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「悪人正機説」の考察 1

私は「歎異抄」の「善人なおもて(もって)往生をとぐ。いわんや悪人をや」という言葉がまったく理解できないのだが、浄土真宗は日本仏教の中で信者数がもっとも多い(あるいは、案外創価学会に抜かれているかもしれない)と聞いているので、それらの人々は、この奇怪な言葉を理解しているのだろうか。私が特別に馬鹿なのだろうか。
その考察をしてみる。ただし、一気に書くのではなく、気が向いた時に書き次いでいく予定だ。

先に書いておくが、私は「浄土宗」と「浄土真宗」の教義の違いが分からないし、そのふたつが分かれた理由も分からない。浄土宗から見て浄土真宗は邪教なのか、その反対に浄土真宗から見て浄土宗はどうなのか。また、他の仏教宗派から見て、この両派は邪教なのかどうか。そしてまた、「浄土(極楽・来世)」を前提としない仏教は日本の宗派にあるのか。(禅宗などがそういうイメージだが、良く知らない。)
なお、私は「悪人正機説」の「正機」の意味も知らない。信者たちには常識なのだろうか。一般人が日常で使う熟語ではないと思うのだが。一応、「善人」「悪人」は一般的な意味だとして考察する。


(以下引用)


第三条
 一 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世 のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。 この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむ けり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむここ ろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のここ ろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を とぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなる ることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、 悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往 生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰 せ候ひき。

(以下現代文訳)

その3
 善人でさえも浄土に往生できるのだから、悪人が浄土に往生できないわけがない。 ところが、世間の人たちが言うには、「悪人でさえ往生できるのだから、善人が往生 できないわけがない」。この考え方は、チョット見は正しいように見えるけど、 阿弥陀さまの本願、つまり他力の考え方にはふさわしくないわけ。なぜなら、 善い行いをして、修行をいっぱいして、そしてその結果で仏になろうとしている 人(こういうひとたちを仏教では善人というんだけど)は、阿弥陀さまのお力に まかせるという他力の心が欠けているので、阿弥陀さまの本願の対象から はずれているのね、ところが、自分でなんとかして仏になってやろう、 という心を改めて、阿弥陀さまの力にお任せしちゃえば、真の浄土に往生できるわけ。 煩悩の塊みたいな私たちは、どんな修行をしたって解脱なんかできない。そんな わたしたち(つまり、修行もできないような、仏教でいうところの悪人ね)を、 阿弥陀さまが可哀想に思って、私たちを救ってあげようという願いをおこされた わけで、その願いの本来の意味は、悪人こそを成仏させてあげようというもの なわけだから、阿弥陀さまのお力にお任せしてしまう悪人こそが、一番浄土に 往生するのにふさわしいわけ。そういうことだから、「善人でさえ往生できる のだから、悪人が往生しないわけがない」と言うことになるわけだ。
と、親鸞さまはおっしゃいました。

(以上引用)以下考察

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「人間関係」とコスト

「シロクマの屑籠」記事の後半で、シロクマ氏は、確か精神科の医者だったと思う。
この部分が私に興味深く思えるのは、記事中に頻出する「コスト」という言葉のためである。特に「精神的コスト」という言葉だ。〈人間関係は互いにコストを支払い合って、つり合いを取っている〉、という感じだろうか。
私はこれを「人間関係の経済学化」と「計量主義のあらゆる場面への浸透」と見る。つまり、感情の分野、非計量的な人間関係の分野にまで、計量主義がはびこっている、という感じだ。「お前の俺に支払ったコストはこれこれ、俺がお前に支払ったコストはこれこれ、差し引き、俺が支払い過剰だ。さっさと残金を支払え」というわけである。
もちろん、書いている内容自体は、まとも過ぎるほどまともである。しかし、物事をすべて「損得勘定」で見ていないか? 
そのうち、「我々が子育てに払ったコストはこれこれだから、老後の面倒をしっかり見ろ」、という親が出てきそうである。それに対して「生まれたことによって受けた、俺の被害のコストはこれこれで、お前らの子育て費用より大きい。残高を支払って、さっさと死ね」という子供も出て来そうであるwww


