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コンクリートとナイフ

太田忠司という小説家がいて、主にミステリーを書いているが、あまり全国的な知名度は無いと思う。昔読んでいたブログの主がこの作家のファンで、それで名前を知って幾つか読んだのだが、まあ、やはり全国区の人気は得られそうもない印象だった。だが、名前は覚えていたので、この前近くの図書館に行った時、児童図書の棚でその作品を見つけて借りてみた。この図書館は大人向けの本の蔵書数が呆れるほど少ないので、最近は児童生徒向けの棚を探すのである。
結果的には、昔読んで忘れていた作品だったのだが、物覚えが悪いと、同じ作品を何度読んでも同じレベルの楽しみがあるというメリットがあるww まあ、作品自体は、出て来る人物がみな性格が悪い印象で、あまり読んでいて楽しくはないのだが、最後になって、「これは主人公の主観で書かれていたので、周囲の人物は実はそれほど性格が悪くもないのではないか」、と思ったのは、私が最近「信頼できない語り手」という手法に関心があったからかもしれない。要するに、一人称視点の作品はすべて「その語り手が真実を言っているとは限らない」し、一人称ではなくても、主人公の視点を中心に書いていれば、それは「信頼できない語り手」になるのである。 何度も例に出すが、ディッケンズの「大いなる遺産」や、ドストエフスキーの「未成年」はそれだと私は思っている。そして、そういう作品は「映像化がほぼ不可能」という特徴がある。「大いなる遺産」は何度か映画化されていると思うが、たぶん成功したことは無いだろう。読んだことはないが、カズオ・イシグロの「日の名残り」なども「信頼できない語り手」の例のようだ。
で、最初の話に戻って、太田忠司のその作品には、推理小説としての欠陥(トリックが成り立たない)は幾つかあるが、コンクリートの劣化が中心トリックになっているのが興味深かった。というのは、今住んでいる田舎の町は過疎化が進んで、放棄住宅が多いのだが、特にコンクリートの建物の劣化が激しいのである。コンクリート住宅がこれほど劣化するのだという、見本市のようなものだ。
で、なぜコンクリート建築が劣化するのか、ということの説明がその小説の中にあって、それはコンクリートがアルカリ性だからだ、と聞いて成る程、と思ったわけである。アルカリ性だから、空気に触れていると酸化して中性化し、強度が減るわけだ。そして、内部の鉄筋が酸化、つまり錆びると、鉄筋の体積が増し、コンクリートに亀裂を入れる、という機序のようだ。これは私の見たコンクリート建築の廃屋の様子とよく一致している。ちなみに、コンクリートには砂利や砂を混ぜるが、その砂が海の砂だと、塩分のために劣化速度が速くなるようだ。つまり、誠実な業者の建てた建築と、不誠実な業者の建てた建築は、数年後にその劣化具合がかなり異なることになる。
なお、その小説の中で、私が無理だと思ったのは、木の枝か幹に縛り付けたナイフで、自分の背中を切るというトリックである。皮膚を露出した体なら刺すことは可能だろうし、少しなら切ることも可能だろうが、服の布地をそのナイフが「切る」ことは不可能だろう。布地というのは案外切れないものだ。剃刀ならともかく、ナイフでは無理だと思う。背中にナイフを当てて体を動かしても、ナイフが衣服を切るのは非常に困難だろう。釘などに引っ掛けて衣服が破れるのと「ナイフが切る」のは別なのだ。言い方を変えれば、ナイフは「刺す」武器なのである。顔などは切れるだろうが、衣服はほとんど切れないと思う。


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社会道徳と「生きることのコスパ」

某スレッドから転載。
私も、現代社会で真面目に生きることのコスパの悪さについて考察しようと思っていたのだが、これは「犯罪者」特有の傾向ではなく、「下級国民」に共通した感想なのではないか。私のように、立小便以外の犯罪をしたことがない小市民でも「真面目に生きることはコスパが悪い」だろうと思っているのである。
ただし、コスパの中に「安全性」を要素として入れればもちろん、コスパの数値は「真面目に生きる」ほうが跳ね上がる。そして、一度犯罪的な行為をした者は、その後も犯罪に手を染めやすくなるのは理の当然だろう。つまり、「もはや後戻りはできない」状態になるからだ。そして、犯罪者には犯罪者の仲間世界があるから結構生きてはいけるのだろう。
バルザックの「ゴリオ爺さん」の中で悪党ヴォートランが主人公のラスティニャックに「美徳は切り売りできないんだぜ」と言っているのはそういうこと、つまり一般市民と犯罪者の人生の不可逆性だろう。


