私が唯一、真実であると信じる言葉(命題)は「力こそパワーである」という言葉だが、これは私が暴力主義者だということではない。論理的に言って「AはAである」以上の正しさを持った論理は無いからだ。ただ、そこに「力とは何か」という、各自各様の定義を入れたら、その論理は成り立たなくなる。
などと言ったのは、フランス革命の「自由、平等、友愛」について、実はその当時の「友愛」には女性は含まれていない、と茶々を入れる発言をこの前ネットで見たからである。
まあ、男性と女性の間には恋愛があるだけで友愛は無い、という考えもあるだろうし、この標語の「fratanite」は「博愛」の意味であり、当然女性も含まれる、という考えもあるわけだ。
つまり、言葉を厳密に定義していない命題や議論はすべて無効だ、という話だ。
ところが現実には言葉が定義されないままの議論が社会全体を飛び交っているのは言うまでもない。となると、すべては「下手な考え休むに似たり」となる。まあ、娯楽としての議論ならそれでもいいし、私の書く文章はすべてその類だ。
さて、上記の議論(ダメ思考)の例を書こう。
私は「超現実主義(シュールレアリズム)」というものを「現実には存在しないものを想像する面白さ」だと考えていたが、それが違うようなのである。
前にも引用した「フランス的思考」の中に、こういう言葉がある。アンドレ・ブルトンの「シュールレアリスム宣言」の一節である。
「私たちが受け継いだ数々の不運にまじって、精神の最大の自由が残されたことはよく認識しなければならない。(略)想像力だけが、ありうることを私に教えてくれるのであり、恐るべき禁忌を少しばかり取り除くにはそれだけでじゅうぶんである。」(強調原文:ただし、この引用では傍点を赤字にする。)
つまり、超現実主義とは「ありえないこと」の想像ではなく「ありうること(現実を超えた先にあるもの)」の想像だったわけだ。少なくとも、その種の芸術の創造者は「そうであるべきだ」とブルトンは考えていたようである。ここには「政治的意味」もありそうだが、それは措いておく。
まあ、このブルトンの言葉や思想の是非はともかく、私が「超現実主義」と考えていたものがまったく違っていたのは事実であり、私はこの言葉を知ってから今に至るまでその誤解を持って生きてきたわけだ。
だからといって別に大きな被害はないが、要するに、我々の認識(大きく言えば世界認識)はその程度のものではないか、ということである。
その前に私は「今更ながら実存主義」という思考テーマを考えていたのだが、それは「実存主義批判」であり、だから「今更ながらの実存主義批判」なのだが、この思想(らしきもの)やその議論が一世を風靡したということ自体が大きな問題ではないか、という思想である。それはまた気が向いた時に考える、かもしれない。
ついでに言っておけば、私は「自由主義」に批判的だが、「精神の自由」は人間に与えられた最大の幸福である、と思っている。私が無批判に肯定する自由は精神の自由だけである。
だが、自由が「主義」、つまり政治運動となった時にそれは人類最大の災厄にもなるだろう。なぜか。それは法も倫理も必然的に「禁止の体系(自由の束縛)」であるからだ。つまり、自由主義は法と倫理を無化するのだ。あなたは犯罪の自由を支持するか? 暴力の自由、殺人の自由、強姦の自由を肯定するか?
などと言ったのは、フランス革命の「自由、平等、友愛」について、実はその当時の「友愛」には女性は含まれていない、と茶々を入れる発言をこの前ネットで見たからである。
まあ、男性と女性の間には恋愛があるだけで友愛は無い、という考えもあるだろうし、この標語の「fratanite」は「博愛」の意味であり、当然女性も含まれる、という考えもあるわけだ。
つまり、言葉を厳密に定義していない命題や議論はすべて無効だ、という話だ。
ところが現実には言葉が定義されないままの議論が社会全体を飛び交っているのは言うまでもない。となると、すべては「下手な考え休むに似たり」となる。まあ、娯楽としての議論ならそれでもいいし、私の書く文章はすべてその類だ。
さて、上記の議論(ダメ思考)の例を書こう。
私は「超現実主義(シュールレアリズム)」というものを「現実には存在しないものを想像する面白さ」だと考えていたが、それが違うようなのである。
前にも引用した「フランス的思考」の中に、こういう言葉がある。アンドレ・ブルトンの「シュールレアリスム宣言」の一節である。
「私たちが受け継いだ数々の不運にまじって、精神の最大の自由が残されたことはよく認識しなければならない。(略)想像力だけが、ありうることを私に教えてくれるのであり、恐るべき禁忌を少しばかり取り除くにはそれだけでじゅうぶんである。」(強調原文:ただし、この引用では傍点を赤字にする。)
つまり、超現実主義とは「ありえないこと」の想像ではなく「ありうること(現実を超えた先にあるもの)」の想像だったわけだ。少なくとも、その種の芸術の創造者は「そうであるべきだ」とブルトンは考えていたようである。ここには「政治的意味」もありそうだが、それは措いておく。
まあ、このブルトンの言葉や思想の是非はともかく、私が「超現実主義」と考えていたものがまったく違っていたのは事実であり、私はこの言葉を知ってから今に至るまでその誤解を持って生きてきたわけだ。
だからといって別に大きな被害はないが、要するに、我々の認識(大きく言えば世界認識)はその程度のものではないか、ということである。
その前に私は「今更ながら実存主義」という思考テーマを考えていたのだが、それは「実存主義批判」であり、だから「今更ながらの実存主義批判」なのだが、この思想(らしきもの)やその議論が一世を風靡したということ自体が大きな問題ではないか、という思想である。それはまた気が向いた時に考える、かもしれない。
ついでに言っておけば、私は「自由主義」に批判的だが、「精神の自由」は人間に与えられた最大の幸福である、と思っている。私が無批判に肯定する自由は精神の自由だけである。
だが、自由が「主義」、つまり政治運動となった時にそれは人類最大の災厄にもなるだろう。なぜか。それは法も倫理も必然的に「禁止の体系(自由の束縛)」であるからだ。つまり、自由主義は法と倫理を無化するのだ。あなたは犯罪の自由を支持するか? 暴力の自由、殺人の自由、強姦の自由を肯定するか?
PR