(以下引用)


しかし、礼儀や礼節が拙ければそうもいかないし、私たちは完璧ではないから、非礼やボタンの掛け違いだって起こる。だからこそ「すみませんでした」とわびることも含め、意見のすり合わせや譲り合いが大切だし、礼儀や礼節にかけるコストをおろそかにし過ぎてはいけない。そこをおろそかにしている最も極端な例が、SNSにおいて他人のタイムラインに無礼なコメントや不躾なメンションをばらまいているアカウントであって、ああいうのは良くない。
 
礼儀や礼節は、無料ではない。
精神的なコストを支払いあい、ときには時間的・経済的コストも支払いあい、お互いがお互いのことを尊重しあっている人間関係を維持するために努めあっている。挨拶などもそうだが、およそ人間の暮らすところではどこでも、私たちはお互いに敬意を払いあい、争いを避けるために気を遣ったり汗をかいたり、ときにはお金を支払ったりしている。
 
しかし、そうしてお互いにお互いを気遣うコストを支払いあっているなかで、その礼儀や礼節にコストをぜんぜん支払わない人がいるとしたら、その人は意図するしないにかかわらず、いろいろな人に「この人、なめているんじゃないか」という印象を与えかねない。
 


b.hatena.ne.jp
 
たとえば全員が敬語を使いあっている場所で、一人だけため口の人がいるとしたら? その人はほとんどの人から「この人はなめてかかっているんじゃないか」と思われるだろう。「私は他人をなめない」と自称している人が、敬語の欠如も含めて礼節や礼儀にコストを支払っていないとしたら、それはもう、礼節や礼儀のフリーライダー、ではないだろうか。
 
もちろん実地ではそこまで極端な人は珍しい。けれども、礼儀や礼節にコストを支払わないほど・意識を差し向けないほど、こうした印象を周囲に与えやすいかと思う。そのような人が「私は他人をなめない」と言ってみたところで、他人はそうは受け取らない。
 
礼節や礼儀を欠いていると、「なめる/なめられる」の構図から自由になるどころではなく、むしろ、「なめる/なめられる」の構図のなかの、かなり悪いポジションに陥ると懸念される。
 
こうしたことを考えていくと、私には、「なめる/なめられる」という構図から自由になることは娑婆世界では無理だと思えてしまう。文化や部族で多少の違いはあるにせよ、全人類が礼儀と礼節を守りあい、それでお互いの面子や沽券を守りあっている以上、人の間で生きていくためには礼儀と礼節にコストをかけないわけにはいかない。ある程度のコストを支払っていてもなお、ときには「今、あの人になめられたのではないか」という誤解が生じることもある。「なめる/なめられる」の構図のすべてが礼儀と礼節に由来している、と主張するつもりはないが、礼儀や礼節を欠いていると、「なめているんじゃないか」と疑わせてしまう確率、相手から無礼者だと思われる確率は一気に高まる。である以上、結局私たちは礼儀や礼節を守って人間社会の輪のなかで生きるほかない。礼儀や礼節を無視した結果、あちこちの人に「あの人は、私をなめている」と思われ、あちこちの人に無礼者と思われて生きるよりは、たとえ不自由でもそっちのほうがマシなんじゃないかというのが私の思うところだ。
 
最後に少し付け加えると、礼儀や礼節は無料でないだけでなく、社会的格差や不平等に根ざしている部分もある。礼儀や礼節には、ハビトゥス、つまり文化資本としての一面があるし、先天的に礼儀や礼節が守りづらい人やずっと多くの精神的コストを支払わなければならない人はどうなんだ、という問題もある。そうしたことまで書くと、やがて「礼儀や礼節は多数派のためのもの、そしてブルジョワ資本主義的イデオロギーに基づいた階級装置だ!」みたいな言葉が脳裏をよぎるけれども、そうした各論については、今日ここでは書かない。そのあたりは、いつかまたどこかで。
 