(以下引用)
■Twitterより


少年院の先生などいろいろ経験させてもらったけども、多くの犯罪者と呼ばれる人は「犯罪ってコスパ悪いよね」という一般的な感覚よりも「真面目に生きるのってコスパ悪いよね(もう諦めている)」が勝っている人が多い。

そしてなぜか被害者意識が強い人も多い。自分勝手に見える人が多いのはそのせい



個人的に最近の闇バイト(特にタタキ)に手を染める人の傾向で、自分の残りの人生を賭けて人生一発逆転狙っちゃっている感じする。

小さな犯罪や逸脱行為を繰り返し、「真面目に生きるのってコスパ悪いよね」という考えが骨の髄まで浸み込んでしまっているため、救いがない




<このツイートへの反応>

昔より努力が報われにくい時代ですからな…

欲望の形は人それぞれですからね
欲しい物がどうやっても手に入らないと確信した時が1番危うい気がします。


言い方悪いけど、パパ活も似たようなもんよな。
真面目に働く方が馬鹿らしいって言う価値観。
一応売りも犯罪なんだけどな。


「普通の幸福が得られる人生ゲーム」に参加できなくなって、「犯罪込み込み」で人生博打化するこの傾向、本当にマズいなあと思ってます。

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健康についての私的思想(後半)

6 高血圧と診断されたら、薬を飲め。


 


 私は高血圧である。そんな人間が健康法について偉そうな事を言うのはちゃんちゃらおかしいが、私が健康法について考え始めたのは高血圧になった後だから仕方がない。


 高血圧は遺伝的要素が大きいから、家族に高血圧の人がいるなら、若い頃から節制して体重コントロールに努めるのが良い。だが、すでに高血圧だと診断されたなら、医者の処方に応じて薬を飲むのが一番である。私が飲んでいるのはディオバン80で、後にカルシウム剤のニフェランタンを追加した。それで、現在は90弱から130前後の血圧を維持している。何度か血圧値を測って、下が90以上、上が140以上であることが多いなら、薬を飲む決心をしたほうがいいだろう。(血圧は容易に変動するものだから、1回や2回高い数値が出た程度では心配することはない。)意地を張って飲まずにいると、血管の負担が長引き、取り返しのつかない状態になる可能性もあるはずだ。


 実際、私は、薬を飲むことで、若い頃からしばしばあった頭痛やのぼせなどがほとんど起こらなくなった。ということは、それらの症状も高血圧に関係があったのではないかと思う。それらの症状が無くなっただけで、薬を飲んだ価値はあったというものである。まあ、月に4,5千円の医者代は若い頃の不摂生のつけだと思うしかないだろう。


 


7 血糖値が高い場合は、体重を減らせ。


 


 私が高血圧と診断された時に、同時に血糖値の高さも指摘され、体重を減らすように医者から指導された。その指導に従って、節食によって体重を78キロから74キロくらいに落とすのに、2,3ヶ月くらいかかったろうか。その後、72キロまで落とし、現在は71キロから72キロの間で推移している。この減量によって、血糖値は改善され、糖尿病になることは何とか避けられたようである。糖尿病は、体が消費できる以上にカロリーを摂取してしまうことから起こるのだから、食事制限以外には糖尿病の予防策は無いだろう。もちろん、運動でもカロリーの消費はできるが、その非効率性は前で述べた通りである。


 


8 腰痛にも体重を減らせ。


 


 腰痛の原因についてはよく知らないが、(医者だって、本当に知っているかどうかあやしいものである。)私の場合には、体重を減らすことで、腰痛までも解消されたのである。ウエストサイズで言えば、97センチから94センチ、そして現在は91センチと二まわりサイズを落としたのだが、それでも厚生労働省のメタボリック症候群の判定基準をまだ越えていて、困っている。もちろん、その判定基準がムチャクチャなのである。だいいち、男よりも女のほうが判定が甘いのはおかしな話だ。また、身長と体重、ウエストサイズとの関係も考慮せずに、一律にウエストサイズ90以上はメタボリックだと決めてしまうのも乱暴な話だ。現役スポーツ選手以外で、身長2メートルで、ウエストサイズが90以下の男がいたら、化け物だろう。それはともかく、腰痛の解消には体重を減らすこと、またはウエストサイズを減らすことが有効である。


 


9 同一姿勢の連続は体調悪化の原因。


 


 身体の不調は、同一姿勢の連続からくることが多い。前に書いたことと重複するが、特にデスクワークを長時間している場合、同じ姿勢を続けていることが多く、鬱血、筋肉の凝り、骨格の変形などの原因になることがある。たとえば、私の背骨は左右に湾曲しているが、これは子供の頃の机に向かう姿勢が悪かったためである。つまり、いつも左腕の肘を机の上に置き、それで顎を支えて本を読んでいたのである。気が付いた時には、中学1年で脊柱側湾症である。普段は意識して背骨をまっすぐに保っているが、油断すると、右肩が下がった状態になる。


