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墨子の「兼愛」「非攻」の思想

「櫻井ジャーナル」の櫻井春彦氏が、ブログの冒頭に置いた墨子の言葉だが、私も墨子が大好きで、彼(墨子)の主張の根本である「兼愛・非攻」こそが政治のアルファでありオメガであると思っている。
「兼愛」とは「博愛」と同じ。「非攻」は「自分から攻めないこと。完全防御の戦争のみ肯定」。すべての国がこの「兼愛・非攻」を政治の鉄則として遵守したら、地上の天国が実現するだろう。しかし、冨への欲がそれを不可能にする。そこで、墨子は「清廉」をも教えに入れた。つまり、資本主義という、戦争と不可分の思想を最初から否定したのである。物欲の極限の肥大は、他者からの略奪となるのは理の当然だ。

天下兼相愛則治、交相惡則亂(墨子、巻之四)
順天意者、義政也。反天意者、力政也。(墨子、巻之七)
天下有義則治、無義則亂。(墨子、巻之七)

天下は人々が相愛すれば治まり、互いに憎しみあえば乱れる
天意に従う者は義に従って正す。天意に背く者は強制する
天下に義があれば治まり、義がなければ乱れる



ただし、上の訳文には私には少し不満がある。「順天意者、義政也。反天意者、力政也」は、文字通り「天意に従(順)うは義政である。天意に背くは力政である」と読むべきだろう。「者」という字は、「は」という助詞として読めるというのは漢文の初歩であるが、もちろん、「者(もの)」と読んでもいい。しかし、「義政」を「義によって正す」と読むのはかなり無理がある。「政」は「政治」の意味で十分だろう。「力政」もそのまま、暴力による支配の意味でいい。
私にとっての「社会主義(マルクス以前の社会主義)」が「兼愛」思想であり、「憲法9条」が「非攻」思想である。

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Silent Night

「イスラエル・パレスチナ問題」の深層には、宗教的暗闘があるのではないか。いや、下の記事を見れば、それは暗闘ではなく、明らかにユダヤ教徒による他宗(キリスト教)排斥である。
今のユダヤ人は本来のユダヤ人ではない、とはよく言われるが、実は「ユダヤ人とはユダヤ教を信じる者である」という定義もあり、それが現実に近いだろう。そして、古代ユダヤ教がいかに残忍で非人道的なものであったかは旧約聖書を読めばよく分かる。我々非ユダヤ人から見れば、ユダヤ教の神とはほとんど悪魔である。もちろん選民(笑)ユダヤ人だけは特別扱いだ。
そして、キリスト教の神も、ユダヤ教と同一である(実はイスラム教の神も同じであり、キリストはイスラム教の聖者のひとりである。エホバと言うかアラーの神と言うかは信徒の勝手な都合であり、神は名前を持たないし、人間がつけた名前を呼ぶのは不敬とされている。)のが、今、パレスチナで起こっている悲劇を喜劇にしている。神は「沈黙」している。

(以下引用)

2023年のクリスマスが中止されたベツレヘムの暗闇

マスコミに載らない海外記事さんのサイトより
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2023/12/post-1f1b03.html
<転載開始>

スティーブン・サヒオニー
2023年12月16日
Strategic Culture Foundation


 今年のクリスマス、ベツレヘムのホテルの部屋は空っぽで、益々戦場の様相を呈している地域にキリスト教徒巡礼者が旅行したがらなかったため地元企業は苦しんでいる。


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お問い合わせ:info@strategic-culture.su


 イエス生誕の地ベツレヘムは今年のクリスマスを中止した。現代の祝祭が始まって以来初めて、イエス生誕の地が飼い葉桶広場の木を飾らない。


 最初のクリスマスの物語では、ヨセフとマリヤは宿屋から追い出され、全ての部屋が満室だった。今年のクリスマス、ベツレヘム全ホテルの部屋は空っぽで、ジェニンなどの被占領西岸地区をイスラエル国防軍が絶えず襲撃する中、益々戦場の様相を呈している地域にアメリカやヨーロッパからのキリスト教巡礼者が旅行したがらなかったため、地元企業は苦しんでいる。


 「家では祝えるが、心の中では苦しんでいる」とギリシャ正教の司祭イブラヒム・ダブールは述べた。「クリスマスツリーを飾るにはどうしたら良いでしょう?」


 イスラエル政府は、オリーブ山のキリスト教遺跡を国立公園に変える計画を立てている。イスラエルがキリスト教徒を追い払った後、最終的にそれら全てを金儲けのための観光名所に変えたいと考えているため、古代の教会や聖書の遺跡の将来は不確かだ。



 ガザでの戦争とヨルダン川西岸地区の空襲


その後の逮捕も含め、以前から続いていたが、10月7日のハマスによるイスラエル攻撃で1,000人以上のイスラエル人が死亡した後、被占領ヨルダン川西岸地区でのイスラエル国防軍襲撃と攻撃は激しさを増している。


