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自分の意志でできることできないこと

トロッコ問題のような質問に対しては、これが一番正しい回答だろうな、と思うが、あまりこういう姿勢に慣れてしまうと、未知の事態に対する思考実験(と言うか、備えや計画)をする姿勢が失われてしまいそうな気がする。
ただ、あまりに先の心配ばかりする生き方を勧めているわけではない。この世で確実なのは、生まれたら必ず死ぬ、そしてその死はいつどんな形で来るのか分からない、ということだけだろう。

なお、下のツィートのインドの覚者と同じこと(自分の行動は自分の思い通りになるわけではない、という、いわば「自由意志否定論」というか、「運命論」のようなこと)を親鸞か誰かが言っている。実際、私の行為は、多かれ少なかれ、やむを得ない状況か、その瞬間の気分で決めているようなところがある。私が雲古や叱呼をするのは絶対にいやだと思っても、やらずに済ますわけにはいかない。人を殺すのはいやだと思っても、徴兵されたら殺さないわけにはいかないのである。





インドの覚者が「~ならあなたはどうしますか?」って聞かれて「その時その場所になってみないとわからない」自分の行動は自己の思惑を超えた多くのものごとでできているから、と答えてるのがあって、私もそう思う。同じ問題でも正反対の行動を人はする。






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自省の能

中江兆民の「続一年有半」から、「自省の能」の章の一部を適当に現代語に訳しておく。時間が無いのでいい加減な訳だ。

(以下訳文)

自省の能とは、自分が今、何をしている、何を言っている、何を考えているかを意識する能力のことである。
(中略)
我々はこの自省の能があるので、自分がした事が正か不正かを皆、自覚するのである。だから正ならば自ら誇って心に楽しみ、不正ならば悔恨するのである。この点から言えば、道徳的にも法律的にも、自分がしたことに関しては、正か不正かは他人が知るより前に自分で分かっているのだ。
(中略)
世の中にはこの自省の能が極めて薄弱な者がよくいるが、そういう人はこの世でもっとも不幸な者と言わねばならない。たとえどんなに高位にあり富貴を極めていても、無駄に人生を過ごしているのであり、それは物を食べても味を知らないのと同じことで、日本の旧華族の旦那方はたいていこのような輩だ。どんなに貧しくても、その生活に満足し、我が身を自省して天地に恥じることが無いと確認し、悠然として閑暇を楽しむなら、その幸福はどれほどのものか。自省の能の有無は賢愚の区別と言うより、ほとんど人獣の区別と言ってよい。これがあれば人であり、これが無ければ獣だ。世の中に、このような獣のような人間がいかに多いことだろうか。



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「けものフレンズ」のユートピア性

「混沌堂主人雑記」に転載されていた「ねこびと日記」の記事内容が面白かったので、その本拠地を探してみると、ねこびと氏が「けものフレンズ」(オリジナルというか、たつき監督の方)について書いた記事があって、それが「ユートピア」についての示唆的な考察なので、その一部を転載する。
我々が政治や経済や社会全体を云々し、その現状を批判するのも、実は「この世界をユートピアにしたい」という望みから来ているとすれば(私はそう思っている。私が社会主義を支持するのもそれであり、多くの人が逆に社会主義や共産主義や様々な社会改革思想をディストピアを招来する思想と見做すのも、今現在の世界を「良きもの」つまりユートピアだとするからだろう。本気かよ、と思うが、もちろん、それは「上級国民のユートピア」だからである。)、ユートピアの条件として「進歩しない世界」を挙げたのは、非常な卓見ではないかと思う。
ある意味、この指摘が当然であると断言できるのは、ユートピアが理想世界である以上、その進歩とは、「理想のその先に理想がある」という矛盾になるからである。
我々の生活が闘争と苦痛に満ちているのも、「進歩しろ進歩しろ」という世界からの要求(特に親や教師や上司からの要求)に追いまくられているからであり、進歩の意志の無い者は最低の人間に分類されるからではないか。そしてその進歩には等級がつけられ、競争させられ、毀誉褒貶があるからではないか。

(以下引用)

