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日本古代史についての東海アマ説と、その批判

東海アマブログ記事で、かなり独断的で妄想的な内容だが、日本史の本質的部分をある程度示唆しているところもあって興味深い(というか、私とかなり一致する部分もある)ので転載する。
朝鮮半島から来た民族が日本の上級国民になったのだろうとは私も思うが、気質が遺伝的に決まっているとは私は思わない。そこが東海アマ氏の強迫観念的で、異民族排斥的で陰険な部分である。日本人全体が雑種化している現代に、異民族排斥思想の氏は、かなり度し難い。自分の中の血の一部を排斥するのか。排斥するなら、むしろ、日本人を植民地奴隷化している米国人を排斥すべきだろう。
武士というのは本来は上級国民ではない。昇殿も許されない、「貴族の使役人」だったのである。少なくとも武士は渡来系ではないはずだ。いや、彼らの一部は渡来系だろうが、大半は、大和朝廷に追われて東北を本拠とした日本原住民(これを縄文民族と言ってもいい)の末裔と私は見ている。つまり「東夷」である。渡来系の弥生民族の特徴も戦闘性にあるのではなく、むしろ「政治力」「謀略」「文化」にあっただろうというのは「日本書紀」や「古事記」で分かる。単なる戦闘力では東夷のほうが強かったのである。その後裔が源平争乱の源氏である。ただし、その頃には血の混交が進んでおり、縄文時代からの「気質」はさほど問題にならない。源頼朝は、京都、あるいは書物で学んだ「政治力」で平家を倒したのであって、武力はその一端にすぎない。
江上波夫の「騎馬民族渡来説」は「騎馬民族」という言葉が良くない。騎馬という習慣は、渡来民族の主な特徴ではない。そして日本では騎馬というのはほとんど習慣化されなかった。当たり前である。騎馬というのは広い平野と道があって成立する行為だ。山岳地帯が多く平地の少ない日本では幹線道路ができるまで不要の習慣である。(幹線道路ができても、馬には荷運び以外の用途はほとんど無かったのではないか。昔は庶民は「歩くのが当たり前」であり、歩くのを億劫がるのは現代人的発想だろう。)戦争で騎馬兵が重要性を持つのも源平争乱以降だろう。ついでに言えば、昔の馬は現在で言えばポニー程度の大きさのようだ。だから人間が肩にかついで急坂を下りることも可能だったわけだ。当時の馬というのは機能的には原付バイク程度だったのではないか。要するに、「騎馬民族」という言葉には実体的意味はほとんど無い。

(以下引用)



 
 日本人の同調圧力の強さについては、これまでもたくさんブログを書いてきた。
 「生きるということは、みんなと、いっしょでいることだ」
 この同調的発想が、良くも悪くも日本人の特性を定めてきた。

 日本という国は、四方を海に囲まれた島国なので、ちょうど孤島に暮らす民族と同じ本質がある。
 小さな孤島に数百名の人々が生き抜いていれば、自ずと生きるための知恵が整ってくる。その最大の知恵は、みんなが協力することであり、自分勝手を許さないことだ。
 「共通するルール」を守って生きる……ことが孤島に軋轢を生まずに、一致団結して困難にあたり、生き抜くための最大の知恵になるのは当然のことだ。

 だから、孤島の共同生活には強い同調圧力が作用する。掟を守らないと「村八分」の制裁を受けるのだ。日本列島という単位も、この延長にある。
 日本社会は、孤島に生きる住民たちに似た強い同調圧力と集団行動の社会である。

 海によって閉鎖された孤島とは逆に、縦横無尽に開放された大陸の土地では、自分のやりたいことをやれる条件がある。どんなに人とかけ離れた奇矯な生活をしても、文句を言う人もいない。何か問題があれば、自由に逃げ出せるのだ。
 だから、そんなところでは、同調圧力が成立しない。思想の幅が広くなると同時に、孤島の共同体では起こりえない、残虐な戦争、強奪、大虐殺が起きて、人々の格差も極端に拡大してゆく。

 こんな条件が、たぶん大陸の中国人と孤島の日本人との思想性の違いを作ったと考えて良いと思う。
 孤島の日本では、同調圧力によって大きな格差は許されなかった。そして、みんなを思いやり、いたわる人間性が育まれた。
 だが、開放された大陸では、強盗や殺戮が常習化し、みんなをいたわる気持ちが育つ前に、自分を大きく強くし、都合が悪くなれば、どこかに逃げ出すという発想が育つ。