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神ベースの道徳と世俗ベースの道徳の優劣比較

私は「通俗道徳」という言葉が大嫌いなのだが、それは「世間一般で言う道徳=通俗道徳」という印象をこの言葉が与えるからであり、それは拡大されて、「通俗道徳の否定=道徳の否定」になるからだ。
で、「通俗道徳」を否定する人間は、ではどのような「世俗的道徳」なら肯定するのか、その議論は私はまったく聞いたことがない。

私は、現代の西洋社会の崩壊の根底は、「道徳の消滅」にあると思っている。新自由主義そのものが、完全に不道徳の極みなのだから、資本主義の到達点は社会の崩壊、あるいは社会の地獄化になるわけだ。改めて言うまでもないだろうが、流行りの言葉を使えば、「新自由主義」とは「今だけ、カネだけ、自分だけ」なのである。まさに資本主義・自由主義の極点ではないか。
で、西洋社会の道徳が崩壊したのは、「神(創造神、唯一神、全能の神、道徳の立脚点)の存在」が信じられなくなったからなのである。道徳の根底である「神の存在」が信じられなくなったら、道徳も信じるに足りない、となるのは必然だろう。

日本が、経済的にはかなり下落しても、まだ社会崩壊に至らない理由は、まさに日本人の道徳は神を前提としていないからである。それを「通俗道徳」と言っても「世俗道徳」と言ってもいい。とにかく、「周囲に迷惑をかけない」というのが、その基本だ。
それが「自由を束縛する」と文句を言う人は、では、自分は他人の「自由」な行為によって迷惑をかけられてもいいのか。絶対に、そちらは「御免蒙る」と言うはずだ。それが、実は「世俗道徳」の強さなのである。
当たり前の理屈の上に、この道徳は成り立っているから、神の存在も権力や権威の存在も必要としないのだ。あえて言えば、「自分が迷惑をかけられたくないから、自分も他人に迷惑をかけない」という、「利己主義がそのまま利他主義となる」のが、世俗道徳なのである。何も、利他主義という、それ単独では成立しにくい思想を振り回す必要はない。根本はむしろ利己主義、あるいは動物的自己防衛本能にある。
「自分が迷惑をかけられたくないから、自分も他人に迷惑をかけない」というのは、「フェア(公平)」という概念だ。そして、西洋人はフェアという言葉を使うのが好きだが、それはだいたいにおいて「自分をフェアに扱え」という要求であり、自分が他人に迷惑をかけるのは、別の話なのである。それは、彼らが何よりも自由を好むからであり、自由とは他人の上に自分の力を揮うことだからだ。彼らのこの矛盾は、彼らが「世俗道徳」を考える思考体験をほとんど持たないからだろう。
日本の場合は、日常生活そのものが世俗道徳をベースにしているから、改めて道徳の問題を考える必要もほとんどない、少なくとも、これまではなかったのだが、これからははたしてどうか。






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生命と理念

「罪と罰」その他のドストエフスキーの作品に一貫しているのは、私見だが、「生命とイデオロギーの対立」であり、「イデオロギーの、生命への敗北」ではないか。これは「カラマーゾフの兄弟」でも「悪霊」でも同じだろう。流刑にされたラスコリニコフが、同僚囚人たちに嫌われたのは、他の囚人たちは「必要に迫られて」罪を犯した、分かりやすい存在であるのに対し、ラスコリニコフは「イデオロギーのために罪を犯した」(それが彼の外貌や言動から感じられる)得体の知れない、気味の悪い存在だったからだろう。
そしてドストエフスキーは「生命と結びついた思想」としての宗教は肯定しているようだ。だが、その他の「作り物の理念や理想」としてのイデオロギー(主に政治的イデオロギー)は否定しているわけだ。(私自身は、「宗教こそイデオロギーの中のイデオロギーだが、有益なものと有害なものがある」、という考えだ。)
ここで勘違いされると困るのだが「新自由主義」も「自由主義」も「共産主義」も、あるいは私が常に共感している「社会主義」も、あるいは「資本主義」も「拝金主義」も「テロリズム」もすべてイデオロギーだということだ。ただ、我らの生活や社会はそれらのイデオロギーの要素をほとんど必須成分として持っているのであり、それらがどれほど邪悪な「病原菌」であっても、消し去ることは不可能だし、それを消し去ることも別のイデオロギー(ファッシズム)になるのである。
要は、「社会や人間にとって有益の度合いの大きいイデオロギー」と「有害さの大きいイデオロギー」があるわけだ。そして、何かのイデオロギーに根底から憑りつかれた人間は一種の狂人になる。これは一部の酷薄な大企業経営者やある種の政党政治家から無政府主義者まで同類だ。