 現代では、デスクワークの一つが、パソコンの画面に向かうことだが、これは言うまでもなく、視力を悪化させる原因となる。我々は毎日、自分の体の悪化と引き替えに、デスクワークをしているのである。パソコンのキーボードを打つせせこましい姿勢も不愉快なものだが、それをカッコいいと思っている人間もいるかもしれない。だが、健康に良くないことは確かである。


 


10 感覚器官のコンディションも整えよ。


 


 私は、右目は1.0、左目は0.1くらいの視力だが、メガネをかける習慣は無い。このくらいの視力なら、社会生活を送る上でまったく不便は無いからである。一方、私の二人の子供は、視力が悪化し始めた頃からメガネをかけるようになり、メガネ無しではほとんど生活ができない。子供たちはどちらも早い時期からパソコンに接していたから、そのせいで視力が悪化した可能性は高いが、メガネをかけること自体、視力の悪化を促したのではないかという気がする。近視が軽い間は、なるべく視力矯正訓練で視力を回復するのが望ましい。つまり、読書などのように近い距離の物を長い間見ることを避けて、一定時間ごとに遠くを見て眼筋の運動をさせ、水晶体の厚さ調節運動を行うのである。健康な目は一生の財産であり、メガネをかけないと物が見えないというのは障害者の一種であると考えるべきだろう。つまり、日本人の半数以上は障害者なのである。だが、文明人である限り、目の酷使は避けられない。まだ近視になっていない人間は、自分の健康な目の価値を自覚するべきである。(目に限らず、我々の体の一つ一つの部品は、金で買うとしたら、巨額の金額になるだろう。我々の体そのものが、大きな財産なのである。)


 聴力については、私は何も言う資格は無い。音の判別能力という点では、かなり低いレベルの人間である。味覚も鈍い方だろう。嗅覚は普通か。だが、「普通」の感覚を持っていることは、それ自体財産ではある。人間に五感が無ければ、生きる楽しみの大半は失われる。音楽、美術、美食、薫香などは人生を豊かにするだけでなく、しばしば人生の目的の一つとなる。ならば、それらの感覚器官を大事にするのは当然だろう。

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健康についての私的思想(前半)

別ブログに載せた記事の一部で、最初に書いたのは20年以上も前だったと思う。
その頃と頭の中身はさほど進化も深化もしていないせいか、再読しても面白かったので、ここにも載せておく。ただし、高血圧薬(降圧剤)について、ここに書かれた薬名は信用しないほうがいいと思う。私はその後、降圧剤の副作用で横紋筋融解症になり、一時は足が立たないほどの筋肉障害を経験したからだ。その薬が、ここに書かれたものかどうかは忘れたが、薬については慎重であるべきだろう。

(以下自己引用)

生活の技術(14)


 


第六章 健康法


 


 どのような優れた才能や人格を持っていても、健康に恵まれなければ、その人の一生は苦しいものになるだろう。健康は、良い人生の第一条件と言ってもいい。そこで、健康について述べよう。


 健康の留意点は、若い時期と中年以降では異なる。若い頃は体そのものを作る時期だから、運動と栄養摂取が健康法の中心になる。だが、中年以降は逆に、運動の危険性に留意すること(運動しすぎないこと)と、節食(栄養を摂らないこと)が中心になるのである。


 若い頃は、体そのものが頑丈で柔軟性があるから、極端な不摂生をしない限り、運動や食事の健康への害は無い。多少の過食も十分に消化される。


 だが、中年以降はそうはいかない。健康法も、より細心さが必要になる。若者へのアドバイスという当初の目的からいきなり外れるが、ここでは、私自身が現在興味を持っている、中年以降の健康法を中心に述べよう。


 


 


1 健康の基本は、節食である。


 