(4) 進歩しない世界

 フレンズ達はそれぞれ自由に暮らしていて、生活そのものを遊びのように楽しんでいる。なので生産性をあげようとか、生活を改善しようとかほとんど考えていない。なぜならば水を飲みに数キロ出かけるとしても、その行為そのものを楽しむからだ。あたかも散歩と同じように。
 つまり彼らは「カイゼン(改善)」から解放された者達だと見ることもできる・・・これは超重要かも。
 本当の所を言えば我々は別に「改善」や「進歩」なんかする必要はない。しなくてもいいのだ。

 よくある熱血アニメや物語で「人類の絶え間ない努力・・・」とかあるけど、それはやりたい人が勝手にやればいいだけだ。別にしないといけないわけじゃない。ありのままの世界を、ありのままに受け入れる生き方だってある。

 これは別に詭弁ではない。旧約聖書に描かれた「エデン(楽園)」はまさにそういう場所だった。そして色々な宗教や神話に描かれる「ヘブン(天国)」の様な場所も概ね似たようなものだ。
 「進歩しない世界」という言い方はていないが、同じようなモチーフは多くの物語でも何度も繰り返し利用されている。そして私の知る限りでは、これ以外のヘブンは存在しない。

 ただ逆にこの「進歩しない世界」はデストピアとしても多くの物語に描かれている。究極の世界とは、究極であるがゆえに進歩を止めた世界でもある。そこをどう受け止めるかは各々によるのだろう。


4. ユートピアの影

私がけものフレンズを優れた作品とし感心する理由のひとつは「セルリアン」という存在だ。セルリアンはまさにけものフレンズの神話的な世界にリアリティを与える重要な要素となっている。
 物語ではセルリアンは謎で意味が解らないものとして描かれている。でも私にはセルリアンとは「悪意」の象徴のように思える。

 光あれば影が必ず生まれる。ホワイトホールはブラックホールから形作られる。それと同様にジャパリパークという光が溢れる場所から追い出された「無意識的な悪意」がセルリアンであって、それは定期的に現れて住人たちを脅かす。
 だがセルリアン自体も「ただあるがままに存在する物」であって、本質的に「悪」の存在ではない。彼らは恨みをもってフレンズを襲うのではなく、ただそう定められているだけなのだ。セルリアンはそういう謎の存在として実に上手く描かれている。

 セルリアンの存在は必然である。例えどのようなユートピアを作り出そうが必ず存在する。そしてそれに対処する方法は、きっと恐れずに立ち向かうことなのだろう。ふだんはバラバラで気ままに暮らしているフレンズが、巨大セルリアンの登場で一致団結して立ち向かう。あれこそが理想的な対応なのだと思う。


5.おわりに
 色々と述べたけど、私はこの作品が細かい理屈など抜きに大好きだ。だが同時に、見るたびに書いてきた様な「ユートピア」という物について考えさられる。

 果たしてたつき監督はこれを意図して作ったのだろうか?

 もしもそうなら想像を絶する天才だと思う。だが別にそうであってもなくてもかまわない。生まれたのが偶然だろうがなんであろうが、この作品の素晴らしさは変わらない。

 そして、だからこそ私はシーズン2「けものフレンズ2」を見る気になれないでいる。ここまで私が書いてきたような事がシーズン2で描かれているはずはないからだ。
 きっとシーズン2は「可愛いフレンズが登場して、みんな仲良し!」みたいな作品になっているのではないかと想像する・・・。だがそれは別に悪いわけでもないだろう。でもそれは私が続きを見たかった物語ではない。私が見たかったのは、あくまでも「ユートピアの夢」のその続きなのだから。

<p.s.>

ユートピアの条件に対してもうひとつ加えるならば。「男が存在しない」という部分も挙げられる。だが誤解しないで欲しいのは、これは別に男性が野蛮で凶暴だとかいうような話じゃない。
 そうではなくて、フレンズは性別を超えた存在だという意味である。つまりは天使のような存在だ。
 私達は生まれ落ちた直後から、性別というステレオタイプにずっと苦しめられながら成長する。思うがままに行きたくても「男らしくあれ」「女らしくあれ」と言ったステレオタイプに妨害されて自由に生きられれない。
 だがフレンズにはそんなステレオタイプは存在せず、ただそれぞれが自分の欲するままに行動している。ゆえにジャパリパークはジェンダーにとってのユートピアでもある。