 エルサレム、被占領ヨルダン川西岸地区、ヨルダンの様々な教会の長たちは、ガザのパレスチナ人の苦しみとイスラエルのガザに対する戦争で現在17,000人を超え日々増加している死者数に連帯して今年のクリスマスを暗いクリスマスにする集団的決定を下した。


 イスラム教徒が大半を占めるヨルダンでは、クリスマスは祝日で、街の広場やショッピングモールの多くが季節の飾り付けで飾られている。しかし全国の集会は、公共ツリーの点灯、クリスマ市場、スカウトパレード、子どもへのプレゼント配布などの伝統的なお祭りを見送る。


 アメリカの福音派シオニスト


 「私たちには、西側諸国の友人たちに語りかける役割があります」とヨルダン・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教会の理事長兼総監督のデビッド・リハニ氏は述べた。「闇雲に誰かの味方をせよとはイエスは教えませんでした。」


 ガザを「駐車場」に変え、岩のドームを爆破して第三神殿のための場所を作り、イエスの再臨を告げるようテネシー州を拠点とするグレッグ・ロック牧師がイスラエルに呼びかけている有名な映像に彼は言及した。そのようなキリスト教シオニズムと関わるのを聖地現地の福音派は拒否しているとリハニ氏は言った。


 エルサレムのパレスチナ人で、小さなパレスチナ福音主義教会に所属するジョン・ムナイヤーは、キリスト教徒への嫌がらせが特に過去6カ月増加しており、国際的影響を及ぼしていると述べた。


 「国際的キリスト教世界には、イスラエルを熱烈に支持する人々や占領に反対するパレスチナ人の闘争に共感する人々や、その中間にいる人々が大勢います」とムナイヤーは述べた。「国際会議やコミュニティを回っています。暴力的な出来事は目立った変化をもたらし、イスラエルとユダヤ人に対する正しい態度は一体何かという疑問を多くの人々に抱かせます。」


 イスラエル人に攻撃されているパレスチナのキリスト教徒


 2002年4月2日から5月10日にかけて、ヨルダン川西岸地区のベツレヘムにあるキリスト降誕教会がイスラエル国防軍(IDF)に包囲された。2002年4月7日、イスラエルに対し、国際的義務に則り、宗教施設を尊重するようバチカン市国が警告した。2002年4月20日、エルサレムのギリシャ正教会が、来る日曜日を教会の人々と教会自体の「連帯の日」にするよう世界中のキリスト教徒に呼びかけ「人々と教会に対する非人道的措置」と呼ぶものを止めるための即時介入を求めた。


 2018年のクリスマスに先立ちガザ地区に住む少数派キリスト教徒がクリスマスを祝うためヨルダン川西岸地区やエルサレムのキリスト教聖地や教会を訪れるのをイスラエルは禁じた


 イスラエルとパレスチナ解放機構が1994年にオスロ和平協定に署名するまで約5,000人のキリスト教徒(ほとんどがギリシャ正教徒)はガザ地区に住んでいた。しかし、イスラエル人とパレスチナ人の紛争が続いているため、その数は劇的に減少した。


 パレスチナ人200万人が暮らすガザ地区のキリスト教徒は、毎年ヨルダン川西岸地区のベツレヘムとエルサレムを訪れ、そこでパレスチナのキリスト教徒と合流しクリスマスと新年を祝っていた。


 2017年の復活祭に先立ち、エルサレムに入ろうとするキリスト教パレスチナ人はイスラエル国防省占領地政府活動調整官組織(COGAT)調整官による承認が必要だった


 2023年1月26日、エルサレム旧市街にあるタブーン・アンド・ワイン・バーのアルメニア人オーナー、ミラン・クリコリアンは、イスラエル人入植者の暴徒がクリスチャン地区にある彼のバーを襲撃し「アラブ人に死を...キリスト教徒に死を」と叫んでいるという電話を受けた。


 彼が警察に行くと、犯罪を報告して手を煩わせたことを警官が叱った。


 数日後、アルメニア人地区で告別式を終えたアルメニア人が棒を持ったイスラエル人入植者に襲われた。入植者がアルメニア人修道院の壁をよじ登り、十字架が描かれた旗を降ろそうとした際、アルメニア人は唐辛子スプレーを浴びせられた。アルメニア人が彼らを追い払うと、入植者たちは「テロ攻撃だ」と叫び始め、警察はアルメニア人に銃を向け、被害者の一人を殴打して逮捕した。


 エルサレムのキリスト教社会に対するユダヤ人の敵意は根強く、あらゆる宗派に及んでいる。2005年以降、聖週間、特に聖なる火の土曜前後のキリスト教祝祭は、軍のバリケードと兵士やユダヤ人入植者からの過酷な扱いを受け、聖墳墓教会に入場できる礼拝者の数は、聖なる火の儀式中11,000人ほどだったが、昨年からわずか1,800人へと大幅に制限されている。


 イスラエルで現在のユダヤ過激派政権が権力を握って以来、エルサレムのキリスト教徒に対する事件は、より暴力的で日常茶飯事になったと報じられている。今年初め、プロテスタントのシオンの山墓地にあるキリスト教徒の墓が30基冒涜された。