ここで「イデオロギー」という言葉自体を考察するなら、「イデオ」はギリシャ語の「イデア」つまり「理想」であり、「ロギー」は「学問」や「論理」を意味するかと思う。つまり、人間が頭で作り上げた「空中楼閣」であるが、それが現実に実行されると「バベルの塔」のような巨大な、しばしば「巨大さ」しか価値の無い、壮麗な建築物を世界に生み出すわけだ。もちろん、その中で「現実との密着度」の高い理念は、現実に対して有益な奉仕をする。
これは、工学、理学、あるいは科学の一部、あるいは文学や歴史学にも有用なものは様々ある。文学ですら、「源氏物語」や「枕草子」「三大和歌集」は、一部特権階級のお遊びだったものが、日本では平民すらそれを楽しんでいるのである。これは他の国には稀なことである。日本のアニメが常に抒情的なのは、そうした「文学的伝統」の影響だろう。外国のアニメには、それはほとんど無い。
なお、悪しき「知識人」によって「文学」や「小説」が「学」や「説」という漢字を含んでいるわけで、それが庶民を文学や小説から遠ざけているかと思う。文学は学問ではないし、小説は「自説を述べること」を目的とはしていない。これらは単に「物語」であり「語り物」である。その中に偉大な思想を読み取るのは読者個々の勝手である。

なお、帝政ロシアは、北欧の軍隊がロシアを侵略征服して打ち立て、ロシアの民衆とはまったく無縁な貴族社会を2000年もの間続け、その間民衆の生活は貧困の中にあった。つまり、ソビエト革命は「道義的に見て」当然の出来事だった、と見るべきである。私は暴力革命否定論者だが、それは場合による。日本社会は(現時点では)革命に値するほど庶民生活は貧困ではない。まあ、「上級国民」が何か得体の知れない感じはあるが、天皇が庶民を搾取して豪華な生活を送っているというのはデマでしかないと思う。むしろ、日本を支配し搾取しているのはユダ金の部下や眷属たちだろう。天皇攻撃はある種のイデオロギストの客観的戦略としても下の下、愚の愚だと思う。



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「実証主義」はしばしばご都合主義になる

「現代ビジネス」記事2ページのうち後半1ページのみ転載。前半はさほどたいした内容だと思わないので省略。ここに転載したのは、中江兆民の考え方を簡潔に書いているからである。

しかし、彼が西洋の「唯一神」「創造神」思想を根底から論破したことを書かないと、中江兆民の思想にほとんど触れていないも同然だろう。まあ、現代でも猛威を振るっている「実証主義」の根本的欠陥(単純に言えば「(自分にとって都合の悪いもので)見えないものは存在しないと見做す」姿勢)を指摘しているだけでも、この引用部分は意義がある。この「実証主義」がキリスト教やユダヤ教とぶつかって宗教裁判にかけられなかったのが不思議なくらいだ。
自論の大きな欠陥にはあえて触れない、存在しないように見なす、というのも西洋人の得意技だろうという気がする。そして、相手の些細な失敗には「お前は幾つ屁をひった、屁をひった」と騒ぎ立てるのである。世間はそれで騙される。まあ、地球温暖化詐欺や新コロ詐欺、ワクチン詐欺を見ればこれは明々白々だろう。

(以下引用)