 中国では、械闘という歴史的な武闘習慣があり、無法集団による集落ジェノサイドが珍しくなかった。ある日突然、集落が襲われて皆殺しにされるのだ。
 だから客家の集落は、械闘襲撃に備えて円楼という要塞になっている。
 https://media.eurasia.co.jp/china/fukkendorou

 また、人の近寄れないような凄まじい断崖絶壁の上に集落が作られていることも少なくない。
 https://japanese.cri.cn/20200523/7bea627b-fb9b-d40d-f59f-a0754dcfed2a.html

 いつ襲撃されて皆殺しにされるか分からないという中国社会の恐怖が、このような超孤立の要塞村を出現させたのだ。
 日本には、襲撃を恐れた要塞村は少ない。ただ、2600年前に蘇州呉国民がボートピープルとして北九州に移住し、弥生人国家を形成した。これが瀬戸内海を東進し、大阪湾に至り、紀伊半島を回って静岡県付近まで弥生人集落を形成したことが分かっている。

 呉国には械闘習慣があり、弥生人にも引き継がれた。だから、瀬戸内沿いの弥生人集落には吉野ヶ里のような戦争に備えた環濠集落がたくさん発見されている。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD
 日本の武家社会における山城や城塞も、その延長と考えられる。

 しかし、おおむね、日本社会には武家以外で、要塞村を作り出す人は少なかった。
 なぜ武家が、争いを好んだかというと、AD300年前後に、百済から弓月氏(秦氏)が120県(20万人)という規模で日本列島に移住してきたことが大きい。
 まだ日本全土で100万人程度しかいなかった頃だ。もちろん彼らは一大勢力となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B

 秦氏の正体は、「秦の始皇帝の子孫」を名乗る軍事集団だった。馬を使った戦闘集団で、「騎馬民族」として、それまで馬を知らなかったヤマト社会を武力で乗っ取ってしまっった。これが江上波夫の騎馬民族征服王朝説である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%BE%81%E6%9C%8D%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC

 ちなみに、私は、あらゆる民俗学的状況証拠から、この学説を完璧に支持しているが、万世一系説を信奉する極右系の人々は、未だに反対しているようだ。
 弓月氏が来てからというもの、それまでの弥生人文化は一変することになった。
 円墳は方墳に変わり、騎馬民俗文化として、乗馬ズボンや鬟結い、直剣が登場したのだ。それまでは稲作に適した呉服と、刈り取りに適した曲剣だった。

 彼らのなかから天皇家が生まれたことがはっきりしている。たぶん継体天皇が最初の騎馬民族天皇ではなかったか? ズボンを履いた聖徳太子も子孫である。
 彼らは基本的に軍事集団だったので、日本の武家の大半が彼らから始まっている。
 代表的なものが藤原氏だ。藤原氏に代表される武家は、東山道を通って奥州にまで達した。源平藤橘も、藤原氏の子孫である。

 彼らは、とても戦争が好きで、日本社会を戦乱の世に変えたのは彼らだ。
 元々、孤島の日本人は、戦争を好まなかった。しかし、大陸からやってきた弓月氏→藤原氏=源平藤橘は習慣的に戦争社会を目指したと考えてよいと思う。
 ここで、日本社会には戦争の大好きな、大陸系の騎馬民族の末裔と、農耕に生きる平和主義者の人々に二分化されたと私は考えている。

 ちなみに弓月氏(秦氏)は、元々弓月国(キルギスタン)から来たのでツングースの慣習どおり先祖地を名乗ったのだが、キルギスは、実は「失われたユダヤ十氏族」の地である。
 つまり、イスラエルから逃げ出した十氏族の一部が逃げ出して日本列島にたどり着いたことになる。だから旧約聖書を、そのまま日本社会にも導入した。
 その思想は「神道」にそっくり引き継がれている。諏訪神社や伊勢神宮、平安神宮などでは、旧約聖書に描かれた創世記のイベントが、そのまま現代にまで残っている。

 例えば、イサク祭や木落、祇園祭などで、藤原氏(秦氏)が欧州まで移動した東山道沿いには、私の住む中津川市を含めて、大半の神社が「ユダヤ神社」と称された八坂神社(ヤーサカ=祇園社=牛頭社)の末社ばかりになっている。

 弓月氏=秦氏が日本列島に移住してから、弥生人による円墳は方墳になったのだが、その方墳は、誰も理由が分からない「前方後円墳」である。
 ところが、この奇っ怪な形の謎は、秦氏がユダヤ人の末裔であり旧約聖書を信奉していたという前提がつくと、瞬時に解決する。

