トイレで運行中のつれづれに「史記」を読んでいると、呉子ショ(漢字は面倒くさい)列伝の中に「倒行し逆施する」という言葉が出てきて驚いた。
それは、呉が親兄弟の復讐に、その仇の死骸を掘り出して鞭打ったという行為を他人に責められた時に「私は日暮れて道遠しという有様だから倒行(とうこう)して逆施(げきし)するようなこともしなければならないのだ」と言い訳をする文章の一節だったわけだが、なぜ驚いたかというと、私はこの言葉は中学生のころ読んだ「吾輩は猫である」の中で見て、意味不明のまま何十年も放っておいたものだからだ。こんなところ(トイレ)で遠い遠い古なじみに逢うとは、人生も捨てたものではない。
漢字の字義どおりに解釈すれば、「道を逆方向に行き、世間のふるまいと逆の行為をする」という、つまり道理や情理に外れたふるまいをする、ということである。
確か「猫」の中では迷亭の半畳というか、たぶん、苦沙弥先生の話にさしはさんだ洒落だったと思うが、苦沙弥先生はその言葉の意味が分からず誤魔化したのではなかったか。
冗談だけで生きているような迷亭がかなりな教養人であることが分かる。(もっとも、私の記憶が確かなら、という話だ。)
いずれ何十年かぶりに「猫」を再再読する楽しみができた。あの当時は理解できなかった細部がこの年ならかなり理解できるのではないか、という楽しみである。日が暮れようが、「何ぞ燭を取って遊ばざる」である。
それは、呉が親兄弟の復讐に、その仇の死骸を掘り出して鞭打ったという行為を他人に責められた時に「私は日暮れて道遠しという有様だから倒行(とうこう)して逆施(げきし)するようなこともしなければならないのだ」と言い訳をする文章の一節だったわけだが、なぜ驚いたかというと、私はこの言葉は中学生のころ読んだ「吾輩は猫である」の中で見て、意味不明のまま何十年も放っておいたものだからだ。こんなところ(トイレ)で遠い遠い古なじみに逢うとは、人生も捨てたものではない。
漢字の字義どおりに解釈すれば、「道を逆方向に行き、世間のふるまいと逆の行為をする」という、つまり道理や情理に外れたふるまいをする、ということである。
確か「猫」の中では迷亭の半畳というか、たぶん、苦沙弥先生の話にさしはさんだ洒落だったと思うが、苦沙弥先生はその言葉の意味が分からず誤魔化したのではなかったか。
冗談だけで生きているような迷亭がかなりな教養人であることが分かる。(もっとも、私の記憶が確かなら、という話だ。)
いずれ何十年かぶりに「猫」を再再読する楽しみができた。あの当時は理解できなかった細部がこの年ならかなり理解できるのではないか、という楽しみである。日が暮れようが、「何ぞ燭を取って遊ばざる」である。
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