俺は絶対に「哲学」という言葉は使わない…東洋のルソーが「理学」にこだわり続けた「深すぎるの理由」


配信

現代ビジネス

この時代をどう捉えるか


藤田 正勝


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「仁」と「人」、「理」と「里」

かなり前に新古書店で宮崎市定の新訳による「論語」を買ったので、気が向いた時に、気が向いたページを少し読んでいるが、宮崎市定という人はかなり自信家で、その新訳も強引な印象が強い。好きな学者ではあるが、信頼できる発言ばかりとは限らないので、半分は眉に唾をつけて読んでいる。
で、「里仁編」を少し読んで、「仁」という概念についてあれこれ考えたことを思いつくまま書いてみる。読むのが面倒な人は、赤字部分だけでも読むといい。これは、儒教とは無関係な、「世界の思考的把握」に関する私自身の創見による画期的思想である。

先に「仁」という「儒教の最高善とされる倫理思想」についての私の基本解釈を書けば、これは「ヒューマニズム(人間尊重主義)(→必然的に「平和主義」)」であり、「仁」という漢字を偏と旁に分ければ、「人偏(ニンベン)」に「二」である。つまり、人が二人存在すれば、そこに必然的に生まれる、あるいは生まれるべき感情が「仁」だ、というのが私の解釈だ。

「里仁編」の冒頭、「子曰里仁為美」を宮崎市定は「子曰く『里は仁なるを美と為す』」と書き下し、「里」とは村の一区画の意味だとして「『家を求めるには人気のいい里がいちばんだ』という古語がある。」と訳しているが、これはかなり呆れた解釈だろう。宮崎は「論語」の意味不明箇所の多くは古語の引用だ、としているが、これはその暴走だと私は思う。この解釈だと、続く「択んで仁に居らずんば、焉(いずく)んぞ知なるを得ん」が実に俗臭に満ちた「どんなに骨を折って探しても、人気の悪い場所に当たったら、それは選択を誤ったと言うべきだ」と解釈している。まるで、孔子の時代の人間(主に農民)が自分の居住区を勝手に選べたような言いぐさである。ただし、「仁」が「人」の意味に通じるという根幹は正しいとは思う。

私の解釈は「里」は「理」だというものだ。里の原義が村の一区画だというのなら、「頭の中を区画整理するのが『理』だ」というわけである。
そこで、「里仁為美」とは「理は仁を美となす」となり、「合理的に考えれば、『仁』であることがもっとも賢明(至高)なのである」、という思想になり、これは孔子の思想、つまり「原始儒教」が「仁」を道徳の根本に置いたことと一致するだろう。

ついでに言えば、西洋哲学の根本的欠陥は、「神と人間」、「思考自体」、「政治」については考えたが、「人間対人間(社会道徳)」についてはほとんど考えず、ただ「神への服従」か「神への反抗」かの二者択一だけしか考えなかったことである。それがあの西洋人の「他者(他人種、他民族、他階級)への酷薄さ」「闘争性」「侵略主義」の根本原因なのではないか。知識人は「哲学」によって、考える内容が規定され、それ以外の思考法ができなくなるわけだ。そして、「知識人」の意見や発言が社会をリードし、社会を洗脳するのは昔も今も同じである。

これもついでに書いておけば、幼児は知性が未発達だから、周囲が教えて「人間化」する必要がある。つまり、「生まれつきの善」というのは基本的に不可能であり、周囲の教化によって人は善性を身につけるのである。これを荀子は「偽善こそ善の本質である」という意味のことを書いており、「偽」とは、分解すれば「人為」なのである。何も、心からの善意が自分には生まれない、と嘆く必要はない。善とは「習慣(訓練)で身に付ける」ものなのである。




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「意思と思考と無意識」

古いフラッシュメモリーに保存されていた文章で、既にこのブログに転載済みかもしれないが、我ながら面白い思想なので、自己引用しておく。

(以下引用)やや読みづらいので、冒頭の二つの引用記事は最初は読み飛ばすといい。


意思と思考と無意識


 


 


「個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」


 (『国体の本義』より。佐藤優『国家の神髄』よりの引用)