 それは、旧約聖書における、モーゼの十戒と三種の神器を見れば分かる。
 ①十戒を刻んだ石板 ②アロンの杖 ③マナの壺
 を形象化した宗教的祭器と考えるなら、十戒石板と銅鏡に関係がありそうだし、アロンの杖は、最近発掘された蛇行剣、草薙の剣、そしてマナの壺こそ、前方後円墳の姿そのものである。
 上から見た仁徳陵は、巨大なマナの壺であり、民衆に永遠の食を約束する神器なのだ。民のかまどの煙を見た仁徳にふさわしい、永遠に民を飢えから解放するための神に与えられた形象なのである。

 日本の民衆は、戦争大好きな騎馬民族から、平和と安定を尊び、八百万の神を信奉する神道の民へと変わっていった。
 安定平和を実現するために、もっとも大切だった思想は、同じ神を信奉し、その規律を守る同調圧力だったかもしれない。
 そして全国津々浦々に残されている祭りが、共同体の連帯意識を支えた。

 つまり、全国の集落は、同じ神を祀る連帯感と同調圧力によって生き延びてきた。
 ただし、それは武家ではない人々のことだ。
 秦氏=藤原氏の末裔たちは、全国の武家階級となり特権階級となった。
 ここには、騎馬民族特有の権勢争奪戦の習慣が残っている。

 明治維新における四民平等は、武家を消してしまったが、その末裔の多くが、特権的地位と資産を利用して、明治資本主義下にあっても、特権階級のまま移行した。
 つまり、新興資本家の多くも武家階級出身だった。平民百姓出身の資本家は、あまり聞いたことがない。

 彼らにとって、資本主義は、あらたな戦場であり、騎馬民族の本能を呼び覚ます戦いの場だった。
 彼らが金儲け戦争のために利用した一般大衆は、同調圧力に訓練された、「みなと同じでいたい」という実に使いやすい人々だった。

 日本社会には二種類の人々がいる。つまり、元武家出身で本能に戦争がすり込まれている争い大好きの人々。これは秦氏末裔であり、天皇家もそうで、第二次世界大戦における軍人たちの多くもそうだった。
 かれらは明治維新後、武家の身分を剥奪された後も、資本家として君臨することが多かった。

 もう一つは、孤島にあって平和な同調生活を好んできた、心優しい人々だ。彼らは、人の上に立って、人を利用することを好まず、同じ仲間の幸せを願う穏やかな人々であった。
 彼らは、資本主義勃興期から現在に至るまで、大人しい同調圧力の強い労働者として底辺社会を支えてきたのだ。
 彼らは「みんなといっしょでいたい」のである。

 騎馬民族末裔のように、自分だけ特権を得て、自分だけ大金持ちになりたいなどと考えない。ただ、人々の笑顔を糧として、穏やかに生きていきたいのである。

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マルキシズムという悪質な宗教

「紙屋研究所」から転載。一部省略。私は「風たちぬ」も「君たちはどう生きるか」も見ていない。要するに、「理想主義」と「現実主義」の相克という永遠の問題が宮崎駿の強迫観念なのだな、という感じであるが、紙屋氏のようなマルキストがマルキシズムを理想主義としているのか現実主義としているのかよく分からない。私は、理想主義ですらなく、人類のかなりな割合(特に、善良で誠実な人間たち)に不幸な人生を送らせた悪質な御伽噺であり、一種の宗教だと見ている。
資本主義は単なる現実主義で、思想ですらない。だが、現実だから強い。その悪質さ、悪への傾斜にも関わらず、強いのである。まあ、無数の人々を足元に踏みにじる怪物である。

(以下引用)冒頭の「これ」は「風たちぬ」のこと。


 これに比べて、「君たちはどう生きるか」はある意味、シンプルな作品である。


 戦火——空襲の炎で死んだ母親。*1


 少年はまだそのような母親の死を社会や歴史の文脈に乗せてとらえることさえしていない。しかし作品全体には「戦争によって母親を失った」ことが主人公の少年に重くのしかかり続ける。そのような戦争がない社会…という直接的な比喩は一切用いていないが、そのことが念頭にあるに違いない。もちろん、そこをもっと緩く捉えて、気候危機による人類の破滅などといった人類の存続に関わる様々な問題だと感じてもいいだろう。


