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「花」はどこへ行った

タイトルの「花」は、ここでは「フラワーチルドレン」を指す。
つまり、かつてのアメリカの反戦平和運動を担ったフラワーチルドレンが生きていたら、今のアメリカ社会の上層部の中にもたくさんいるだろうに、アメリカで反戦運動が起こらないのはなぜか、ということだ。
まあ、私はその当時中学から高校生くらいだったが、「馬鹿な運動だ」としか思っていなかったので、今さら彼らを批判する資格はないが、先ほどの早朝散歩の中で、なぜか頭の中に「花のサンフランシスコ」の歌が流れていたので、このムーブメントははたして無意味だったのかどうか、少し反省的に考えたわけだ。
つまり、中学生、あるいは高校生は生意気だから、大人や年上の人間に批判的なのがたぶん普通だと思う。しかし、それは思考や知識が未熟であるために、判断が偏っているだけだ、ということが多いはずだ。特に日本の場合は、敗戦後の大人たちは、「自分たちが日本をこんなひどい状況にした」という後悔と反省から、(一部の暴力的人間や頑固者以外)青年や子供を厳しくしつけることができなくなり、子供を「自由に」育てる傾向があったのではないか。その結果が、かつての「封建的社会の道徳」も消滅し、今のアモラル社会が出来上がった、というわけだ。
「理想主義者やお利巧さん」への軽蔑は、子供に多いと思う。子供は案外大人より現実的なのである。だが理想主義こそが社会を善導するのは言うまでもないだろう。

ちなみに、私は「花のサンフランシスコ」の歌詞の一部を頭の中で再生し、その歌詞の一部の意味が初めて理解できた(気がする)。馬鹿な歌だと思っていたが、それほど馬鹿げてもいないようだ。うろ覚えで書くと、こんな歌詞だった気がする。

for those who come to San Fransisco
gentle people will be a love in there

「サンフランシスコに来る人々にとって、
優しい人たちは、そこでひとつの愛になるだろう」

gentleは「紳士的、穏やか」などの訳が普通だと思うが、「優しい」にしておいた。人間たちが愛の塊になる、というのが、背中がこそばゆい感じだが、理想主義的ではある。
案外、軍人や兵士やトランプなどの精神の奥底に「フラワーチャイルド」がいたりして。

ちなみに、当時のこのムーブメントの精神を表す言葉が「ラブ&ピース」だったが、某アニメの中に出てくる「マジカル学園ラブアンドビースト」というゲームの「ラブ&ビースト」は「ラブ&ピース」のもじりだろうと私は推測している。つまり、我々の潜在意識の中にはいろいろな断片的記憶があるという話である。


(以下引用)


フラワーチャイルドもしくはフラワーチルドレンFlower child or Flower Children)は、1960年代から1970年代にかけてムーブメントを起こしたアメリカヒッピーのことで、ベトナム戦争を背景に、平和の象徴として花で身体を飾っていたためにこう呼ばれた。『武器ではなく、花を』は、彼らの有名なスローガンである。

概要

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1967年サマー・オブ・ラブで、特にサンフランシスコおよび近郊に集まったヒッピーの同義語として浸透した。フラワーチルドレンは、彼らが象徴とするで、自分の身を着飾ったり花模様の服をきて、人々にも花を配ったことに由来する。メディアは、1960年代後半から1970年代にかけて、どんな種類のヒッピーでも広義でフラワーチルドレンと呼んだ。


詩人アレン・ギンズバーグが提唱した平和的抗議活動により、消極的抵抗と非暴力イデオロギーを用いて、ベトナム戦争反対の反戦運動などフラワーパワーと呼ばれた政治活動も行った。


現在では、自然を愛した平和主義者たちの総称。

背景

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なぜ「象のアメリカ」が「蟻のベトナム」に勝てないのか、アメリカ国民の自国政府への不信感がつのった。ベトナム戦争が泥沼化する中、アメリカ国内では反戦運動が高まりをみせ、社会体制そのものを動揺させた。徴兵カードを焼き、鎮圧に出動した兵士の持つ銃口に花をさす若者は、フラワーチルドレンとよばれた[1]