 人間の体は食物で維持されている。だから、何を食べるかは重要な問題だが、これが案外と軽視されている。旨い物、好きな物を食っていればいい、というのも一つの考えだが、健康を考えるなら、そうとばかりも言えない。美食は概して不健康につながるからである。だが、何を食うか以上に、どれだけ食うかは大きな問題である。中年以上の年代での不健康はたいてい肥満が原因であり、肥満の原因は食べ過ぎなのである。そして、運動で肥満を解消するのはほとんど不可能に近い。なぜなら、当たり前の話だが、運動をすれば腹が減り、空腹感が増すからである。それは実際に体が食物を要求しているということだから、運動をしながら節食をすると、(細心の注意を払ってウェイトコントロールをしているボクサーなら別だが)体に悪影響を及ぼしかねないのである。ちなみに、御飯一杯分のカロリーを消費するのに、1時間程度のジョッギングが必要だということである。忙しい現代人、特に怠惰な中年にそんなことができるものか。ジョッギング・ウェアを買い込んでジョッギングを始めても、三日坊主で終わるのが落ちである。また、運動で汗をかくと、体が水分を要求する。その時に、必要最低限度の水分補給で満足できる人間はほとんどいないだろう。必ず、必要以上の水を飲んでしまうのである。しかも、(くどく繰り返すが、)運動をして腹が減るのだから、飯がうまくて、もりもり食うことになる。結局、運動で体重を減らすのは、よほど意志が強い人間でないかぎり無理な話である。つまり、運動でダイエットに成功したのではなく、運動と節食を併用した結果、ダイエットに成功するというのが事実だ。もっとも、後で書くように、社会がやたらに人々に運動を勧めるのは、それが大きな商売だからであるのだが。


 


中年以降の人間で、過激な運動をしていいのは、それが仕事であるプロスポーツ選手だけである。プロスポーツマンは、体が資本であるから、最高のパフォーマンスのためには、肉体の限界に挑むこともあっていい。だが、なぜ一般人がスポーツなどする必要があるのか。それが健康にいいから、というのは幻想である。我々は、社会の圧力によって運動をさせられているだけだ。見苦しい体型の中年や老年の男女が、みっともないスポーツウェアでジョッギングやウォーキングをしているのは、あれは運動で健康になれるという幻想に踊らされているだけである。もちろん、医者という「専門家」も、運動によるダイエットの限界や害悪など知らないくせに運動によるダイエットを勧めているのである。なぜなら、誰もが「運動でダイエットしろ」と言っているから、というだけのことだ。


もちろん、私は運動のすべてを否定するわけではない。私が言いたいのはただ二つ。「運動ではダイエットはできない」ということと、「過激な運動は健康に害がある」という二つだけだ。しかも、たいていの運動は私から見れば「過激」なのである。


中年過ぎの人間にとっての過激な運動とは、極端に言えば、汗をかくくらいの運動のことである。体から汗が出るということは、体がオーバーヒートしていて、それを冷ますために発汗しているということだ。オーバーヒートが体にいいはずはない。基本的に、体が疲労するほどの運動、過度に汗をかくほどの運動は、体に害があると考えるべきである。ただし、これは中年以降の人間の話であって、肉体を形成する段階では、体を鍛えるための負荷も必要だから、自分がどの段階かを良く考えることである。


 さて、中年以降の不健康の原因は肥満であり、その原因が過食である、という前提で話を進める。肥満は高血圧、糖尿病、心臓病など様々な生活習慣病の原因であるから、この前提には問題は無いだろう。さらに、個人的な経験によれば、腰痛の原因も肥満であった。私は長い間腰痛に悩まされていたが、およそ8キロの減量に成功し、ウエストサイズを97センチから91センチまで減らしてからは、腰痛がまったく起こらなくなった。


 中年以降の健康維持(健康増進)には、まず減量をすることを勧める。だが、その方法として、運動をすることは、まったく勧めない。それは私が運動嫌いだからではなく、運動(だけ)でダイエットに成功したという例を身の回りでほとんど見たことがないからである。


 


私は、減量のためには、胃袋自体を小さくしなければならないと思っている。(これを知らない人が多いが、胃袋のサイズは、食生活の習慣によってわりと簡単に小さくなるのである。)胃袋が大きいと、どうしてもそれに見合った量の食物を摂取する。ところが、中年以降の人間は、若い頃からの習慣で、自分の体に必要な量以上の食物を摂取しているのが普通なのである。言い換えれば、消化能力は低下しているのに、胃袋のサイズは若い頃のままで、毎日毎日、余剰の栄養分を体に蓄積していくわけだ。これが肥満の根本的原因である。ちなみに、私は食事コントロールの基準は「カロリー」という目に見えない正体不明の存在よりも、あっさりと「重さ」で計算するべきだと考えている。もちろん、カロリーが少ないことが分かっている食物を利用するのはいい事である。


私の場合、経験的に言って、まる一日食事をしなければ、おそらく1キロほど体重が減る。ということは、1日に1キロ以上の食事をすれば、その分は体重が増加するわけである。200グラムのステーキはなかなか食いでがあるものだ。ならば、1食を300グラム以内に制限することは十分に可能だろう。つまり、試合を前にしたボクサーのように、常に自分の摂取する食べ物や飲み物をグラムで計算していくのである。まあ、そこまで神経質にならなくてもいいが。私の場合は簡単で、一食に御飯(米)を1杯だけなら現状維持、2杯食えば確実に体重オーバーである。1回だけならまだいいが、三食そうだと、その度に100グラム、200グラムと増加していくことになる。しかし、食事の際に、御飯1杯だけで済ませることができるか。ここが問題のポイントだ。


