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実存主義の考察


実存主義について考えようと思うのだが、私は実存主義にはまったく関心がなく、自分が関心を持っているマルキ・ド・サドが、あるいはその生き方が実存主義的ではないかな、と思って最近少し興味を持ってきただけである。
とりあえず、手元にある簡便な「新明解百科語辞典」で調べると、

人間の実存を中心的関心とする思想

という曖昧な説明の後、

「合理主義・実証主義による客観的ないし観念的人間把握、近代の科学技術による人間の自己喪失」などを批判 (カギカッコは筆者による明確化)

とある。で、実存とは

① スコラ哲学で、可能的存在である本質に対して、事物が存在することそれ自体をいう語。現実的存在。現存。
② 実存主義で、特に人間的実存をいう。個別者として自己の存在を自覚的に問いつつ存在する人間の主体的なあり方。具体的状況にある人間の有限性・不安・虚無と、それを超越し本来的な自己を求める人間の運動。自覚存在。

とある。つまり、「実存主義」では、「実存主義者だけが人間的実存である」ようだ。
まあ、馬鹿馬鹿しい思想だと思う。インテリや頭でっかちの学生にだけ人気のある思想だったのが頷ける。

さて、私がサドを実存主義的だと考えたのは、澁澤龍彦の「映画論集成」の中に、こういう一節があり、それをサド的だな、と考えたからだ。

「つまり、政治が政治の原則を踏み外すこと(社会革命)によって、政治そのものを克服し、社会的・政治的疎外の産物にすぎない国家の形態を廃棄しなければならないように、芸術も芸術の原則を踏み外し、まっしぐらに非芸術(魔術)の方向に向かうことによって、人間疎外の産物にすぎない芸術の王国を否認すべきであるという、客観性と主観性の両々相俟った、まことに革命的な理論がこれなのであって云々 」(注:「革命的な理論」と言っているのはシュールレアリズムの理論家であるアンドレ・ブルトンの映画論のこと)

ここで「疎外」と言っているのは、人間が社会で生きるうちに、社会に持つ違和感や孤立感、つまりまさに「疎外感」のことだと考えればいいかと思う。肯定的に言えば、その孤立感は当人の責任ではなく社会の責任だ、というのが実存主義だろう。さて、そこで自分を変えて社会の一部に、あるいは歯車になるか、それとも「社会のほうを変えるか」という選択が生じる。ほとんどの人、「善良なる市民」の99%は前者を選び、稀な一部が「革命家」になるか「社会の反逆者」になるわけである。後者の例がマルキ・ド・サドだ、ということで、やっと話の冒頭とつながるわけだ。

ちなみに、国家が「社会的・政治的疎外の産物にすぎない」とされるのは、我々は国家の成立にまったく関与していないし、国家の内容に同意したわけでもないからだ、と私が理屈づけしておく。


まあ、このように考えれば、実存主義が反政府運動の一要素となったり、左翼的知識人に人気があったのも、頷けないことはなさそうだ。

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