 


「阿頼耶識は、生命の中枢であり、「我」よりもさらにその根底にある生命そのものに執着する。阿頼耶識の発見こそ、唯識論最大の発見であるとされている。


人間が行為(現行)をすればその痕跡が残る。これを種子という。種子は、阿頼耶識中に残って蓄積される。これは、すべての経験は無意識の中に残るというフロイトの考え方と同様で、『過去の経験は、意識の中に何も残らなくても、無意識の記憶となって、すべて蓄積されている』のだ。


この蓄積を『薫習』という。薫習とは、香りが衣服などに付くことをいい、過去の経験が、阿頼耶識に付着、蓄積されることをいう。これを、『現行の種子は阿頼耶識に薫習される』という。


たとえば、よい行為(現行)をすれば、よい種子が薫習される。


種子は、また現行を生む。例えば、よい種子からは、よい行為(現行)が生じる。


(中略)


この心の一部分は、常(不変)に近いから、これこそ『我』であるとしてしがみつく。その心(阿頼耶識)の一部分を、とくに末那識という。末那識は、実在しない『我』を実在すると錯覚して、あくまでもこれにしがみつくのだ。


現行から薫習され阿頼耶識の中に蓄積されている種子は、生まれてからの種子のすべてである。ここまではフロイトと同じだが、ここから先が違う。唯識論では、生まれる前、永遠の昔からの薫習による種子がすべて阿頼耶識に蓄積されていると考えている。すなわち、前世の種子も、前前世の種子も、前前前……世の種子もすべて蓄積されているのである。


 


遺伝子情報もまた種子の一種と唯識では捉えている。すなわち、阿頼耶識は厖大なデータバンクといえよう。なにしろ生まれる前、遥か昔のいわば天地開闢の頃からの記憶があるのだから。


(中略)


人間の意志、これも一種の譬えであって、意志以前の誰も自覚しない原意識のようなものが、転生する。」


   (小室直樹『日本人のための宗教原論』より)


 


 


以上の二つの引用は、これから自由意思を論じ、ひいては社会や国家を論じるための前提である。この二つの引用に共通するのは、個人はこの世界全体と歴史的につながっている存在だということだ。我々の頭脳が学校教育や読書、あるいはさまざまなメディアを通じて手に入れた情報を蓄積していることは自明であるが、その蓄積された情報は、実は遺伝子の中にまで含まれている可能性がある、という仮説をここでは「阿頼耶識仮説」としておく。つまり、記憶や知識の遺伝もある、という仮説だ。


ただし、この仮説は、自由意思の問題を論じる時にのみ用いる予定だ。あくまで予定であり、「予定は未定。決定にあらず」と中学生ジョーク的なお断りをしておこう。


 


先に国家と個人について論じよう。


『国体の本義』(あるいは『国家の神髄』)から引用した部分は、べつに記憶の遺伝までは前提とはしていない。ここで重要なのは、単なる孤立的個人が集合したのが国家なのではなく、「国家によって形成された個人」の集合体が国家なのだ、ということである。これが、佐藤優が『国家の神髄』の中で言おうとしたことだろう。その点に関しては、私は佐藤と意見を同じくする者だ。


この考え方からするならば、一つの国家の中に複数の民族文化が共存する国では、国家をまとめていくためには強引な紐帯が必要になる。アメリカなどはその代表であり、そこでは「自由競争こそ正義である」「自由競争の結果を受け入れることが正義である」という思想が常に国民の中に流し込まれている。そこでは、公正な自由競争がなされているか、という点検よりも、まず競争そのものが当然視されている。不正な「自由競争」はあくまで個々の条件による特例とされ、その不正は自由競争の正しさには無関係とされる。


では、日本の場合はどうか。日本の中にも異民族の割合が増えてきた現状では、佐藤優的な意味での愛国心(自らと国家との精神的血縁を前提とする愛国心)は土台が揺らいできたのではないだろうか。