 鞭打ち教会(Flagellation church)では、イエス像をユダヤ人入植者がハンマーで攻撃し、日曜礼拝中、ゲッセマネ教会にイスラエル人がやってきて、鉄棒で司祭を攻撃しようとした。イスラエル人に唾を吐きかけられたり怒鳴られたりするのは、キリスト教徒にとって「日常茶飯事」になっている。攻撃者を捕まえたり罰したりするために警察はほとんど何もしていないと、これら事件の被害者は報告している。


 「私が恐れているのは、これらの加害者が知られているのに、彼らが無処罰を享受していることです」と福音ルーテル教会の名誉司教ムニブ・ユーナンは述べた。「それが、彼らがこういうことをしている理由です」


 フランシスコ会は聖地の隅々にカメラを設置しているが、執拗な攻撃のため一般の人々に対して益々閉ざされつつある。


 イデオロギー的には、キリスト教徒とその聖地を標的にした主な原因は、過激派ユダヤ教集団から来ると共同体や教会の指導者は言っている。


 彼らの心は『メシアニック・シンドローム』に取り憑かれている。彼らは全土を乗っ取ろうとしている」と、ギリシャ正教のエルサレム総主教テオフィロス3世は言った。


 自分たちは法の適用を受けないのをユダヤ人は知っており、銃によってさえキリスト教徒に嫌がらせをし、それで咎められずに済むのを知っている。キリスト教徒を彼らは「異教徒」や「偶像崇拝者」と呼んでいる。」


 「国家安全保障大臣はキリスト教施設などを攻撃する過激派ユダヤ人を弁護していた弁護士だ」と、イタマール・ベン・グヴィルに言及して1月に襲撃されたアルメニア人青年の一人が言った。「最高位の役人が最過激主義者だったら一体何を期待できますか?」


 キリスト教徒に唾を吐きかけるユダヤ人


 10月5日、イスラエルのユダヤ人がキリスト教徒に唾を吐くのは犯罪ではないとイスラエルの犯罪・治安担当大臣イタマール・ベン・グヴィルは述べた。少数派の宗教を信仰する人々に唾を吐くのは、ほとんどの国で憎悪犯罪と見なされるだろうが、イスラエル政府にとって、それは単に「古いユダヤ教の伝統」に過ぎない。


 2023年7月、カトリックのペンテコステ儀式中に、約20人の超正統派ユダヤ教徒がラッパを吹き大声で罵声を浴びせて式典を妨害した。「エルサレム・キリスト教徒の信教の自由を我々は非常に懸念している」と式典に出席したアメリカ国務省代表は述べた。


 最後の晩餐が行われたとされる「二階の広間」は6月のミサの舞台となったが、ユダヤ人が外でスピーカで騒音を流し、催しを台無しにし、その2週間後、ユダヤ人の男が「二階の広間」の窓を割った。


 2023年初頭以降、エルサレム旧市街では「娼婦マリアの子イエス」と書かれた落書きなどキリスト教徒に対するヘイトクライム20件を含む多数の破壊行為が記録されている。


 6月に「なぜユダヤ人は非ユダヤ人に唾を吐くのか」と題する会議が旧市街で開かれたが、イスラエル外務省はボイコットした。


 イスラエルのユダヤ人ツアー・ガイド、ロビー・バーマンは唾吐き事件を二件目撃しており、キリスト教徒に対する嫌がらせの取り締まりがないことに憤慨していると語った。ある土曜の朝、ヤッファ門でギリシャ正教の司祭に唾を吐きかける2人の少年を目撃した後、側に立っていた2人のイスラエル警官に注意したが彼らは行動するのを拒否した。


 バーマン自身、ヴィア・ドロローサでパレスチナ人警備員おしゃべりしていた際、唾吐き攻撃の犠牲者だった。彼らが話していた際、非ユダヤ人に間違えられた。「現代の超正統派の家族が通り過ぎた。父親、母親、若い夫婦、そして子どもが沢山いた。青年は私の足に唾を吐きかけた」とバーマンは言った。


 個々の寄稿者の見解は必ずしもStrategic Culture Foundationのものでない。


記事原文のurl:https://strategic-culture.su/news/2023/12/16/darkness-in-bethlehem-as-christmas-2023-is-cancelled/


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時間を「ムダに」使うという贅沢

まあ、正論だろう。ファスト視聴で小津安二郎の映画を見たら、1秒しかかからないというか、タイトルだけ映して終わりだろうwww そして、小津安二郎の映画は世界の評論家が絶賛するものだ。世界の名作映画の第一位と長く評価されていた「市民ケーン」だと、最初の「薔薇のつぼみ」という、ケーンの臨終のつぶやきと、ケーンが両親から引き離されるシーンの遠景の橇のアップと、最後の橇が燃えるシーンで3分程度か。
私が朝の散歩が好きなのは、朝空、特に日の出前後の空の姿が好きだからだが、散歩の間に頭に浮かぶよしなし事(由無し事)を妄想するのが楽しいからで、健康のためというのは二義的三義的だ。これは、部屋の中での妄想とはまた別種のものになる。あるいは、テレビゲームをするのも読書も「時間の無駄遣い」という贅沢であり、別にコマンドを達成したり敵を倒すだけ、本の筋を追う事だけが楽しいのではない。要するに、「自分が自由である」という感覚は、そういう「時間の無駄遣い」にこそ、あるいは主に頭脳生活の中にあるのではないか。

