私は書きながら考えるのが習慣で、書いていないときの思考は「浮遊思考」で、すぐに消えてしまうのが常だ。で、書いたら書いたで、それを闇に葬るのももったいないので、誰が読もうが読むまいが関係なしに、つまり無思慮に公開して時には後悔するという悪習がある。
まあ、わざわざ言わなくても、このブログの大半がそういう「思考のごみ溜め(この言葉自体が嫌いなら、何なら花園と言ってもいいww)」であるのは読めば分かることだ。
さて、先ほどトイレで、世に出るのを拒否するあれとの長い勝負の間に読んでいたのがドストエフスキーの「作家の日記」で、日記とは言いながら彼が主催する雑誌に載せられた評論である。これが本物の日記だったら、私と同様の思想的露出狂である。
その中に書かれた文章のひとつで、私の長年の疑問と、近年の或る確信への裏付けが同時に手に入ったのだが、後者は長い引用が必要なので今は書かない。これから書くのは前者についてだが、それも本当は引用が必要だが面倒なので、概略を私なりに書いてみる。ついでに、私自身の別ブログから、その補強となる記事を転載しておく。
問題は何かというと、「ドストエフスキーはなぜあれほどツルゲーネフを嫌悪し憎悪し、自作の小説(評論含む)の中であれほど攻撃したのか」という問題だ。これが私には長年の謎で、ドストの攻撃はツルゲの何を攻撃しているのか、さっぱり分からない書き方なのである。まあ、非ロシア的なインテリ姿勢が嫌いなのだろう、と感じるくらいが関の山である。「ロシア最高!ロシアこそ世界を救う」というドストの信念も読者には意味不明なのだが、だからと言ってツルゲを「欧州インテリ気取りの俗物」扱いするほど、ツルゲは反ロシア的だろうか。むしろ彼のロシア民衆への同情や人道主義的姿勢は彼の散文詩などでも分かるのではないか。
で、私が「作家の日記」で「もしかしたら、これがドストのツルゲ嫌悪の核心ではないか」と考えたのは、両者の作家的体質の根本的違いである。まあ、私の勘違いである可能性も高いとは思うが、ドストはツルゲの詩人的気質を「現実を隠蔽するものだ」と嫌ったのではないか。その証拠にツルゲの作品は詩情に溢れているが(私は二葉亭四迷訳の「あひびき」と訳者は覚えていないが彼の「散文詩」しか読んでいないが)、ユーモア描写はゼロなのである。ユーモアこそ、現実を裏返す形で現実の本質を正確に示すものなのだ。
で、ドストはツルゲ監修によるゴーゴリの諸作品の仏語訳からゴーゴリのユーモアが完全に姿を消していることに怒り狂っているのである。知っている人は知っているだろうが、ゴーゴリはドストにとって「作家としての神」というか、「ロシア現代文学の父」である。その偶像の作品をいびつに改変して欧州に伝えるという「悪業」は、ドストにとって絶対に許せない行為だったわけだ。
そしてツルゲがなぜゴーゴリ作品のユーモアを全部消してしまったかというと、先に書いたようにそれは彼が詩人だったからだ、というのが私の説である。詩人にはユーモアは分からない、いや、ユーモアを消すことによって詩情は生じるとすら言える、というのが私の珍説だ。
その説を私の別ブログから転載する。
(以下自己引用)末尾の一節を省略。
まあ、わざわざ言わなくても、このブログの大半がそういう「思考のごみ溜め(この言葉自体が嫌いなら、何なら花園と言ってもいいww)」であるのは読めば分かることだ。
さて、先ほどトイレで、世に出るのを拒否するあれとの長い勝負の間に読んでいたのがドストエフスキーの「作家の日記」で、日記とは言いながら彼が主催する雑誌に載せられた評論である。これが本物の日記だったら、私と同様の思想的露出狂である。
その中に書かれた文章のひとつで、私の長年の疑問と、近年の或る確信への裏付けが同時に手に入ったのだが、後者は長い引用が必要なので今は書かない。これから書くのは前者についてだが、それも本当は引用が必要だが面倒なので、概略を私なりに書いてみる。ついでに、私自身の別ブログから、その補強となる記事を転載しておく。
問題は何かというと、「ドストエフスキーはなぜあれほどツルゲーネフを嫌悪し憎悪し、自作の小説(評論含む)の中であれほど攻撃したのか」という問題だ。これが私には長年の謎で、ドストの攻撃はツルゲの何を攻撃しているのか、さっぱり分からない書き方なのである。まあ、非ロシア的なインテリ姿勢が嫌いなのだろう、と感じるくらいが関の山である。「ロシア最高!ロシアこそ世界を救う」というドストの信念も読者には意味不明なのだが、だからと言ってツルゲを「欧州インテリ気取りの俗物」扱いするほど、ツルゲは反ロシア的だろうか。むしろ彼のロシア民衆への同情や人道主義的姿勢は彼の散文詩などでも分かるのではないか。
で、私が「作家の日記」で「もしかしたら、これがドストのツルゲ嫌悪の核心ではないか」と考えたのは、両者の作家的体質の根本的違いである。まあ、私の勘違いである可能性も高いとは思うが、ドストはツルゲの詩人的気質を「現実を隠蔽するものだ」と嫌ったのではないか。その証拠にツルゲの作品は詩情に溢れているが(私は二葉亭四迷訳の「あひびき」と訳者は覚えていないが彼の「散文詩」しか読んでいないが)、ユーモア描写はゼロなのである。ユーモアこそ、現実を裏返す形で現実の本質を正確に示すものなのだ。
