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天皇制の考察

胸中に成案があるわけではないが、「天皇制とは何か」について考えてみたい。政治学者も、この問題を真剣に考察した人は少ないのではないか。まあ、昔の「神皇正統記」くらいしか思い浮かばないが、あれも多分、南北朝のどちらが正統か、という問題を論じているだけなのではないか、と推測する。
で、私の腹案としては

1:天皇とは権力ではなく権威である。
2:権力でないからこそ、異常な永続性があった。
3:天皇とは平和の象徴である。

という3点が、今思い浮かんだものである。特に2は、かなり確信がある。
1に関しては、「天皇そのものが『錦の御旗』である」と言えば、分かりやすいかと思う。つまり、権力の正当性を保証するのが、「天皇がこちら側に付くこと」だったわけだ。

権力そのものは武力によってしか保証されないが、それが逆に権力の不安定さや、永続性の無さの理由でもあった。
古代中国には無数の政権や王朝が成立しては滅んでいったが、それは彼らがただ「権力的存在」でしかなく、その永続性を保証する「権威」の後ろ盾が無かったからだ、というのが私の仮説である。武力で打ち立てられ、武力で維持されてきた権力は、それより強大な武力的存在が出てきた時、必ず打倒され、滅びるのである。
そして、中国には権力を背後で支える「権威」が無かったから、たとえば黄巾の乱や太平天国の乱など、新興宗教が突然に力を持ち、政府を揺るがしたわけだ。道教も仏教も、それらの新興宗教を阻止する力にはなれなかった。いや、道教など、新興宗教に利用されたのである。
つまり、宗教を土台にした「権威」は、中世西洋のカトリックくらいのレベルでないと、社会秩序維持の基盤にはなれないのである。で、それは「唯一神」という狂信が疑われるようになると、力を失った。現在の西洋の無道徳さは、その宗教心の崩壊が原因である。

日本の「天皇制」というか、天皇の存在は、宗教ではないのに、動揺する人心をひとつにまとめる不思議な力があった。明治以後の「国家神道」は、宗教でもない神道を宗教化し、天皇を神格化するという異常なやり方で近代国家形成の土台とし、それは国力増大の大きな力になったが、それが第二次大戦での破滅の原因にもなったわけだ。
それは「天皇という権威」を「権力と一体化する」歴史的失敗だった、というのが私の説である。(現在の「象徴天皇制」こそが、「権威」としての天皇制のもっとも純粋な形だろう。天皇は、「ただ存在するだけでいい」のである。それが存在することで、人の心の奥底に安心感が生まれ、日本の歴史や伝統や日本人への誇りと信頼が生じ、日本という国が安定するのだ。それが「天皇は日本の象徴である」ということの意味だ。)

3についての考察は宿題として、「権力」と「権威」の違いを簡単に言っておく。
権力とは文字通り、力である。それは「武力」や「資力」を土台とする。現代世界では資力こそが政治や社会を動かす権力なのである。そして、天皇には資力も武力もないのは明白だろう。天皇家の資力など、雀の涙程度のものとしか私には思えない。
だが、大富豪の資力も天皇の前では無力である。それが1000年以上もの歴史の上に成立する「権威」というものだ。
武力は、簡単に天皇を殺せるだろう。だが、それをやる時、その権力はこの日本で存続する力を失うと思う。だから、信長も秀吉も家康も天皇制に手を触れなかったのである。


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