もちろん、私も下の記事にほとんど同感だから転載するわけだ。
(以下引用)
2024-12-17
■コミュ障が10年かけて社交的になって気づいたこと
コミュ障時代の俺
社交的になった今の俺
- 相手がいればなにかしら話してる
- 他人と目を合わせて笑顔で話せるようになった
- 会話を繋ぐ程度の雑談ができるようになった
- 場を盛り上げるトーク力はない
- お店やレストランで自然に質問できるようになった
- ネットでチャットの会話もできるようになった
とりあえず日常生活を気分良く過ごせるようになるまで成長できたと思う。
なんで社交的になろうとしたのか?
「人とまともにコミュニケーション取れないと生きててめんどくさい」
と思うようになった。
お店で質問すればすぐわかることを躊躇して買うのやめたり。
コミュ障が故に無駄に体力とメンタルを削られていることに気づいたからだと思う。
人と交流するようになって気づいたこと
- 大半の人間は別に話が面白いわけではない
- 初対面でうまく話せない人の方が圧倒的に多い
- 自分が明るい態度だと相手も愛想よく接してくれる
- 善意に対して善意を返してくれる人の方が多い
- 実はこの世界に敵らしい敵はほとんどいない
俺の場合はそこら辺のメンタルがコミュ障をこじらせていた原因と思う。
社交的になれたきっかけ
コミュ障が社交的になろうと心がけてじゃあ明日からなれるかっていうと難しい。
1~2年意識すればなれるかというとそれも厳しい。
少なくとも自分はそうだった。
ある時、ほんのささいなことだけど俺を助けてくれた人がいた。
メリットなんてないのにその人は労力を惜しまず協力してくれたんだ。
当時、人を疑って斜に構えてしまう癖が抜けてない俺には理解できないことだった。
でもよくよく考えて、これって見返りも裏表もない100%ただの善意だと気づいた。
それに気づいて、その善意を自分に向けてくれたんだと実感した時に、
心の底からありがたいなって思えた。
でも、こういう人を傷つけない、辛い思いや悲しい思いをさせない、
それからは人を変に疑ったり斜に構えたりせずに、
誰に対しても善意と好意を持って接することを心がけるようになった。
そうして少しずつだけど社交的な俺に慣れていったんだと思う。
きっと今までもこの手の善意を俺に向けてくれた人はいた気がする。
でも自分は無駄に自意識過剰で、役に立たないプライドがあったせいで、
「弱者に見られて気分が悪い」みたいな感じで善意を拒否してたんだろう。
実は世の中は割と善意であふれている
今まで気づかなかっただけで、
実は世の中ってこういった善意であふれているんだと気づいた。
いろいろな人と触れ合うようになってからよりそう思うようになった。
もちろん悪意もたくさんある。けど、悲観するほどでもない。
そしてそれがこの世界の当たり前なんだろう。
ひとかけらの悪意に過剰反応しすぎて、質量のある善意を求めていた。
今まで生きづらいなと思っていたのは、
俺の勝手な思い込みと歪んだ認知が招いた結果だったんだと思う。
善意に触れることがきっかけになるなら
きっと善意をくれた本人は何かしてあげたと思ってないし、記憶にさえ残っていないと思う。
それぐらいささいなものだった。でも本当にありがたいことだった。
それに俺はたまたま気づいて、たまたま感謝する気持ちが芽生えただけだ。
でもそういう偶然があるなら、今度はたまたまこの記事を読んで、
コミュ障だった時の俺と同じような生きづらさを感じてるあなたがいるなら、
ちなみにこれ、あのとき俺に善意をくれた彼女が実は今の奥さん…
俺の手元にはなんもない。
でも穏やかに過ごせてる。