で、ドストはツルゲ監修によるゴーゴリの諸作品の仏語訳からゴーゴリのユーモアが完全に姿を消していることに怒り狂っているのである。知っている人は知っているだろうが、ゴーゴリはドストにとって「作家としての神」というか、「ロシア現代文学の父」である。その偶像の作品をいびつに改変して欧州に伝えるという「悪業」は、ドストにとって絶対に許せない行為だったわけだ。
そしてツルゲがなぜゴーゴリ作品のユーモアを全部消してしまったかというと、先に書いたようにそれは彼が詩人だったからだ、というのが私の説である。詩人にはユーモアは分からない、いや、ユーモアを消すことによって詩情は生じるとすら言える、というのが私の珍説だ。
その説を私の別ブログから転載する。
(以下自己引用)末尾の一節を省略。
「ナルニア国ものがたり」という、有名な児童文学があって、名前だけは昔から知っていたが、なぜか読む気になれなくて、この年(何歳かは特に秘す)になって初めて読んでみた。
私は児童文学は好きで、名作と呼ばれているものは、何歳の人間が読んでも面白いはずだ、という考えだが、これが、まるで面白くないのである。子供向けの本だから当然だ、とはならない。優れた児童文学や童話は大人が読んでも面白いのである。
「ナルニア国ものがたり」がなぜ面白くないかというと、私の考えでは、作者自身が面白くない人間で、つまり「ユーモア感覚」がないからだろう、と思う。作者はC.S.ルイスという、詩人としては有名な人らしい。
それで思うのだが、詩人というのは、たいていがユーモア感覚が欠如しているのではないだろうか。ユーモア感覚があれば、おおげさに泣いたり感動したりすることに抵抗があり、それを笑いに換えるはずだからだ。ルイス・キャロルなどがその代表で、「アリス」の中の詩はすべて冗談詩である。私はウィリアム・ブレイクが好きだが、彼もユーモア感覚は無かったと思う。蠅一匹が打ち殺されるのを見て、そこにあらゆる生物の宿命を見る、というのは詩人ならではだろう。
宮沢賢治は詩人であり優れた童話作家だったが、彼の作品はユーモアよりは詩情が高度である。ユーモアも無いではないが、どちらかというとペーソス(哀感)が多い。
つまり、詩情というのは、笑いではなく、涙を誘うものだということだ。
なお、「ナルニア国ものがたり」第一巻だけは我慢して最後まで読んだが、第二巻は最初で放棄した。第一巻の「衣装箪笥の奥が異世界に通じる」というギミックは面白いと思ったが、第二巻では、特に明白な理由もなく、いきなり異世界に行くという雑さである。そう言えば、第一巻でも、話をかなり端折っており、ライオンが子供たちを王や女王に任命したから王や女王になりました、で話はほとんど尽きている。その前に少し、氷の魔女とやらとの戦争があるが、それも簡単に終わり、描写らしい描写はほとんどない。こんな調子で全7巻の「ナルニア国クロニクル」を書かれても、すべてが単なる「説明」で終わることは予測できるのである。
まあ、その「壮大さ」の印象だけで感心する子供も多いだろうから、これが児童文学の古典扱いされているのだろう。
私は児童文学は好きで、名作と呼ばれているものは、何歳の人間が読んでも面白いはずだ、という考えだが、これが、まるで面白くないのである。子供向けの本だから当然だ、とはならない。優れた児童文学や童話は大人が読んでも面白いのである。
「ナルニア国ものがたり」がなぜ面白くないかというと、私の考えでは、作者自身が面白くない人間で、つまり「ユーモア感覚」がないからだろう、と思う。作者はC.S.ルイスという、詩人としては有名な人らしい。
それで思うのだが、詩人というのは、たいていがユーモア感覚が欠如しているのではないだろうか。ユーモア感覚があれば、おおげさに泣いたり感動したりすることに抵抗があり、それを笑いに換えるはずだからだ。ルイス・キャロルなどがその代表で、「アリス」の中の詩はすべて冗談詩である。私はウィリアム・ブレイクが好きだが、彼もユーモア感覚は無かったと思う。蠅一匹が打ち殺されるのを見て、そこにあらゆる生物の宿命を見る、というのは詩人ならではだろう。
宮沢賢治は詩人であり優れた童話作家だったが、彼の作品はユーモアよりは詩情が高度である。ユーモアも無いではないが、どちらかというとペーソス(哀感)が多い。
つまり、詩情というのは、笑いではなく、涙を誘うものだということだ。
なお、「ナルニア国ものがたり」第一巻だけは我慢して最後まで読んだが、第二巻は最初で放棄した。第一巻の「衣装箪笥の奥が異世界に通じる」というギミックは面白いと思ったが、第二巻では、特に明白な理由もなく、いきなり異世界に行くという雑さである。そう言えば、第一巻でも、話をかなり端折っており、ライオンが子供たちを王や女王に任命したから王や女王になりました、で話はほとんど尽きている。その前に少し、氷の魔女とやらとの戦争があるが、それも簡単に終わり、描写らしい描写はほとんどない。こんな調子で全7巻の「ナルニア国クロニクル」を書かれても、すべてが単なる「説明」で終わることは予測できるのである。
まあ、その「壮大さ」の印象だけで感心する子供も多いだろうから、これが児童文学の古典扱いされているのだろう。
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