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技巧・演技としての「英米人の怒り」と日本人

私の別ブログに書いた記事で、前にも転載したかもしれないが、わりと大事なことだと思うので、ここにも載せておく。日本人は「戦略としての怒りの表出」が苦手、いや、その戦略やそれへの対応を知らないと思う。
なお、こうした英米人の「怒り」について、小泉八雲の「日本人の笑い」の中に面白いエピソードがある。つまり、「怒りを示さない日本人を英米人が軽侮した行動を取った結果起こった、ある出来事」である。いずれ転載するかもしれない。

(以下自己引用)

まあ、無学者の与太話だが、みなさんは「I'm sorry」を「ごめんなさい、すみません」の意味だと思っている人が大半なのではないか。
実はこれは謝罪でも何でもないのである。英米人は基本的に謝罪しない。いわゆる「謝ったら負け」というのがその本性である。だからディベート(議論術)が発達する。相手に言論で勝つのがディベートであり、当然、謝ることは自分の間違いを認める行為で、謝ったら負けである。

では、「アイムソーリー」の適切な訳語は何かというと、「遺憾に思う、残念だ」であり、そこには謝罪も無く、自分の非を認めることもない。単に「状況的に、あなたがそういう状況になったのは気の毒だが、私の責任ではない」というだけのことだ。

sorryはおそらくsorrow(悲しむ、嘆く、気の毒に思う)からの派生語であり、そこには「責任問題」は存在しないのである。むしろ、「気の毒だ」という、劣勢にある者を高みから見下ろす姿勢なのである。

まあ、これが英米人の心性であり、だからこそ世界を支配したわけだ。そして英語が世界言語になることで、世界中が英米的思考形態になっていく。つまり、支配と被支配の世界になるわけだ。

ちなみに、下の引用は今見たばかりのtogetterのひとつである。つまり、英米人にはすべては「交渉術」。

ーーーーーーーーーーーーーー

ワイは仕事柄「怒ってる」米国人の相手をたくさんして来た。その経験から言うと、米国人はビジネスの場でも非常によく怒るのだけど無闇に怒っているのではなく、良くも悪くも計算して怒っている。大学に怒り方の講座でもあるんじゃないかと思うくらい、相手をコントロールするために怒る米国人は多い

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東京都庁とはどのような場所か

「壺斎閑話」記事の一節で、東京都庁の内部がどういうものか、よく分かる。昔は「伏魔殿」と言われていたが、現在も似たりよったりのようだ。どのような組織も似たりよったりであるのが当然で、それを私は「組織悪」と言っている。「悪」というのも大袈裟かもしれない。
まあ、都の「外郭団体」が、定年公務員の有給暇つぶし場所であることも良く分かるし、壺斎氏自身、それに罪の意識は無い(無かった)ようだ。つまり、公務員はお武家様か。