 大叔父は、石を積んで危ういこの世界の均衡をどうにか成り立たせてきた。


 しかし、その努力ももはや限界である。


 大叔父は、この世界をどう構築するかを、少年に託そうとした。


 しかし、大叔父が少年に託そうとした石は「悪意に染められていない石」であった。「石」は「意思」のようにも思えてくる。


 「悪意に染められていない石」を積んで世界を再構築しようとする試みを、少年は断固拒否して、「奪い合い、殺しあう世界」、争いや矛盾、悪意に満ちた世界と格闘することで、世界の再構築をする決意をし、現実の世界=歴史へと戻っていく。


 ぼくには「悪意に染められていない石」というのは、徹底した理想論を想起させる。


 例えば武力に一切頼らない日本国憲法の前文、および第9条のように思える。


日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(日本国憲法前文


 あるいは、勢力均衡の世界が戦争を招いた反省から、集団安全保障の理想を掲げた国際連盟国際連合の比喩のようにも見える。


 


 戦火のない世界を「悪意に染められていない石」によって構築しようとする試みは、失敗したかに見える。「悪意に染められていない石」を粗雑に積み上げて、それをぶち壊してしまうインコ大王の振る舞いは、「憲法9条など空論だ」「国連など無力だ」と理想主義を嗤い、悪しき「現実主義」に身を委ねた人々のようにも見える。


 インコ大王は、理想の中に侵入してくる現実である。現実は理想に侵食し、理想に妥協を迫る。理想は「時間が欲しい」といってその侵食と折り合いをつけるのである。


 大叔父は、もはや老境に達した宮崎自身のようにも見えるし、宮崎だけでなく、戦争の中で積み重ねられてきた理想の知恵、例えば日本国憲法であるとか、戦後民主主義の姿のようにも見える。


 吉野源三郎が『君たちはどう生きるか』で主人公のコペル君を導いた「叔父さん」をも重ねているかのようだ。「叔父さん」という知恵は、日中戦争が勃発し、戦争の暗い時代が始まるさなかに、自分だけ・自国だけの視点ではなく、世界の中の自分、社会の中の自分という視点を持つように訴えた。


kamiyakenkyujo.hatenablog.com


 


 宮崎駿はかつて、マンガ版『風の谷のナウシカ』で、浄化された理想論としての共産主義マルクス主義を批判した。


kamiyakenkyujo.hatenablog.com


 


 当時の宮崎の雑誌インタビューだ。同様の表明を当時ぼくは読売新聞などでも読んだ。


いちばん大きな衝撃的だったのは、ユーゴスラビアの内戦でした。もうやらないだろうと思っていたからです。あれだけひどいことをやってきた場所だから、もうあきてるだろうと思ったら、飽きてないんですね。人間というのは飽きないものだということがわかって、自分の考えの甘さを教えられました。(「よむ」1994年6月号、岩波書店



ナウシカ』を終わらせようという時期に、ある人間にとっては転向とみえるのじゃないかというような考え方を僕はしました。マルクス主義ははっきり捨てましたから。捨てざるをえなかったというか、これは間違いだ、唯物史観も間違いだ、それでものをみてはいけないというふうに決めましたから、これはちょっとしんどいんです。前のままの方が楽だって、今でもときどき思います。……労働者だから正しいなんて嘘だ、大衆はいくらでも馬鹿なことをやる、世論調査なんて信用できない。(同前)


 


 下図は、漫画版『ナウシカ』のラストで、ナウシカ墓所の主と対決するシーンである。墓所の主が、理性に基づく清潔な理想を語り、ナウシカは大ゴマでその理想を力強く否定する。この拒絶に、今回の主人公・真人の拒絶と同じ力強さを感じないだろうか?




宮崎駿風の谷のナウシカ』7、徳間書店、p.196

 


 漫画版『ナウシカ』で宮崎はユーゴスラビア内戦に直接のきっかけを得て、マルクス主義放棄を宣言した。それを聞いたときぼくは、まあマルクスを救い出すためにムキになって反論したという側面はあるのだが、宮崎が言いたかったことは、絶望するほどの現実と泥まみれで格闘することなしに、主義や理想だけで世界が変わるなどということは金輪際ありえないというその覚悟を問うことだったのだろう。今となってみれば、宮崎の言いたい気持ちは痛いほどわかる。


 基本的にはこのような理想主義批判と現実主義を、宮崎は本作でも繰り返した。


 しかし、かつてのマルクス主義の放棄とは違って、宮崎にとって、この1、2年の世界情勢の推移はより切迫し切実したものになったに違いない。*2


 「『風立ちぬ』を批判する」でも紹介したが、宮崎自身は、名うての反改憲論者であり、日本国憲法が掲げる理想の規範を高く評価する人物である。


 だが、ウクライナ戦争をはじめとする国際情勢は、そうした理想主義が果たして次の時代も通用するかどうかを激しく問うている。主人公から母親を奪った、そのような戦火をどうしたらなくせるかという問いをたてたとき、「悪意に染まっていない石」を積んで理想世界を実現させるたくなるのが、戦後民主主義世代だろう。