 


胃袋が要求するだけの食物を摂取している限り、肥満は避けられない。減量は、常に胃袋が要求する以下の食物量で食事を終えるという、「空腹感との戦い」なのである。


 では、それはどのようにすればいいか。ここに秘策がある。それは、満腹感は糖分の摂取で容易に得られるという事実である。


 毎回の食事は、腹八分で終わり、その代わりに、食事の最後を甘いデザートで終えることで、満腹感を作るのである。それがケーキなら、「ケーキ・ダイエット」ということになる。満腹感を胃袋の膨張で作らず、甘味の摂取で(心理的・生理的)満腹感を作り出すのが、無理のないダイエットの秘策である。(糖分は炭水化物などとは異なり、即座に血液に流れ、脳に「これで十分だ」という信号を送る。これが糖分による満腹感である。血糖値は、したがって、食後どれだけの時間が経過しているかで大きく異なる。糖尿病やその前駆症状は、いつまで時間がたっても血液中の糖分が無くならない状態である。)


 もちろん、ケーキ類を、腹が膨れるほど食えばどうしようもない。甘味を利用して摂取カロリー全体を減らすという目的からは逸脱してしまうことになる。ケーキばっかり食っていれば、ダイエットどころか、あっという間に糖尿病になるだろう。糖分は、通常は大量には摂取できないために、実質的なグラム数では、たいした量にはならない。しかし、絶えず糖分を摂取していると、常に血液の中に血糖が大量に存在しているわけだから、糖尿病に向かってまっしぐらということになる。私は、「食後に甘い物を摂る」ことを勧めているだけで、四六時中甘い物を食えと言っているわけではない。


 


 カロリーがゼロであるという蒟蒻を毎食食うというのもいいが、これは(それが続くかどうかは)料理法次第である。単なる想像だが、カロリーが少なく、ビタミンやミネラル、繊維質が多い食物と言えば、切り干し大根や干瓢などの乾物類、あるいはワカメやヒジキなどの海草類ではないかと思う。食事の中から炭水化物を減らし、そうした乾物や海草類を増やすのが、健康に良い食事ではないだろうか。


 さらに、水分の摂り方にも工夫がある。水分だって、むやみに摂っていては体に悪い。特に、コーヒーや酒が好きな人間は、水分を摂りすぎる傾向があるから、自己コントロールする必要がある。では、どのような工夫があるか。それは、まず、我々が水分を摂る時、常に必要以上の量を飲んでしまうという事実に目を向けることである。本当は、コップ3分の1、4分の1で口の乾きは抑えられるのだが、コップ1杯の水があるから、それを全部飲んでいるだけだ。しかも、夏場には、冷たい飲料の喉ごしの気持ち良さだけのために、必要以上の量を飲んでしまう。それを避けるには、コップやカップ1杯の飲料を、時間をかけて飲むことである。つまり、5分、10分に一回くらいの割で一すすりずつ飲むことだ。そうすれば、1杯のコーヒーで1時間、2時間もたすことができる。熱いコーヒーでなければいやだ、という美食家は、ダイエットなどやめることだ。机の上に置きっぱなしでは、飲料に埃が入るなどというのもナンセンスである。我々は四六時中、鼻や口から埃を吸い込んでいるのである。コーヒーの埃ごときが何だと言うのか。


 さて、腹八分目の食事を続けていると、ごく短期間で、体重は減ってくる。食わなければ、体重が減るのは当たり前であり、ダイエットができないのは、腹一杯食っているからなのである。このダイエットを始めて、しばらくすると、一回で食える食事の量そのものが減ってくる。これは、胃袋が小さくなったということである。こうなると、体重は低い水準で安定してくる。つまり、ダイエットにほぼ成功したということだ。もちろん、この段階でも、かつての「腹が膨れるほど食いたい」という欲望を退けるのは簡単ではないし、また正月やクリスマスなどで外食の機会が多くなると、大食いをすることもある。その危機を乗り越えて、食事そのものに対する欲望が少なくなれば、完全な成功と言えるだろう。


 以上が、「胃袋を縮小することでダイエットをする」という方法である。


 


2 運動は、健康に寄与する場合と阻害する場合がある。


 