(以下引用)言うまでもないが、自分自身の過去を語る以上は自己美化や韜晦があるのは当たり前であるので、そういう姿勢で読むべきだろう。


都庁という組織はこれといった人事政策をもっていたわけではない。かなり行き当たりばったりなところがあった。特徴を強いてあげれば減点法がまかりとおっていたということくらいだろう。何らかの不祥事を犯した人間は、減点法の基準に従って減点される。その結果は以後の人事に反映される。不祥事の中には、議会との間に深刻なトラブルを起こしたとか、女性との間で不適切な行為があったとかいったものがある。そういう不祥事を起こすと、まず出世コースから外されるのである。病気休職はかならずしも不祥事とは言えぬが、しかし人事上の効果としては同じように扱われた。小生は長期の病気休養がもとで出世コースから外された人間を多数見てきたから、それとの対比で、自分も同じような憂き目を見るだろうということはわかった。じっさいその通りになった。復職後、小生は自分が通常コースから外され、いわゆる飼い殺しの境遇に陥ったと思い知らされたのである。
そんなわけで、再開発事務所副所長になって以来、六十歳で定年退職するまでの十年間、小生はどうでもいいようなポストをたらいまわしされた。それも忘れたころにそろそろ異動する頃合いだと言われて異動させられるのである。とはいえ小生は、仕事には手を抜かなかった。亀戸大島小松川地区は、そろそろ完了が視野に入ってきた時期に差し掛かっており、事業を終了させるためには、抵抗する者に対して収用の網をかけるとか、債務の返済を怠っている者に対して強制徴収をかけるといった措置を断固としてとった。そうした小生の姿勢を批判する者もあった。もっとやわらかなやり方はないのかね、と言うのである。そういう奴に限って、仕事の進行管理にはうるさかった。仕事はきちんとやれといいながら手荒なことはやるなと平気で言うそんな奴を見て小生は、猿山の猿みたいな奴らだと思った。上意を受け仕事の進行管理には厳しいが、仕事のやり方は微温的たれと言うのであるから、或る意味猿山の猿以上に猿的である。
建設局で六年過ごしたあと、最後の四年間を交通局で過ごした。一応交通局参事という処遇だが、実際には課長級の職である。南千住自動車営業所の所長という扱いになった。部長級の者が課長級の職を兼務するという位置づけだが、実際には懲罰人事と言ってよかった。なぜ小生が懲罰人事を受けねばならぬのか、その秘密はなんとなくわかった。交通局の幹部の中には、以前仕事のことで小生に意趣をもったものがあって、その腹いせをしてやろうという魂胆が見えてきたのである。交通局というのは、じつに閉鎖的な組織で、しかも陰湿なところがある。そんなところで長い間暮らしていると、性格が曲がってしまうらしい。交通局はいわゆる現業系の組織である。清掃局もそうだったが、現業系の局はしょっちゅう不祥事が起こる。交通局の場合は、料金の着服とか飲酒運転といったものが多かった。そうした不祥事は、幹部にとっては自分自身の命取りにつながるので、なんとか責任を逃れようとする。一番手っ取り早いのは、現場に責任をなすりつけて、自分らは責任逃れに集中することである。そういう幹部が多かった。そんな連中を見ると小生は、野良犬みたいな奴らだと思ったものである。
こんな具合で、小生の役人生活は、後半に至って不本意なものになったとはいえ、全体としてこれを見れば、なかなか変化に富み、屈託することのなかったものだったと総括できるのではないか。その意味で小生は、自分の役人人生に悔いはない。
定年退職した後二年ほど外郭団体に在職した。当時管理職は六十歳でやめることになっており、やめたあとは局から再雇用先を紹介されるというのが慣例になっていた。再就職先を世話するのは局の総務部長の仕事である。当時の総務部長は清掃局の後輩だった。その男に呼ばれて話をしたところ、やけに高圧的である。自分を上司として尊敬しろと言わんばかりなのである。小生はこの男におべっかを使ういわれはないから、自然な態度で接していたところ、それが気に食わぬようだった。それで小生に向かい、自分の再就職は自分で始末しろというような趣旨のことを言った。小生は、特にひるむ様子は見せず、淡々と接し続けた。この男は若い頃から裏表を感じさせるところがあり、相手によって態度を変えた。自分より弱いと思った者に対しては高圧的に振舞うのである。要領のいいところもあり、多摩地区のさる有力議員に取り入り、その議員の力で市長にさせてもらった。市長になると、持ち前の性格で好き勝手なことをやったようだ。そのうち、一女性職員から性的な暴行を受けたと訴えられた。当初はしらばくれていたが、形勢不利は避けられず、辞職に追い込まれた。
小生が外郭団体でついた仕事は、普通なら係長級の退職者がつくポストである。おそらく総務部長のいやがらせであろう。それについては、小生の仕事上の不始末が理由にされたらしい。その団体には労働組合の委員長をやった男がいて、その男がしきりに小生に同情してくれた。その不始末とは、労働組合の現職の書記長が不正に給与を受給しているというものであり、当時都の不正を暴くと豪語していたさる都議の追求するところであった。そんな問題は、基本的には労働組合と局幹部の間の問題なのであるが、それを書記長の職務上の上司たる小生が責任を擦り付けられたのである。そのいきさつを知っている元委員長は、小生を親方と呼びながら、親方には本当に申し訳ないと言うのであった。事情を知っている南千住営業所の管理係長も局の幹部の鼻をあかしてやりましょうよと言って憤慨していたが、小生は、余計なことはするなといって諫めたものである。ともあれ、交通局というのは、じつに魑魅魍魎な組織というべきものであった。
この外郭団体では例の豊饒たる熟女たちと仲良くなることができたし、また、仕事が全くないので、毎日好きなことができた。小生が当時始めたばかりのウェブサイトの運営は、この団体での余暇時間を活用して行ったものだ。しかし長い間やる気はなかった。二年ほどで辞表を出した。団体の幹部は、厄介者が始末出来て安心したに違いない。