まあ、頭の中の生活こそが本当の生活だ、という私の思想は世捨て人の思想だろうが、その世捨て人も世界の人類の遺産である歴史と伝統と文化の中で頭脳生活は送っているのである。本を読まず映画も漫画も見ない王侯や富豪がいるなら、その誰よりも贅沢だろう。彼らは50年か60年の人生、それも自分の手に入る限界の中でしか生きていないのに、本を読み映画や漫画を見れば、人類3000年(文字で記録された限り)の歴史と伝統と、偉大な人々の思想や天才たちの空想と共に生きることも、頭脳生活の中では可能なのだ。
ファスト視聴をやっている人は、たけしの「あの夏、いちばん静かな海」を見てみるといい。これは、まったく何も起こらない映画である(聾啞者、あるいは聾者か唖者の映画なので、台詞すらない)が、淀川長治も激賞した傑作である。毒舌家として売り出したたけしという人間の根底にヒューマニズムと抒情性があることがよく分かる。

(以下引用)

ビートたけし「『時間をムダに使う贅沢』を知らない若者は可哀想」「映画の見どころはシーンの『間』」


転載元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1703126659/


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1: ネギうどん ★ 2023/12/21(木) 11:44:19.67 ID:xJuovG/99
 国語辞典などを手がける出版社・三省堂が発表する、「今年の新語 2022」で大賞に選ばれた「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉。近年、ネットやスマホの普及とともに情報が流れる速度は急速に上がっている。だが、一度立ち止まって時間の使い方や生き方に余裕を持つべきではないか──そう主張するのが、映画監督・タレントのビートたけし氏(76)だ。

 新刊『ニッポンが壊れる』を上梓したたけし氏は、『週刊ポスト』の取材のなかで「ファスト映画」への見解や、11月24日に亡くなった友人・伊集院静さんの生き様について明かした。【前後編の後編。前編から読む】

 オイラはこの前、久しぶりに『首』という時代劇の映画を作った。映画の話で言えば、映画を「早送り」で観る若者が増えているんだって?

 それどころか起承転結の要所だけをつまんで繋げて、10分や15分にまとめた「ファスト映画」というのを配信する違法業者が増えているらしい。「タイパ(タイムパフォーマンス)」が何より大事で、1本の映画をじっくり観るより「早送りしてさっさと結末を知りたい」というニーズが増えたんだろう。

 こういう若者を「教養がない」「我慢ができない」と問題視してるみたいだけど、それは作品が面白くないことの言い訳だよ。そもそも映画は、ある人物の人生やらを何十倍も早回しして、「たった2時間」にまとめたものだからね。それすら「観ていられない」というのは、単純に面白くないってことでしかない。

 ただ、オイラからすると「時間をムダに使う贅沢」を知らない若者を可哀想だと思ってしまう。良い作品を観て、思考を巡らせながら時間をゆっくり浪費することは最高にリッチなことだからね。

 今は情報が溢れすぎて、「早くて効率的」であることが美徳とされるようになった。でも、“贅沢”というのは効率とは対極のところにある。

 映画で言えば「見どころ」は、大ドンデン返しや衝撃的なラストじゃない。何気ないシーンの情景やセリフのないシーンの「間」が魅力なんだよ。それはファスト映画じゃきっと飛ばされている部分だろう。そこを楽しめなければ、作品のあらすじをなぞったところでピンと来るはずがない。

 これは食事にも同じことが言えるよ。「ファストフード」なんて言葉が定着して、どこにでもハンバーガー屋や牛丼屋ができたことで、「安くて早い」ことが美徳だと考える人が増えた。浅草の旨いうなぎ屋に行けば、注文を受けてから捌き始めるから30〜40分は平気でかかる。だけど、タレの香りをアテにチビチビ酒を飲んだり、そういう「待つ時間」も含めて贅沢なんだよ。

続きはソースで
https://news.infoseek.co.jp/article/postseven_1928656/

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なぜ資本主義社会の最底辺層の人間が社会主義・共産主義を憎悪するのか

東海アマ氏の最新記事

2023年12月19日

は、思想的ゴミ溜めと評価するしかない、汚物のような記事だが、まあ、それは私の判断だから、自分で読んでみればいい。
問題は、資本主義社会の最底辺にいる、そしてネットをよく利用しているアマ氏のような人間がなぜ社会主義、あるいは共産主義をこれほど激しく憎悪するのか、ということだ。もちろん、それは氏の依拠する情報源が西側マスコミ発の(中国発と自称する「大紀元」なども含め)「加工され、捏造された情報」がほとんどだからだろうが、それだけではない、「精神分析学」的な理由がありそうだ。