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子供への悪しき「教育」

子供に対する親の影響というのは強力なもので、子供は親の言動によって「この世界でどう行動するのがいいのか」を学ぶわけである。親が、平気で公衆マナーを破るような人間なら、ほぼ確実に子供も同じ行動をする。右翼の子供は9割がた右翼になる。
私も、子供に悪影響を与えてきたのは勿論である。何より、闘争心や向上心がまったく無い(ように見える)のはおそらく私の影響だろうと思う。まあ、苦しい努力をして手に入れるものが、はたしてその努力に見合うのかどうか、そしてその努力に費やした時間は、のんべんだらりと楽しく生きてきた時間より価値があるのか分からないから、それでもいいのだが、若いころには多少我慢や努力もして、何か後に残るものが無いと先々が心配ではある。(私は、「努力は時間の貯金だ」と思っている。つまり、使える時間の一部を努力に振り向けるのは、自分を向上させることで将来の可能性を広げる意味では、その「努力の時間」が、時間の消費ではなく貯蓄や投資だ、ということである。ただし、努力の内容がまったく無益なものや有害なものすらあるわけだ。)
幼い子供、特に自分自身の子供に対する態度はかなり注意が必要だ。
私の子供が「嘘」というものの存在を知ったのは、たぶん、私のためである。幼稚園に入る前の子供とゲームをしている時に、冗談のつもりで(子供の目にもはっきりとインチキだと分かる)インチキをやり、当然、今のはインチキだったとすぐに白状して笑ったのだが、おそらくそれで子供は嘘というのがこの世に存在することを知ったと思う。まあ、嘘というものを知らずに世を渡るとしたら、それも悲惨な人生になりそうだが、親としては今でも、純白な子供の心を汚染したようで、少々胸が痛む記憶である。
たしか兼好法師が「子供に冗談を言ったり、怖い話をして脅かしてはいけない」と書いていたと思うが、それは、冗談や怪談が、子供の無垢な心に嘘や恐怖の概念を教え込むからだろう。


さんがリツイート

教育と称して子供の大事な物を奪ったり壊したりする親御さん、子供って絶対に忘れないし、親の行為が正しいと思った子は他人の大事な物を善意で踏みにじるようになりますよ?






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教師やコーチは「結果責任」は取らない

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」記事の1頁である。
このN塚(中塚以外に考えられないのにあえて仮名風にしているのが面白い。まあ、昔からあるギャグだが。)氏の言葉が興味深いので、特にこのページを転載した。
「子供が素直に従うから、自分は正しいのだ、と思い込んでしまう」
というのは、教育者なりコーチングをする人なりが一番最初に覚えるべき注意事項だろう。そこを勘違いしたら、ダメ教師、ダメコーチへ一直線だと思うが、逆に、生徒受け、父兄受けは物凄く良くなるだろう。
なぜなら、人間というのは「自信たっぷりに振る舞う人間」に弱いからだ。あれほど自信があるなら、その自信にも根拠があるのだろう、と思ってしまうわけである。まあ、詐欺師ほど自信たっぷりに振る舞うものだ、と考える人は少ない。
これは人間の脳の「補完機能」によるもので、物事に不可解な、あるいは未知の部分があっても、勝手に自分で解釈して「合理的な説明」を作ってしまうのである。
要するに、我々は、実は「知らないことだらけ」の中で生きているのだが、「だいたい知っているつもり」で生きている、ということである。
何はともあれ、教師やコーチは「結果責任」は取らないものである。志望校に合格できなければ、それは受験生自身の努力不足であり、運動選手も同じことだ。成功しなければ、やった当人の才能不足か努力不足であり、教えた人間の責任ではない。そういうことになっている。責任を取る(つまり、成功したのは自分の教えのおかげだとする)のは、相手が成功した場合だけだwww




(以下引用)




 ながらく少年野球のコーチをやっているN塚という友人が、つい半月ほど前にポツリと言っていたことだが、子供たちに野球を教える監督やコーチの中には、勘違いをする人間が少なからずいるのだそうだ。



