだ。
わずか30歳で彼が書いた「退屈な話」を今読んでいる最中だが、あきれるほどの心理分析である。引退どころか死を間近にした老教授の心理を、わずか30歳の人間が、ここまでどうして描けるのだろう。まあ、誰かモデルとなった医学部教授がいた可能性もあるが、それでも、外部から見てその心理が分かるだろうか。
まあ、長々と意味不明の自論を書いても仕方が無いので、その「退屈な話」の中で、その老教授が落第学生に言う言葉を書いておく。これは、落第生たちへの見事な金言である。
「お赦しください教授」--彼はにやついている。「しかしそれは、少なくともぼくの側からいうとおかしいようですね。五年も学んできて急に……出ていけとは!」
「ふん、そうさ! 五年を棒にふるほうが、そのあと一生好きでもないことを仕事にするよりはましだよ」(湯浅芳子訳)
彼は自分が興味を持ったあらゆる事象を科学者的冷徹さで分析し、表現する。その結果、人生の悲惨さや社会の悲劇が見事に描写されることになるが、それを読んで「気持ちいい」と思う人は、よほどのサディストだろう。
彼の「ユーモア」も、人間の愚かさ、その行動の愚劣さを「冷徹に」描くところから生じるのである。けっして「暖かい」ものではない。つまり、ユーモアではなく、サタイア、皮肉、冷笑と言うべきだろう。もちろん、彼自身は、それを冷酷だとは思っていない。「桜の園」を彼が「喜劇」と言っているのは有名だ。そして、この劇の状況を「喜劇」だとしているところに、彼の冷酷さがある、と私は思うわけである。サドなどのほうが、人間としては温かいと私は両者の作品を比べて感じる。
ただ、チェーホフは作家としては天才的な才能があるのも確かで、読んで有益な、「人間教科書」ではある。心理解剖・分析など、見事なものだ。
わずか30歳で彼が書いた「退屈な話」を今読んでいる最中だが、あきれるほどの心理分析である。引退どころか死を間近にした老教授の心理を、わずか30歳の人間が、ここまでどうして描けるのだろう。まあ、誰かモデルとなった医学部教授がいた可能性もあるが、それでも、外部から見てその心理が分かるだろうか。
まあ、長々と意味不明の自論を書いても仕方が無いので、その「退屈な話」の中で、その老教授が落第学生に言う言葉を書いておく。これは、落第生たちへの見事な金言である。
「お赦しください教授」--彼はにやついている。「しかしそれは、少なくともぼくの側からいうとおかしいようですね。五年も学んできて急に……出ていけとは!」
「ふん、そうさ! 五年を棒にふるほうが、そのあと一生好きでもないことを仕事にするよりはましだよ」(湯浅芳子訳)
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