実は、資本主義社会の最底辺にいる人間で、共産主義(あるいは社会主義)を激しく憎悪する人間はかなりいるようで、私の周辺でも、長い間の友人がそれであることをこの前初めて知った。
つまり、「奪われる物は鎖しかないプロレタリアート」そのものが、共産主義や社会主義を憎悪する、という例はかなり多いというか、むしろそれが普通であるようだ。それがマルキシズムの「悪影響」だというのが私の意見だが、それは置いておく。

で、その原因を私なりに考えてみると、それは「共産主義(社会主義)」は自由の無い社会だ、という思想、あるいは思い込みによるのではないだろうか。つまり、社会の最底辺の乞食であっても、自由なほうがいい、という思想である。(乞食が自由だとは私は思わないが)
「自由絶対論」は、それはそれで思想としては自然というか、人間性の本能に基づくというか、社会にはびこる思想ではあるが、果たしてロシアや中国が「奴隷社会」なのかどうか、資本主義国家の人間がどうしてわかるだろうか。西側マスコミも資本主義擁護前提の記事しか書かないし、それに反する論は「陰謀論」扱いされるのに。
ちなみに、中国もロシアも「資本主義」国家であり、社会主義でも共産主義でもない。中国の場合は共産党の一党支配という特殊な政治体制だが、経済的には資本主義であり、ただし、行き過ぎた「経済的犯罪行為」には政府からの指導や抑制がかかるというところが「社会主義的」であるだけだ。

結論を書いておく。精神分析的に言えば、「資本主義社会の最底辺層が共産主義や社会主義を憎悪する理由」は、一種のダンディズム、あるいは「酸っぱいブドウ」的な発想だろう。つまり、「俺が敗残者であるのは俺自身の責任であり、それを社会のせいにするほど俺は女々しくない。」「社会主義というブドウは酸っぱいに決まっている。それを知っている俺は賢い」というわけだ。つまり、何が何でも自分を肯定したいという自己愛のなせる業(わざ)だ。まあ、マチズモ(マッチョ主義・筋肉主義)と言ってもいい。だが、そういう虚勢が、社会の腐敗を延々と続け、あるいはほぼ永遠に腐敗社会を存続させるのではないか。





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日本人とロシア人の精神性の類似

「混沌堂主人雑記(旧題)」に転載されていた「ジェーニャブログ」(筆者は在日ロシア人女性だろう)の記事の一部で、強固な反天皇主義者の混沌堂主人氏には珍しい、「天皇肯定」思想を含んだ文章である。
混沌堂氏の「天皇否定論」は、対象となる天皇が、実は明治維新後に明治政府(薩長政府、主に長州)に利用されてきた「神格化天皇」であり、長い歴史の中の天皇としては異常な在り方だということ、そして敗戦後の「人間宣言」し、「政治的行動が不可能になった」、つまり政治権力とは無縁な後期昭和天皇以降の天皇にはまったく当てはまらない理屈だのに、執拗に、あるいは異常なまでに「天皇権力を打倒しろ」「天皇一族を殺し尽くせ」というのは、親か祖父母の恨みでもあるのだろうか。
そのブログに引用する記事と無関係に「すべて天皇に責任がある」と結論する、その異常性にはかなり呆れるが、まあ、いろいろなブログを渉猟し、有益な記事もたくさん引用するので、私はかなり恩恵を蒙ってはいる。何しろ、「ネットゲリラ」氏が亡くなった今は、まともな政治ブログ、政治サイトは少ないのである。

(以下引用)個々人も神の一部である、という思想は私も前に書いたような気がする。神とは「上(かみ)」つまり、すべての存在の上質な部分だ、と屁理屈を書いておくwww ただし、「お上」や富裕層のような社会上層部が上質部分なのではない。農民でもエタ非人でも、精神性が高ければ、「カミ」である。精神性だけでなく、美的な、あるいは魅力におけるカミもある。幼児や小動物の可愛さの類だ。

さて今日は
『日本人とロシア人の精神性』について話したいと思います。
 
ご存知の通り少し前のロシアは
ソビエト連邦、共産主義国家でした。
信仰の自由がなかったのです。
 
これは私の勝手な解釈と妄想ですが
人の本質とは神なるもの
私はそう思っています。
 
信仰を禁じたソビエトは、だから滅びた
と言っていた近所のオジサンの言葉を思い出しました。
 
日本の言葉でもありますよね?
「お天道様がみている、だから悪い事はできないよ」
 
私たちは生まれながらにして
霊性と言いますが、一人ひとりに
自分の内なる神がいると思います。
 
キリスト教などは、神は対外的なものとし
イエスを神の子として偶像崇拝をしますが
私は幼いころから、その考え方がしっくりこず
宗教の本を読んでいた時
日本の神道の考え方が、
いちばんしっくりと来ています
 