思想面においても、日本固有の文化を知る若者の割合がここまで低下したのでは、もはや日本の固有性を前提とした思想は意味を失いつつあるのではないだろうか。つまり、思想としての右翼はもはや消滅する運命にあるのではないか。左翼に敵対して守るべき日本の固有性、日本固有の文化などもはやほとんど無い。ならば、その戦いの兵士も不要だろう。右翼思想は、せいぜいが、日本人であるだけで近隣諸国の人々よりも自分が上位であると錯覚し、インターネットに汚らしい他国侮辱の言説を書き込むネット右翼のような社会底辺の人間のガス抜きの役にしか立たないのではないか。


日本文化はもはや日本語という言葉、日本語を用いて書かれた古典的書物の中にしか無いのではないだろうか。おそらく、マスコミが戦後すぐから今まで積極的な日本語破壊を行ってきたのは、アメリカによる日本文化破壊プロジェクトの一つだろう。明らかに、日本文化は太平洋戦争を境にしてそれ以前とはっきり断絶しているのである。教育とマスコミの力によって。


一方、左翼思想はフランス革命に源流があり、社会や国家から独立して思考しうる近代的個人と、合理的理性のみを思想の根拠としている。


左翼は、佐藤の言うアトム(原子)的存在である。佐藤はそれを否定的に見ているが、思想が社会や国家に限定され(支配され)ないのだから、世界全体がその視野に入ってくるとも言える。社会を客観的に批判しうるのは、その社会の外部に立つ思念のみだろう。


グローバリズムは新自由主義による世界の捻じ曲げだが、その結果は個々の国家における土着的文化の破壊である。その点だけを見れば、左翼による世界同時革命に近い現象だ。現代社会を批判する論者がしばしば新自由主義者の政治家や新自由主義的政策を左翼呼ばわりするのは、それが従来の社会秩序を破壊するものだという点では正しいと言える。ただし、その社会秩序破壊はただ「金の獲得」だけを目的とするもので、底辺層の幸福や福祉を目的とした社会主義や共産主義とはまったく異なるものだ。その両者を同じ「左翼」の名で呼ぶことは誤解のもとだろう。


 


さて、国家と個人の関係について考えよう。


人はこの世に誕生して以来、あらゆる情報を吸収して成長する。その情報は、彼が生まれた国の文化に基づく情報である。たとえば、日本人なら日本語による情報になる。彼が得る視覚情報、聴覚情報、言語情報のすべては、日本という国によって枠組みが与えられているのである。つまり、彼は否応なしに日本人として成長するのである。当たり前のことを長々と述べるようだが、これはあまりにも当たり前すぎてその意味に気づかないものなのだ。


 


我々は自分の頭脳で考え、自分の自由意思で判断している、と思っている。


本当にそうか?


 


我々がある意思を持つのは、そのように意思するべくプログラムされていたのではないか、というのが自由意思を疑うということだ。


まあ、阿頼耶識までは仮定しなくてもいいが、無意識というものが存在することは、現在の科学でも公理と見ていいだろう。我々の思念のメカニズムは、「意識された問題について意識的思考が行われる一方で、無意識の中から意識の表面に浮かんでくる関連情報によって思念が広がりと複雑さを持ち、それによって生産的な思想的結実を生む」というものだ。我々は自分の思考内容について、すべての情報を思考前から把握することはできない。思考材料は我々の巨大な無意識の「データバンク」の中にあるのだ。


とすると、そのデータバンクに或る偏向があるならば、我々の思考自体がその偏向の影響を受けるのは自然なことではないか。


我々は、或る問題について自分の自由意思で或る判断を下したと思うものだ。しかし、そのように決定するべく、無意識の中で決められていたのではないか? そして、我々の無意識のデータバンクは、日本という国の文化と歴史にその材料の大半を負うている。ならば、我々が純粋に合理的に思考し、判断したと思っている場合も、ただ我々の中の原日本人が判断しているだけだ、という可能性はある。


しかし、これは結局は答えの出ない問題だ。論証不可能。ならば、「語りえないものに対しては沈黙するべきだ」となるか。まあ、語りえないなら沈黙するしかないのだから、このウィトゲンシュタインの言葉は、そう見えるほど深遠なものでもないのだが。