 運動は、体に良いと信じられているが、必ずしもそうではない。運動が体に良い場合もあるが、体に悪い場合もそれ以上に多いのである。プロスポーツ選手で、スポーツ障害を起こしたことの無い者はほとんどいないし、素人でも、スポーツで無理をしたために一生治らない障害を生じさせた例も多い。スポーツがこれほどに勧められているのは、企業の金儲けと、「体育会系人間」を作って企業に奉仕させるためであり、それが個人個人の役に立つからではない。もちろん、スポーツは遊びだから、やれば楽しいし、ストレス解消にもなる。だから、スポーツの存在意義は十分にあるが、ただし、それが健康に結びつく場合は、それほどはない、というのが私の考えだ。特に、体が柔軟性を失っている中年以降のスポーツは、よほど慎重にやらないと、大きな障害を引き起こすことが多い。また、まったくスポーツをしなくても、節食の基本さえ守っていれば、それほど健康への悪影響は無いのである。養老院に入っているボケ老人など、運動らしい運動はしないが、あきれるほど長生きするものなのである。もっとも、彼らには「生きるためのストレス」が無いということで、ボケがかえって長命の原因になっているとも言えるが。(レーガン元大統領がアルツハイマーになったというニュースがずいぶん前に流れたが、まだ彼が死んだというニュースは聞いていない。もしかしたら、アルツハイマーになってから30年くらい生きているのではないか。)


 現代の日常生活では、スポーツ的な運動能力はほとんど必要とされない。せいぜい、仲間と遊ぶ時に巾が利くだけである。我々一般人に必要なのは健康であって、運動能力ではないのである。ところが、いざスポーツをやろうとすると、たいていの人間は運動能力の向上を目指し、無理に無理を重ねることになる。本来は老人向きのスポーツであるゴルフさえも、何ヤード飛ばしたとか、幾つのスコアで上がったとか、ハンディが幾つになったとかいった話ばかりである。まあ、競うことがスポーツの(あるいはゲームの)本質だから、そうした運動能力向上への努力を一概に否定はできないが、健康のためのゴルフで腰を痛めたとでもなると、(実際、ゴルフは無理な捻転をするスポーツだから、腰を痛める可能性は高いのだが)いったい何のためのゴルフか、ということになる。


 人間の肉体的なピークはおそらく25歳から30歳の間である。身体的な成長そのものはその前に終わっているが、20歳から30歳くらいまでは身体的にはベストコンディションの状態でありうる、ということである。そして、30歳を過ぎれば(早い人は25歳を過ぎれば)身体能力は下り坂に向かう。この事実をまずはっきりと認識することが、大事である。つまり、30歳以降の運動は、能力増進のためではなく、健康維持を目的とすべきなのである。そして、健康維持のためのスポーツの大原則は、「無理をしない」ということであり、その目安は、「汗をかくほどはやるな」ということだ。おそらく、この「汗をかくほどはやるな」には、反論の嵐が沸き起こるだろうと想像しているが、これほど簡単な目安は無い。もちろん、運動をしてまったく汗をかかないことは不可能だし、夏場はじっとしていても汗をかくのだから、私が言いたいのは、「大汗をかいてゼーゼーハーハーと息を切らすほどの運動はするな」ということである。


 肥満について、前の節で述べたことをもう一度言っておこう。


 現代社会では、学校生活が終了すると、運動の機会はほとんど無くなる。だが、我々の胃袋は、身体の最盛期の容量のままなのである。そして、我々の食欲は、胃袋の容量によって決まる。つまり、我々は、自分の体が必要としている以上の量を常に摂ることになる。これが、20歳過ぎから30歳にかけて体重が増加する原因である。それは「肥満」なのだが、若い体ならば多少の無駄肉がついてもそれほど見苦しくはならないので、多くの人間はこの体重増加をほとんど気にしない。そして、中年以降になると、今度は体型が変化してくる。つまり、上体の筋肉が落ち、下腹部に脂肪が溜まった見苦しい体型になるのである。この時になって、初めて自分の肥満を意識し始めるのがたいていの人間である。そこで、ダイエットのために運動などを始めるのだが、それでダイエットに成功した人間など見たことがない、というのは前に書いた通りだ。


中年以降の運動は、スポーツではなく柔軟体操を主体にするのが良い。その方法については第4節で詳述するが、ここでは、「スポーツは不健康のもとだ」と、スポーツ万歳の世間の風潮への嫌みを言っておくだけにしよう。


健康法についての基本は、以上の2節で述べたので、後は簡単に説明していくことにする。


 


3 節食は、食欲というストレスとの戦いである。


 