神は分け御霊
あなたも神の一部であり私も神の一部である
 
集合意識という言葉があるように
魂の次元では皆が繋がってますから
他人の悪口を言えば、
そのまま自分の悪口となって返ってしまい
同様に自分で自分を拒否すれば
周囲からも拒否されることになります。
 
モノ・金・情報の奴隷となり
「今だけ金だけ自分だけ」の力づくの生活ばかりしてると
自分も含め周りもそうなります。
自分だけ、力づくの心を持った人間が減らない限り
誰一人、幸にはなりません。
 
私の読者の方がコメントで教えて下さいました。
 
世の中は鏡の法則
カガミからガ(我)を取れば
カミ(神)だから
神社には鏡を置いてある
 
このような国民と精神性だからこそ
和を以て貴しとなす
争いがなく自然と調和の文化が生まれたと
 
私はロシアがここまで復活できたのは
プーチンがこの精神を学んだのだと思っている。
柔道の黒帯のプーチンだが
当然、武術を通して
『柔よく剛を制す』また、
この考え方を学んで来たのだと思っている
この考え方の根本には神道かた来てると聞いたことがる
 
欧米列強の伝統的な考え方だが
その基本的な構造は
王がいて民がいる
王が権力をもって民衆を支配するやり方
王様と奴隷と言ってもいい
 
いっぽう日本の統治の在り方は面白く
天皇=王ではなく
国民の象徴として
 
武力や権力で「力の支配」を行うのではなく、
国を"家"・国民を"家族"と捉え、
天皇が国と民に深い関心を持って広く知り、
国民一丸となって稲(富)を利することで
幸せな国を作るようにと
天皇が「臣に権力を与える」
そういう形を取っています。
 
実はロシアでプーチンが支持されているのも
プーチンがロシア正教を上にして
政治を行ってきたことにあると思っています
プーチン大統領が哲学的支柱にするアレクサンドル・ソルジェニーツィンの言葉。
ロシア人文化は帝国の強大さではなく⛪️正教への信仰により形作られており、ロシア人団結の源は『人種』では無く『精神』であり、心や慣習、行動の中に自然に生きている正教である。
その為、領土、国家#山鹿素行 pic.twitter.com/i6bg4PXDPc
— taka (@0_fighter_taka) November 3, 2022
 
プーチンの私利私欲の為であれば
ロシア人は従わない。
あれだけの強大な国家、所々で反乱して分裂してるだろう。
・・・・・中略・・・・・
ロシア人もペレストロイカで貧しかった経験もあるが
物の豊かさを羨む時期もあったが
人々との繋がり助け合い
信念にはウクライナがとかロシアがといった
人種としてではなく
信仰としての『精神』がある
 
残念なことにロシアにはもう皇帝という
体制の喪失があるが
『正教の信仰と、そこから生まれる崇高な感情』
それはロシア人から失われる事は無いと思う。
ロシア正教はロシア人の精神的支柱になっていますが
その精神性が、今のロシア国家を作り直したと思っています。
 
人の精神は生まれ育った環境・風土で自然に形作られます。
 
それを理念・思想・イデオロギーだけで無理やり形作ろうとするのが、
欧米左派・進歩主義者達です。
 
そして私はその流れに対してこう思います。
 
自分の為(私利私欲の為)だけに生きる人間は
いずれ狂ってくると思います
 
他人の為、世の為人の為に生きる人間は狂う事なく
次の時代へ進める人達だとも思います。
 
かつてロシアは東のヨーロッパとして
ヨーロッパの一員として
ヨーロッパの枠になりたがっていた時期があった
 
しかし
 
現在ではロシア人のDNAにはアジア系が多いことで
ロシア人はアジア人との混血民族=ユーロエイジアンと規定し呼び、
 
欧米の経済制裁は、
ロシア人がユーロエイジアンと自覚する
良い機会になったと言います。
 
また、経済的に衰退していく
欧米よりも、経済成長がめざましい
インドや中東、アジアをメインとして動いています
 
日本もかつてのスローガンは脱亜入欧と
読んでいた時期があったそうですが
これからは、脱欧入亜
これをスローガンに掲げると良いかも知れません(笑)
 

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旧版「イエスは何を教えたか」

私は、「イエスは何を教えたか」、つまり、聖書の中でのキリストの言葉だけを頼りに、「キリスト教の本質は何か」を論じたいと思って、書きかけてはやめているが、古いフラッシュメモリーの中のものが、わりといい内容だと思うので、載せておく。もちろん、中断したものだが、書かれた内容だけでもキリスト教やキリストや旧約聖書や新約聖書の「神」の本質に迫っていると思う。
まあ、こんなのは杉田玄白がキリスト教宣教師との問答の中で喝破したもの(ユダヤ・キリスト教の矛盾)と同じだろうとは思うが、私はそれを読んでいないので、一応私の考えだけを書いておく。

(以下自己引用)


イエスは何を教えたか


 


序論


 