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「海の若者」と「あの夏いちばん静かな海」

私はビートたけしの映画の中で「あの夏いちばん静かな海」が一番いい作品だと思っているのだが、あの映画を見た時に連想したのが佐藤春夫作詞大中恩作曲の歌曲「海の若者」である。あの映画のラストにこの歌曲を流してほしかった。(引用した記事では作曲を清瀬保二としている。別の曲のヴァージョンもあるのだろうか。)



海の若者    
 
 
    

詩: 佐藤春夫 (Satou Haruo,1892-1964) 日本
    佐藤春夫詩集-寒蝉鈔  海の若者

曲: 清瀬保二 (Kiyose Yasuji,1900-1981) 日本   歌詞言語: 日本語





若者は海で生まれた
風を孕んだ帆の乳房で育つた
すばらしく巨きくなつた
或る日海へ出て 彼はもう帰らない
もしかしたら あのどつしりした足どりで
海へ大股に歩み込んだのだ
取り残された者どもは
泣いて小さな墓をたてた


ゆったりした歌が、そこかしこに挟まれる絶妙の間とともに歌われます。けっこう謎めいた詞の内容と共に心に残る歌曲です。



( 2016.11.11 藤井宏行 )

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悪事と容貌の変化

私は人相に興味があるので、それに関連する「阿修羅」記事とコメントを載せる。本記事の思想に私は必ずしも賛成ではない。二つ目のコメントの言うように、顔の変わらない悪党もたくさんいる。それはニセユダヤだからではなく、「良心が無い」からである。自分の行動を悪とすら思わないのだから心にわだかまりがなく、その結果、容貌が変わらないのである。そしてそういう連中はよく見れば「最初から悪い顔をしている」のである。「悪い顔」とは映画の悪役のような強面ではなく、「信頼してはいけない顔」であり、デーブ・スペクターのように愛想のいい顔もしばしば「悪い顔」である。

(以下引用)


悪いことばかりしていると顔が醜悪になる。反省して善行を積めば良い顔になる 
http://www.asyura2.com/23/holocaust7/msg/406.html
投稿者 魑魅魍魎男 日時 2024 年 3 月 09 日 07:56:04: FpBksTgsjX9Gw 6bOWo@mx6bKSag
 



https://twitter.com/DowdEdward/status/1765090556106182872
(Edward Dowd)
It can also go the other way as well.
11:02 AM Mar 5, 2024
(逆もまた真なり)

https://twitter.com/martyrmade/status/1765053324477538738
(Martyr Made)
“At 50, everyone has the face he (or she) deserves.” - George Orwell
8:34 AM Mar 5, 2024
(50歳になったら、誰も相応の顔になる)

------(引用と翻訳ここまで)-----------------------------------------

上は、阿修羅医療板でおなじみのエドワード・ダウド氏の
ブラックロック勤務時代と現在。

下は、ビクトリア・ヌーランド米国務次官の過去と現在。

悪いことばかりしていると顔が醜悪になる。
反省して善行を積めば良い顔になる。

それをよく表わしている写真ですね。





コメント

1. 2024年3月09日 13:02:24 : hOZSeqFwkI blUzQ29ZMm1zelk=[1332]  報告
 ほんとにこの写真を見た時そう思いましたね。

中身は表に出る。


世界の連中も日本の国会議員もほとんどが悪い顔。汚い顔。


2. T80BVM[389] VIJXgk9CVk0 2024年3月09日 21:57:50 : GKyokXky8k UGhYUUk1cGxSSUk=[104]  報告
ああそうだねw
でもね、実際はそんな単純なもんじゃないと思うが
まあな、2~30年前とでんでん変わらない顔してるヤツの方が、ずっと悪いと思うけどな
日本で有名なところでは、デーブ・スペクターとかさ
ネタニヤフとかラーム・エマニュエルなんかも同じだろう
こいつらの共通点はニセユダヤ人である

