「壺斎閑話」から転載。私自身は映画「ティファニーで朝食を」があまりに好きなので、原作の小説は未読である。下の壺斎氏の評論は、その小説の内容を余すところなく書いており、小説そのものを読む必要すら無さそうだww まあ、今の日本にはホリー・ゴライトリー(「聖女よ、正しく進め(そして幸福になってほしい)」の意味が隠されていると思う。)に似た境遇の「運命に恵まれないが、ちっぽけな生き方もいやだ」という小妖精たちがたくさんいて、人生や社会に挑戦しては無残に敗北して死んでいくのだろう。得てして、「自我がある」「個性的な」人間は学校でのいじめの標的にもなりがちな気がする。
なお、映画「ティファニーで朝食を」の主題歌である「ムーン・リヴァー」の歌詞の末尾で歌い手(映画ではヘップバーン自身が歌うので、作詞意図が曖昧になっているが)が呼びかける「(私の)ハックルベリーフレンド」は、ホリーを指すと思う。つまり、本来は外部からホリーを見ている人間が歌った歌、という作りではないか。まさにハックルベリー・フィンこそは米文学に現れた魅力的なキャラクターの筆頭で、「社会規範を外れた」悪童ながら、ずる賢い優等生トム・ソーヤーの何倍も豊かな人間性の持主なのである。
(以下引用)
なお、映画「ティファニーで朝食を」の主題歌である「ムーン・リヴァー」の歌詞の末尾で歌い手(映画ではヘップバーン自身が歌うので、作詞意図が曖昧になっているが)が呼びかける「(私の)ハックルベリーフレンド」は、ホリーを指すと思う。つまり、本来は外部からホリーを見ている人間が歌った歌、という作りではないか。まさにハックルベリー・フィンこそは米文学に現れた魅力的なキャラクターの筆頭で、「社会規範を外れた」悪童ながら、ずる賢い優等生トム・ソーヤーの何倍も豊かな人間性の持主なのである。
(以下引用)
|
訳者の村上春樹がいうように、カポーティの小説「ティファニーで朝食を」は映画でのオードリー・ヘップバーンの印象があまりに強烈だったので、小説本来の雰囲気が誤解されて伝わっている感がある。映画の中では成熟した女性のオードリーが、これもまたタフガイ然としたジョージ・ペパードと大人の演技を交し合っていた。だがこの物語は本来、女性を主人公にした青春小説というべきものなのだ。 なにしろ女性主人公のホリー・ゴライトリーはあと2か月でやっと19歳になるという設定だし、小説の語り手でホリーの男友達たる青年も、やっと少年期を脱したばかりという雰囲気をたたえている。ホリーはこの青年をいつでも、自分の兄の名で呼んでいるし、青年が自分にむかって恋愛感情を抱いていると感じても、それに対してまともに応えようとはしない。二人は恋人同士になるにはまだ幼すぎる。二人は大人になりつつある、中途半端な時期を生きている者として、描かれているのだ。 だがホリーは普通の少女とはあまりにも違った少女時代を生きてきた。彼女はたった14歳で、自分の庇護者となったテキサスの獣医と結婚関係を結んだのを手始めに、数多くの男と性的関係を持ってきた。それは、兄のフレッドとともに、親の保護から見放されて孤児となり、他人の世話にならねば生きていけなかったという境遇を彼女なりに受け入れた結果だった。 だから小説の中でのホリーは、時には娼婦を思わせるようなきわどい生き方をする人間として描かれることもある。だが彼女の18歳という若さが、その生き方に複雑な陰影を与える。それが語り手である青年と聞き手である我々に、ある危うさのようなものと、その背後に見え隠れする若い女性の未熟ながら輝いているような生き方を感じさせるのだ。 その危うさと未熟な輝きとの感覚が、この小説に独自の色彩感をもたらしている。 小説にはこれといって複雑な筋はない。ホリーを巡って色々な人物が登場し、その多くは最後にはホリーを見捨てて消え去ってしまう。ホリーを妊娠させた男も、ホリーが今までに愛したただ一人の男であったにかかわらず、ホリーが問題を起こして、自分の身に不都合になりそうだと感じると、さっさとホリーを捨てて妻子とともにブラジルに去ってしまう。 だがホリーはそんな自分の運命を嘆いて見せたりはしない。過去は過去として受け入れ、新しい未来を自分の手で生きなおすべく選択するのだ。 |
PR