ここで扱う問題は、表題の通り、「イエスは何を教えたか」である。つまり、新約聖書の中の、イエスの教えを分析し、解釈してみようということだ。そんなことは、2000年にもわたって無数の人がやってきたことだと思われるだろうが、イエスの言葉には比喩が多く、また新約聖書にはイエスを荘厳するための粉飾が多くて、イエスの教えのエッセンスが何か、私にはわからないのである。そこで、もう一度、イエスの言葉を分析的に読んでみようということだ。そこから、イエス理解のための新しい地平が開けないとも限らない。


 


本論


 


ここでテキストとするのは「日本国際ギデオン教会」版の新約聖書である。その中の「マタイ福音書」を出典とするものを1グループ、「マルコ福音書」を出典とするものを2グループ、「ルカ福音書」を出典とするものを3グループ、「ヨハネ福音書」を出典とするものを4グループとする。


 


第一節   マタイ福音書より


 


1-1 (悪魔の、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」という誘いに対して)「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある」。(マタイ第4章)


 


分析と解釈:


マタイ第3章までは、イエスの出自などの話で、第3章末尾になって、成人したイエスが登場する。まず、彼はバプテスマのヨハネ(「洗礼者ヨハネ」とでも言えばいいか。洗礼とは、清めの儀式だ。母の胎内から生まれる時の産湯の比喩で、水を頭から注ぐことで、これまでの汚れた生から、生まれ変わって新しい生を生きることを象徴するものだろう。)に洗礼を受ける。ヨハネは、「私こそあなたから洗礼を受けるべきだ」と言うが、イエスは「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」と言う。イエスのこの言葉が意味するのは、自分の生は預言の実現であるということだ。イエスの最初のこの発言は、自分がキリスト(救世主)であることの婉曲な表明だと言える。そして、新約聖書のすべての記述は、イエスが神の子であることと、イエスがキリストであることを読者に印象付ける意図が含まれている。


だが、現実のイエスの生涯には、当然ながら、神の子だのに、なぜこれができないのかという困った事実が多々あっただろう。フィクションとしての奇跡を幾つかイエスの伝記に挿入するにしても、イエスの生涯の「事実」の中には、福音書の書き手が弁明しようのないイエスの『人間の証明』があるはずだ。そこで、まずここで、福音書の書き手、マタイは予防線を張る。「イエスは奇跡ができないのではない。やらないのだ」と。では、なぜやらないのか。それは、同じ場面に続いて出てくるイエスの言葉の通り、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と聖書にはまた書いてある」からである。


イエスは、このように、常に旧約聖書の言葉を引用して、人々そして悪魔(――イエスを信じない連中の比喩とも言える。そもそも、荒野でのイエスと悪魔の対話を、誰が聞いていたというのだ。)の問いに答えるのである。これがイエスの最大の特徴であり、イエスとは、自分が神の子であるという妄想から聖書オタクになった人物だったと想像できる。


「主なるあなたの神を試みてはならない」これも神の実在を疑う人々に対しての見事な予防線だ。こう言われれば、神に対してその存在証明を要求できなくなる。つまり、理屈や証拠で納得するのではなく、頭から信じるか、信じないかの二つしかなくなるのである。もちろん、これが「信仰」の本質であり、証明されていないからこそ、あるいは理解できないからこそ「信仰」するのである。あなたは、自分の存在を信仰しているのではない。確信しているのである。「仰」とは何か。仰ぐことである。遥かな高みにある存在を仰ぐことである。それは遠く高い存在であるから、信仰するしかないのだ。1+1が2であることをあなたは信仰しているのではない。ただ知っているだけだ。そのような確信は、実は信仰ではないのである。不確かな存在と自分との間の深淵を、あえて飛び越える、その行為が、信仰の本質である。そして、私のような分析的人間には、当然、それはできない。


 


1-2(悪魔の、「あなたが私にひれふして拝むなら、この世の栄華をすべて与えよう」という言葉に対し、)「サタンよ退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」(マタイ第4章)


 


分析と解釈:


 ここでも、やはり旧約聖書からの引用で、相手の問いに答えている。イエスの言葉のほとんどは、旧約聖書に根拠があることを自らの言葉の権威の根拠としているのである。


 では、ここでの問題は何か。第一の問題は、悪魔とは何かという問題である。そもそも世界のすべてを神が作ったのなら、悪魔もその創造物であることになる。しかし、旧約聖書での「世界」とは全宇宙ではなく、天国と対比される「この世」である、という解釈もできる。それならば、悪魔は神と対等の存在として宇宙に最初から存在していたという解釈もできるのだが、キリスト教ではそこをどう説明するのだろうか。悪魔が神の創造物だとすれば、神の中にすでに悪が存在していることになるし、悪魔を神が作ったのではないとすれば、神が唯一の創造神だという設定が成り立たなくなる。悪魔というものは存在しないとすれば、聖書は信頼するに値しない書物だということになる。


 おそらく、そのすべての矛盾を説明する方法は、聖書に書かれたことはすべて比喩である、とすることである。しかし、そうなると、その解釈は誰が行うのか。誰の解釈に我々は従えばいいのか。