 ただそこをあえて、「殺し合い、奪い合う」現実世界と格闘することで、新たな世代は作り出せと言おうとしているのではないか。他方で「悪意ある石」を主人公(真人)は拒否しており、それは現実への屈服や虚無主義のようなものだと言える。


 宮崎自身は「大叔父」に重ねられているのだから、今さらその立ち位置は変えられまい。彼らの世代の努力で石=世界の均衡はどうにか保たれてきた。しかし、それを引き継ぐ世代は、もはやその「悪意に染まっていない石」を積み上げた理想主義だけでは対処できず、現実そのものと格闘しなければならないのだと言いたいように思われる。


 ぼくも宮崎の後の世代にはなるのだが、ではこれまでの理想主義は全く無駄かといえば、そうは思わない。アメリカに従属してその戦争に動員される危険を抑止する強力な武器として憲法9条は引き続き機能するであろうから、リアルな現実と格闘する武器として理想主義を活用すべきだというのが、ぼく流の「どう生きるか」である。


 


 下図で、墓所の主が語る理路整然とした美しい理想主義に対して、ナウシカが「清浄と汚濁こそ生命」だと切り返しているのは、他方で薄っぺらな現実主義には拝跪せず、しかしあくまで「清浄」=理想は捨てないというその難しい均衡を示している。


 理想主義への徹底した批判を加えつつも、その理想そのものは決して捨てないところに、戦後の進歩的知識人であった宮崎の面目躍如がある。今回はそれを一層現実主義にスライドさせたが、それでも理想は捨てていないのが宮崎であろう。




宮崎前掲書p.200

 このテーマ性こそ、宮崎の「最後の作品」にふさわしい。彼が生涯問いかけたものであり、引き続き後続世代に考えてほしいと願ったテーマだろう。もちろん、この後ひょっとしてまた作るかもしれないし、もっといいものができるかもしれないが、この時点で宮崎が放つべき作品のように思える。

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努力と才能

これは、米山隆一が正しいだろう。世のブラック企業経営者や教育ママは武井派がほとんどだと思う。そして多くの人、多くの子供を不幸にする。
米山の言うことは非常に大切で、努力するにしても才能のある方向に努力することが大事で、才能の無い方向に努力すると一生をフイにする。だから、多くの事に触れて、自分は何が好きか、何に向いているかを知ることが一番大切なので、私のように怠ける(ボケッとしている)ことが好きという人間でも何かを考察したり文章を書いたりすることはまったく苦にならない。もちろん、それが娯楽だから苦にならないのである。
もっとも、たとえばパチンコが好きだから、それを一生やろうというのは間違いで、娯楽でも、あるいは純粋な娯楽だからこそ仕事にはならないことがある。女が好きだから、ホストを一生の仕事にしようというのも大間違いで、60歳70歳のホストにあまり需要は無いだろう。女を食い物にする覚悟と冷酷さ、下劣さがあってこそ成り立つ商売でもある。
ただ、武井の言うのは、スポーツだけに関して言えば、「正しい努力をせずに我武者羅にやってもダメだ」というのが彼の主張の本質で、多くの人は単に走るだけでも「正しい走り方をしていないから成績が伸びない」のだ、ということだ。これは正しいと思う。世の9割の子供は正しい走り方を知らない。教えられもしていない。もっとも、それで記録を数秒伸ばしても、才能のある人間には太刀打ちできない、というのが米山の言い分で、それも正しい。

(以下引用)

米山隆一さん、武井壮にレスバトルを申し込む。「才能によって努力に要するエネルギーは段違いです」

 

引用元: https://nova.5ch.net/test/read.cgi/livegalileo/

1: それでも動く名無し 2023/07/19(水) 18:46:09.53 ID:qwT/S/sbM
うおおお
no title

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2: それでも動く名無し 2023/07/19(水) 18:47:24.81 ID:PkICYVFQM
たまにまともになるよなこいつ