バイデンだのトランプだのヌランドだの全裸スキーだの岸田だの、みんなニセユダヤのパシリにすぎない
パシリの顔の変化がどうこうより、ヤツラを操るニセユダヤの存在を忘れてはならない


以上

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サディストの笑い

私もブラックジョークはよく書くが、たまたま不幸な目に遭った人を、そういう目に遭ったというだけで笑いものにするということはたぶんしたことがない。そもそも面白くないだろう。
笑いというのは対象となる存在を「下げる」ことで見下し、笑う自分がその上位にあるという錯覚で発作的に生じるものだが、不幸な人を笑うというのは単なるサディズムであり、キチガイ行為である。暴力人間が人を殴るのが面白いというのと同じことだ。
まあ、最近の笑いは、むしろ弱者をこそ笑うという「いじめの笑い」だと多くの人が感じているはずで、だからこそその不快な笑いへの反発心が、フジテレビをその象徴として「不快な笑いの牙城」の落城を快感とし、嘲笑しているわけだ。つまり、笑うべき存在を嘲笑するという、健全な心理である。
それに対して、不幸な人を笑う下の写真の馬鹿笑いをしている兄妹の馬鹿顔を見て楽しいだろうか。ここまで大口を開けて笑えるのが凄い。実に気持ち悪い顔面・顔相である。
なお、ここに書かれたふたりの会話のどこにも「面白い」ところはない。無理に作った会話である。これが人気ユーチュバーなら、その支持者の頭の程度が分かる。

(以下引用)

八潮陥没事故を“ネタ”に笑顔でトーク…登録者170万人の兄妹YouTuberの動画が物議、問題箇所をひっそりカットも止まぬ批判


配信

女性自身

(中町JPのInstagramより)



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日本語の挨拶の謎

私は、考えることは娯楽である、というのが信条だが、それも「簡単な謎を考える」ことに限定される。高度な数学や物理など、考える能力も無いし、必然的に、考える対象として面白くない。推理小説の類も、馬鹿馬鹿しい謎が大半で、考える価値は無い。
むしろ、何かの本を読んでいて、特に謎として言及されていない、奇妙な日常の謎に出会った時が面白い。それは、ある種の日常的な言葉自体が謎を含んでいた時などだ。
先ほど読んでいたマーク・ピーターセンの「英語の壁」の中に、こういう「謎」がある。
ひとつの「例題」として提供するので、自分なりの理屈を考えるのも一興だろう。

(以下引用)

たとえば、英語圏の人間が日本語会話を習おうとすると、教科書のはじめの方に、登校する娘が玄関で「行ってきます」と言って、お母さんが「はい、行ってらっしゃい」と答える、といった場面が必ずある。そこで、学習者は不思議に思う。出かけることを知らせるなら「行きます」で十分なのに、なんで毎回わざわざ「(行ってから)また来ますよ」と知らせないといけないのだろう。そして、お母さんにしても、なんでわざわざ「またおいで(いらっしゃい)」まで付ける必要などあるのだろう、と思い、自分には自然な日本語は使えそうもないと感じる。



(解答例は空白の後に書く)









私の解答例は次のようなものだ。

本質的には、これは互いの愛情の伝達なのである。外出したなら帰ってくるのは当たり前だから言う必要はない、というのが「合理的思考」であり、無駄を省くのが外国人(主に欧米人)の思考だろう。
だが、これらの言葉は、もっと長い言葉の途中を省略したものと考えれば、十分な意義があるわけである。それを補うなら、

娘「行きますけど、ちゃんと帰ってきますから心配なく」
母「はい、行って、無事に帰ってらっしゃい」

ということだ。つまり、お互いの心の片隅にあるかすかな不安感を簡潔な「行ってきます」「はい、行ってらっしゃい」で払拭させる行為(ほとんど無意識化した思いやり)がここに隠れている、というのが私の考えである。






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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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