別ブログに書いた記事だが、そちらはメモ的ブログなので、こちらに「一般公開」しておく。
(以下自己引用)
作者名は忘れたが、昨日読んだばかりの「魔術はささやく」が、不快な読後感を残したので、その考察をしてみる。
この作者は非常に達者な小説家で、書いた作品の多くがベストセラーになっている。小説家としての手腕は折り紙付きである。実際、内容の緻密さ、(表面的な)破綻の無さは、大衆小説作家の中でもトップレベルだろう。
問題は、先に「破綻の無さ」にカッコを付けて「(表面的な)破綻の無さ」としたところだ。(表面的な)と言う理由は、他の人は知らないが、私には「読後感の悪さ」である。
つまり、根本的な部分が何か間違っているという感じで、それは「何のために小説を書いているのか」という疑問にもつながる。もちろん「カネのために決まっているだろ」と言えばそれでおしまいだが、小説を書くこと自体が好きでないと、小説家を職業にしてはいないだろうし、彼女(女性作家である)は、本当に自分の書いてきた作品に満足しているのだろうか。ならば、それらの作品の読後感の悪さは何に起因するのだろうか。
いや、推理小説というのはもともと人間の悪を描くのだから、読後感が悪いのは当然で、「読後感がいい」などというのは昔の「勧善懲悪小説」という低レベルの小説だけだ、と言う人もいるだろう。はたしてそうか? 「勧善懲悪」は低レベルの小説か?
具体的に書こう。「魔術はささやく」の主人公は、実質的に殺人を犯しているのである。つまり、殺人の決意をして(催眠術殺人なので決意自体が殺人行為になる)、その後で発作的にその殺人を中止する(自殺命令から自殺まで時間差があるので、相手の自殺を「阻止」する)のだが、なぜ中止したのかは分からない。そして、自分が実は既に殺人をしたのと同様の行為をしたことへの反省はまったくない。
その少年に催眠術での殺人手段を与えた老人も自分自身で「復讐のために」数人の人間を殺し、その行為への反省はまったく無い。
ここに、作者の「無道徳性」があり、それを気色悪いと私は感じているようだ。
さて、「復讐殺人」について考えてみる。
我々はどうやら「復讐殺人は正当だ」と考える傾向があるようだ。それは「自分がひどい行為をされたら復讐するのは当然だろう」という心理があると思われ、それはほぼ万人に共通する心理だからだろう。ところが、「復讐」と「復讐殺人」は実は問題が別なのである。
復讐の法的応用は「目には目を、歯には歯を」であることはたいていの人が同意すると思う。で、一般的な「復讐」は被害を受けた当人が害を与えた人間に復讐する。
ところが、一般人による「復讐殺人」は実は根本が異なるのである。それは「復讐の権利を持っている被害者は既に死んでいて、その権利の無い他人(親戚友人含む)が復讐として相手を殺す」という、非応報性が存在することだ。これはかつてのコルシカ島やその心理的子孫であるマフィアでは正当とされただろうが、法的(というより法哲学的)には不当であるのは言うまでもない。
しかも、「魔術はささやく」では、主人公を捨てた父親を交通事故で殺してしまい、その場から逃走したが、後悔して主人公家族を長い間面倒を見てきた人物を、主人公が「何の心理的葛藤もなく」殺す(催眠術で自殺を命じるがすぐに自分で阻止する)のである。
ここに私は作者のアモラルさを感じるわけで、それはまた、あまりに心理的に不合理だと思うわけだ。小説の人物が、作者の道具でしかない、と言ってもいい。それは当たり前だと思う人が多いとは思うが、問題はそうした小説の与える「毒物的効果」である。いや、私も「一般的な復讐」は正当だと思うし、むしろ国家による「復讐権利の占有」は問題だと思ってはいるが、問題は「復讐殺人」の哲学的不合理性なのだ。
なお、催眠術殺人を発明した老博士も、同様の「犯罪と釣り合わない復讐を平気で行う」人間であり、詐欺行為の被害で自殺した馬鹿な若い男のために、その詐欺行為をした4人の若い女性を殺すのである。これはつまり「私刑(リンチ)」を肯定的に長々と描いた小説なのだが、なぜ肯定的にと言うかというと、その私刑の犯罪性や復讐殺人の犯罪性、あるいは不当さに対する一言の言及も無いからだ。
極論すれば、「どんな小悪でも死刑に相当し、私刑もまた肯定できる」という思想が、この小説には垣間見える、と言えるように思う。
推理小説的に言えば「催眠術殺人」自体がルール違反だとは思うが、まあ、それは古い考え方かもしれない。
(以下自己引用)