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寒冷の国でなぜ幸福でいられるのか

「大摩邇」所載の「地球の記録」記事の一部だが、私が面白く感じたのは記事の主内容ではなく、「世界で最も幸福な国」のランキングであるので、そこだけ先に載せる。

1位フィンランド
2位デンマーク
3位アイスランド

この3つの国に共通するのは何か。三つとも北欧の国であるのは誰でも分かる。だが、北欧の国であることが幸福につながるだろうか。特にアイスランドなど、名前からしても「氷の国」である。網走番外地か。いや、それより緯度が高いからもっと寒いだろう。
まあ、北欧の国であることは別として、私が思ったのは、この三つとも

特に著名な産業がなく(アイスランドは金融で有名らしいが、金融は「何も生産しない」。つまり、本来の意味での「産業」ではない。)
特に著名な企業がなく
特に著名な文化がなく
特に著名な偉人が(フィンランドのシベリウスを除いて)なく
特に世界の話題になる出来事や歴史がない

ということだ。映画や演劇では有名人も過去に数人出ているが、数は非常に少ない。で、「人生との戦い」を描いた哲学的で深刻な、あまり幸福とは思えない作風のようだ。
いや、無名こそ幸福の源という考えも可能だろうが、しかし、この三つの国は「どのようにして(食物や生活用品を手に入れて)生きているのだ?」という疑問を私は持つのである。デンマークは畜産業では少しは有名だった気がするが、畜産をしているから幸福、とはならないだろう。国民全員が畜産業者であるわけもない。
とすると、この三つの国は「なぜ幸福なのか?」
まあ、考えられるのは「寒いので基本的に何もやらない」だから無事平穏であり、何もない現状に満足する哲学がある、くらいか。時々キチガイが銃の乱射で大量殺害をしたりするが、それも「何もない」ことへの突発的な反動だろう。


(以下引用)

世界で最も幸せな国のひとつであるデンマークの生涯での精神科受診率が「82%」であり、精神薬の処方経験が「70%の人たちにある」ことを知る

地球の記録 - アース・カタストロフ・レビューさんのサイトより
https://earthreview.net/rate-of-mental-health-disorders-in-denmark/
<転載開始>


ベンゾジアゼピン等によりもたらされている幸福…

最近、米エポックタイムズ経由で、デンマークの「国民のメンタルヘルス」に関する研究の存在を知りました。それは、以下のような調査で、150万人を対象にした大調査でした。


「一生涯で、デンマーク人のどの程度が、精神科医からの治療を受けたことがあるか、あるいは精神薬を処方されたことがあるか」


 


デンマークで初めてとなるこの調査の結果、


「デンマーク人の 82.6%が、生涯で、精神科医からの治療を受けたことがある」


ということがわかったのでした。


驚異的な数値だと思います。



コペンハーゲン感情障害研究センターやコペンハーゲン大学の研究者たちによる調査の結果は、こちらにあり、その冒頭は、以下のように書かれていました。


デンマークの研究より


調査結果 このコホート研究では、精神的健康障害および/または向精神薬の処方の生涯累積発生率は以前の報告よりも高く、人口の約 80%が病院内または一般開業医または民間の精神科医から精神的健康障害の治療を受けていた。


精神的健康障害と向精神薬の処方は、収入の低下、失業、一人暮らしや未婚の可能性の増加など、その後の社会経済的困難の増大と関連していた。


JAMA


これを伝えていた米エポックタイムズの記事をご紹介させていただきます。なお、 2023年度版 世界幸福度ランキングの上位3カ国は以下です。


世界幸福度ランキング 2020-2022


1位 フィンランド
2位 デンマーク
3位 アイスランド


yamatogokoro.jp

世界で2番目に幸福な国デンマークは、精神的健康障害の罹患率が驚くほど高いことが研究で判明した

The World’s 2nd Happiest Country Has a Surprisingly High Rate of Mental Health Disorders: Study
Epoch Times 2023/07/17


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寛容の世界

非寛容というのは狭量とほぼ同義語で、俗な言い方をすれば「尻(ケツ)の穴が小さい奴」となる。
だが、よく考えてみると、非寛容を攻撃する立場は誰の立場かと言えば、「罪を犯した人間」である。そういう人間に、被害者を含む「罪を裁く立場の人間」が「非寛容だ」と非難されるわけだ。
もちろん、罪を犯した人間その人ではなく、罪人を弁護する立場の者、罪人を許せ、とする立場の者が非寛容を攻撃することも多い。だが、それは、「罪人を弁護することで利益を得る者」である。たとえば、罪人の家族や友人、弁護士などだ。
では、世の中が寛容な世になって誰が利益を得るか。当然、罪人、あるいは犯罪を犯す高い可能性を潜在的に持つ人間である。
とすると、非寛容への攻撃というのは、「正義は何の根拠や権利があって不正義(罪)を罰するのか」という奇妙な論理だとなる。つまり、不正義が横行する世の中を望むのか、ということだ。