 ダイエットの大敵は空腹感であり、それも実際に腹が減っていることによる空腹感ではなく、腹が減ってなくても「腹がはち切れるほど食いたい」という心理的空腹感である。そして、この心理的空腹感は、仕事などのストレスが強いと、生じやすくなる。つまり、何はともあれ、腹が一杯だというのは、「満たされた状態」なのである。たとえ精神的には不幸であっても、腹一杯食ったその時だけは、何らかの満足感はある。そこで、生活の他の部分で満たされない人間は食い物による満足感(充足感)を求め、そして肥満への道を進んでいくことになる。肥満に悩む人間は、自分の食欲が、そうしたストレスの結果でないかどうか、我が身を顧みて、もしそうならそのストレスの根本を断絶することである。もっとも、生きること自体がストレスみたいなものではあるが。


 


4 運動は、鍛錬よりも調整を主とせよ。


 


 運動の目的は、年代によって異なる。成長期には、頑健な身体作りと運動能力の向上を運動の目的としてもいいが、成長期が終われば、日常生活を快適に生きるための健康体の維持が運動の目的となるべきである。その目安は、「疲れるほどは運動しない」と言うに尽きる。かりに、ハードな運動で運動能力を向上させたとしても、しばらく運動をやめれば、また元の黙阿弥である。若い頃に体を鍛えれば、(特に、強い骨格を作れば)それは一生の財産になるが、中年以降に強い運動をやることは百害あって一利無しである。調整程度の運動ならば、わざわざフィットネスクラブなどに行かなくても、毎日の小さな身体行動の中でできる。たとえば、爪先立ちや片足立ちを数秒続けることや、両腕を大きく後ろにそらして、胸を張る動作をするだけでも十分である。犬や猫を飼っている人は、彼らがしばしば大きく伸びをするような動作をしていることに気がつくだろう。そうした「柔軟体操」が、もっとも大事な運動なのである。つまり、同じ姿勢を続けがちで、体が萎縮しがちな現代人には、体の可動域を広げ、体を柔軟にするのが、望ましい運動であり、跳んだりはねたりする能力は不要だということだ。


 


5 良い姿勢と、柔軟性が、望ましい体調を作る。


 


 良い姿勢とは、背筋の伸びた、歪みの無い姿勢である。よく言われることだが、頭の上から一本の糸で頭を吊り下げられたイメージを常に持つと良いだろう。体全体がリラックスし、無駄な力・無理な力が入っていない状態が望ましい姿勢である。


 座業の人間は、特に姿勢が悪くなりがちである。パソコンの画面を近々とのぞき込み、背中は猫背、首も前傾して曲がっている。こうした状態が続くと、まず頸骨の変形が生じ、神経が骨に触るようになる。そうなると、医者のお世話にならざるを得ない。当然、首の変形だけでなく、肩こり、視力低下など、いろいろな障害が起こる。


 対策としては、常に自分の姿勢を意識し、定期的に修整するだけである。


 視力については、時々、遠くを眺め、まぶたを手でもみほぐすなども効果があるだろう。


 体の柔軟性を保つことも大事である。


 現代社会では、人は体をある範囲でしか動かさないため、関節の可動域がどんどん小さくなる。ダンサーやバレリーナほどの可動域は不要だが、可動域が大きいほうが、怪我をしにくいのだから、柔軟体操を時々やるのはいいことだ。


 



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小説(本)の再読ということ

近くの市民図書館は、蔵書数は呆れるほど少ないが、児童書や学術書も含めれば読む本が探せないこともない。で、最近痛感しているのが、「自分はいったい、これまでどんな読み方をしてきたのか」ということで、前に書いた速読の悪癖をやめて熟読(精読)するようにしたら、過去に読んだ本でもいろいろな発見に満ちている。つまり、過去に読んで面白かったと言っても、実はその6割か7割くらいしか理解はしていなかったのである。それを再読するのも大きな娯楽だ。
たとえば、フレドリック・ブラウンの「さあ、気ちがいになりなさい」は、星新一の新訳で児童書コーナーに置かれていたが、もちろん、中学生か高校生のころに私は読んでいる。しかし、今読むとさまざまな発見があるのである。
たとえば、「シリウス・ゼロ」の、その星への来訪者を幻覚で操作する異星人の話は、映画化もされた「ソラリス(惑星ソラリス)」とまったく同じと言ってもいいのではないか。ただし、私は「ソラリス」を読んでもいないし、映画も見ていない。いずれにしても、アイデア自体はフレドリック・ブラウンが先だろう。あるいは、それ以前にも別の作者の同じアイデアがあるかもしれない。
また、「町を求む(A Town Wanted)」の冒頭で、田舎町のギャングが、その親分への報告の中で言う「保護の料金を払いたがらない男がいた。そして、そのアニーはもはや世を去りぬ、というぐあいです」の中に唐突に出て来る「アニー」は、明らかに「アニー・ローリー」という古歌で歌われているアニーだろう。実は、私はこの歌の日本語歌詞の「さなり、我が子は逝きぬ」を、耳で聞いただけなので、「逝きぬ」は「行きぬ」で、母を捨てて去っていっただけだろうと思っていたのである。もちろん、昔「町を求む」を読んだ時は、この部分に注意も払わず読み飛ばしたはずだ。(私は、「アニー・ローリー」を別の唱歌と勘違いしていたようだ。まあ、その手の勘違いは私には膨大にあるので取り消し線だけ付けて、そのままに恥の記録を残しておく。)
これもどうでもいい話だが、「帽子の手品」の原題が「The Hat Trick」であるのを見て、サッカーの「ハットトリック」(個人一試合三得点)が帽子の手品の意味であることに生まれて初めて気が付いた、というのもなかなか驚きだった。なぜ一試合三得点が「帽子の手品」なのか。意地悪く考えれば「人目を驚かすが、実は子供だまし」という意味とも取れる。