合理的理性には限界がある、というのは当然であり、そもそもその理性の母体となるデータバンクは、巨大な暗闇の中にあるのだ。たまたま我々がちょっとうまい思考をした時には、我々はそれを自分の手柄とし、自分の頭の良さに自惚れるのだが、なあに、それは「偶然の結果」にすぎない。我々の無意識が我々にどんな思考材料を提供するか、我々の意識的理性はまったく関与していないのだから、まぐれ当たりのヒットでしかないのである。


もちろん、意識的理性の運用のうまい人もいるし、芸術家などの中には無意識の思考素材調達に才能のある人もいる。画家のキリコなどは、一生のある時期にだけ、無意識の井戸の中から豊富な素材を汲み上げたのだ。また、音楽家などだと、その技術的修練によってその人の無意識が特異な偏りを生んで、天才的な作品を豊富に生み出すということもあるだろう。いずれにしても、我々の意識は無意識の暗い大海の上に漂う小島にすぎない。


 


国家と個人の関係に話を戻せば、我々の思考も意思(意志)も、その生まれ育ち今生活している国家によって規定されている。ならば、我々がどのような意思を持とうが、それは常に日本人としての意思になる。我々の自由意思は、その偶然的な現れにすぎない、ということだ。であるから国家が我々の無意識を支配するために教育を改変していこうというのは、確かに国民コントロールの手段としては当然だが、その内容が「日本神話を事実として受け入れよ」という『国家の神髄』の主張になると行き過ぎだろう。


 


だが、こんな議論は空論だ。我々は自分に自由意思があると信じて生きている。そう信じているからには、それが現実なのだ。たとえ自分の判断が我々の中の超自我によるものだろうが、我々は自分の自我がそれを判断したのだと信じている。


 


しかし、小室直樹の阿頼耶識についての簡明な説明にある、「種子(シュウジ)」と「現行(ゲンギョウ)」の関係は重要である。


我々は常に外界から情報を取り入れ、それが我々の無意識の中に蓄積される。その蓄積された「種子」が我々の判断を形成し、我々の行動を決定する。その行動、すなわち「現行」がまた新しい情報の一つとなり、「種子」となっていく。こうした無限のサイクルが我々の思考や意思決定を形成していくのである。しかも、そのほとんどは無意識のうちに行われている。


簡単な例を挙げよう。ある困難に直面して、「困難と戦う」か、「困難から逃げる」かの選択を迫られたとする。ここで「逃げる」を選択するとあなたの中には「一度逃げた自分」という情報がインプットされ、「種子」となるわけだ。すると、同じような場面ではまた「逃げる」を選択するという習性が作られる可能性は高い。


最初の選択で「困難と戦う」を選択して、良い結果が得られるとは限らない。しかし、「戦った自分」という情報や、「なぜ失敗したのか」という情報は手に入る。それは、次の選択にも影響を与えていく。逃げた場合には得られない情報である。これも「戦った自分」という「種子」である。


こうした無意識の機能を理解すれば、様々な「よく生きるための言葉」が、ただの美辞麗句ではなく、やはり人間知の結集であると分かるだろう。


 


さて、何のためにこんな埒もない議論をしてきたのかというと、一つには、書かないと、自分の思想は発見できないからである。文章化して私ははじめて自分の中にある思想の一端を知ることができる。言語化しないかぎり、私の思想は無意識の海を漂うクラゲにすぎないのである。で、そのようにして検出された思想に意味があろうがなかろうが、それを考え、書くこと自体が私には楽しい。それが一番の理由だ。


 


この文章を書くきっかけは、最初に引用した二つの文章である。あの二つの文章は、私の頭脳を刺激し、面白いヒントになりそうだと思われた。だから、まずその二つを思考素材として冒頭に置いたのである。


まあ、国家論と思考論、あるいは自由意志論が思うほどには交わらなかったが、それはそれでいい。断片的思考は断片的思考でまた役に立つこともある。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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