聖書は法ではなく倫理を説いた書だが、その中に「私は罪を犯した者を何回許せばいいのですか」という質問にキリストか誰かが「7の70倍許せ」と答える場面がある。
さて、現代で法律が寛容の精神で「あらゆる罪を490回まで許せ」としたらどうなるか。当然、あらゆる人が悪の限りを尽くし、489回で打ち止めにするだろう。それまでに何人が殺され、何人が暴行され、何人が財産を奪われ、何人が強姦されるだろうか。
これが論理的に見た「寛容の世界」である。もちろん、ここでは冤罪問題などは考慮していない。

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「八百万の神」思想に見る日本の宗教的寛容性

「大摩邇」所載の井口博士の記事の一部だが、この指摘はちょっと面白い。(記事の他の部分は独断や偏見や誤字が多い。下の短い文の中にも「新仏融合」という誤字がある。合成ゾンビかww)
しかし、日本の「八百万の神」という思想には、「他国や他人の信じる神」も含まれるというのは、少なくとも私は初めて聞いた指摘、あるいは思想である。(おそらくこれは私が日本対世界というパラダイム・思考の枠組みに捕えられていたのに対し、科学という、国籍不要の思考の形式を持つ井口博士の思考が勝っていたのだろう。)
これが日本の神道の古来の思想だと判断していいかどうか知らないが、明治以降にできた「軍神」を祭った新興神社の存在を旧神社が認めているのは、やはり「八百万の神」思想の一端かもしれない。こういう宗教的寛容性は、日本独自のもののように思えるが、それは逆に言うと、「宗教を軽く見る」姿勢でもあり、宗教民族からは唾棄すべきものと見られるだろう。連中は異教の人種や民族や国家は滅ぼし、我が宗教の真実性を証明せよ、という狂気に支配されているのである。殺生戒のあるはずの仏教徒ですら他宗民族殺戮をやるのである。
まあ、上記のことは「神道は宗教ではない」という一言で片付くが、ではそのお偉い「宗教」は社会に害毒を流していないか。社会をむしろ悪化させていないか。統一教会だけが問題だと言えるか。


(以下引用)

我が国の神道は普通の宗教とは違う。
新仏融合の万物崇拝、太陽崇拝の八百万の神々の世界である。
この精神が、他国や他人の信じる神もまた八百万の神々の1つだということになる。

(夢人追記)参考までに、某スレッドより転載。


海外「宗教心がない日本が一番安全だなんて!」日本人の宗教観に外国人も驚き!