 「勘違いって、どういう意味だ?」
 「自分の教えが正しいって思い込むんだよ」
 「ん? 正しいと思うから教えてるんじゃないのか?」
 「それが逆なんだな。子供っていうのは、どんなことを教えても、必ず言った通りにやる。びっくりするほど素直なんだよ」
 「で?」
 「だからそれで大人の方が勘違いするわけだよ」
 「子供が従ってるんなら、指導者としては成功してるんじゃないのか?」
 「いや、順序が逆なんだよ。正しいから子供たちが言いなりになるんじゃなくて、子供たちが自分の言いなりになるから、自分が正しいと思い込む。それで変な自信をつけちゃう人たちがたくさんいる」
 「それがいけないのか?」
 「最悪だよ」
 「どう最悪なんだ?」
 「うーん、うまく説明できないけど。適当なことを偉そうに教えてる指導者が現場にはヤマほどいるってことだよ」



 彼の言っていることの核心の部分がどういうことなのかはともかく、子供を相手に何かを教える立場の人間が、子供たちが自分の「言いなりになる」ということに嗜癖して行く感じは、なんとなくわかる。



 私自身は、他人の子供に何かを教えた経験は持っていないのだが、あるタイプの教えることの好きな人たちが、教える内容そのものよりも、「言うことを聞かせる技術」を磨く方向に重心を置いて行く感じは、自分自身の実感としても容易に想像できる。



 スポーツの競技団体の中で、パワハラが蔓延する理由のひとつは、おそらくここのところにある。



 スポーツが競技として行われる現場では、コーチと選手、監督とコーチ、団体の役員と平職員、先輩と後輩といった様々な立場の間に、上下関係というのか「命令と服従」の関係が生じる。というよりも、競技の習得や継続に伴って生じる人間関係は多かれ少なかれ上下関係を含んでいる。これは避けることができない事実でもあれば、仕方のないことでもある。



 なんとなれば、競技に関連する技術や、練習方法や戦術を教える立場の人間は、それを習得する立場の選手よりも上の立場に立っている。また、そうでなければ教えるという動作は貫徹され得ないからだ。



 そして、コーチングの内容を洗練することよりも子供たちを指示通りに動かすことに熱中するタイプの指導者は、やがて選手を恐怖によってコントロールするようになる。



 直接に手を出すことをしなくても、たとえば怒鳴りつけるとか、罰走を命じるとか、レギュラーから外すとか、恫喝の仕方はいくらでもある。

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反体制運動(政府批判行動)の問題点

単なるメモ。

・反体制運動、あるいは政府批判デモにおけるデモ側(の一部)による暴力行為の意味、あるいは無意味さ、運動自体に与える有害さ、不利益性。

・良心的兵役拒否の「良心的」とは何か。欧米での実際は「宗教的理由による兵役拒否」ではないか。それ以外の理由で「良心的兵役拒否」は可能か。日本で良心的兵役拒否は可能か。

・反戦運動や政府批判デモに共産革命主義者が侵入することの害悪。しばしば、過激行動は後者が起こしてきたが、その背後に政府や資本家の存在が無かったか。(つまりデモ群衆の中の「第五列」ではなかったか。)

・平和運動に対する「一般人」の憎悪や嫌悪の理由。実際、この憎悪はかなり存在する。たいていは、デモなどを「秩序紊乱行為」と見做し、社会の敵と考える。親と子で言えば、親の世代の、若者世代への憎悪もその背後にあるとも思われる。つまり、自分の生活がそれに依拠している「社会秩序」に反抗すること自体が憎悪の対象となる。中年以上の世代は「その社会秩序」に加担しており、秩序や社会体制への反抗や批判は自分への反抗や批判と感じる心理機構があるのではないか。

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栄光の座にいること

名ギタリストのパコ・デ・ルシアのドキュメンタリー映画(テレビ用か?)を見ていて、印象に残った彼の言葉を(正確ではないが)二つ、載せておく。

「有名人は少しでも失敗すると批判される」

「他人から期待されることは喜びではなく苦しみだ」

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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