旧約聖書の中で悪魔が活躍する話が、「ヨブ記」である。神は、悪魔との話の行きがかりで、神の忠実な信者であるヨブに試練を与え、その信仰を試すのだが、問題は、繰り返しになるが、聖書が悪魔の存在を認めていることである。つまり、ユダヤ教ないしキリスト教を信じるなら、神の存在と同時に、悪魔の存在を信じることになる。ならば、人間の行為は、彼の心が悪魔に支配されて行ったものでないと、どうして分かろうか。旧約聖書の中には、神がイスラエルの民に敵対する族長の心を操る話がある。ならば、人間の自由意志など無いのであり、善も悪も無意味となる。神の言葉に従うことだけが善ならば、まず神の存在証明が必要だろう。


 もう一つの問題は、神に仕えることと、悪魔に仕えることとに、本質的な違いがあるのかどうかということだ。人間にとって神が絶対であることの根拠は、神が世界全体を創造した点にある。つまり、神の被造物である人間は神に逆らうべきではないという考えだ。(その考えの当否は保留しておこう。)神がすべてを創造したとすれば、悪魔自体も神の被造物なのか。それとも、悪魔は神と対等の存在として、最初から存在しているのか。後者ならば、ユダヤ教やキリスト教は一神教ではないということになる。そして、聖書の中における悪魔の存在は、どうやら後者のようなのである。悪魔を神としないのは、ただ、神とは善なる存在だと定義しているからだけにすぎない。しかし、旧約聖書の中の神は、人間の目からは悪にしか思えない行為をしばしば行っている。イスラエルに敵対する部族を殲滅せよという命令などは、「全人類の神」としては悪の行為だろう。


 とりあえず、我々不信仰な人間としては、旧約聖書に書いてあるからと言って、ユダヤの部族の神など、信じる義理は無い、とイエスには答えておこう。


 


 


1-3「私についてきなさい。あなたたちを人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ第4章)


 


分析と解釈:


 これはイエスが、漁師のペテロとアンデレを弟子としてスカウトした時の言葉だ。これだけで弟子になった人間の気が知れないが、イエスにはそれだけの人間的迫力があったのかもしれない。しかし、「人間をとる漁師」とは何か。多分、人間の中から、天国に行ける人間を選び出す係りにしてやろうとことだろう。イエスの言葉という投網を投げて、それに引っ掛かる人間を救ってやろうということか。駅前によくいる「アナタハ神ヲ信ジマースカ?」という、あれだ。投網に掛かった魚は、食われてしまうのが普通の運命だが、キリスト教の投網に掛かった人間どもの運命はどうだろうか。


 


1-4「心の貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである」(マタイ第5章)


 


分析と解釈:


 


 いわゆる「山上の垂訓」の最初の言葉で、ルカによる福音書では、「心の貧しい者」ではなく、「あなたがた貧しい人たちは幸いである。神の国はあなたがたのものである」となっている。この違いは大きい。そもそも、「心の貧しいもの」とは意味不明の言葉である。誰もがこの言葉を何となく「謙虚な者」の意味にとっているが、「貧しい」は「貧しい」でしかない。謙虚などという意味はない。大負けに負けても、「心の貧しさ」とは「貧困な精神」つまり、想像力も何も無い、砂漠のような精神しか意味しないだろう。しかし、案外と、そういう人間のほうが、天国に行けるのかも知れない。精神が貧困だから、神を疑うこともないというわけだ。世の宗教信者たち、特に新興宗教の信者というものには、「精神の貧困な者」が多いことは確かである。


 これ以外の「山上の垂訓」の大半は、神を信じ、それを行為に表すならば、この世では迫害されても、天国で報われるという趣旨のものである。では、その天国が存在しなければ? 親鸞のように、法然師匠に騙されて地獄に落ちても悔いはない、と言うか? 天国という空手形を信じて禁欲的に一生を送り、死ぬときになって、自分の一生は無意味だったと後悔する羽目にはならないか?

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合理化と「断捨離」

漫画家ゆうきまさみのツィートだが、「合理化」という言葉はビジネス世界ではほとんどが「切り捨て」になる。それが、一般社会まで真似するようになると「断捨離」などという下種な思想になる。
本来の「断捨離」が仏教思想なら、それ自体はまともな哲学だが、生活の中で、何が無駄で何が有益かは、簡単に判断はできない。子供は無駄で無益か? 老人は無駄で無益か? 障害者は無駄で無益か? 
もちろん、事例が極端だと言うだろうが、何かを「捨てられない」のは、その対象への愛情があるからだ。それらを「無駄」だと思う(言う)のは、たいていは当人ではなく他人である。無駄なものを捨てて空間を作っても、それは結局新しい何かで埋められ、また断捨離されることになり、つまり企業界隈(大きく言えば資本主義という階級社会の上層部)に有利な思想である。当然、資源の無駄遣いになり、地球そのものの存続に関わる問題になる。

(以下引用)


「無駄を見直す」って、かつては「無駄な部分を削る」ための言葉だったけど、これからは「無駄には無駄なりの存在意義や効用があるのか。見直した!」って意味で使うようになるといいなあ。

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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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