日本人の投稿者さんが、東京の若者たちに宗教についてお話を伺っています。


主な意見としては、

-仏教徒だけど信じてない。家に仏壇はあるけど。

-無宗教だが、家自体は仏教。自分とは関係ないし、興味ない。

-信仰心は無い。宗教の事はよくわからない。クリスマスや初詣とかバレンタインとかも祝う。

-鳥居があるかないか?お寺と神社の違いもよく分からない。


-小さい頃に仏像に触れる機会がなかった。辛い時に頼れるものがあるのはいいと思う。日本人は都合よく神頼みする。

-イスラムの過激派とか宗教は怖い印象がある。人を殺してしまうほど忠実なのは違うと思う。神様も望んでないと思う。

-メディアが取り上げるのは悪いことばかり。でも神様は存在すると思うし、大切だと思う。

-信仰は自由だが、それで戦争や対立が起こるのはよくない。

-好きなものを自由に食べたい。宗教に興味はないがあの教会はかっこいい。でも聖書の物語を考えた人は凄いと思う。


などです。

以下、海外の反応
      ・他の国も日本を見習わないと +31



      ・人類が作り出した最悪のものは宗教だ。+621



      ・日本はキリスト教やイスラム教国以上に人を敬う真っ当な社会だ。しかも勤勉で繁栄している。


      日本史上最も賢明だったのは、タチの悪い宣教師どもを締め出したこと。+34



      ・最後の女性が「聖書はよくできたフィクション」だって話してたけど、好ましい姿勢だよ!+13



      ・面白い。これが日本の進歩的な理由かもしれないが、同じく自殺率が高い理由かも。+287



      ↑・
投稿者
      |韓国にキリスト教徒は多いですか、自殺率は日本より高いですよ。+316



      ・イスラム教は誤解されまくってる。平和的な宗教なのに。もっと本を読んで、メディアを信用してはいけない。+297



      ・だがら他のアジア諸国より日本が進んでるんだよ。+87



      ・ほぼスウェーデンの人と同じだね。僕は無宗教で不可知論者だ。


      他人が何を信仰してるかなんてあまり気にしてないけど、そうはいってもイスラム教に対して偏見はある。+222



      ・イスラム教は怖くないですよ。怖い宗教なら世界でイスラム教徒はこんなに増えません。


      本物の正しいイスラムの教えは、理由もなく人を殺しはしません。殺人は2番目に重い罪です。


      イスラムは人だけではなく、動物や植物も愛する宗教です。私達ムスリムは両親を愛します。


      たとえ母親がキリスト教徒や仏教徒でも優しく接し、年老いても愛するという義務があります。+20



      ・これはとても悲しいです... 神のことや生きる理由が分からない人は、死後にどこに行くのか分かりません。


      4:30の女性が神の存在を信じていると話していて嬉しかったです。そうです! キリストは生きています!


      もっと多くの日本人がキリストのことを知り、触れ合い、キリストにどれほど愛されてるかを知って欲しいです。+391



      ・イスラム教について学びたいならイスラム教徒を見るのではなく、コーランとスンナを読みましょう。まずは起源に当たらなければ。+23



      ・宗教には関わらないほうがいい。宗教は史上最悪の代物だ。マジで頭がおかしくなる。+172



      ・信心深い国より、宗教を信じない国の方が成功しているという事実。+40



      ・日本には誰を憎んであやめるべきかを教える本が存在しないから、アイスランドに次いでこの世で最も平和なのです。


      アイスランドにもそんな本がありましたが、拒否することで平和になれました。+14



      ・宗教を受け付けない人でも、仏教は素晴らしい思想ですよ。


      イスラム教徒じゃないけど、とても辛い時にイマームから助言を受けました。


      イスラム教は穏やかで優しいです。テロが起こる理由ではなく、道を見失った人たちが言い訳に利用します。+30



      ・私には日本のやり方は宗教的ではないように思える。でも伝統的だ。


      神社に参拝して幸運を祈る。またはお寺を手伝いに行く。七夕には願い事を書く。


      でも必ずしも一つの神を信じたりするわけではない。+27



      ・日本人の大多数は宗教を信じてません。でも明らかに日本は世界で最も安全な国の一つです。


      他人を傷つける事はよくないことだと心から分かってるから。ただそれだけです。+29



      ・現在日本に住んでるけど、いわゆる宗教的な祖国より平和を感じてる。


    メディアが報じるデタラメな平和じゃない。ただ心から平和を感じてる。+79


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老齢と想像力と創造力

私自身の別ブログに書いた記事だが、若者へのアドバイスとして適切だと思うので、ここにも載せておく。
前置きとしてイエイツの詩「時とともに知恵は来る」をうろ覚えで先に載せておく。



葉と花はあまたあれど根はひとつ

なべて我が偽り満ちし若き頃

我 葉と花を風に揺すりぬ

時と共に知恵は来る

今ぞ我真理(まこと)のうちに萎れ往かむ


(以下引用)

十代のころの私は、人間は年を取るほど賢くなる、と思っていた。知識は年々増えるのだから、考えることもどんどん妥当なものになるはずだ、と思っていたのである。もちろん、知識イコール賢さとは思わないが、間違った知識がどんどん正しい知識に置き換わっていくのだから、賢くなって当然だ、と思っていたわけだ。
だが、現在の私は、年を取ることで賢くなる部分より、失われる知的能力の方が大きいと思っている。
年を取れば、俗世間的な問題に関しては正確な知識は増え、判断も適切になることは確かだ。
つまり、事業経営や政治などに関しては、若者より老人のほうが正しい判断をすることが多いだろう。
だが、失われる最大のものは、「想像力と創造力」である。
老人が旺盛な創造性を持っている、という例は少ない。かろうじて、わずかな創造力を保っているだけである。創造力の源泉である想像力も、枯れていることがほとんどだろう。
なぜか。それは、「想像するまでもなく、知っている」からだ。
老人は世界について、ほとんど知っているし、知らないものは
「保留にしておけばいずれ分かる」
ことを知っているから、想像する必要性を感じない。したがって、想像することもない。
こうして、想像力が枯れていった結果、創造力も枯れるのである。
だいいち、自分に残された時間は少ないのだから、無駄な行為をして時間を浪費したくない。
創造に要する膨大な時間と労力を考えれば、そんなことをする気力も失うのが当然である。
かくして、「いちばんくだらない、不毛な遊びをして」老後をすごすことになるのである。


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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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