ということで、過去に読んだ小説の再読は実は新しい発見に満ちているという話だ。別の言い方をすれば、我々は読む本の数分の一しか理解していないということだ。

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「ビッグバン説」「膨張宇宙説」支持者への質問

1:「宇宙の定義」は何か。
仮にその定義を「現実に存在するすべてのものを含む全空間領域」とする。

2:1の定義に従う場合、「ビッグバン」説の主張する「宇宙の始まり」以前に存在したのはどういう空間か。空間自体が存在しないのか、それとも何も含まない純粋な空間は存在したのか。

3:空間自体が存在しないなら、ビッグバンとは、「存在しない空間」の中で何が爆発したのか。また、何も含まない空間は存在したとしても、ビッグバンとは何が爆発したのか。ビッグバンの結果宇宙が生まれたなら「無から有は生まれない」という科学の大原則は間違いだ、とするのか。

4:「膨張宇宙説」を主張する以上、その宇宙には「果て」があることになる。では、その果ての向こうには何があるのか。あるいは、膨張とはたとえば星と星の間が広がっていくことだと強弁するなら、それは膨張でも何でもない。単なる星の移動であり、太陽系で地球と他の恒星の位置関係が常に変わるのと同じである。

こういう論が真面目に言われているのが「宇宙物理学」の世界であり、「専門家」の世界である。そこではおそらく

「予言者ふたり出会えば笑う」が日常なのだろう。お互いの正体を知っているからだ。

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学問用語の不自然さの中にある隣国蔑視(軽視)思想

別ブログに書いた文章(或る引用文の注釈と意見)だが、ここにも載せておく。学問用語の中には、日本語における朝鮮語由来の言葉を軽視する傾向があると思う。
たとえば「百済」をなぜ「くだら」と読ませるのか。これは明らかに朝鮮語の「ペクチェ」のほうが本来の発音だろうに、なぜ日本人が勝手に「くだら」という読みを当て、学問の世界でもそれを延々と踏襲しているのか。そこには明らかに朝鮮蔑視の思想が潜伏していると思う。これは「毛沢東」を日本読みで「もうたくとう」と読む、日本語音読みの便宜的使用とは話が違う。「百済」の漢字のどこにも「くだら」と読ませる必然性は無いからだ。「新羅」を「しらぎ」と読ませるのも同様だが、「しら」だけなら漢字本来の読みに近い。だが「ぎ」を付ける理由は無い。朝鮮語では「シルラ」だったと思うが、そのほうが「新羅」の自然な読みだろう。朝鮮読みが嫌なら、せめて日本語音読みで「シンラ」と読むべきではないか。

(以下引用)「部曲」は朝鮮読みの「プゴク」の方が漢字本来の読みに近い。「部」が「ぶ」でなく「プ」なのは、半濁音の「ぷ」が中国語発音に近いからではないか。

 また、豪族内部に目を向けてみますと、有力な豪族は田荘(たどころ)と呼ばれる私有地と、部曲(かきべ)と呼ばれる私有民を所有し、さらに奴(やっこ)と呼ばれる奴隷もいました。

(引用者注:部曲(プゴク)は、新羅高麗賤民である。つまり、「部曲」という漢字が先にあり、それに日本人が「かきべ」という読みを当てたので、「曲部」ではなく「部曲」という不自然な、漢字と読みの不一致が生まれたのだろう。当時は漢字の知識が浅かったのだと思う。今のカタカナ書き英語のようなものだ。)(引用者曰く:「奴(やっこ)」は「屋子」つまり、武士時代の「家の子」と同じだと思う。「やこ」が発音の便宜上、「やっこ」となり「奴」という、「奴隷」の実情にふさわしい字を当てたのではないか。)

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仙人
趣味:
考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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