以上は前置きで、本題は先ほどまで寝床の中で読んでいた子供向けというか、未成年者でも理解しやすく書かれたクリスティ全集(主に短編)のひとつの巻の中の「検察側の証人」についてだ。
この巻の解説によると、クリスティの短編の中の二大傑作が「うぐいす荘」と、この「検察側の証人」というのが定評のようだが、「うぐいす荘」は、高校生くらいの時に読んで、(サスペンス小説として)傑作だと思った短編なので、私の読書頭脳はそのころから悪くはないようだ。で、「検察側の証人」は映画「情婦」の原作で、あちこちで内容が紹介されているので読む前から内容は知っていたが、読むのは初めてで(読まなくても内容が分かっているから読む意義もないと思っていたわけだが)、読んでみると、やはり傑作である。まさに芝居でも映画化でも成功する内容だ。名人の一刀彫という感じか。
クリスティの短編は、実は「アイデアはいいが、長編にするほどではないから短編に軽くまとめた」という印象の作品もけっこうあり、それはそれで二流三流作家の作品よりエンタメとしては優れている場合が多いが、傑作はその中では10作以内ではないか。その中で「うぐいす荘」と「検察側の証人」は双璧だろう。
で、どちらも、ある意味「愛の姿」を描いているのが、女性作家らしいとも言える。
ここで断定的に言えば、「女性は『愛と正義』の相克では必ず愛を選ぶ」というのが私の判定である。男は頭が抽象的だから、「正義」という抽象物を人間という実体より優先することも多い。それがたとえば「殉死」「切腹」などに様式化されたりする。女から見れば「アホちゃうの」だろう。ちなみに私は行列への割り込みなど、死んでもできない性質で、それを女房に笑われたことがある。(念のために言えば、ジャンヌ・ダルクの死などは「愛と正義の相克」ではない。むしろ「神への愛による死」だろう。)(ソクラテスの死が「正義を守るための死」の例)
まあ、これ(愛と正義論)はあまり女性に詳しくない男である私の、単なる直観的判断だ。「愛も抽象物だろう」と揚げ足を取る人がいるかと思うが、ここで言うのは「愛の対象である男(時によっては子供)」のことである。もちろん、私も暴徒から子供を守るとかいう場合は殺人も辞さないつもりではあるが、まあ、簡単に殺されるのがオチだろう。この場合は「道義を無視した暴徒への殺人が正義である」わけだ。(蛇足だが、この「暴徒」に似た行為を社会全体がやっているのがSNS時代の現代ではないか)
(追記)今部分的に読んだばかりの「混沌堂主人雑記」記事所載の「蚊居肢」記事の一節である。
フロイトによるエスの用語の定式、(この自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。私はこのエスの確かな参照領域をモノ[la Chose ]と呼んでいる[…à FREUD en formant le terme de das Es. Cette primauté du Es est actuellement tout à fait oubliée. …c'est que ce Es …j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose.] (Lacan, S7, 03 Février 1960) |
つまり無法の現実界、無道徳のエスの世界だーー、 |
私は考えている、現実界は法なきものと言わねばならないと。真の現実界は秩序の不在である。現実界は無秩序である[je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi. Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre]. (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
エスはまったく無道徳であり、自我は道徳的であるように努力する[Das Es ist ganz amoralisch, das Ich ist bemüht, moralisch zu sein](フロイト『自我とエス』第5章、1923年) |
現実界のモノとはもちろん母のことであって、つまりは母の名なる享楽、エスの欲動だ。 |