作者名は忘れたが、昨日読んだばかりの「魔術はささやく」が、不快な読後感を残したので、その考察をしてみる。
この作者は非常に達者な小説家で、書いた作品の多くがベストセラーになっている。小説家としての手腕は折り紙付きである。実際、内容の緻密さ、(表面的な)破綻の無さは、大衆小説作家の中でもトップレベルだろう。
問題は、先に「破綻の無さ」にカッコを付けて「(表面的な)破綻の無さ」としたところだ。(表面的な)と言う理由は、他の人は知らないが、私には「読後感の悪さ」である。
つまり、根本的な部分が何か間違っているという感じで、それは「何のために小説を書いているのか」という疑問にもつながる。もちろん「カネのために決まっているだろ」と言えばそれでおしまいだが、小説を書くこと自体が好きでないと、小説家を職業にしてはいないだろうし、彼女(女性作家である)は、本当に自分の書いてきた作品に満足しているのだろうか。ならば、それらの作品の読後感の悪さは何に起因するのだろうか。
いや、推理小説というのはもともと人間の悪を描くのだから、読後感が悪いのは当然で、「読後感がいい」などというのは昔の「勧善懲悪小説」という低レベルの小説だけだ、と言う人もいるだろう。はたしてそうか? 「勧善懲悪」は低レベルの小説か?
具体的に書こう。「魔術はささやく」の主人公は、実質的に殺人を犯しているのである。つまり、殺人の決意をして(催眠術殺人なので決意自体が殺人行為になる)、その後で発作的にその殺人を中止する(自殺命令から自殺まで時間差があるので、相手の自殺を「阻止」する)のだが、なぜ中止したのかは分からない。そして、自分が実は既に殺人をしたのと同様の行為をしたことへの反省はまったくない。
その少年に催眠術での殺人手段を与えた老人も自分自身で「復讐のために」数人の人間を殺し、その行為への反省はまったく無い。
ここに、作者の「無道徳性」があり、それを気色悪いと私は感じているようだ。
さて、「復讐殺人」について考えてみる。
我々はどうやら「復讐殺人は正当だ」と考える傾向があるようだ。それは「自分がひどい行為をされたら復讐するのは当然だろう」という心理があると思われ、それはほぼ万人に共通する心理だからだろう。ところが、「復讐」と「復讐殺人」は実は問題が別なのである。
復讐の法的応用は「目には目を、歯には歯を」であることはたいていの人が同意すると思う。で、一般的な「復讐」は被害を受けた当人が害を与えた人間に復讐する。
ところが、一般人による「復讐殺人」は実は根本が異なるのである。それは「復讐の権利を持っている被害者は既に死んでいて、その権利の無い他人(親戚友人含む)が復讐として相手を殺す」という、非応報性が存在することだ。これはかつてのコルシカ島やその心理的子孫であるマフィアでは正当とされただろうが、法的(というより法哲学的)には不当であるのは言うまでもない。
しかも、「魔術はささやく」では、主人公を捨てた父親を交通事故で殺してしまい、その場から逃走したが、後悔して主人公家族を長い間面倒を見てきた人物を、主人公が「何の心理的葛藤もなく」殺す(催眠術で自殺を命じるがすぐに自分で阻止する)のである。
ここに私は作者のアモラルさを感じるわけで、それはまた、あまりに心理的に不合理だと思うわけだ。小説の人物が、作者の道具でしかない、と言ってもいい。それは当たり前だと思う人が多いとは思うが、問題はそうした小説の与える「毒物的効果」である。いや、私も「一般的な復讐」は正当だと思うし、むしろ国家による「復讐権利の占有」は問題だと思ってはいるが、問題は「復讐殺人」の哲学的不合理性なのだ。
なお、催眠術殺人を発明した老博士も、同様の「犯罪と釣り合わない復讐を平気で行う」人間であり、詐欺行為の被害で自殺した馬鹿な若い男のために、その詐欺行為をした4人の若い女性を殺すのである。これはつまり「私刑(リンチ)」を肯定的に長々と描いた小説なのだが、なぜ肯定的にと言うかというと、その私刑の犯罪性や復讐殺人の犯罪性、あるいは不当さに対する一言の言及も無いからだ。
極論すれば、「どんな小悪でも死刑に相当し、私刑もまた肯定できる」という思想が、この小説には垣間見える、と言えるように思う。
推理小説的に言えば「催眠術殺人」自体がルール違反だとは思うが、まあ、それは古い考え方かもしれない。
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